ルカによる福音書9章
栄光の山と派遣 9章1節〜10章24節
ガリラヤでのイエス様の公の活動は終わりに近づきつつありました。まもなくエルサレムとゴルゴタの十字架への旅が始まろうとしていました。しかしイエス様がガリラヤにいるかぎり、そこでも福音は前へ前へと伝えられていきました。それは忙しさを覚えるほどであり、弟子たちは村から村へ、町から町へと慌ただしく足を運びました。できるかぎりたくさんの人がイエス様についての福音を聞くことができるようにするためでした。
十二使徒たちの派遣 9章1〜6節
この箇所の使徒たちによる「説教行脚」は唯一無二のものであり、私たちがそのまま真似するべきものではありません。例えばイエス様の真似をすることとイエス様に従うことの間には大きなちがいがあります。とはいえ、私たちがこの箇所の出来事から学ぶべきことはたくさんあります。
この箇所の冒頭でルカは、イエス様が使徒たちを召された際に彼らに権能も授けられたことを強調しています。今日でも牧師たちについて同じことが言えます。牧師になった後で牧師としての任務を遂行するべき教会での役職が用意されていないかぎり、牧師として召される按手を授けることも受けることもすべきではありません。これはラテン語で「vocatio」(召命)と呼ばれています。誰も自分勝手に牧師になることはできません。牧師になる者は皆、召命を受けるのです。神様から召命され権能を貸与されることは神様の御国のすべての仕事の出発点です。この仕事で必要な力は神様からいただいたものであって人間による力ではありません。人間的な手段によって天の御国にかかわる事柄が前進するという想像は的外れです。
「使徒」はギリシア語で「アポストロス」といい、その動詞形「アポステッロー」には「遣わす」という意味があります。「使徒」とはまさしく「遣わされた者」、「使者」のことなのです。使徒の使命は二つに分けられます。第一に、神様の御国を宣べ伝えることであり、第二に、病の者たちを癒すことです。病人たちを癒すことはたんなる社会福祉的な仕事や善行ではなく、福音の宣教に結びついています。イエス様によって病人たちが次々と癒されていく出来事は、神様の御国が実際に人々の近くにまで来ている証拠だったからです。
イエス様による使徒たちの派遣には試練あるいは試験という意味合いも含まれていました。伝道の旅を始めるにあたって弟子たちはあらかじめ十分に準備してから臨むのではなく、むしろ神様が彼ら旅人の世話をしてくださることを全面的に信頼しなければなりませんでした(「マタイによる福音書」6章33節)。その一方で、イエス様は後ほどこれとは異なる指示を福音の宣教者たちに与えておられます(「ルカによる福音書」22章36節)。
使徒たちの旅のための装備、いやむしろ装備の欠如はエッセネ派の説教者たちの装備(の欠如)を想起させるものです。この装備についてはユダヤ人歴史家ヨセフスが述べています。使徒たちとエッセネ派の間にあったただ一つの明らかな相違は、エッセネ派は杖を防御用の武器として携帯できたのに対して、イエス様の弟子たちは自己の安全も神様による保護に完全に委ねなければならなかったと言う点です。
使徒たちの福音のメッセージを誰も受け入れないような町から出て行く際には、抗議のしるしとして自分の足からのちりも払い落さなければならない、とイエス様は弟子たちに命じられました。これは、最後の裁きの時にこのような町の住民たちはイエス様に従う者たちと全く何の関係もなくなるということへの警告のしるしでした。律法に熱心なユダヤ人たちは異邦人の地域からユダヤ人の地域に来た時にこれと同じことを行いました。イエス様のこの指示は「足のちりを払う」という役割を担うのが今やユダヤ人からキリスト信仰者へと交代したことを示唆しています。
ヘロデ・アンティパスによるイエス様をめぐる考察 9章7〜9節
ルカは洗礼者ヨハネの斬首について参考程度の記述しか残していません。洗礼者ヨハネを捕らえて処刑させたヘロデ・アンティパスはヘロデ大王の息子であり、ガリラヤとペレアの支配者でした。彼はイエス様と対面することを望んでいましたが、後に両者は奇妙なかたちで出会うことになります。彼がイエス様と会いたがったのは、イエス様が何らかの奇跡を行うのを自分の目で確かめたかったからというのが主な理由でした。
ヘロデはヘレニズム時代のリベラルな考えかたをする人物であり、イエス様がメシアであるとはつゆほども信じていませんでした。
ヘロデとイエス様はイエス様の最後の日に会うことになります(23章7〜12節)。しかしその時にヘロデが出会ったのは沈黙するメシアでした。
五千人の男たちに食べ物を与える 9章10〜17節
弟子たちが伝道旅行から帰還するとイエス様はヨルダン川の東側に移動なさいました。これは異邦人が居住する地域で、ピリポが支配していました。
