ルカによる福音書18章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

やもめと冷酷な裁判官  18章1〜8節

この箇所の譬は典型的な例を提示するというよりも、むしろ典型例と正反対の事例によってイエス様の言わんとすることを浮き彫りにしています。「神様はここに登場する冷酷で無能な裁判官のようなお方ではなく、むしろその正反対である」というのがこの箇所のメッセージです。

旧約時代のイスラエルではすべての町に裁判官がいました(「申命記」16章18〜20節)。この譬に出てくる裁判官は無能であり、「裁判官」という職務に本来求められるべき重要な資質を欠いた人物でした。その資質とは例えば神様を畏れる心や人々を敬う心です(「歴代志下」19章6〜7節)。この裁判官はとうとう重い腰を上げてやもめのために裁きを行いましたが、それも全くもって自己中心的な動機によるものでした。

「キリスト信仰者には特別な祈りの時だけではなく継続的に神様との交流がある」とイエス様は教えられました。特別な祈りの時はイスラム教(毎日五回の祈りの時がある)やユダヤ教(「ダニエル書」6章10節にあるように、神様を煩わせすぎないために多くても一日に三度だけ祈る)にもあります。

「まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。」
(「ルカによる福音書」18章7節、口語訳)

上節は「神様は長い間助けずに放置なさるように見えるとしても(・・・)」と意訳することもできます。神様からの助けは、まさしくその「時」が来た時になってはじめて提供されるものなのであり、私たちが望んでいる時に与えられるとはかぎりません。

神様からの助けは、たとえそれがなかなか来ないと感じられても、いつかは必ず来るものなので、私たちは「失望せずに常に祈るべき」(18章1節)なのです。なかなか助けが来ないことも、神様が御自分の敵対者たちに悔い改めてそれにふさわしい行いをするように時間的な猶予を与えるという愛と招きの表れと考えることができるでしょう。

「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。」
(「ルカによる福音書」18章8節、口語訳)

この節は「福音を世界中の全国民に宣べ伝えなければならないが(「マタイによる福音書」28章18〜20節)、それでも神様からの招待を受け入れる人々はわずかしかいない」ということを示唆しています。伝道で蒔かれた御言葉の種の大部分は実を結ばない土地に落ちます。しかしそれを口実に伝道を諦めてはいけないのです。

この節は、キリスト信仰者たちがこの譬のやもめと同じように粘り強く祈ることの大切さを教えています。途中で諦めたら、目的地にたどり着くことはできません。

ファリサイ派と取税人 18章9〜14節

この譬は当時の実例に基づくものではなく、事例を考究するために述べられています。譬に登場する二人の男性は二つのグループをそれぞれ代表しています。

ファリサイ派(口語訳で「パリサイ人」)はたしかに偽善的でもありましたが、それよりもむしろ(自分が正しいと考える)独善的な面が強い人々でした。ユダヤ人歴史家ヨセフスが証言しているように、ファリサイ派は他の人々に対してある種の優越感を抱いていました。しかしそれだけではありません。この譬のファリサイ派は人間的な基準で測るかぎりは実際に他の人々よりも「信仰熱心」でもありました。

ファリサイ派は神様に祈りました。それは周りにいた人々が彼の祈りを見たり聞いたりできるようにするためでした。ところが実際には彼には神様からお願いすべきことが何もなかったのです。これは彼について多くのことを物語っています。彼は自分に必要なものをすでにすべて持っており、この場でも自らの優秀さを他の人々に誇示していたのです。

ファリサイ派の人々は律法の要求をたんに満たすだけにとどまらず、さらに過剰に満たすことさえしました。律法は一年に一度だけ、大贖罪の日(ヨム・キプルの日)に断食するように命じています(「レビ記」16章29節)。しかしこの譬のファリサイ派は一週間に二度断食していました。使徒教父文書の一つ「十二使徒の教え」(ギリシア語名で「ディダケー」)によれば、ユダヤ人は月曜日と木曜日に断食し、キリスト信仰者は水曜日と金曜日に断食しました。

このファリサイ派は購入物についても十分の一税を払いました。例えば彼に物を売った農民の中に十分の一税をきちんと納めなかった者がいたかもしれないからです。

このように行うことで、譬のファリサイ派は自己満足に浸っていました。

それにひきかえ、譬の取税人は自分自身にすっかり絶望していました。彼は目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら祈り(18章13節)、自分の抱えている問題をすっかり神様にお委ねしたのです。彼には「自分の罪」以外には神様の御許に携えていくものが何もありませんでした。

ところが、これら二人のうちで取税人のほうが神様の御前で「義である」と認められたのです。ギリシア語原文ではこの動詞は受動態になっており、神様が主体(主語)であったことを表現しています。それに対して、ファリサイ派は自分で自分を義とみなしたため、「神様によって義と認めていただける」という御業の外側へ取り残されることになりました。

譬の二人の男たちの決定的な相違は、まさしく自分および神様に対する態度に表れました。それゆえに神様はこの二人に対して異なる接しかたをなさったのです。

イエス様と子どもたち 18章15〜17節

久しぶりにルカはこの箇所で「マルコによる福音書」からも見つかる内容について述べています。ルカとマルコで共通しているこれ以前の箇所は「ルカによる福音書」11章14〜26節と「マルコによる福音書」3章22〜27節です。ここでようやくルカ独自の叙述部分は終わることになります。

