ルカによる福音書16章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

状況の有効利用 16章1〜13節

不正で不正直な管理人の譬は新約聖書の中でも解釈が最も難しい箇所のひとつです。

「ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。」
(「ルカによる福音書」16章8節、口語訳)

この譬の解釈が困難なのは、上節の「主人」がイエス様のことなのか、それともこの管理人の雇い主なのか、はっきりしないためです。ギリシア語原文には句読点もなければ単語間の空欄もありません。そのため、どこからどこまでが引用部分なのか、翻訳者が各々正しいと思う箇所を選ばなければならないのです。

この譬の管理人は主人の財産を悪用しました。当時、ガリラヤ以外の場所(主にエルサレム)に住む大地主たちがガリラヤに広大な土地を所有していました。この譬に出てくる主人はこのような大地主のひとりであり、自分の土地を任せてきた管理人が不正を行っていることを耳にしたのです。

管理人は自分が管理人でいられるかぎりは自分自身を助ける手段がまだ残っていることを知っていました。彼は主人に負債のある者たちを呼び出しては、一人ずつその負債額を減らすように借用証書を書き換えさせたのです。おそらく負債者たちは借金してその土地の物を購入していたのでしょう。

この不正が管理人と負債者という当事者だけの間で行われたのは、第三者の証人が欲しくなかったからか、もしくは、それぞれの負債者が「管理人は私だけを特別扱いしてくれている」と思い込むように仕向けるためであったと思われます。

この譬では二つの不正のケースが詳細に述べられています。ある負債者は「油百樽」の負債を「油五十樽」(約二千リットル)に、もうひとりの負債者は「麦百石」を「麦八十石」(約八千リットル)にそれぞれ減らしてもらいました。後に残った負債額は両者ともに約五百デナリでした。

この不正によって管理人は「友人たち」を得ました。彼らはこの犯罪の共犯者になったのです。こうすれば管理人は自分が今の地位を追われた後でも彼らからの援助を期待できると考えたのでしょう。さらに管理人は「あなたたちもこの犯罪に加担したではないか」といって彼らを脅迫することもできます。

この不正直な管理人をほめた「主人」は誰なのでしょうか。それはイエス様か、あるいは土地の主人かのどちらかです。

もしもほめたのが土地の主人だったとしたら、彼は自分の部下(管理人)の狡賢さをほめずにはいられなかったということになります。しかしその場合にこの譬が私たちに教えているのはどのようなことになるのでしょうか。「狡猾さによって窮地を脱することができる」ということでしょうか。

もしもほめたのがイエス様だったとしたら、「不正直な管理人をほめるようなことをなぜイエス様はなさったのか」という問題が出てきます。

「そもそも「利息」を取ることはユダヤ教では違法とされており、この管理人はその利息を減額しただけにすぎない」と説明することでこの難問を解決しようとする試みもあります。しかしこの説明は真実からほど遠いものであると思われます。

この物語がそれを聞いている人々に「あなたも行って同じようにしなさい」(10章37節)と奨励するための模範例ではなく譬であるという点をここで思い起こすべきです。一般的にいって譬は目的や教えをひとつだけ含んでいるものです(とはいえ、譬を聞いた人々は往々にして譬の細部から何かしら「新しい」教えを引き出そうとするものではあります)。

この譬の教えとは何なのでしょうか。それは「人は自分に残されている時間を正しく有効に活用するべきである」ということです。人が悔い改めることができるのはこの世に生きている間だけであって、死んでからはもう遅いのです!

「ルカによる福音書」でイエス様がこの譬のすぐ後に不正な富と正しい富の譬について語っておられるのは偶然ではありません。16章の1〜7節ではなく10〜13節に富の管理方法についてのイエス様の指示が記されています。金持ちとラザロの物語(16章19〜31節)がこの箇所の説明となっていることにも注目してください。

「富」はここではあらゆるこの世的なもの、この世と人生に結びついているすべてのものを意味しています。例えば財産や権力や友人関係なども「富」です。

神様が私たちに賜った物を私たちは正しく用いることができなければなりません。しかし残念ながら、ここで立場の逆転が起きてしまいます。賜物がそれをくださったお方の場所を横取りしてしまい、この世的なものが私たちの偽りの神、偶像になってしまうのです。マルティン・ルターは大教理問答書の第一戒の説明で「私たちが生きていく上で最終的に頼りにしているものこそが私たちにとっての「神」あるいは「偶像」となるのである」と説明しています。私たちが真の神様以外の何物かに頼って生きている場合には、その何物かが私たちにとっての偶像になっているのです。