群衆がイエス様一行を追いかけてきたせいで、イエス様たちは予定していた休憩をとる機会がなくなりました。しかしイエス様は群衆を退けることなく、彼らに福音を宣べ伝え、病人たちを癒やされました。これは夕べまで続きました。それために「どのようにして大勢の群衆に食べ物を与えるべきか」という問題がでてきました。
イエス様はその場に五千人ほどいた群衆を五十人ずつの組に分けるように弟子たちに命じられました。この指示には、エジプトを出立した主の民が荒野で彷徨していたときに起きたマナの奇跡という旧約聖書の出来事との関連性を容易に見ることができます(「民数記」1〜2章)。元々あった五つのパンと二匹の魚をイエス様が祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせたあとで、その余りくずを集めたら、十二かご(約150リットル)もあった、という点にこの奇跡の大規模さがよく表れています。群衆も今何か壮大なことが起きたことを理解しました(「ヨハネによる福音書」6章14〜15節)。彼らはマナの奇跡が新たなかたちで再現されたことを感じ取ったのです。
初代教会にとってこれは大変重要な出来事でした。イエス様の受難と五千人に食べ物を与えたこの奇跡だけが四つの福音書すべてに述べられていることからもそれが伺えます。
なお、この出来事は聖餐式との関連性が明確に読み取れるように書かれています(特に「ヨハネによる福音書」6章22〜59節が参考になります)。
イエス様は何者か? 9章18〜27節
この箇所に対応する「マルコによる福音書」6章45節〜8章26節という長大な該当箇所をルカはかなり短縮しています。一般的な傾向として、ルカとマタイはかなり正確にマルコの福音書の構成に従っています。しかしここでのルカはマルコの語っている「周回旅行」については記していません。この旅行はベツサイダから始められ、ガリラヤとツロの地方とデカポリスを通って再びベツサイダに帰るというものでした。
ルカが知っていた「マルコによる福音書」は今のものよりも短い草稿にすぎず、ちょうどこの箇所が欠けていたために、ルカのこの箇所での記述は短いものになったのであろうと推定する研究者たちさえいます。
しかしルカがマルコの「周回旅行」の箇所を削った理由はごく単純であったとも考えられます。現行の聖書で「ルカによる福音書」はすでに四つの福音書の中でも最長の福音書になっています。福音書が長大になりすぎることを避けるために、ルカは自分の知っていた資料の一部を削らざるを得なかったのです。
さらに別の説明によれば、ここでの記述を短縮することでルカは9章9節の「イエス様は何者か?」という疑問に対する三つの答えを次のように並べることができたとされます。
1)群衆の(まちがった)答え(9章19節)
2)ペテロの答え(9章20節)
3)神様によるお答え(9章35節)
それでも、なぜルカがマルコの該当箇所を削ったのかは結局のところ謎のままです。
ここでもペテロは弟子たちの代表者として振る舞っています。群衆(「ヨハネによる福音書」6章14〜15節)がイエス様を旧約聖書にその到来が約束されていたメシアであるとみなしたのは正しかったのです。
この信仰告白は人々を一つにまとめる要因にもなれば分け隔てる要因にもなりました。このおかげでキリスト信仰者同士はひとつにまとまることができました。彼らはイエス様を旧約聖書にその到来が約束されていたメシア、神様の御子であるとみなしたのです。しかしこれによって分裂も起きてしまいました。ユダヤ人たちはイエス様をメシアとみなした人々をまもなく会堂から排除するようになったからです。ユダヤ教の会堂の一員であり続けることを望む者には、その前提条件としてキリストを呪うことが要求されました(西暦90年頃以降)。
価値の転倒
ペテロは正しかったともまちがっていたとも言えます(「マタイによる福音書」16章16、23節)。イエス様はたしかにメシアでしたが、ペテロが期待していたようなメシアではなかったのです。ユダヤ人たちは栄光のメシア、ユダヤの民が自由を得るための戦いで勝利する将軍を待望していました。しかしイエス様は政治的な指導者ではなく苦難の僕というメシアだったのです(「イザヤ書」53章)。ユダヤ人たちはイエス様のメシアとしての使命を根本的に誤解していたのです。
弟子たちも、また今まで癒していただいた者たちも、イエス様がメシアであることについては一様に沈黙するべきだったのです。そうしなければ、イエス様が神様から受けた使命の達成(苦難の僕としての十字架での犠牲死)がよりいっそう困難になったと思われるからです。
弟子たちにはイエス様に従うのをやめる可能性がまだこの段階では残っていました。エルサレムと十字架への旅がいよいよ始まろうとしていました(9章51節)。これから起きる数々の出来事は弟子たちのイエス様への信頼を大きく揺さぶる試練となります。イエス様に従うことはただではなく、それなりの犠牲を払わなければならないことを知っておく必要がありました。
