ルカによる福音書24章
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復活の主に従って 「ルカによる福音書」24章
イエス様の復活に関する最古の記述は「コリントの信徒への第一の手紙」15章3〜5節です。それに加えて、福音書記者が四人揃ってイエス様が復活された朝の出来事について語っています(「マタイによる福音書」28章1〜10節、「マルコによる福音書」16章1〜8節、「ルカによる福音書」24章1〜12節、「ヨハネによる福音書」20章1〜10節)。
三日目の朝に 24章1〜12節
安息日の後の最初の日(24章1節「週の初めの日」)は私たちの日曜日に相当します。安息日は「私たちの土曜日の夜」の午後六時頃に終わりました。女たちは(安息日が終った)その日の夕方にはイエス様の遺体に塗るための香油を買いに行っていました(「マルコによる福音書」16章1節)。しかし彼女たちは翌朝、日が昇るまではイエス様の墓に行きませんでした(「マルコによる福音書」16章2節)。
イエス様の墓の入り口を塞いでいた石は脇に転がされて退けられ、墓の中は空っぽになっていました(24章2〜3節)。そのとき二人の御使が現れて、イエス様が死からよみがえったことを彼女たちに告げたのです(24章4〜6節)。ギリシア語原文では文字通り「イエス様はよみがえらされた」(受動態)と書かれています。すなわち、イエス様の復活は神様による御業だったのです。聖書では神様による御業が受動態を用いて表現されることがしばしばあります(「ローマの信徒への手紙」4章24〜25節および8章11節および10章9節、「ペテロの第一の手紙」1章21節)。
空っぽの墓はイエス様の復活の最初の証拠でした。それに対して、「実はイエスは復活しなかった」という主張を「理性的な方法」によって説明しようとする試みが以下のようにいくつかなされてきました。
1)「女性たちは間違った墓に行った」という説明
(反論)この説明は、イエス様の遺体がどの墓に納められたかをすでに女性たちが見ていたという事実によって反証されます(23章55節)。また、ペテロとヨハネ(「ヨハネによる福音書」20章3〜10節)が、女性たちが行ったのとまったく同じ間違った墓に行ったというのも考えにくいです。少なくともアリマタヤのヨセフはイエス様の葬られた正しい墓を見つけたことでしょう(23章50〜53節)。
2)「弟子たちまたは他の誰かがイエスの遺体を盗み出した」という説明(「マタイによる福音書」28章13節と比較してください)。
(反論)「イエス様の葬られた墓が兵士たちによって警護されていた」という事実が反証となっています(「マタイによる福音書」27章62〜66節)。また、「イエス様が復活なさった」という「虚言」のために弟子たちに死ぬ覚悟ができていたとはとても考えられません。
3)「イエスの遺体はすでに別の墓に移されていた」という説明
(反論)もしもイエス様の遺体がどこかにあったとしたら、ファリサイ派やユダヤ人の他の宗教的指導者たちは間違いなくそれを持ち出して、イエス様の復活の話が嘘であったと喧伝したことでしょう。
4)「死んだふりをしていたイエスは墓の冷たさの中で目覚めた」という説明
(反論)その場合、イエス様は重い石で塞がれた出口をどうやって開けて外に出ることができたのでしょうか。また、その後でイエス様はどこへ行ったのでしょうか。
女性たちが正しい墓に行ったことを示す決定的な証拠は、墓に残されていた聖骸布です(24章12節)。ヨハネは、イエス様の墓に行った後、ペテロを追って墓の中に入り、「覆いを見て信じた」(「ヨハネによる福音書」20章7〜8節)と述べています。ヨハネは何を見たのでしょうか。軟膏を塗っておいたおかげで聖骸布はいわばイエス様を収める箱のような役割を果たしました。しかしその中にあるはずのイエス様の遺体は消えていたのです。もしも遺体が盗まれたのだとしたら、聖骸布は遺体と一緒に運び去られるか、あるいは引き裂かれていなければならなかったはずです。
「ところが、使徒たちには、それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった。」
(「ルカによる福音書」24章11節、口語訳)