ルカはマルコ(やマタイ)の文章にささやかながらひとつ重要な変更を加えています。ルカは「子どもたち」(ギリシア語で「パイディア」)という表現を「幼児たち」(ギリシア語で「ブレフェー」)に変更しています。後者は本当に小さな子どもたちを意味する言葉です。幼児たちもイエス様に受け入れていただける大切な存在であるということをルカは強調しているのです。神様の御国に入るためには大人になるまで待つ必要はありません。次節でイエス様が言われているように、むしろその逆でさえあります。

「よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない。」
(「ルカによる福音書」18章17節、口語訳)

子どもたちは信仰者の模範です。「それは子どもたちが無垢な存在だからである」という説明がよく見受けられますが、事実はちがいます。人間は生まれながらに罪深い存在だからです(人間の原罪性)。むしろ神様に素直に信頼する子どもたちの「信仰」こそが模範的なのです。彼らの信仰は神様の御国を無条件に受け入れるものだからです。

イエス様に従うことによる犠牲と報酬 18章18〜30節

この箇所に登場する裕福な役人はこの前の箇所のファリサイ派に似ています。両者共に「自分は律法全ての要求を満たした」と思い込んでいたのです。ユダヤ教にはいわゆる「タウ・人」と呼ばれる人々がいます。「タウ」はヘブライ語のアルファベットで最後の文字であり、「タウ・人」は最後の文字に至るまで徹底的に律法を遵守した人という意味合いを持っています。パウロが自分について「律法の義については落ち度のない者」(「フィリピの信徒への手紙」3章6節)と述べていることもこの点で参考になります。

ところが裕福な役人はそれでも「自分が神様の御国に入れてもらえる資格がない」と感じていたのです。しかもイエス様が彼に「アキレス腱」(致命的な弱点)を示されたことによって、彼は第一戒の「すべてにまして神様を愛せよ」という義務さえ満たすことができないという真実が判明したのです。イエス様は「彼をこの世に縛り付けているものが何であるか」を示されました。

私たちを縛っているものは何でしょうか。資産でしょうか、人々からの好意的な評価でしょうか、名声でしょうか?

「イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。」
(「ルカによる福音書」18章24〜25節、口語訳)

「「針の穴」とは、荷物を負っていないラクダがぎりぎり通り抜けることができるエルサレムの壁の門の狭さの比喩である」という説明をつけて、裕福な役人が救われる困難さを少しでも和らげようという試みもなされました。あるいはまた「ラクダ」を「綱」に置き換えてみる説明も提案されました(ギリシア語では両者は酷似した形をしています)。

「これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。」 (「ルカによる福音書」18章26〜27節、口語訳)

上節は、イエス様がそれを聞いた人々がとうてい実現不可能であると感じるような何かを言われたことを示唆しています。当時知られていた最大の動物が当時知られていた最小の穴を通り抜けるというのですから。

救いは人間の力によるものではなく、神様の力によるものです。人間の行いでは何の役にも立ちません(「フィリピの信徒への手紙」3章7〜9節)。

「ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。」
(「ルカによる福音書」18章28節、口語訳)

おそらくペテロなどイエス様の弟子たちは「イエス様が裕福な役人に課した要求を我々は満たしている」と思っていたのでしょう。それゆえペテロはイエス様に弟子である自分が受ける報酬について尋ねたのです。

「イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。」
(「ルカによる福音書」18章29〜30節、口語訳)

イエス様のお答えの意味は「キリスト信仰者はすでにこの世で信仰の素晴らしさを味わうことができるが、信仰の最終目標はこの世の外部にあることを常に覚えておかなければならない」というものでした(「コリントの信徒への第一の手紙」15章19節)。

永遠の命は恵みによっていただけるものであり、私たちはそれを自分自身のよい行いの見返りとして得ることはできません。

最後の警告 18章31〜34節

これで最後となる三番目の警告をここでイエス様は弟子たちにお与えになりました。この警告はこれからイエス様御自身の上に否応なく起こる出来事についてでした。エリコからエルサレムまではわずか一日で歩けるほどの距離でした。それゆえイエス様のこの世での歩みはすでに終わりかけていたと言えます。

弟子たちはイエス様の警告の意味を理解できませんでした。この時点で彼らがそれを理解するのは容易ではなかったからです。それは現代の多くの人々にも当てはまります。彼らは同じ出来事(イエス様の十字架上での死と三日目の復活)をすでに成就されたものとして見ることができるにもかかわらず、かつての弟子たちと同様に、エルサレムでイエス様に起きた出来事の意味を理解しようとはしません。

「神様の道」は奥義であり、私たち人間の期待しているものとはしばしば全く異なっています。それゆえ、この道を理解して正しく認めることは時として非常に困難なのです。

「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、
わが道は、あなたがたの道とは異なっていると
主は言われる。
天が地よりも高いように、
わが道は、あなたがたの道よりも高く、
わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。」
(「イザヤ書」55章8〜9節、口語訳)

目の不自由な人の信仰告白 18章35〜43節

エルサレムに入る直前になってイエス様は初めて公に御自分がメシアであることをお認めになりました。目の見えない物乞いをしていた人が「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」とイエス様に向かって叫んだのです(18章38節)。この人の「イエス様はダビデの子である」という告白と「ダビデの子から憐れみを乞う」という願いは当時のエルサレムの政治的状況において不適切で危険なものだったため、彼を黙らせようとする者たちもいました。しかし今回イエス様は彼がそう叫ぶのをお許しになったのです。

メシアをめぐる旧約聖書の予言が余すところなく実現する「時」がついに来ました。それらの予言はメシアが受けることになる苦しみについても語っています。それゆえ、この段階にいたってもはやイエス様がメシアであることを秘密にしておく理由はなくなりました。