新約聖書
インターネットで新約聖書を読む (口語訳)
書物ごとに新約聖書の解説
- マタイによる福音書
- マルコによる福音書
- ルカによる福音書
- ヨハネによる福音書
- 使徒言行録
- ローマの信徒への手紙
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- フィレモンへの手紙
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- ヤコブの手紙
- ペテロの第一の手紙
- ペテロの第二の手紙
- ヨハネの第一の手紙
- ヨハネの第二の手紙
- ヨハネの第三の手紙
- ユダの手紙
- ヨハネの黙示録
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新約聖書はどのようにして生まれたのでしょうか?
フィンランド語原版執筆者: エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)
新約聖書はキリスト信仰者にとって世界で一番大切な書物です。より正確に言えば、この書物は一冊の本ではなく、多くの人の筆を通して書き留められた一群の文書を指しています。この内容豊かな諸書は私たち読者にイエス様とその使徒たちとの活動や教えについて語っています。
イエス様の反対者たちや著名な異邦人(非ユダヤ人)歴史家たちがイエス様と初期のキリスト教会について書き残したものを読むのも、興味深いものです。残念ながらこうした資料は少ししか残存してはいませんが、それでも、イエス様に関わるこの世での大きな出来事の歴史的信憑性については、専門家でも疑えないほど十分な歴史的証言があります。
新約聖書は私たちに、イエス様を救い主として知るようになるために必要十分な資料を提供してくれます。
新約聖書を手にする人は誰でも、そこに様々な文書が含まれていることに気づきます。まず4つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)があり、使徒言行録と多数の手紙がそれに続き、ヨハネの黙示録で閉じられます。どのようにしてこれらの文書は書き留められたのでしょうか。どのようにして「新約聖書」と呼ばれる本は今のような一冊の形にまとめられたのでしょうか。
福音書
イエス様御自身は一冊の著作も残されませんでしたが、それでも、数え切れないほどの本の主題になりました。そのなかでも重要なのは福音書です。しかし、福音書はイエス様の伝記ではありません。たとえばイエス様がどのような青年時代を過ごされたか、私たちはぜひとも知りたいところですが、幾つかの子どもの頃の出来事を除けば、福音書はそれについて何も教えてはくれません。
福音書にはわかりやすい目的があります。それをヨハネは次のように表現しています。
「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
(ヨハネによる福音書20章30〜31節、口語訳)
新約聖書に含まれる4つの福音書が語っているのは、イエス様の活動と教えのほんの一部分についてだけです。本来ならひとつの週末の出来事を描くためにも、福音書にある記述よりも詳しい説明が必要なところでしょう。ヨハネはこのことを踏まえて、次の言葉で福音書を締めくくります。
「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」
(ヨハネによる福音書21章25節、口語訳)
新約聖書学によれば、福音書の成立過程には次のような段階があったと推定されます。
1)イエス様のこの地上での活動
約3年間イエス様は人々に福音を宣べ伝えました。御許に集まってきた千人を超える聴衆の心に、イエス様は深い印象を与えました。イエス様が地上で活動なさっていた当時のパレスティナは、イエス様についての話題でもちきりでした。すでに述べたように、当時イエス様の教えに直に触れた人々には、今の私たちが新約聖書で読むことができるよりもはるかに多くのお話を耳にする機会がありました。このことは、イエス様の弟子たち、なかでも12使徒の構成するグループにあてはまります。
2)口頭で伝えられた伝承
イエス様が死んで三日目に死人のうちより復活なさった後にも、人々はイエス様について語るのをやめませんでした。エルサレムにできた初期のキリスト教会にいた使徒たちは実際に起きた出来事についてよく知っていました。彼らが口頭で伝え広めた福音がキリスト教会を生み出したのです。彼らの福音の中心的な主題は、イエス様の誕生と死と復活でした。
3)書き留められた伝承