復活したイエス様の弟子たちへの顕現も、四福音書すべてに書かれている過越の祭の朝の出来事が真実であったことを証明しています。当時、女性は証人として不適格であるとみなされていました(24章11、22〜24節を参照してください)。もしも「イエス様が復活した」という話が捏造されたものであったとするならば、女性たちよりも信頼できる証人たちがイエス様の復活の証人として引っ張り出されてきたにちがいありません。上節の「愚かな話」(ギリシア語で「レーロス」)という表現にも注目してください。これは直訳すると「冗談」、「くだらないほら話」、「無駄話」という意味であり、女性の証言を不当に否定する言葉になっています。
「ヨハンナ」(24章10節)はおそらくマルコが言及したサロメのことだと思われます(「マルコによる福音書」16章1節、「ルカによる福音書」8章2〜3節および23章55節も参照してください)。 「ヤコブの母マリア」はイエス様の母親を指しているとも考えられます。イエス様にはヤコブという名の弟がいたからです(「マルコによる福音書」6章3節)。ただし、彼女は「ほかのマリア」(「マタイによる福音書」28章1節)である可能性もあります。もしもこの二人のマリアがイエス様の母マリア以外の人物であるとするならば、イエス様の母親は過越の祭の朝に空っぽの墓を訪れなかったということになるでしょう。
「三日目」(24章7節)は「ホセア書」6章2節で預言されていることです。当時の暦では私たちが現在使用している暦とは異なり、一日に満たない日でも「丸一日」として計算されました。イエス様は金曜日の「第九時」(午後三時頃)、すなわち安息日が始まる少し前に息を引き取られました(23章44〜46節)。それが「一日目」でした。金曜日の夜から始まり土曜日の夜に終わる「安息日」が「二日目」であり、安息日が終わるとともに「三日目」が始まりました。
教会の最初の頃からキリスト信仰者たちは「復活の日」すなわち日曜日を聖日として祝ってきました(「使徒言行録」20章7節(「週の初めの日」)、「コリントの信徒への第一の手紙」16章2節(「一週の初めの日ごとに」)、「ヨハネの黙示録」1章10節(「主の日」))。それに対してセブンスデー・アドベンチスト教会はキリスト教の暦ではなく旧約聖書の暦に従っています。
一部の聖書学者たちは、ルカが二人の御使について述べているのに対して(24章4節(「輝いた衣を着たふたりの者」))、マタイとマルコは一人の御使についてしか述べていない(「マタイによる福音書」28章2〜5節(「主の使」)、「マルコによる福音書」16章5節(「真白な長い衣を着た若者」))という「矛盾」らしき点に頭を悩ませてきました。しかし、この食い違いはおそらくマタイとマルコが弟子たちに語りかけた御使のほうについてのみ言及しているために生じたものでしょう。ルカにもこれと似たような問題が他のケースでもあったことに注目してください。24章12節では墓に行ったのがペテロ一人だけであったかのように書かれているのに対して、24章24節ではそれが「数人」であったと書かれています(「ヨハネによる福音書」20章3〜10節も参照してください)。四つの福音書は細かい正確性にこだわる現代的な歴史書ではなく、イエス様の生涯の意味について証言する書物です(「ヨハネによる福音書」20章30〜31節も参照してください)。福音書記者たちはイエス様の身の上に起きた出来事の意味について書き記したいと考えたのです。
残された弟子たちはたった11人でした(24章9節)。ルカは福音書でではなく「使徒言行録」の冒頭でようやくイスカリオテのユダの死に言及しています(「使徒言行録」1章16〜19節)。
キリスト教信仰は人類の救いの歴史の出来事とイエス様の教えに基づいています(24章6〜8節)。そしてイエス様は御自分の受ける苦しみ、死、復活について生前から予告しておられました(9章22節、18章31〜33節)。
ペテロは「死んだイエス様は説教するために地獄に赴かれた」と手紙で述べています(「ペテロの第一の手紙」3章19〜20節)。しかし私たちは「死んだ後でも悔い改めることはできる」と期待するべきではなく、この世で生きている間に福音を信じなければなりません。死んでからでは「不信仰者から信仰者へ」という立場の変更を行うことはできなくなるからです(16章26節)。
