ルカによる福音書23章
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キリストの苦しみと死 23章
福音書、特に「マルコによる福音書」は「長い序文のついた受難の出来事の記述」であるとも言われてきました。イエス様の苦しみ、死、復活はキリスト教信仰の最重要テーマであるため、福音書記者たちもこれらの出来事について正確に詳述しています。福音書記者たちは内容的に一致するやりかたでこれらの出来事を語っていますが、それぞれの語りかたにはいくつかの独自な特徴がみられます。前にも述べたように、例えばルカは最初の福音書を書いたマルコよりも多くの出来事について簡潔な形で述べていますが、その一方で、マルコが語っていない事柄についても言及している場合があります。
ピラトの面前で 23章1〜5節
ポンテオ・ピラトは西暦 26 〜 36 年の間にユダヤ、サマリヤ、イドメヤのローマ総督でした。彼は地中海沿岸のカイザリヤに住んでいましたが、ユダヤ教の大きな祝祭の行われる時期にはエルサレムに赴いて司法判決を下し、動乱が起きる可能性を察知した場合には軍隊を指揮しました。
アレクサンドリヤのユダヤ人哲学者フィロンとユダヤ人歴史家ヨセフスは、ピラトを残酷な支配者としてとても否定的に描写しています(13章1節も参照してください)。ユダヤ人たちはローマ帝国の権力の代行者たちを嫌っていたため、もちろんピラトのことも嫌っていましたが、イエス様を有罪にするためにその嫌悪感を表面には出さずにしまっておかなければなりませんでした。
ピラトのところへ連れて行かれたイエス様の状況はきわめて不利でした。しかしピラトはすぐにはイエス様に死刑の宣告を下しませんでした。ユダヤ人たちがローマへの反乱の首謀者を有罪にするためにわざわざ率先してローマ人総督のもとに連行して来たという奇妙な構図にピラトは疑念を抱き始めたのです。
ピラトの面前でユダヤ人の最高議会はイエス様に対する次の三つの告発をしました。
1)イエスは民衆を巻き込む騒乱を引き起こした
2)イエスはローマ皇帝に税金を支払うことを禁じた(20章25節を参照してください)
3)イエスは自分が王であると主張した
イエス様はピラトに対して「自分はたしかに王であるが、ピラト総督が考えているような意味での王ではない」とお答えになりました(これは「ヨハネによる福音書」18章33〜37節に詳述されています)。
ピラトはイエス様が無罪であると宣言しました(23章4節)。しかし圧倒的な反対の声が上がったために、ピラトはこの案件をヘロデ・アンティパスに押し付けることでユダヤ人たちからの非難をかわそうとしました。
ヘロデ・アンティパスの面前で 23章6〜12節
四人の福音書記者たちのうちでルカだけがヘロデ・アンティパスもイエス様を尋問したと述べています。ちょうどこの時、ヘロデは政治的な理由からエルサレムに滞在していました。それによって自分の敬虔さをユダヤ人たちに誇示するためでした。もっとも彼自身はユダヤ人ではなくイドメア人(エドム人)でした。
ヘロデの面前でイエス様は黙っておられました。ヘロデはイエス様についての証をすでに洗礼者ヨハネから聞いていました。とはいえ、たとえその場で奇跡が起きてもヘロデが己の考えを改めるには至らなかったことでしょう(9章9節を参照してください)。ヘロデは沈黙するイエス様への腹いせに、イエス様を「嘲笑を受ける王」に仕立てて見せ物にしましたが、その一方で、「イエスは無罪である」と宣言します。イエス様が支配権を掌握しようと企むような人物ではないとわかったからです。
かねてよりヘロデはピラトにとって不利な情報を収集してローマに送るためにピラトを偵察していたため、ピラトはヘロデを憎んでいました。しかしルカはイエス様の案件がそれまで敵対し合って来たこの二人を融和させたと伝えています。
ガバタ 23章13〜25節
イエス様はピラトによって有罪判決を受けるためにヘブライ語で「ガバタ」(ギリシア語で「リトストロトン」)という場所に戻されました(「ヨハネによる福音書」19章13節)。ヘロデもイエス様を死刑にする理由がないことを認めたにもかかわらず、人々への警告として、また民衆を落ち着かせるために、ピラトはイエス様を「むち打ってから、ゆるしてやることにしよう」と言いました(23章16節)。しかしピラトの目論見は外れました。民衆はピラトが「イエスに死刑判決を下さないでおこう」と考えていることを見てとったのです。
「〔祭ごとにピラトがひとりの囚人をゆるしてやることになっていた。〕」
(「ルカによる福音書」23章17節、口語訳)
ピラトがイエス様を救おうとして取った最後の手段である「祭りの間に恩赦を受ける囚人としてイエスを民衆に選ばせようとする試み」さえ役に立ちませんでした(なお、この箇所は聖書の最初期の写本にはないために括弧内に記されています。「マタイによる福音書」27章15節、「マルコによる福音書」15章6節)。ピラトは「イエスは無罪である」と再度宣言しましたが(23章22節)、ついには民衆の要求に屈してイエス様に十字架刑による死刑判決を下すことになります。