また弟子たちは自分たちがどのようなお方に従っているのかについて正しく理解しておくべきでしたが、それができませんでした。彼らは「イエス様のこれから歩んでいかれる道に十字架と苦難などがあるはずがない」と終わりまで勘違いしていたのです(24章21節を参照してください)。
弟子たちは十字架刑について残酷な処刑法という真実に即したイメージをもっていました。当時の人々は犯罪人が十字架につけられるさまを目にする機会がしばしばありました。しかし現代の私たちにとって十字架刑のイメージはもっと広がりをもっています。それは第一に自分自身を否定すること、またイエス様が私たちに与えようとしている使命を受け入れなければならないことを意味しています。
十字架は別の意味でも「分水嶺」となりました。そしてこれは今でも変わっていません。イエス様が十字架刑に処せられる前の段階までならば、世俗化した人間や無神論者でさえもイエス様をめぐる出来事の記述をそのまま認めるのは比較的容易でしょう。「イエスは不当な裁判によって死刑に処された偉大な教師であった」と考えることもできるからです。しかしキリスト教信仰における最も深い真理(イエス様が全人類の罪を身代わりに引き受けて十字架で死なれ、三日目に死者の中から復活なさったこと)をひとたび前面に打ち出そうものなら、それを認めるためには人間の理性では不可能であり、信仰が必要不可欠になります。信仰とは私たちの中で行われる神様による御業です。
イエス様が御自分に従う者たちに賜る「新しい生きかた」における価値観はこの世の一般的な価値観とは異なっています。例えば私たちにとって重要で偉大とみなされる事柄は天の御国では価値がない些細なことです。イエス様が言われているように、天国では最後の者たちが最初の者たちとなり、最初の者たちが最後の者たちとなるのです。
「愚か者とは、持ち続けることができないものを捨てる者ではなく、失うことができないものを捨てる者である!」というアメリカ人宣教師(Jim Elliot)の言葉は的を得ています。
9章27節をめぐる問題
「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。」
(「ルカによる福音書」9章27節、口語訳)
この節はさまざまな説明や解釈を生み出しました。「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」は該当箇所について「ルカによる福音書」とは少し異なる次のような書きかたをしています。
「また、彼らに言われた、「「よく聞いておくがよい。神の国が力をもって来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。」
(「マルコによる福音書」9章1節、口語訳)「よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる。」
(「マタイによる福音書」16章28節、口語訳)
イエス様が誰を指して言っておられるのか、またいつこの予言が実現するのかについて正確に特定するのは困難です。
この節についての重要な解釈としては次のようなものを挙げることができます。
1)イエス様は御自分が栄光を受けられることについて話しておられる。そしてこのことについて続きの箇所で語られている。
2)イエス様は御自分の復活について話しておられる。
3)イエス様は御自分が天に挙げられる出来事(高挙)について話しておられる。
4)イエス様は聖霊降臨日について話しておられる。
5)イエス様は御自分が再びこの世に戻ってこられる出来事(再臨)について話しておられる。
神様の御国はイエス様のうちに到来しました(17章20〜21節)。ですから、ルカのこの節はマタイでの「人の子が御国の力をもって来る」という内容を強調しているものと思われます。
私たちは聖書に登場する数々の預言が実に多様なものであることをここでふたたび確認することができます。その中にはごく近未来に実現する預言もあります。その一方で、段階と時間を経て実現していく預言もあります。例えばイエス様の神様としての栄光が顕現した山の上で弟子たちはイエス様が王であることを一瞬の輝きの中で目撃しました。王なるイエス様の本質はより深いかたちで復活において明らかになります。しかしそれが最終的にすべての人々に対して明らかになるのはイエス様の再臨の時なのです。
栄光の山での出来事 「ルカによる福音書」9章28〜36節
キリスト信仰者たちの伝承によれば栄光の山の存在した場所については二つの説があります。ひとつはガリラヤにあるタボル山であり、もう一つはそれよりも北にあるヘルモン山です。
おそらく栄光の山は後者の山だったと思われます。ヘルモン山は「ルカによる福音書」がこの出来事の前後に描いている出来事の起きた場所にかなり近い場所にあるからです。タボル山の頂上には当時人が住んでいたということもヘルモン山説を支持します。
