ルカによる福音書14章
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水腫をわずらっている人の癒し 14章1〜6節
14章にはイエス様の次の四つの講話が含まれています。
1)ファリサイ派へのイエス様の質問(1〜6節)
2)宴に招かれた客たちに対するイエス様のお話(7〜11節)
3)宴の家の主人へのイエス様のお話(12〜14節)
4)宴の列席者のコメントへのイエス様のお答え(15〜24節)
他の町から会堂に説教にきた宣教者は礼拝後に食事の会に招待されるのが一般的なやりかたでした。この箇所の出来事の起きた安息日にイエス様は会堂で説教なさったのかもしれません。
「パリサイ派のかしら」(14章1節)がどういう意味かははっきりしません。彼はファリサイ派の指導者の一人であったかもしれないし、ユダヤ人の最高議会(サンヘドリン)の議員であったかもしれないし、あるいは会堂司であったとも考えられます。
ルカはイエス様が安息日に行われた五つの癒しの奇跡について福音書に記しています(4章31〜37節、4章38〜39節、6章6〜11節、13章10〜17節、14章1〜6節)。ヨハネはさらに安息日に起きた他の二つの奇跡についても述べています(「ヨハネによる福音書」5章1〜10節および9章13〜17節)。これらの奇跡の御業についてファリサイ派は「イエスは安息日規定を破った」と非難しました。しかしこの箇所での彼らは声に出してまで非難はしませんでした(14章4節(「彼らは黙っていた。」))。
この箇所に登場する水腫をわずらっている人は病のせいで死にかけていたわけではありません。ファリサイ派の考えかたからすると、この病人を癒すのは安息日の翌日(平日)でもかまわないはずでした。
ユダヤ人たちの安息日の食事は普段よりも豪華でしたが、それらはすべて安息日の前日(金曜日)にすべて準備しておかなければなりませんでした。安息日には食事を作る行為自体が禁じられていたからです。
「イエスは律法学者やパリサイ人たちにむかって言われた、「安息日に人をいやすのは、正しいことかどうか」。」
(「ルカによる福音書」14章3節、口語訳)
イエス様の質問はファリサイ派にとってとても答えにくいものでした(もうひとつの答えにくいイエス様の質問については「マタイによる福音書」22章15〜22節を参照してください)。もしもこの質問に肯定的に答えると、ファリサイ派は自分たちの律法解釈に反することになってしまいます。だからといって、この質問に否定的に答えようものなら、今度は「冷たい心の持ち主」というレッテルを貼られてしまいます。ファリサイ派の立場からすると、イエス様は彼らに「どのような病気なら安息日に癒しても良いのか?」と質問するべきだったのです。
高慢さと謙虚さ 14章7〜11節
どの文化圏でも祝日の昼食会にはある種の上下関係に基づく着席場所があらかじめ定まっているものです。当時のユダヤ人のお祝いの食事会では主人の場所はテーブルの上座の端にありました。「テーブル」といってもそこに座るのではなく、左の肘をついて寝そべりながら食べるのです。14章7節で「客に招かれた者たちが上座を選んでいる」とありますが、「上座」とはギリシア語では「横たわるための第一の特等席」のことです。敬意を払うべき客人の場所は主人の左側でした。第二番目の客人の場所は主人の右側でした。このように着席場所が順々に定められていました。イエス様の弟子のヨハネは最後の晩餐でイエス様の胸近くに寄りかかっていました(「ヨハネによる福音書」13章23節および21章20節)。このことから、ヨハネは晩餐で第二の特等席に座っていたことがわかります。
イエス様の弟子たちも「誰が一番偉いか」論じ合うことがありました(22章24節)。ですからイエス様の教えはまさに弟子たちに向けられていた可能性があります。
ラビ・アキバは食事会では自分が座るのが地位的に妥当と思われる場所よりも二、三席くらい下位の方の場所に着席するべきであると教えました。この箇所でイエス様が与えた助言はこのような「計算」を意味しているのでしょうか。聖書では他の箇所でも「自らを低めること」を推奨しています。そうすることで自分を高めてもらえるからです(「箴言」25章6〜7節、「マタイによる福音書」23章12節、「ルカによる福音書」18章14節。また「ヨブ記」22章29節、「ルカによる福音書」1章51〜53節および11章43節および20章46節、「ヤコブの手紙」4章10節、「ペテロの第一の手紙」5章5節も参考になります)。
イエス様は永遠の世の視点から話しておられるのです。自らをまったく無価値だと感じている者だけが救われうるということです(18章9〜14節)。神様の御国に入るためには、自分の罪深さを認めるふりをするのではなく、自分が本当に罪深いことを知らなければなりません。パウロは次のような信仰告白を記しています。
「「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」
(「テモテへの第一の手紙」1章15節、口語訳)