ユダヤ人たちの考えによれば、十字架刑はイエス様が神様によって捨てられ裁きを受けた存在であることの証左でした(「申命記」21章23節、「ガラテアの信徒への手紙」3章13節、「イザヤ書」53章4節)。
イエス様の代わりに釈放されたのは、実際にローマに敵対して反乱を起こしたバラバという人物でした。このことは、イエス様に対する訴状がいかに無理矢理捏造されたものであったかをよく示しています。イエス様のおかげで極刑を免れて恩赦を受けたバラバは、ある意味で「キリスト信仰者の置かれた立場」を代表しているとも言えます。キリスト信仰者は皆、「私が十字架刑を免れたのは、イエス様が私の身代わりに死刑の苦しみを引き受けてくださったからである」と信じているからです。
ピラトはイエス様の案件をごく些細なものとみなし、ユダヤ人たちを下手に刺激するのを避けようとしたのかもしれません。しかし、まさにこのイエス様の案件を通してピラトの名は人類史に永久に刻まれることになったのです。
ユダヤ人の指導者たちはピラトの金銭使用の不明瞭さを責めることで「イエスを死刑にせよ!」と彼に強要したのかもしれません。なお西暦36年に大祭司カヤパはピラトと同じ時期に任務から罷免されています。両者は一緒に汚職を行っていたのかもしれません。
イエス様が死刑の判決を受けた時、それまでイエス様を支持していた人々はいったいどこにいたのでしょうか。このことについては様々な考察がなされてきました。ガリラヤ人たちはエルサレム市を囲む壁の外側で寝泊まりしていました。それゆえ、彼らはイエス様を取り巻く民衆の中には混ざっていなかった可能性があります。しかし、たとえ彼らが民衆の中にいたとしても、はたして彼らにはあの状況でイエス様を弁護し始める勇気があったでしょうか。
ゴルゴタ 23章26〜38節
ローマの慣習に従い、イエス様の死刑は迅速に執行されることになりました。十字架刑の受刑者は自分のかかることになる十字架の形の木を手に縛り付けられて刑場まで自ら運んでいったのです。この木はおよそ20〜50キログラムの重量でした(ただし木の太さによって重量は異なりました)。
死刑はエルサレム市を取り囲む壁の外の場所で執行されました。処刑場への道すがらイエス様は、人々が御自分の身の上を憐れむのではなく、彼ら自身が自らの罪を悔いて御自分を救い主として信じるように望んでおられることをはっきり示されました。ところが、その場に居合わせた人々は悔い改めようとはしませんでした。それから40年後、さらに大規模な災害がエルサレムを襲うことになります。歴史家ヨセフスによれば、西暦70年にローマ軍がエルサレムを包囲して制圧した時に、500人ものユダヤ人が同じ日に十字架刑に処せられました。死刑者があまりにも多かったために、エルサレムの周辺からは木がなくなってしまうほどでした。それゆえ、子どものいない者たちや未婚者たちはその日には「幸せな者」とみなされました。普通なら彼らは周囲から哀れみの眼差しを向けられていたのです。
旧約聖書からは十字架刑に関する記述が見つかります(「サムエル記下」21章5〜9節、「民数記」25章1〜4節、「エステル記」7章10節)。ローマ人は最も残酷で苦痛と恥辱を与えるものとされたこの処刑法をポエニ人から学んで採用しました。そのポエニ人はインド人からこの処刑法を学んだのです。
処刑の場所は「ゴルゴタ」すなわち「頭蓋骨」(口語訳では「されこうべ」)と呼ばれていました(23章33節)。ローマ皇帝ハドリアヌスは西暦132〜135年に起きた反乱の鎮圧後、現在聖墳墓教会がある場所に人工的な山を作り、そこにヴィーナスとキューピッドのための神殿を建設しました。それは、かつてキリストが十字架にかかったゴルゴタの丘にキリスト教徒が集まるのを防ぐためでした。このことは、ゴルゴタの丘がキリスト教徒たちに大切な場所であったことを証しています。ハドリアヌス帝はキリスト教をユダヤ教の一派と考えていたため、キリスト教徒たちの礼拝も妨害しようとしました。西暦325年にコンスタンティヌス大帝がキリスト教に改宗すると、前述の山は破壊され、そこに教会が建てられました。現在の聖墳墓教会は十字軍によって建てられたものです。研究者たちは、西暦1883年に英国のゴードン将軍によって「発見」された「ゴルゴタ」や「園の墓」よりも、その場所こそが真の「ゴルゴタ」や「イエス様の墓」の場所である可能性が高いと考えています。
「そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。」
(「ルカによる福音書」23章34節、口語訳)
イエス様は三つの十字架の真ん中、最悪の犯罪者が磔にされる十字架にかけられました。上節でのイエス様の祈りは特に十字架刑を実行した兵士たちに向けられたものです。彼らの罪はイエス様を十字架につけるように要求したユダヤ人たちの罪よりも軽かったと言えます。この祈りはイエス様が十字架上で発せられた三つの言葉のうちの最初の言葉としてルカが記録したものです(残りの二つは43節と46節にあります)。イエス様の十字架上での言葉は合計7つあります。そしてこの時に次の「イザヤ書」53章の預言も成就しました。
「それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に
物を分かち取らせる。
彼は強い者と共に獲物を分かち取る。
これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、
とがある者と共に数えられたからである。
しかも彼は多くの人の罪を負い、
とがある者のためにとりなしをした。」
(「イザヤ書」53章12節、口語訳)
イエス様の十字架はおそらく短剣の形をしていたと思われます。イエス様の頭上には(23章38節)御自分よりも先にゴルゴタまで運ばれてきた石板が掛けられており、そこには「これはユダヤ人の王である」という処刑の理由が書かれていたからです。イエス様は反乱の首謀者とみなされて処刑されたのです。この「犯罪」は三つの言葉で記されていました(「ヨハネによる福音書」19章20節)。それらはユダヤ人の話し言葉であったアラム語とヘブライ語、およびローマ人の公用語であったラテン語と、地中海の東端地域の共通語であったギリシャ語でした。このことからも端的にわかるように、イエス様の十字架の死についてのメッセージはすべての国語の人々を対象としているのです!
信仰と不信仰 23章39〜49節
ゴルゴタでイエス様が述べられた三つの「疑念の言葉」(23章35、37、39節)に対応するかのように、ルカはイエス様がメシアである証拠を記しています(23章44、47、48節)。
十字架から自分で降りてくるようイエス様に勧告した人々の様子をマタイは次のように描写しています。
「そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。」
(「マタイによる福音書」27章39〜40節、口語訳)
これを「ルカによる福音書」23章37節(「あなたがユダヤ人の王なら、自分を救いなさい」。)と比較してみてください。
この勧告は実のところ、イエス様が御父の御意思を捨ててこの世的なメシアの役割を演じることを選ぶように唆すサタンによる最後の試練でした。
イエス様と一緒に十字架刑に処せられた二人の強盗は明らかにローマへの反逆者でしたが、そのうちの一人は十字架上で救われ、「心から悔い改めた者」の代表的な例となりました。彼はまず自らの罪を告白し、次にイエス様の御許に立ち返りました。その結果、イエス様から罪の赦しをいただいたのです。十字架上で手足を釘付けにされた彼は自分が救われるためには何ひとつ善い行いができなかったし、またその必要もなかったのです。
イエス様が「今日」(23章43節)と言われた点にも注目しましょう。回心するのをためらっていてはいけないのです。
「イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。」
(「ルカによる福音書」23章43節、口語訳)
天の御国(楽園、パラダイス)についてのイエス様の上記の発言をめぐって、人々は「死後の世界」にかかわる無益な空論を色々と生み出してしまいました(16章19〜31節に記されている金持ちとラザロの対比も参考になります)。キリスト信仰者である私たちは「死後に何が起こるか」は知りませんが、「イエス様とのつながりは死んでも切れることがない」ことははっきり知っています。
「時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。」
(「ルカによる福音書」23章44〜45節、口語訳)
過越の祭り(イースター)は満月の時に祝われるため、正午頃に始まり三時間続いたというこの暗闇は通常の皆既日食による現象だったとは考えられません。荒野の方角から巻き起こった雲塵がこの現象の説明として提案されてもいますが、福音書によれば、この現象はまさしく神様からの「しるし」でした(「アモス書」8章9節)。そしてこのしるしはエルサレム神殿の幕が裂けることで補完されました。幕が上から下まですっかり引き裂かれたのです(「マタイによる福音書」27章51節)。この現象は「神殿の内側と外側を隔てていた壁を取り除く」という神様による御業でした(「エフェソの信徒への手紙」2章14節)。
ユダヤ人歴史家ヨセフスやユダヤ教のタルムードはエルサレム神殿が破壊される西暦70年の40年前、つまり西暦30年に、諸々の来るべき不幸を予兆する出来事が起きたと証言しています。その時に神殿の扉が勝手に開いて敷居の一つが壊れたというのです。
「そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。」
(「ルカによる福音書」23章46節、口語訳)