エマオへの道で 24章13〜35節
この箇所の出来事は過越祭の日曜日の午後に起きました(24章13、29節)。「エマオ」にはいくつかの候補地がありますが、エルサレムから西に60スタディオン、すなわち約11キロメートル離れた「クベレ」と呼ばれた村であったと思われます。エマオへ向かう二人の弟子たちのところにイエス様が来られたのは、エルサレムに近い場所でした(24章18節)。このことから、イエス様と弟子たちとの会話が数時間ほど続いたことがわかります。
「イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。」
(「ルカによる福音書」24章17節、口語訳)
上節からは、十字架刑によるイエス様の死が弟子たちに深い失望をもたらしたことがはっきり伝わってきます(24章21、25節も参照してください)。「弟子たちは復活したイエスを目撃することを期待していた。だからイエスの復活をめぐる物語は彼らの願望の反映にすぎない」と多くのリベラルな聖書学者たちは主張しています。しかしこれが真実であったとは到底考えられません。
「そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。」
(「ルカによる福音書」24章18節、口語訳)
「クレオパ」(ギリシア語で「クレオパース」)は「クレオパトロス」という名前の短縮形であり、「ヨハネによる福音書」19章25節に出てくる「クロパス」と同一人物である可能性があります。彼の妻マリアはイエス様の十字架の下に立っていました。教父エウセビオスは著書「教会史」の中で、クレオパがヨセフ(イエス様の義理の父親)の兄弟であり、その息子シモン(イエス様の従兄弟)もエマオへ向かっていた二人の弟子のうちの一人であったと述べています。西暦60年代初頭にユダヤ人たちによって主イエス様の弟ヤコブが殺害された後で、ヤコブに代わってシモンがエルサレム教会の司教になりました。
「コリントの信徒への第一の手紙」15章7節はイエス様がヤコブにも現れたと記しているので、エマオへ向かっていた二人の弟子たちのうちの一人はヤコブであったと考える人々もいます。しかし「復活したイエス様がどこでシモン・ペテロとヤコブに最初に現れたのか(24章34節)わからないかぎり満足できない」と考える人がいるのはどうしてなのでしょうか。
この箇所は二人の弟子についてのみ言及しており、「二人は男性の弟子であった」とは明言していないため、エマオへ向かっていた二人の弟子のうちの一人はクレオパの妻(彼女は前述の通りマリアだった可能性があります)だったのではないかという説も提示されています。これに対しては「興味深い推測ではあるものの、初期のキリスト教の伝承からはこの説の正しさを支持するものは見つからない」と答えることができます。
最初、クレオパは彼らの旅に加わったイエス様のことを「過越祭の時に訪れたエルサレムからの帰途、今晩の宿屋へと旅している巡礼者」とみなしました(24章18節)。このことからは、イエス様の外見が復活後にすっかり変わっていたことがわかります(「コリントの信徒への第一の手紙」15章40〜44節を参照してください)。
「「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。あのかたは、神とすべての民衆との前で、わざにも言葉にも力ある預言者でしたが、祭司長たちや役人たちが、死刑に処するために引き渡し、十字架につけたのです。わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。しかもその上に、この事が起ってから、きょうが三日目なのです」。」
(「ルカによる福音書」24章19〜21節、口語訳)
上掲の箇所には「クレオパによる福音」すなわち普通の人間のイエス様への「信仰告白」が語られています。 これは「イエスは神の偉人ではあったが、それ以上の存在ではなかった」という種類の信仰告白です。イスラム教のイエス様に対する理解もこれと同じ類のものです。すなわち「イエスは神の預言者ではあるものの、神自身ではない」という考えかたです。