「祈っておられる間に、み顔の様が変り、み衣がまばゆいほどに白く輝いた。」
(「ルカによる福音書」9章29節、口語訳)
弟子たちが眠っている間にイエス様の姿形が変わりました。原文の聖書ギリシア語でのこの箇所の動詞は受動態(「エゲネト」)となっており、これは神様によってイエス様の姿形が変えられたことを表しています。
モーセとエリヤがイエス様のところに現れました(9章30節)。旧約聖書は「律法」「預言者」「諸書」という三つ部分に分けられています。そしてルカのこの箇所ではモーセが「律法」をエリヤが「預言者」をそれぞれ代表しており、両方揃ってイエス様について証しています(24章27節も参照してください)。さらに旧約聖書には世の終わりの時にモーセとエリヤがこの世に戻ってくるという予言があります(「申命記」18章15節、「マラキ書」4章5節)。彼らはイエス様に間もなく起きることについて話し合いました。イエス様の十字架刑は偶発的な出来事ではなく神様による御計画に基づくものだったのです。口語訳ではわかりにくいですが、9章22節でイエス様が「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえらなければならない(ギリシア語原文での「デイ」という動詞)」と言っておられることにも注目しましょう。
エリヤとモーセが去ろうとしている時にペテロは彼らのために小屋を建てることを提案しました。それによって彼らが栄光の山に留まることができるようにするためでした。ここでのペテロの振る舞いと似たようなことを他のキリスト信仰者たちも経験したことがあるのではないでしょうか。例えば「この上ない信仰体験の瞬間を味わった後で、ふたたびあの不完全で難しい日常の喧騒の中に逆戻りしたくはないなあ」などと思ったことがありませんか。しかし「神様のもの」である者たち(キリスト信仰者たち)が神様とのつながりをまだ持っていない人々(非キリスト信仰者たち)にも神様の福音のメッセージを日常の中で宣べ伝えていくことを神様は望まれているのです。
最後に雲が山を覆いました。これは旧約聖書で神様の顕現と臨在を示す出来事でした(「出エジプト記」40章34〜38節)。この雲の中から(神様の)声が聞こえてきました。そしてこの声こそが、イエス様が旧約聖書にその到来が約束されていた(苦難の)メシアであることを保証したのです(「イザヤ書」42章1節を参照してください。これは主の苦難の僕の歌の一部です)。
山から降りた弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、「マタイによる福音書」17章1節)は山上の出来事について誰にも話しませんでしたが、イエス様の十字架刑と復活の後になって語り始めたのです。
「わたしたちの主イエス・キリストの力と来臨とを、あなたがたに知らせた時、わたしたちは、巧みな作り話を用いることはしなかった。わたしたちが、そのご威光の目撃者なのだからである。イエスは父なる神からほまれと栄光とをお受けになったが、その時、おごそかな栄光の中から次のようなみ声がかかったのである、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。わたしたちもイエスと共に聖なる山にいて、天から出たこの声を聞いたのである。」
(「ペテロの第二の手紙」1章16〜18節、口語訳)。
子どもから悪霊を追い払う 「ルカによる福音書」9章37〜43節前半
栄光の山で夜を過ごした後で弟子たちは、ふたたび不安定で不幸な日常の世界に戻らなければなりませんでした。
この箇所の男の子の病気はてんかんであっただろうとしばしば考えられていますが、何らかの精神病だったのではないかという説もあります。この子の父親は悪霊の仕業であると言いました。医学研究の知見によれば、当時の人々はそもそも「病気」という概念をもっておらず、すべての病気について、神様による素晴らしい被造物(人間もその中に含まれます)を魂の敵(悪魔)が滅ぼそうとする戦いの現れというように捉えていました。
受難についての二度目の予告「ルカによる福音書」9章43節後半〜45節
民衆からの好意や賛美が、未来に待ち構えている十字架を覆い隠してしまうことがないようにと、イエス様は弟子たちに忠告しています。民衆は、たしかに今はイエス様たちのことを称賛していますが、ほどなくすると「イエスを十字架につけろ!」と叫ぶようになっていくからです。
成功することと尊敬を受けることは今日でもキリストの十字架の大切さを私たちの目から覆い隠してしまうものです。
弟子たちの高慢さ 「ルカによる福音書」9章46〜50節
これは福音書でペテロ以外の誰か(ここではヨハネ)が弟子たちのグループの代弁者として登場するという点でかなりめずらしい箇所です(9章49節)。