まさしくここに人が狭い戸口から入るのを妨げている第二の要因があります(13章24節)。戸口から中に入れるのは、自分が義人だと勝手に思い込んでいる者ではなく、自分が罪人であることを素直に認めている者だけなのです。
神様の御前では計算づくの行動は無意味である 14章12〜14節
イエス様が否定なさっているのは「友人、兄弟、親族、金持の隣り人など」を食事会に招待するということ自体ではなく、見返りを期待した計算づくの動機です(14章12節。それと対照的な行動は14章26節にあります)。真に憐れみ深い行為とは返礼できない人々を助けることです。しかしこれでは「自らのよい行いによって天の御国に入れる」ことになってしまうのではないでしょうか。
いや、そうではありません。神様を欺くことはできないからです。神様は人間の心を見抜かれます。真の憐れみ深さは真の愛から湧き上がってくるものです。本当のよい行いは人々の注目を集めようとはせず、神様からの報酬も期待せずに行われるものだからです(「マタイによる福音書」25章37〜39節)。
「狭い戸口」の新たな一面をここで私たちは知ることになります。すなわち、天の御国を「購入」することはできないし、私益を追求することで狭い戸口から入ることもできないということです。
「そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう。」
(「ルカによる福音書」14章14節、口語訳)
この節の最後の部分について「ルカは義人の復活の他にも別の種類の復活があると理解していた」とする解釈も提示されています。裁きを受けるために復活が起きることについて述べているパウロの言葉をルカは「使徒言行録」で引用しています(「使徒言行録」24章15節)。すでに旧約聖書も全ての人の復活について書いていました(「ダニエル書」12章2節。また「イザヤ書」26章19節も参照してください)。新約聖書はある種の「復活の順序」が存在することを記しています。それによると、まず長子としてキリストが、それから「キリストのものたち」が、そして最後に他の人々が復活します(「コリントの信徒への第一の手紙」15章20〜28節、また「ヨハネによる福音書」5章28〜29節)。
盛大な晩餐会 14章15〜24節
ここでもイエス様は対話が一般的な事柄から個人的な事柄に移行するような答えかたをなさっています(13章22〜30節が前例になります)。食事会の列席者のひとり(14章15節)は天の御国の晩餐会に自分が参加できるのは当然であると思い込んでいたようです。ところがイエス様は「その晩餐会に招待された人々の多くはその招待を断り、天の御国の外側に取り残される」と指摘なさいました。
すでに旧約聖書も天の御国を「祝宴」にたとえています(「イザヤ書」25章6節)。しかしこの「祝宴」のイメージは私たちにとっては新約聖書の例のほうがより馴染み深いでしょう(「マタイによる福音書」8章11節および25章1〜10節、「ルカによる福音書」13章29節、「ヨハネの黙示録」19章9節(「小羊の婚宴」))。
当時、盛大な晩餐会には前もって招待状を出しておくのが普通のやりかたでした(14章16節)。そうすることで招待客のおおよその数をあらかじめ把握して、ちょうど良い食事の量を用意することができたからです。
ところが、人々はこの晩餐会への招待を受けたものの次々と断り始めたのです。以下の三つのケースには人々が招待を断るために使った口実が記されています。
「ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。」
(「ルカによる福音書」14章18節、口語訳)
土地(畑)を買う前にそれがどのような状態かを調査しない人は誰もいません。これは現代の農家でも同じです。新聞やインターネットの広告だけをみて携帯電話で売り手に連絡をとって家を購入してしまうようなことも普通ならやらないでしょう。しかも購入した土地はどこにも逃げたりはしません。食事会の翌日にも同じ場所にあるはずです。
「ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。」
(「ルカによる福音書」14章19〜20節、口語訳)
「五対の牛」の場合もそれを買う前にきちんと調べるもののはずです。牛たちが「対」となって一緒に仕事ができるようなものかどうかをあらかじめ確かめなければならないため、買う前に牛たちを実際に試してみる必要がありました。現代の例でいえば、船とモーターをそれぞれ別々の場所から現物を確かめずに購入するような状況を考えてみるとよいでしょう。
「わたしは妻をめとりました」ということは、その前日に結婚したばかりであるという意味ではありません。誰も結婚した週にわざわざ他の祝宴を催しはしなかったでしょう。当時の婚姻の儀は一週間も続くものだったからです(「ヨハネによる福音書」2章1〜10節)。さらに言えば、婚姻の日時はこの晩餐会への招待を受けた時点ですでにわかっていたはずです。また「申命記」20章7節および24章5節に書かれている新婚男性の兵役義務の免除はこの箇所の状況には該当しません。妻を娶ったこの男性はたとえ晩餐会に参加したとしても夕方には帰宅できたはずだからです。