イエス様御自身が話されているのを聴いた人々は時代が下るとともに減っていきました。それで、イエス様の話された内容を書き留めて保存する必要が出てきました。イエス様の語録を集めた文書が福音書成立以前に存在し、後に福音書に収録されていった、と推定されています。しかし、それら語録集がいったいどのようなものであったかは、知られていません。幾つも存在していたと思われる数々の語録集のなかでも学問的に重要なのは、福音書記者マタイとルカが利用した痕跡があるとされる「Q資料」と呼ばれるものです。
4)福音書の成立
福音書記者たちはイエス様について書く際に様々な資料をたくさん利用することができました。最古の福音書の記者であるマルコは口伝をたくさん集めました。それらのうちの多くはおそらく使徒ペテロに関係があるものだと推定されています。というのは、マルコによる福音書の記している出来事の多くはペテロの目撃証言に基づいて語られているように見えるからです。また、マタイとルカはマルコによる福音書をすでに知っていたと思われ、それをそれぞれ独自の資料に基づいて補完したとされています。一番新しい福音書の記者ヨハネは、おそらくマルコ、マタイ、ルカによる福音書を知った上で、独自の視点から福音書を書き留めています。このように4つの福音書は、ナザレ人と呼ばれたイエス様の人生と教えとの豊かで多様な相貌を表現し、イエス様が私たちの罪の罰を代わりに引き受け十字架で死なれた出来事の深い意味を描き出しています。
新約聖書の4つの福音書は70〜90年頃(マルコ、マタイ、ルカ)、また100年頃(ヨハネ)に書かれたと推定されています。これはイエス様の死と復活からおよそ40〜60(あるいは70)年後にあたります。ここで質問です。 「40年前の出来事について語ることができる人をあなたは見つけることができますか?」私たちの実生活では、たとえ70年の時間的隔たりがあった場合であっても、当時生きていた人々の記憶に基づく内容が信憑性を失うことはありません。イエス様の死と復活の後に間もなく書かれた福音書はイエス様をめぐる証言者の記憶がまだ非常に生々しい時代にまとめられたものなので、書かれた内容は信頼できるものだと言えます。
新約聖書に含まれていない他の「福音書」の一群も現存しています。これらいわゆる「外典福音書」は正統的なキリスト教会の外部で生まれたものです。それらは新約聖書の4つの正典福音書よりも明らかに後代の作品であり、キリスト教信仰にとっては何の価値もありません。研究者にとってもその資料的価値は非常に不確かです。ですから、外典福音書が新約聖書に取り入れなかったのは当然です。外典福音書のなかでもとくに有名なのはトマスによる福音書で、日本訳も出版されています。
5)使徒言行録
ルカは福音書の続編として使徒言行録を書きました。この記録文書は福音がローマまで伝えられた時点まで描いており、新約聖書のなかでも独特な作品です。それに対応するかのように、聖書の他にも様々な使徒にまつわる聖人物語が大量に書き残されています。たとえば、ペテロ言行録やパウロ言行録などです。これらは新約聖書よりも明らかに後代の作品であり、しばしば空想的なエピソードを含んでいます。「新約聖書外典」にも日本語訳があります。
6)手紙
量的に見ても新約聖書の多くの部分を占めるのは一群の手紙です。なかでも一番重要なのはパウロの手紙です。その核心にあるメッセージは、罪の赦しです。これは、キリストの死と復活を通して神様がユダヤ人にも他のすべての国民にもお与えになった賜物です。パウロの手紙に加えて、新約聖書には他の使徒たちの手紙(ヤコブ、ヨハネ、ユダ、ペテロ)やヘブライの信徒への手紙(書き手不明)が含まれています。これらの手紙は書かれるべくして書かれたものです。手紙の執筆目的は、当時広がりを見せていた異端を反駁することや、まだ誕生間もない諸教会を正しいキリスト教の信仰生活に教え導くことでした。今もなおこれらの手紙はキリスト信仰者にとって規範的なものであり、イエス様の使徒的な教えを保存したものです。手紙を書いたのが本当に手紙に書き手として記されている人物であるかどうかを詮索する研究者もいます。しかしこれは瑣末な問題です。神様がこれらの手紙を新約聖書の一部として認めてくださったのは決して偶然ではなく、内容的に深い理由があってのことだからです。
7)ヨハネの黙示録
聖書の最後に位置するヨハネの黙示録は新約聖書でも異彩を放つ存在です。その内容はヨハネが見た預言的な幻に基づいています。ヨハネに示された幻によって、神様は迫害下にあるキリスト教会を慰めようとなさっています。この素晴らしい書は、そこに現れる形象(イメージ)と象徴(シンボル)に注目することでその意味が解けてきます。旧約聖書と新約聖書の知識をもたずにこの書を正しく理解するのは不可能です。そういうこともあり、実際には恵みと慰めの書であるこの書物が、人々の恐怖心をむやみに煽るまちがったやりかたで使用されることも今までしばしばありました。
新約聖書はどのようにまとめられたのでしょうか?