神様が私たちに賜物をくださったのは、私たちがそれらを偶像として崇拝するためではなく、私たちがそれらを有効に活用することで人々を神様の御国へと招くためです。

二面的な生活は死をもたらす 16章14〜18節

偽善はファリサイ派によく見られた特徴でした(「マタイによる福音書」23章13〜36節)。彼らは自分を義人のように見せかけようとしますが、他の人々に教えているような模範的な生きかたを自分では必ずしも守ろうとはしませんでした。要するに彼らの生活は「二面的」だったのです。彼らは宗教的に厳しい立場をとる一方で、こと自分に関しては律法に裁かれるようなことも大目に見ていたのです。しかし神様は人間の外面だけではなく内面も見抜かれるのです(7章39〜40節)。

この箇所でイエス様は例を一つだけ挙げておられます。離婚についてのファリサイ派による解釈は事実上「一夫多妻制」への道を開くものでした。それは、同時に多くの妻を娶るのではなく結婚と離婚を繰り返すというやりかたでした。同じ問題についてパウロも「ローマの信徒への手紙」2章17〜24節(特に22節)で述べています。ユダヤ教の教師ラビ・ヒレルは、妻が料理に失敗してそれを台無しにしただけでも夫は彼女を離婚するだけの十分な理由になると教えました。またラビ・アキバは、男性は今の妻よりも美しい女性を見つけたならば彼女を新しい妻として迎えてよいと教えています。

「しかし、律法の一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。」
(「ルカによる福音書」16章17節、口語訳)

ファリサイ派は神様の律法が人々を天の御国へと導くためのものであることを忘れていたのです。彼らにとって律法とは「解釈」を加えることのできる規則集にすぎないものでした。しかし上節のように、イエス様にとって律法とは神聖で不変なる神様の啓示です。それゆえ、イエス様は律法をファリサイ派よりもはるかに厳格に解釈なさったのです(「マタイによる福音書」5章21〜32節)。

イエス様は律法がもはや救いの道としては有効ではなくなっていることを指摘なさいました。洗礼者ヨハネの後で、恵みの時が始まったのです。とはいえ、これは「人間のこの世での生活態度は、その人が天の御国に入れるかどうかにはもはや無関係になった」という意味ではありません。このことを明確に示しているのが次に取り上げる金持ちとラザロの物語であり、これは16章9〜13節の説明にもなっています。

立場の逆転 16章19〜31節

金持ちとラザロの物語は「人はどのように生きるべきなのか」具体例を通して教えてくれます。そこには「この金持ちのように生きてはいけない」という警告が含まれています。

貧しいラザロはある金持ちの家の玄関の前に座っていました。彼のできものをなめにくる犬を追い払うこともできなかったところをみると、彼の身体は麻痺状態にあったものと思われます。ユダヤ人たちは犬をけがれた動物とみなしていました。当時の犬は現代でいえば狼のような獰猛な野犬でした。

ラザロと金持ちは死んだ後で互いの立場が逆転しました。死後の世界でラザロはアブラハムのもとにいて、金持ちは黄泉にいたのです(16章22〜23節)。

金持ちが黄泉(ギリシア語原文では「ハーデース」)に落ちたのは、彼が金持ちだったからではなく、自分の財産の使いかたがよくなかったからであることに注目してください。アブラハムも裕福でしたが、この金持ちとはこの点で異なっていたことになります。人が救われるかどうかを決めるのは、その人の所有する資産量の大小ではありません。

その一方で、ラザロも貧しかったおかげで救われたのではありません。イエス様はラザロの信仰については述べておられません。しかし、すでに「ラザロ」という名が多くを語っています。この名には「神様は助けてくださる」という意味があるのです。ラザロは神様からの助けに希望を託す貧しき人々のうちの一人でした。

この物語の教訓は「人がこの世にいる間に受けた不当な扱いの苦しみは天の御国で帳消しにされて償われる」ということではなく、「人がこの世にいる間になした人生の選択は死んだ後にもそのままであり変わることがない」ということです(16章26節)。

「そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。」
(「ルカによる福音書」16章24節、口語訳)