また「わたしたちは、イスラエルを救うのはこの人であろうと、望みをかけていました。」とあります。この望みを失った二人の弟子がエマオへの道を歩いていたことになります。もしもイエス様が死者の中から復活されなかったら、イエス様の御業はただの歴史上の過去の出来事に過ぎないものになったことでしょう。しかし、死からよみがえられたイエス様は今日でも御業を行い続けておられるのです。
「ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。それで、わたしたちの仲間が数人、墓に行って見ますと、果して女たちが言ったとおりで、イエスは見当りませんでした。」
(「ルカによる福音書」24章22〜24節、口語訳)
空っぽの墓という証拠さえ、この二人の弟子たちに信仰を与えることができませんでした。信仰とは、復活されたイエス様に出会うことによってのみ生まれるものなのです。
イエス様はこの二人の旅人に旧約聖書を説き明かされました。イエス様の説明が旧約聖書全体を取り扱うものであったことは、ユダヤ教によって分類された旧約聖書の三つの部分すべて(律法、預言者、諸書)に言及されていることからわかります(24章27、44節)。
イエス様の説明は聖書の特定の箇所(例えば「イザヤ書」53章など)には触れていません。ここでは「イエス様は旧約聖書全体の成就であるかどうか」という一点のみが問題になっているからです。
「それから、彼らは行こうとしていた村に近づいたが、イエスがなお先へ進み行かれる様子であった。そこで、しいて引き止めて言った、「わたしたちと一緒にお泊まり下さい。もう夕暮になっており、日もはや傾いています」。イエスは、彼らと共に泊まるために、家にはいられた。」
(「ルカによる福音書」24章28〜29節、口語訳)
イエス様は二人の旅人を置き去りに通り過ぎようとはなさらずに、旅人たちの泊まる宿屋に来られました。それと同じように、イエス様は私たちの前も通り過ぎようとはなさいません。
ギリシア語原文でみると「ルカによる福音書」24章29節(「しいて引き止めて」(ギリシア語で「パラピアッゾマイ」という動詞))と「マタイによる福音書」11章12節(「激しく襲われている」(ギリシア語で「ピアッゾマイ」という動詞))には語根を同じくする類語が用いられており、それらは「熱烈に追求される」という基本的な意味を持っています。自分の人生にイエス様が救い主として来てくださるように「求める」ならば、あなたは神様の御国に入ることができるのです。
今まで一緒に歩んできた旅人が実はイエス様であることに、二人の弟子はどうして気づいたのでしょうか。これには次の三つの説明が提案されています。
1)神様からの働きかけがあったから
最初、イエス様は彼らの目からは隠されていましたが(24章16節にある「彼らの目がさえぎられて」は聖書の中では神様の働きを表す受動態を表しています)、それから、御自分が誰であるか彼らに示されたのです(24章31節「彼らの目が開けて」もギリシア語では受動態になっています)。
2)イエス様が食事の席に着かれた時に「客」と「主人」の立場が入れ変わったことから
弟子たちはイエス様の食事でのこのような振る舞いかたを知っていました。この説明の支持者の中には「この記述には主の聖餐への言及が含まれている」と考える人が多くいます。しかし、イエス様が主の聖餐を制定した際にこの二人の弟子がその場にいたとは考えにくいです(22章14〜23節、9章16節も参照してください)。
3)イエス様が二人の弟子と一緒に歩いていたときには長袖で覆われていた首の十字架の釘の傷跡が、パンを裂く(=引き裂く)際に袖が下がって見えるようになったから
十字架につけられた受刑者は(キリスト教美術でよく見られるような)手のひらにではなく手首のところで釘付けにされました。手のひらでは人間の体重を支えることができませんが、手首の骨の間に打ち込まれた釘ならそれができたからです。これは十字架につけられた男性の遺骸が発見されたときに確認されています。その遺骸には手首の骨のところに釘の跡があったのです。
十字架につけられてできた傷跡は聖書のイエス様の特徴です(24章40節、「ヨハネによる福音書」20章27節)。
「彼らは互に言った、「道々お話しになったとき、また聖書を説き明してくださったとき、お互の心が内に燃えたではないか」。」