イエス様に対してまちがった考えや期待を抱いていたせいで弟子たちは自分らがいただけるはずの善きものが何であるかについても誤解してしまいました。来るべき御自分の死についてイエス様が話しておられる最中に、あろうことか弟子たちは「彼らの中で一番偉いのは誰か」などという愚問をめぐって口論していたのです。この弟子たちの態度はあまりにもひどいと言わざるを得ません。イエス様のお話は弟子たちに理解されませんでした。それゆえ、イエス様は弟子たちの間で御業を行うこともできなかったのです。
弟子たちは自分たちが受けるはずの善きものをこの世的な基準で過大評価したために、他の人々が受けるはずの善きものを過小評価するようになってしまいました。
「するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。」
(「ルカによる福音書」9章49〜50節、口語訳)
当時のファリサイ派の学徒たちは悪霊祓いを行なっていたことが知られています(「使徒言行録」19章13〜16節を参照してください)。聖書の神様を信じていない悪霊祓い(エクソシスト)の活動を、それがたとえイエス様の御名を使って悪霊を追い出している場合であっても、弟子たちは認めようとはしませんでした。しかしイエス様は弟子たちよりも広い考えかたをされました。信仰者ではない人々を「あなたは信仰者ではない」という理由で除外してはいけないのです。イエス様を自分や自分たちのグループだけで独占しようとする態度は危険です。キリスト信仰者には常にこのような危険がつきまとっています。
イエス様は「ルカによる福音書」で次のように二通りの言いかたをなさっています。それらの間にある相違点に注目してください。
「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」
(11章23節)「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである。」
(9章50節)
唯一の「分岐点」となるのはイエス様であって、人間が制限を設けて作った集団や流派などではありません。
救いをもたらす信仰がどのようなものであり、また、キリストの御名をたんに外面的に唱えるのはどのようなことなのかについて、ここでよく考えてみる必要があります。イエス様を外面的に模倣するだけでは誰一人救うことができません(6章46〜49節)。なおユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちの例も参考になります(「使徒言行録」19章13〜18節))。
ガリラヤからエルサレムへ
これからいよいよイエス様のエルサレムへの最後の旅についてルカによる長大な描写が始まります(9章51節〜19章44節)。ルカは私たちにサマリヤとヨルダン川東岸地域で起きた出来事について語っていきます。そしてその間にもエルサレムへの旅がずっと続いていくのです(9章53節、13章22、33節、17章11節、18章31節、19章11、28節)。
サマリヤの村で拒絶されるイエス様 「ルカによる福音書」9章51〜56節
ガリラヤからエルサレムへ続いていく道は二つありました。ヨルダン川の東岸地域を通っていく一般的によく用いられている道と、サマリヤを通ってもっと直線的に進んでいく道との二つです。
サマリヤ人は混合民族として誕生しました。アッシリアがイスラエル王国に対する戦争で勝利し、イスラエル民族の一部を自国領土に強制移住させ、彼らの代わりに他の諸民族をサマリヤに移住させたことからサマリヤ人が形成されることになりました(紀元前722〜720年、「列王記下」17章)。
ユダ王国の住民たちの強制移住はそれより後に始まりました(紀元前586年)。このバビロン捕囚の時期が終わってイスラエルに帰還したイスラエル民族は先の戦争で破壊されたエルサレム神殿を再建し始めました(紀元前530年代)。サマリヤ人たちもこの事業への参加を希望しましたが認めてもらえませんでした。それで彼らはエルサレム神殿の建設を妨害するようになりました。この影響もあって神殿が完成したのはようやく紀元前515年になってからでした(「エズラ記」4章)。後にユダヤ人たちがガリジム山にあったサマリヤ人たちの神殿を破壊した時にはもはやユダヤ民族とサマリヤ民族は互いに友好的にはやっていけなくなっていました。
現在でもごく少数ではありますがサマリヤ人は存在しており、独自の宗教文化をもっています。
「村人は、エルサレムへむかって進んで行かれるというので、イエスを歓迎しようとはしなかった。」
(「ルカによる福音書」9章53節、口語訳)
サマリヤ人の村人たちがイエス様の一行を拒絶したのは、イエス様たちがまさにエルサレムへの旅をしていたからでした。
「弟子のヤコブとヨハネとはそれを見て言った、「主よ、いかがでしょう。彼らを焼き払ってしまうように、天から火をよび求めましょうか」。イエスは振りかえって、彼らをおしかりになった。そして一同はほかの村へ行った。」