ユダヤ人たちは「アブラハムはその僕エリエゼル(「創世記」15章2節)をときおり彼らのもとに遣わして、彼らが互いに兄弟愛を示しているかどうかを調べさせている」と教えていました。「エリエゼル」はギリシア語で「ラサルス」すなわち「ラザロ」といいます。まさにこの点で金持ちは失敗しました。この世に生きている間、彼は自分のことばかり考えていたのです。黄泉に落ちてからようやく彼はラザロを自分の兄弟として認めています(16章24節)。イエス様の数ある譬の中でも名前で呼ばれているのはこのラザロだけです(金持ちの名が記されていないこととは対照的です)。

上掲の節は「イエス様に従う機会を生前せっかく提供されていたのにそれを拒否した自分の人生を改めて見せつけられる」という最悪の苦しみを黄泉で味わい続けることを描写しているとも解釈されています。

神様の啓示で十分である

死んだ後の世界(黄泉)は金持ちにとって予想外のものでした。彼はまだこの世にいる彼の五人の兄弟たちのもとにラザロを送って自分と同じ失敗をしないように警告してくれるようアブラハムに願いました。しかしアブラハムはそれを却下し、「もしもお前の兄弟たちが神様の啓示を受け入れないのなら、誰かが死者の中から復活したとしても信じないだろう」と答えました。アブラハムがラザロを金持ちの兄弟たちのもとに派遣することを拒んだのは、そうするのが不可能だったからではなく、無益だったからです(16章31節)。

イエス様がマルタとマリアの兄弟であるラザロを死者の中から復活させた時に何が起きたかを考えると、このアブラハムの証言の正しさがわかります。ラザロの復活はイエス様の敵対者たちが「イエスを殺さねばならない」という決断を下すきっかけとなりました(「ヨハネによる福音書」11章53節)。彼らの心にはイエス様への信仰が生まれるどころか、逆に不信仰が強められ増幅されていったのです。

今日でもさまざまな奇跡が起きていると言われます。しかし、キリスト信仰と結びつかないかぎり、それらが活ける純粋な信仰を生み出すことはありません。純正の信仰は神様の啓示に基づいてのみ生まれるものだからです。神様の啓示によらないかぎり、私たちはイエス様を私たちの罪を帳消しにしてくださったお方として信じることはできません。

「イエス様の復活」という決定的な奇跡の出来事でさえも「イエス様が神様であられる」という真理を全人類に納得させるものではありませんでした(「マタイによる福音書」28章11〜15節)。

宗教哲学者ジョン・ヒックは「死後の世界を誤謬であると証明することはできないし、証明できるのはそれが真に存在することだけである」と言っています。死んだ後からこの世に舞い戻ってきて「死後の世界には何もなかった!」と証言できる人は誰もいません。もしも本当に死後の世界に何もないのなら、いったいどこからその人は戻ってきたのでしょうか。しかし誰かがこの世に戻ってきて「死後の世界にはこれこれのものがあった」と報告することはできます。復活がひとつでも起これば、死後の世界を誤謬とみなす反論はすべて論破されるのです!

いくつかの注目すべき点

「黄泉」(16章23節、ギリシア語で「ハーデース」、日本語でも「ハデス」という名で知られています)はまだ地獄ではありません(「ヨハネの黙示録」20章13〜14節)。死後の世界について私たちはほとんど知りません。それゆえ、死後の世界にあるとされる様々な秩序や構成やそれらに基づく「中間地帯に関する教え」は必然的に推測の域を出るものではありえません。ここでも一番重要になるのは「人には死んだ後で二つの選択肢があり、そのどちらかをこの世に生きている間に選ばなければならないし、死んでからではもう遅すぎる」ということです。

「人が救われるためにはアブラハムの後継者のグループに属するだけでは十分ではない」ということを、金持ちが黄泉に落ちた事例は示しています
(「ヨハネによる福音書」8章37〜47節も参考になります)。

「キリスト教会の会員になること」にもそれと同じことが言えます。人を救うのはイエス様への信仰であって、教会の会員になっていることではありません。

「「栄光の神学」の支持者なら、どのようにこのラザロと金持ちの譬を説明するだろうか」と私(ガイドブックの執筆者パシ・フヤネン)は考えたことがあります。(この世的な意味で成功した)金持ちは悪い結末を、貧しい哀れな者はよい結末を迎えることになったからです。

神様は私たちの期待に沿ってではなく聖なる御意思に基づいて活動なさっています。