「マルコによる福音書」15章25節によると、イエス様は「第三時」(午前九時頃)に十字架につけられ、「第九時」(午後三時頃)に息を引き取られました。それと同じ頃、エルサレム神殿では夕べのいけにえが捧げられ、ある祈りが唱えられていました。上節のようにイエス様も十字架上でその祈りを引用なさっています。
「わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。
主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。」
(「詩篇」31篇6節(口語訳では5節)
この祈りにあるように、イエス様は民衆の手の中にではなく、父なる神様の御手の中で死なれたのです。
「百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。」
(「ルカによる福音書」23章47〜49節、口語訳)
イエス様の十字架刑をその場で見ていた民衆の中には、この出来事が心に深く刻まれた人々もいましたし、また最初の聖霊降臨(ペンテコステ)の時にペテロの説教を聴いてキリスト教に改宗した人々もいたことでしょう(「使徒言行録」2章41節)。
イエス様の十字架刑が弟子たちにどのような影響を与えたのか、ルカは上掲の箇所では明言していませんが、ゴルゴタでの出来事が彼らの希望を打ち砕いてしまったということについては後の箇所で述べています(24章21節)。
イエス様の埋葬 23章50〜56節
「ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。」
(「ルカによる福音書」23章50〜53節、口語訳)
処刑された者たちは集団墓地に埋葬されるのが当時の普通のやりかたでした。もしイエス様にもこのやりかたが適用されていたとしたら、復活の二つの重要な証拠、空っぽの墓と聖骸布とが欠けたままになったことでしょう。それゆえ、上掲の箇所でアリマタヤのヨセフの行ったことは死んだイエス様への奉仕にとどまるものではなく、キリスト教の復活信仰に確かな証拠を提供することにもなりました。
「アリマタヤ」は旧約聖書の「ラマタイム」(「サムエル記上」1章1節)または「ラマ」(「ヨシュア記」18章25節)のことであり、預言者サムエルの故郷でもありました。それはエルサレムの北西30キロメートルの場所にありました。ヨセフはエルサレムの城壁の近くに岩盤を掘った墓を持つ裕福な男性でした(つまり、この墓は元々洞窟だったのではありません)。イエス様の埋葬では、メシアが金持ちの家の墓に埋葬されるという「イザヤ書」53章9節の預言も成就しました(「富める者と共に葬られた」(新共同訳))。
ヨセフはユダヤ人の最高議会(サンヘドリン)の一員でしたが、イエス様を有罪とする判決には加担していませんでした(23章50節)。おそらく彼はイエス様の案件を扱った会議には出席していなかったのでしょう。
律法によれば、処刑された者は日没までには埋葬されなければなりませんでした(「申命記」21章22〜23節)。イエス様は「第九時」(午後三時頃)には息を引き取られました。安息日は天空に三つの星が見える「第十二時」(午後六時頃)に始まったため、埋葬は急いで行われなければなりませんでした。遺体には必要最低限の処置のみが施されました。イエス様の遺体は「きれいな亜麻布」(聖骸布)で包まれましたが(「マタイによる福音書」27章59節)、軟膏を遺体に塗布する作業は、埋葬前に行なう余裕が十分になかったため(「ヨハネによる福音書」19章39節)、安息日が明けてから続けられる予定でした(23章56節)。
この聖骸布はイエス様の復活の重要な証拠となりました(「ヨハネによる福音書」20章5〜9節)。いわゆる「トリノの聖骸布」はイエス様の真性の聖骸布と考えられています。その第一の証拠として、布地の織りかたが当時のものであること、第二の証拠として、布地にはパレスチナに由来する花粉が含まれていること、第三の証拠として、まさしく十字架につけられた男性がその布に包まれていたという事実を挙げることができます。その男性の遺体の描像がどのようにして布地に染み込んだのかは科学的に説明できていません。例えば1988年の研究では聖骸布は中世のものとされましたが異論もあります。ですから、この布がイエス様の本物の聖骸布ではないという可能性もまだ残っています。上記の研究でも、磔刑にされた男性の描像がどのように布地に描きこまれたのかを解明することはできませんでした。その後も研究は続けられています。
こうして聖金曜日は終わりました。イエス様の弟子たちはこの時に全世界の歴史が新たな転回点を迎えていたことを知りませんでした。英語圏では聖金曜日を「Good Friday」と呼んでいますが、それにはもっともな理由があります。イエス様が十字架上で死なれたこの日は、神様による善意と人類への愛がこの上なくはっきりと全面的に表れた日だったからです。
しかしこの事実はこの箇所の段階では弟子たちからは隠されており、イエス様の復活を通してようやく明らかにされていきます。