初期のキリスト教会では実に豊富に神学的な書籍が生み出されていきました。そうした書籍群は2、3世紀にも継続的に執筆されていきました。著者である神学者の代表的な例として、ローマの教会長クレメンス、アンティオケイアの教会長イグナティオス、殉教者ユスティノスなどがいます。新約聖書には彼らの書物も先ほど述べた外典福音書、外典使徒言行録も入っていません。前者の著作群のなかにはキリスト教会の使徒的な教えとして受け入れられた部分もあります。
現在、とりわけイスラム教徒の間では、「キリスト教会は300年代になってから好き勝手に書物を選別して新約聖書を編纂した。こうしてイエスについて元々あった伝承を歪曲した」、といった主張が大げさに喧伝される場合があります。またキリスト教会の関係者のなかにさえ、聖書以外の規範を強調する人々がいます。歴史的にはキリスト教会の公会議が聖書の正典を決定したわけですが、その背景には、その時代まで長きにわたって礼拝で朗読されていた一連の書物を聖書に取り入れた、という事実があります。パウロの手紙をまとめた書簡集はすでに100年以前に存在していました。4つの福音書は100年代にその地位を不動のものとしました。また新約聖書の他の書物に関しても、それと同じ頃に各地のキリスト諸教会で継続的に使用されるようになりました。200年代、さらには300年代にも、聖なる書物を編纂することをめぐって盛んに議論がなされました。そこでは、ある特定の書物(とりわけヘブライの信徒への手紙とヨハネによる黙示録)を聖書の正典として認めるべきかかどうか、という議題が話し合われました。キリスト教会の公会議(393年にヒッポで開かれた西方教会の公会議と、360年頃にラオディケイアで開かれた東方教会の公会議)は、それまですでに200年間も伝統的に礼拝で読まれてきた聖なる書物の数々を正式に聖書としてまとめ、当時の異端との明確な境界線を引いただけだとも言えます。神様の御霊である聖霊様の指導により、キリスト教会は最初期から守ってきた使徒的な伝統に則って、新約聖書にどの書物を正典として取り入れるべきか、決定したことを、私たちは信じます。
聖書に取り入れられなかった多くの書物もまた、一読の価値があります。ここでは、とりわけ使徒教父文書を推薦しておきましょう。この文書は新約聖書よりも少しだけ後になって書かれたものです。とはいえ、これさえも私たちにとっては聖書と同等のものではありません。
写本
残念ながら、たとえばマタイによる福音書の原本などは現在残存していません。使用可能なのは、原本のコピーやそのコピーだけです。新約聖書の写本をめぐる問題は現代の学問的な見地からみるとまったく不思議ではありません。古い書物のテキスト一般に言えることですが、今保存されているのはすべてコピーです。そして、新約聖書ほど大量の写本が残されている書物は他には類を見ません。様々な写本を比較検討することで、たとえばマタイが当時どのようなことを書いていたか、十分信頼できる結果を得ることができます。不明な点はごく稀であり、しかもキリスト教信仰の根幹に関わるものではありません。様々な写本に基づいて慎重に復元された原語(ギリシア語)版の新約聖書は、使徒の伝えた福音を原型のまま忠実に含んでいると言えます。
翻訳
新約聖書は元々古代ギリシア語で書かれました。ですから、牧師や神学者には聖書を原語で読む能力が職業上要求されます。1500年代の宗教改革が後の時代に与えた重要な影響の一つとして、誰もが聖書を自分の母国語で読めるようにしていく、という改革の基本方針があります。聖書(あるいはその一部)は、今まで数え切れないほど多くの言語に翻訳されてきました。言葉というものは時代とともに次第に変化していくものです。ですから、同じ言語にも数十年の間隔で新しい翻訳が必要とされます。世界には多様な翻訳が出回っており、翻訳に際して逐語訳を重視するものもあれば文章としての滑らかさに重点を置いたものもあります。ここでの聖書訳は口語訳によっています。
私たちの手元にあるものは?
新約聖書は人間によって書き留められた文書の集合体です。イエス様の話された言葉を書き留めた者、それを他の人々に語った者、それを文書として記録した者がいましたし、文書と口伝に基づいて福音書を書いた者もいました。そして、この過程を学問的に研究することもできます。上述したように、福音書の記録内容の信憑性は学問的に見ても疑う理由がありません。しかし、これですべて終わりではありません。新約聖書はたんに人間たちが記した文集ではないからです。
新約聖書はもちろん聖書全体もまた神様から私たち人間へ啓示されたものである、と私たちは信じています。私たちが聖書を読むとき、神様は私たちに語りかけます。そして、人間を通して伝達させた御言葉がすべて真実であることを、神様は保証してくださいます。聖書のこの側面については、聖書学的に研究することは不可能です。
聖書を他のすべての宗教的な書物から区別するものはいったい何でしょうか。キリスト教信仰によれば、神様の御言葉の働きかけによって人は聖書を神様の御言葉であると信じるようになります。人間によるどのような働きかけによっても、こうはなりません。テサロニケでパウロがキリストについて福音を宣べ伝えたとき、大部分の人はそれを無視しました。しかし次の聖書の箇所のように、なかには立ち止まって福音に聴き入り、使徒たちのメッセージを通して全能の神様が自分たちを招いている、とわかった人々もいました。
「これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。」
(テサロニケの信徒への第一の手紙2章13節、口語訳)
聖書を繙く人たちは今でも、イエス様を捕らえるために派遣された者たちが目的を果たせなかった理由を述べる、次の聖書の箇所と同様の経験をすることになるでしょう。
「さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。」
(ヨハネによる福音書7章45〜46節、口語訳)
死者の中から復活なさった主は今も活きていて、私たちに働きかけておられます。たとえ天地が消滅しようとも、主の御言葉は決して消え去ることがありません。