(「ルカによる福音書」9章54〜56節、口語訳)
ヤコブとヨハネは預言者エリヤがかつて行ったことを自分たちもやりたいとイエス様に願い出ました。エリヤはイスラエル王の二つの軍隊を滅ぼすために天から火を落としたのです(「列王記下」1章10〜12節)。このヤコブとヨハネは「ボアネルゲ、すなわち、雷の子」(「マルコによる福音書」3章17節より)とも呼ばれていました。しかしイエス様は彼らにそうすることをお許しにならず、一行は(サマリヤ人の)別の村に行くことにしました。この世で生きておられた間、イエス様もまた人々からの偏見を受けられたのです。
この箇所の出来事からわかるように、イエス様とその一行はカペルナウム以外の地域で活動していたときに宿泊場所を確保する必要がありました。師匠であるイエス様や弟子たちのためにイエス様の友人たちが夜に泊まれる場所を提供して奉仕したのです。
神様の御国か、それともこの世か? 9章57〜62節
「道を進んで行くと、ある人がイエスに言った、「あなたがおいでになる所ならどこへでも従ってまいります」。イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。またほかの人に、「わたしに従ってきなさい」と言われた。するとその人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください」。彼に言われた、「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい。あなたは、出て行って神の国を告げひろめなさい」。またほかの人が言った、「主よ、従ってまいりますが、まず家の者に別れを言いに行かせてください」。イエスは言われた、「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」。」
(「ルカによる福音書」9章57〜62節、口語訳)
この箇所でのイエス様の第一の発言(「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」)の強調する点は「イエス様の弟子であることはどのような犠牲を強いるものなのか」ということです。イエス様はこの世から出てきたお方ではありません。それゆえ、イエス様に従う者たちもこの世に依存して生きることはできないのです。
イエス様の第二の発言(「わたしに従ってきなさい」)の強調する点は、エルサレムと死への旅の途上にあるイエス様から「わたしに従ってきなさい」と言われた者がこの招きを無視した場合には、後になってイエス様から再び招かれることはもうないということです。
イエス様からの召しに対してその人は「まず、父を葬りに行かせてください」とイエス様に答えました。これは礼儀正しい断りかたであったと思われます。ユダヤ人たちは死者を死んだ当日かその翌日には墓に埋葬しました。その人の父が死んだばかりであった場合には、その人は父親の死体をそばで見守るか、あるいは父親の葬式に参列していなければならなかったはずです。
イエス様の第三の発言(「手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである」)は、エリヤがエリシャを後任の預言者として招いた出来事(「列王記上」19章19〜20節)や、ロトの妻が後ろを振り向いたばかりに塩の柱にされた出来事(「創世記」19章26節)を念頭に置いて読むべきです。エリヤはエリシャが家族に別れを告げるのを許しましたが、イエス様は同じことをその人にお許しにならなかったのです。
イエス様にその人が願い出たことは、両親に別れを告げること、つまり両親からイエス様に従っていく許可をもらうことでした。しかし両親がこのような許可を与えないことは明らかでした。要するにその人が願ったことも実際にはイエス様に従うことを断るための口実にすぎなかったのです。「イエス様に従って行く気持ちはありますが、両親がそれを禁じたので残念ながらできません」ということです。これは「イエス様と両親とどちらの権威と意味がその人にとって大きいか」という問題に収斂します。中近東における両親の権威は西欧よりも当時はるかに大きいものでしたし、それは現在も変わっていません。
イエス様は当時の人々にとってごく日常的な例を引き合いに出しておられます。手をすきにかけてからうしろを見ていると、できた畝は曲がりくねったものになってしまいます。パレスチナの畑は同じ場所を三回耕しました。耕す者がよく注意していないと、次に耕す回の仕事をやりにくいものにしてしまうか、あるいは前回耕した仕事を台無しにしてしまう場合もありました。要するに、耕す者は過去、現在、未来を見据えて仕事をしなければならないのです。
「まだあの時のようだったら」と過去の思い出の中に閉じこもったり、「(・・・)という時の後でなら」と未来への淡い期待にすがったりする危険は私たちにもあります。