(「ルカによる福音書」24章32節、口語訳)
以前、この二人の弟子たちは自分の先入観に基づいて旧約聖書を読んでいたため、イエス様からお叱りを受けています(24章25節)。実にイエス様はユダヤ人たちがその到来が期待していた「栄光のメシア」などではなく「神様の苦難の僕」だったのです。イエス様を苦難の僕たるメシアとしてようやく認知することができた二人の弟子たちに旧約聖書の正しい意味が啓示されました。
イエス様との出会いは彼らに「イエス様について証せずにはいられない」という強い使命感を与えました。「他の人々もイエス様についての証に耳を傾けなければならない」と彼らは考えたのです(24章33節)。今日のキリスト信仰者もそうあるべきだと思います。
シモン・ペテロにイエス様が顕現された出来事(24章34節)は他のどの福音書にも記されてはいませんが、パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」15章5節でそのことに言及しています。
夕べに上の部屋で 24章36〜43節
イエス様が弟子たちに顕現なさった「上の部屋」が、生前のイエス様に従っていた人々が聖霊降臨(ペンテコステ)の直前に集まった「上の部屋」と同じである可能性は非常に高いと思われます(「使徒言行録」1章13節)。その場所はヨハネ・マルコの家であったと考えられます(「使徒言行録」12章12節)。最初の主の聖餐も同じ場所で施行されたと推測されています(22章12節)。
なお、今のエルサレムの観光名所となっている「アッパールーム(上の部屋)」はそれと同じ部屋ではありえません。ユダヤ人の反乱の際にローマ軍が西暦66〜72年および132〜135年にエルサレム全域を破壊し尽くしたからです。
福音書記者ヨハネはその同じ夜の出来事について「ヨハネによる福音書」20章19〜23節に記しています。イスカリオテのユダはすでにおらず、またトマスは不在だったため、その場にいたのは(後に使徒となる)十人の弟子たちだけでした。
24章37節にはギリシア語には「幽霊」ではなく「霊」(ギリシア語で「プネウマ」)と書かれています。「霊たちはそもそも食事を取らない」という誤解を解くために、イエス様は反論の余地が出ないような行動をなさいました(24章43節)。キリスト信仰者は「死後の世界」が存在することだけではなく「身体の復活」が本当に起こることを信仰告白します。使徒パウロは「復活の身体はこの世での身体とは異なっているが、両者は一粒の穀物とそれから成長した植物の間にあるのと同じような関係にある」と教えました(「コリントの信徒への第一の手紙」15章35〜58節。また「マタイによる福音書」22章29〜30節も参照してください)。弟子たちの前に顕現したイエス様の外見はすっかり変わっていたようです。弟子たちはすぐにはそれがイエス様であると分からなかったからです(24章16、37〜38節、「マルコによる福音書」16章12節、「ヨハネによる福音書」20章13〜16節および21章4〜8節)。
「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はないが、あなたがたが見るとおり、わたしにはあるのだ。」
(「ルカによる福音書」24章39節、口語訳)
上節と「コリントの信徒への第一の手紙」15章50節の間には矛盾があると考える人たちもいます。後者の箇所でパウロは「兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。」と書いているからです。しかしパウロがその数節後に次のように書いていることもここで思い起こすべきでしょう。「というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。」(「コリントの信徒への第一の手紙」15章52節)。パウロも「肉体のない」復活について教えていません。来たるべき世はこの世からなだらかに連続していくものではなく、両者の間で本質的な変化が起きることを彼は強調しています。この世の世界から永遠の世界にそのまま移行するものは信仰(信じている状態)と不信仰(信じていない状態)の二つだけであり、他のすべては変化するのです。