上記の三人は晩餐会を催す主人の心象を害するようなことを故意に公然と行ったのです。「自分たちがいなければこの晩餐会は成功しないだろう」と彼らが思っていたふしさえあります。彼らが異口同音に言いたかったことは「我々はあなたの招待も晩餐会も評価しない。我々にはそれよりも大事なことがあるから行かないのだ!」ということです。
晩餐会の主人は僕に町で皆から見捨てられていた惨めな人々を晩餐会に招待するように命じました(14章21節)。しかしそれを実行した後にもまだ席が空いていたため、主人は僕に町の外にも出て行ってさらに人々を晩餐会に招待するように命じました(14章23節)。
イエス様はこの譬でいったい誰について話しておられるのでしょうか。「招待者」は神様です。「僕」はイエス様です。「元々の招待客」はユダヤ人の指導者たちか、あるいは自分を義人とみなしていたユダヤ人たちです。彼らはイエス様の招待を受け入れませんでした。「町の見捨てられた人々」は周囲から蔑まれていたユダヤ人たちのことです。イエス様は彼らと一緒に過ごされました(7章36〜50節)。「町」はイスラエルを表し、「町の外の田舎とそこの住民たち」は異邦人の世界を表していました。
この譬の結末はどうだったのか、招かれた異邦人たちは晩餐会にやってきたのか、また晩餐の席はすべて埋まったのかについては何も書かれていません。イエス様がこの譬を話された当時、この「晩餐会」の最終的な状態は、まだこれからそこへ向かって実現していくことになる未来のことでした。イエス様は町の住民たち(ユダヤ人たち)を晩餐会に招待なさいましたが、田舎の人々(異邦人たち)を招待することは使徒たちとキリスト教会全体に委ねられたのです(24章46〜49節)。
晩餐会の主人はすっかり面目を潰されましたが(「イザヤ書」52章5節を参照してください)、彼は元々の招待客たちに対して報復せずに、他の招待客たちに恵みを賜ることにしたのです。
「主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。』」
(「ルカによる福音書」14章23節、口語訳)
「無理やりにひっぱってきなさい」とはどういう意味でしょうか。もしも私たちに国の首長の屋敷への招待状が来たとしたら、「これは何かのまちがいだろう」と考えて、この招待状が私たち宛のものではありえない理由をいろいろと捻り出すことでしょう。実に神様の恵みへの招待はこれと同じくらい驚くべきことなのです。本来ならば恵みをいただく資格のないはずの者たちがそれをいただけるというのですから。当時のユダヤ人の文化圏では、自分が招待されることが予期できないような招待は断るべきものであるとされていました。いったん招待を断った後で再度招待された場合にようやく招待を受け入れてもよいとされていたのです(24章28〜29節、「使徒言行録」16章15節、また「創世記」19章3節も参考になります)。招待者の僕の使命は招待が本心からのものであることを招待客に明示することでした。
「あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう。」
(「ルカによる福音書」14章24節、口語訳)
この節は「自分は神様の御前に義人である」という自信過剰に陥る危険について厳しく警告しています(20章9〜19節)。これは、最初に招待された者たちが晩餐会に参加しないで外に取り残されてしまう可能性があることを示唆しています(13章30節)。
この譬は、すぐ前に扱った箇所でイエス様が晩餐会の主催者に与えた助言を実地に応用しただけのものではありません(14章13節)。むしろそれは「狭い戸口」に入るための新たな「制限」を付け加えています。狭い戸口から中に入れるのは、神様の招待を他のあらゆる大切な事柄にもまして重視して受け入れる者だけであるということです。他の何物も、それ自体は良いことでさえも、神様の招待よりも大切なものになってしまってはいけないのです。
イエス様に従うための条件 14章25〜35節
イエス様は御自分に従うように人々を誘おうとはなさいませんでした。むしろ逆です。「軽々しい気持ちでわたしに従おうとするべきではない」とイエス様は何度も警告なさいました。
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。」
(「ルカによる福音書」14章26節、口語訳)
この節での「捨てる」に対応する言葉は、新約聖書ギリシア語原文では「憎む」という意味を持つ「ミセオー」という動詞が用いられています(「マタイによる福音書」10章37節では同じ意味内容を「愛する」(ギリシア語で「フィレオー」)という動詞によって表現しています)。なお、旧約聖書だと「サーネー」というヘブライ語動詞が「憎む」という意味で用いられています(例えば「創世記」29章31節、「申命記」21章15節、「イザヤ書」60章15節(この箇所には「捨てる」という意味の「アーザーブ」という動詞も「サーネー」に並列して出てきます)、「マラキ書」1章2〜3節)。