上節は「聖書のキリストであることの目印」とも呼ばれています。「目印」はキリストの手足にある十字架につけられた傷跡です(「ヨハネの黙示録」5章6節も参照してください)。逆に言うと、これらの目印のない「キリストたち」は偽物なのです。
古い翻訳の中には24章42節に「蜂蜜」と書かれているものもあります。聖書のこの箇所のギリシア語写本の一部には「魚と蜂蜜」と書かれています。しかし一般的に現行の聖書の底本となっているギリシア語写本には「魚」とだけ記されています。「ヨハネによる福音書」ではイエス様が復活された後に炭火で魚を焼かれたと記しています(「ヨハネによる福音書」21章9〜14節)。
エマオへの道すがらイエス様と出会った二人の弟子たちの場合と同様に(24章30〜31節)、復活されたイエス様がふたたび顕現された今回の出来事でも、イエス様が弟子たちと一緒に食事をするシーンで描写が閉じられています。
「やすかれ」(24章36節)はユダヤ人たちの交わす一般的な挨拶(ヘブライ語で「シャローム」)でした。イエス様の死と復活は、イエス様が死にさえ勝利する永遠の平和を私たちに賜ることを明示しています(「エフェソの信徒への手紙」2章17〜22節)。
福音の目的 24章44〜49節
この箇所は「ルカによる福音書」全体の要約となっています。イエス様に起こったすべてのことはすでに旧約聖書で「このように書かれている」と預言されており、神様の御意思によって起きたのです。
「それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。」
(「ルカによる福音書」24章44節、口語訳)
旧約聖書全体がメシアについて証していることがここでも強調されています。「詩篇」は旧約聖書の「諸書」の中で最も重要な書物です(24章27節と比較してください)。「詩篇」にはメシアについての多くの重要な預言が含まれています。
「そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。」
(「ルカによる福音書」24章47節、口語訳)
上節には「ルカによる福音書」版の宣教命令が記されています(「マタイによる福音書」28章18〜20節と「マルコによる福音書」16章15節も参照してください)。マタイ版の「洗礼を授け、宣教活動を行え」というイエス様の御命令とは異なり、ここでは洗礼(バプテスマ)に直接言及してはいませんが、「その名によって罪のゆるしを得させる悔改め」という言い回しには「イエス様の御名によって洗礼を授けるように」というバプテスマへの言及が含まれています。
上節で、イエス様の御業はユダヤ人だけではなくすべての国民のためであることをイエス様は弟子たちに告げられました。「使徒言行録」によれば、異邦人たち(すなわち非ユダヤ人たち)のところへ伝道に出かけて行くことは円滑に実行されたわけではありません。この異邦人伝道は、エルサレムで起きたキリスト信仰者たちへの迫害によって使徒たちが非ユダヤ人の居住地域へ逃れ出て行くのを余儀なくされた時にようやく実現したのです。この伝道によって最初にサマリア人たち(「使徒言行録」8章5〜25節)、次にユダヤ教に改宗した異邦人たち(「使徒言行録」8章26〜40節)、最後に「異邦人たち」(「使徒言行録」10章)がそれぞれ福音を聴く機会を得ました。
「すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。」」
(「使徒言行録」2章38節、口語訳)
上節のように、使徒たちの説教には「自分の罪を悔い改めてイエス様を救い主として信じなさい!」という人生の方向転換への呼びかけが含まれていました(24章47節、「使徒言行録」5章31節、「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章9〜10節)。私たちが生きている現代では、福音を聴く人々に悔い改めを要求するやりかたは人気がありません。それでも私たちは人々が聴きたがっていることではなく、神様の御意思について語っていくべきなのです。
「見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい。」