しかしその一方で、イエス様は弟子である私たちが第四戒(「父と母を敬え」)を無視することも望まれていません。
ただし、キリスト信仰者がいつでも「憎む・捨てる」ことができるように心構えをしておくべきものがひとつあります。それは自分自身の命です。
「自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。」
(「ルカによる福音書」14章27節、口語訳)
十字架を負うことはイエス様の時代のユダヤ人たちに広く知られていたおぞましい出来事でした。十字架刑の受刑者は自分の十字架を処刑場まで自ら運んでいかなければならなかったのです(23章26節)。イエス様によれば、「だれでもわたしについてきたいと思う」者は「自分を捨て、日々自分の十字架を負うて」イエス様に従っていかなければなりません(9章23節)。しかしその「十字架」の内容はすべてのキリスト信仰者にとっていつも同じとはかぎりませんでした。
14章28〜33節にある二つの譬の背景には「箴言」24章3、6節があるとも考えられます。塔の建築者は建築が失敗する場合には軽蔑されるだけで済みますが、戦場で大敗を喫した王は一切を失ってしまう可能性さえありました。
どうしてイエス様は御自分に従おうとする者たちが真剣に従うことを望まれたのでしょうか。どうしてイエス様は「もしも従ってみたいと思うなら、やってみなさい。もしも思わないなら、今までの生活に戻りなさい!」とは言われないのでしょうか。それは、「信仰がどのようなものか」がはっきりわかるのは、信仰を真剣に受け入れる者だけだからです。このことを理解しておくのは大切です(「申命記」29章28節、「ヨハネによる福音書」7章17節)。
今までキリストを信仰したことがない人が「キリストのもの」となるようにすることよりも、以前もっていた信仰を捨ててしまった人がふたたび「キリストのもの」となるようにすることのほうが実ははるかに困難です(「マタイによる福音書」12章43〜45節)。棄教者は信仰に反対する「免疫」のようなものができてしまっているからです。
とはいえ、イエス様は私たちから取り去ったり私たちに要求したりすることよりもはるかに多くのことを常に私たちに与えてくださっていることを私たちは覚えておくべきです。たしかにイエス様は私たちの人生から私たちにとって大切な何かを取り去ることがあります。そしてそれは初めのうちこそ大変な痛手であるように感じられることがありますが、結果として、私たちがより楽で良い状態になるために役立つのです。
たとえこの世のいかなる富を提供されようとも、私たちはそれと引き換えに永遠の命を失うべきではありません。
「それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。」
(「ルカによる福音書」14章33節、口語訳)
この節の内容はいつも文字通りに実現するとはかぎりません。この節は「もしもすべてを捨て去る心の用意ができていないならば」という説明を加えて訳すこともできるでしょう。このイエス様の御言葉は弟子たろうとする者の姿勢や心構えについて説いていると思われます。しかしまた「弟子として具体的にどのように行動するか」を問いているものとも理解できます。例えば初代のキリスト信仰者たちはすべての私財の所有権を放棄しました(「使徒言行録」2章44〜45節および4章32〜37節)。とはいえ、キリスト教会としてまもなくそのようなやりかたをしなくなったことを考えると、それは常にうまくいくやりかたではなかったようです。例えばパウロの宣教活動ではそのようなやりかたがなされたとは述べられていません。
最後にイエス様はキリスト信仰者たちを「塩」にたとえておられます。塩は食べ物に味を与え、保存が効くようにもします。旧約聖書において塩は神様とイスラエルの民との間の契約や犠牲を捧げる儀式にも関わりがありました(「レビ記」2章13節、「民数記」18章19節、「歴代志下」13章5節)。
死海の海岸から集められた塩には、塩を腐らせてしまう清くない不純物が含まれていることがよくありました。腐った塩は土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまいました(14章35節)。
キリスト信仰者や教会の信仰生活に清くないもの(すなわち神様の御意思に沿っていないもの)が含まれるようになると、キリスト信仰者はもはや「世の塩」ではありえなくなります。腐ったキリスト教信仰は結局のところ神様にもこの世にも役に立たないものに成り果ててしまうのです。
この箇所は「狭い戸口」に対してさらにもうひとつの「制限」を設けています(13章24節)。狭い戸口から中に入れるのは、イエス様に真剣に従う意思のある者だけであるということです。この戸口は、享楽的で安逸な生活にではなく、心から全力でイエス様に従う生きかたへと信仰者を導きます。そしてこの生きかたをする人々の中からは、キリスト教信仰のゆえに死ぬことになる殉教者たちも出てきます(14章27節)。