(「ルカによる福音書」24章49節、口語訳)
上節にある「聖霊様が注がれる」という約束の実現については「使徒言行録」の冒頭で述べられています(「使徒言行録」1章8節。「ヨハネによる福音書」16章7節も参考になります)。これは旧約聖書の「ヨエル書」3章1〜2節ですでに予告されていたことでした(「使徒言行録」2章16節も参照してください)。
ルカは復活されたイエス様のエルサレムでの活動に焦点を当てて記述しています。それに対して、マタイは復活されたイエス様のガリラヤでの活動についても語っています(「マタイによる福音書」28章16〜20節)。そしてヨハネはその両方について述べています(「ヨハネによる福音書」20章19節〜21章19節)。
「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」
(「ヨハネによる福音書」20章30〜31節、口語訳)
上掲の「ヨハネによる福音書」の末尾でヨハネは福音書を書いた目的を明かしています。それは信仰を生み出すことです。ルカは「ルカによる福音書」の末尾に教会が教会であり続けるために大切となる四つの点を次のように挙げています。
1)聖書に基づく神学こそが重要であること(24章46節)
神様はまさしく聖書を通して御自身を人類に啓示なさったからです。
2)福音はすべての人々のためのものであること(24章47節)
世界宣教は教会の活動で重要な部分を占めています。
3)教会は使徒たちの証言に基づいて形成されていくこと
使徒たちはイエス様の活動の目撃者でした。使徒たちの証言は神学的教義などについてではなく歴史上の出来事である神様の御業について証しています。
4)福音伝道は聖霊様の力によってのみ実現されること
重要なのは世界における教会の活動ではなく、神様が教会を通じて教会を用いて行われる世界における神様の御業です。
イエス様の昇天 24章50〜53節
ベタニヤ(24章50節)はオリーブ山の斜面にあります(「使徒言行録」1章12節)。イエス様が昇天なさった時期について「使徒言行録」は「ルカによる福音書」よりも明確に述べています。それは過越の祭(イエス様の復活)から四十日目のことでした。この日はフィンランドでは主の昇天を記念する主日(木曜日)として聖日になっています。
「それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。」
(「ルカによる福音書」24章50〜53節、口語訳)
前回とは異なり(24章31節)、今回のイエス様は突然消えたのではありません。上掲の箇所のように、イエス様は天に昇られるときに弟子たちを祝福なさいました。このとき弟子たちにはイエス様の上げられた手の中に十字架刑の傷跡が見えたはずです。これはイエス様の愛の深さを弟子たちの心に刻み込んだことでしょう。それゆえ、弟子たちは嘆くよりもむしろ喜んだのです。今や彼らは自分たちが孤独ではなくイエス様が日々共にいてくださることを知っていたからです(「マタイによる福音書」28章20節)。イエス様は「天の御国で再会しよう!」と手を挙げてくださったのです。
「ルカによる福音書」はエルサレム神殿での感謝の捧げ物で始まり(1章5〜8節)また閉じられています。キリスト信仰者たちにとって、神殿はもはや犠牲を捧げる場所ではなく、皆が集まって福音を宣教する場所となったのです(「使徒言行録」2章46節および3章1節、5章21、42節)。
本来、神殿は神様が人間と出会われる場所のはずでした。イエス様は人々に神殿犠牲を捧げなくても神様に出会うことができる機会を提供してくださいました(「ヘブライの信徒への手紙」9章23〜28節)。「神殿の時」は終わりに近づいたのです(21章5〜6節)。新約聖書はキリスト信仰者一人一人が「神の宮」であると教えています(「コリントの信徒への第一の手紙」3章16節、「ペテロの第一の手紙」2章5節)。
復活されたイエス様に出会えたことで、それまで恐怖に震えていた弟子たちは勇敢さを授けられ(「ヨハネによる福音書」20章19節)、果敢にユダヤ人たちの只中分け入って行きました。聖霊様が注がれたこと(24章49節)により、彼らは恐れを知らない福音宣教者とされたのです(「使徒言行録」5章17〜21節)。
(終わり)