ルカによる福音書19章
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私たちの十三番目の責任、十字架に向かうダビデの子の道 「ルカによる福音書」19〜21章
ザアカイ 19章1〜10節
この箇所の出来事は棕櫚の主日の前の金曜日に起きたものと思われます。ユダヤ人は安息日に旅行しなかったからです。
エリコは経済的に豊かな町でした。そこにはナバテア王国の首都ペトラへと続く東方への通商路が通っていたのです。なおペトラ遺跡は現在でもヨルダンの観光名所になっています。
エリコからエルサレムへの道は上り坂でした。両者間の距離は27キロメートルほどしかなかったにもかかわらず、高低差は1キロメートル以上もありました。このことからは、それがかなり急な坂道であることがわかります。
ザアカイは「取税人のかしら」でした(19章2節)。このような役職の表現は珍しいものであり、具体的にどのようなものであったのかは明らかではありません。当時のローマ帝国の税関の仕組みは非常に抜け目のないものでした。税関所の賃貸権を競売で売りに出し、一番高い値を付けた者がそれを得たのです。こうすることでローマ帝国は常に利益を上げることができました。競売に勝った者は、少なくとも自分が税関所を賃貸するために支払った金額を関税の徴収によって自分の懐に回収しようとしました。しかもこの制度にはそれを統制し監視する別の機関がなかったため、税関所の賃借人である取税人はいとも容易く過剰な関税を人々に要求することができたのです。税関の賃借人(取税人)の給与と帝国に支払われるべき金額を差し引いた余剰金はすべて税関所の賃借人(取税人)の利益となりました。税関は利益の大きいビジネスであり、ザアカイは金持ちでした。
「ザアカイ」という名前からは彼がユダヤ人であることがわかります(19章9節も参照してください)。この名前にはヘブライ語で「清い」「無垢の」「義しい」といった意味があります。また、この名前は別の名前の略称であるとも考えられます。その場合には「神様が清めてくださった」という意味にもなります。しかし当時のユダヤ人たちにとって、ザアカイは全く清くも無垢でもなく、侵略者であるローマ側に寝返り、その手先となった罪人でした。
「彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。」
(「ルカによる福音書」19章3〜5節、口語訳)
群衆をかきわけてイエス様を見るために前に出ることはザアカイには不可能でした。彼は皆から軽蔑されていたので、人々が彼に道を開けてくれるとは考えられなかったからです。背が低かったザアカイがイエス様を見るためにとりうる唯一の手段はいちじく桑の木に登ることでした。彼は「自分が木の大きな葉っぱの影に隠れていてもきっと誰も気づかないだろう」と確信していたのでしょう。ところがイエス様は彼を見上げて、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」と声をかけてくださったのです(19章5節)。イエス様が弟子たちと一緒にザアカイの家に泊まったのかどうかは定かではありません。ルカの記録したイエス様の発言はザアカイの家に客として訪れることだけではなく夜に宿泊することも意味しています。なお「ヨハネによる福音書」12章1節には、イエス様が土曜日と日曜日の間の夜にベタニヤに宿泊なさったと記しています。律法によれば、安息日にエリコからエルサレムへと徒歩で旅することは距離的にみて長すぎる旅でした。
上掲のイエス様のザアカイへの呼びかけの中にはギリシア語で「デイ」という動詞が用いられています。これは神様の御意思によって定められた強制的な行為であることを示す言葉です。
「そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。」
(「ルカによる福音書」19章6〜7節、口語訳)
罪人たちに示されたイエス様の愛はまたしても周囲からの批判を浴びました。しかし、イエス様は御自分の使命が罪人たちを御許に招くことにほかならないと考えておられたのです。イエス様は失われたものを尋ね出して救うために来られたからです(19章10節)。
「ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。」
(「ルカによる福音書」19章8節、口語訳)
ザアカイはこれまで自分が行ってきた不正に対して四倍の補償額を返還するとイエス様に約束しました。当時、律法を隠れ蓑にした不正が横行していました。それは律法を歪めたり曲解したりして行われました。このような法律の濫用や悪用は現代でもよく見られるやりかたです。
モーセの律法は補償として20%の上乗せを要求しました(「レビ記」5章24節)。動物を盗んだ場合には動物を四倍か五倍にして補償しなければなりませんでした(「出エジプト記」21章37節、「サムエル記下」12章6節)。それに対して、ローマ人の法律は四倍の補償を要求しました。ローマ人の補償制度のほうがユダヤ人のそれよりも自分にとって厳しいものとなるにもかかわらず、ローマの役人だったザアカイはローマ人の補償制度に基づいて返還するやりかたを選んだのです。さらに彼は自分の財産の半分を貧民に施すことをイエス様に誓約しました。ファリサイ派の教えによれば、慈善のために寄付できる私有財産の割合は最大でも五分の一までとされていましたが、ザアカイはこのような損得勘定をするのをすっかりやめていました。心が一新された彼にとって金銭や財産は意味を失い、そのかわりに信仰とイエス様が唯一の選択肢となったのです。
「イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。」」
(「ルカによる福音書」19章9節、口語訳)
救いには昨日や明日ではなく「今日」しかありません(「コリントの信徒への第二の手紙」6章2節)。「神様には生後一日の子どもたちしかいない」と言われたりもします。またここで救いがザアカイの家族全員に訪れたことに注目しましょう。当時の「家族」には実の子どもたちだけではなく僕たちも含まれていました(「使徒言行録」16章31節も参考になります)。
ファリサイ派は取税人を「救いようのない罪人」として見下していました。取税人たちは不正を補償することができなかったため、救われることもないとされていたのです。このような考えかたには当時の政治的な背景も関係していました。取税人たちは侵略者であるローマ帝国の手先として働いていたからです。
なお、この箇所からはザアカイが今までの職業(取税人)をその後も続けていったという印象を受けます。
また、このザアカイの出来事は金持ちも救われることがありうることを示しています(18章18〜27節)。
「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。」
(「ルカによる福音書」19章10節、口語訳)
ここでふたたびイエス様は御自分について「人の子」という名称を用いておられます。この表現の元には「ダニエル書」7章13節があります。福音書でこの名称を用いているのはイエス様だけです。「使徒言行録」7章56節では最初の殉教者ステパノが、「ヨハネの黙示録」1章13節ではヨハネがこの名称でイエス様のことを指し示しています。
僕たちに委ねられたお金(ミナ) 19章11〜27節
この譬には歴史的な背景があります。ヘロデ大王は紀元前4年に死去しましたが、遺言状で自分の王国を息子のヘロデ・アルケラオに与えました。しかしこの件に関して最終的な決断を下すのは当然ながらローマ皇帝です。それゆえ、アルケラオと彼の兄弟のフィリポおよびヘロデ・アンティパスはローマに出発することになりました。父親であるヘロデ大王以上の残虐さで悪名高かったアルケラオ(「マタイによる福音書」2章22節を参照してください)を自分たちの王として迎え入れたくなかったユダヤ人たちは(19章14節)、五十名の使節をローマに派遣してアルケラオが王にならないように皇帝に嘆願しました。ローマ皇帝はアルケラオに父ヘロデ大王の王国の半分だけの領域、すなわちユダヤ、サマリヤ、イドメヤ(エドムとも呼ばれ、ヘロデ一族の出身地でした)を支配する権限を与えました。アルケラオには支配者としての有能さをローマ皇帝に示せた場合には支配領域を拡大してもらう可能性がありました。
彼とその兄弟たちはヘロデ大王の王国領土を分割して統治支配する領主となりました。統治権を得た後の過越の祭のときにアルケラオは敵対者三千人を殺害しています(19章27節を参照してください)。
ユダヤ人たちのアルケラオについての評価が正しかったことがまもなく明らかになりました。アルケラオは残虐で無能な支配者であることが判明し、西暦6年に罷免されガリラヤに追放されたのです。その後、ユダヤとサマリヤはローマ人総督の管轄下におかれました。イエス様が公に活動された時期の総督はポンテオ・ピラトでした。
父ヘロデ大王が建てた冬の宮殿は後に火事によって焼失しました。アルケラオはこの宮殿を再建しましたが、この史実もこの箇所の譬と関わりがあります。この宮殿はエリコという、エルサレムにとても近い町にあったのです。
ユダヤ人たちはダビデの家系の王国を再興してくれる、この世的な意味でのメシアを待望していました。そのような背景もあって、イエス様がエルサレムに近づかれたときに「あのダビデの家系の王国が今まさに始まったのだ」という期待が人々の心をとらえたのです(19章38節に「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。」と「王」という言葉が用いられていることに注目しましょう)。それに対してイエス様は「自分の王国は今はまだ来ておらず、その到来の前に自分は天の父の御許に戻って、そこからいつか権威と力に満ちてこの世に再臨する」ということを示そうとされました。ところが、弟子たちでさえイエス様にこの世的なメシアとしての役割を望む思惑にとらわれていたのです(24章21節と「使徒言行録」1章6節を参照してください)。
「そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。」
(「ルカによる福音書」19章13節、口語訳)
上節には、ある身分の高い人が「十人」の僕にお金を渡したとあります。しかし後では「三人」についてしか述べられていません。僕の数は使徒たちの数と同じく「十二人」であってもおかしくはありません。他の点でもこの譬は私たちに「譬の細部に関してまで解釈や説明を常に見出そうとするべきではない」ということを改めて指摘しています。
「ミナ」は「ダニエル書」5章25節(「メネ」)にも出てきます。これは百デナリあるいは百ドラクマに当たる金額であり、当時の約四ヶ月分の給料に相当しました。
なおこの箇所と類似する「マタイによる福音書」25章14〜30節に出てくる「タラント」の百分の一が「ミナ」になります。そしてマタイとルカの譬は互いに別のものです。
「ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。」
(「ルカによる福音書」19章14節、口語訳)
この節にはイエス様が一週間後に受けることになる苦難が予告されています。聖金曜日に民衆はもはやイエス様を「私たちの王よ」とは喝采しなくなり、「十字架につけよ、彼を十字架につけよ」と叫んだのです(23章21節)。
一番目と二番目の僕は主人から預かったお金を利用して儲けを出しました(19章16〜19節)。彼らのうち一人はもう一人よりも経済的に成功しました。主人から彼らが得た報酬は彼らが儲けた利益と比較すると非常に大きなものでした。彼らは一ミナの儲け分に対して一つの町の支配権をその税収も含めて得たのです。
三番目の僕は主人の明瞭な命令(19章13節)に反して行動しました(19章20〜21節)。彼は主人から預かった一ミナをどこかに隠してしまっておいたのです。彼は主人の意思を知っていながらも、それに基づいて実際には行動しなかったのです(「申命記」29章28節(口語訳では29節))。また彼は預かったその金を「銀行」に投資する勇気さえ持ち合わせていませんでした。銀行が商売で失敗して損失を被るかもしれないことを恐れたのです。「銀行」(19章23節)はギリシア語原文では「両替のための台あるいは机」を意味する「トラペッザ」であり「両替商」のことでもあります。
主人はその僕が言った言葉に基づいてその僕に裁きを下しました。その僕は自分がなすべきことを知っていたにもかかわらず、それを実行しなかったからです(19章22〜23節)。この三番目の僕は自分の保身のことばかり考えていたとも言えます。何らかの手段によって主人に仕えるという心意気が彼にはまったく欠けていたのです。
悪い僕に預けられていたお金は、他の僕たちの反対にもかかわらず、資産運用に最も成功した僕に委ねられました(19章24〜26節)。主人からより多くの資産の運用を任された僕はこの点で十分な能力があることを実証していたため、さらなる責任を委ねられたのです。神様の御国でもこれと同じことが起きています。神様が用いられる者にはさらなる責任や使命が与えられていくのです。
この箇所の譬は、自分が王になることを望まなかった者たちに対して王が厳しい処罰を下すことで閉じられています(19章27節)。ギリシア語原文では「屠殺せよ」と書いてあります(ギリシア語原文では「カタスファッゾー」という動詞の命令形です)。ここでの記述に西暦70年に起きるエルサレムの陥落と滅亡への予告的な言及があるのを読み取るのは容易です(19章43〜44節)。
ギリシア語原文で見ると19章21節の「きびしい」(ギリシア語で「アウステーロス」)という単語は「ローマの信徒への手紙」11章22節の「峻厳」(ギリシア語で「アポトミア」)という単語と同じような意味を持っています。
この譬が私たちに(またルカの時代のキリスト信仰者たちに)伝えたかったことは何でしょうか。それは主から与えられた使命に忠実であることの大切さです。ファリサイ派は律法の遵守にあたって非常に注意深いことで有名でした。彼らは365個の禁止事項を作成し、それにさらに命令を加えて、総計613個もの規定を設けました。「(特に安息日に)何をしてはいけないか」ということについて彼らは非常に多くの熟慮を重ねたとも言えます。律法に関するこのような姿勢は最初期のキリスト教会にとってもある種の脅威となったことでしょう。ビジネス界のリーダーたちの間でよく知られている格言には「失敗する最も確実なやりかたは何もしないことである!」というものがあります。「行動すると傷つく」というのもフィンランドにある同じ意味の諺です。キリスト信仰者として私たちには神様からそれぞれいただいている大切な使命があります。この使命はキリストが栄光に包まれて再臨なさる時まで続くのです。主からせっかくいただいた賜物を隠して活かさないままで放置することは私たちにはできません。
「信仰においては前進するか後退するかのどちらかしかない」とも言えます。その場に留まり続けることはできないのです。
イエス様のエルサレムへの旅についてのルカの長い記述はここで終わります(「ルカによる福音書」9章51節〜19章27節)。
ここから始まる一連の出来事はエルサレムで起きたことになります。
イエス様がロバに乗ってエルサレムへ入城する 19章28〜40節
この箇所の出来事の重要性は、他の福音書にすでに書かれていることはほとんど述べない傾向がある「ヨハネによる福音書」が、ロバに乗ってエルサレムへ入城するイエス様については描写していることにもあらわれています(「マタイによる福音書」21章1〜9節、「マルコによる福音書」11章1〜10節、「ヨハネによる福音書」12章12〜16節)。
「イエスはこれらのことを言ったのち、先頭に立ち、エルサレムへ上って行かれた。」
(「ルカによる福音書」19章28節、口語訳)
エルサレムに行くことを表す常套句を用いつつ、ここから文字通りイエス様のエルサレムへの上京が始まりました。
オリーブ山(19章29節、「オリブという山」)はエルサレムの東方にありました。この名はそこに育つオリーブの木々に由来しています。この山の裾野の斜面部に後の箇所で登場するゲッセマネの園があります。
「ベテパゲ」(19章29節)の位置は特定できません。おそらくオリーブ山の頂上付近にあったものと思われます。マルタ、マリヤ、ラザロの住んでいた村(「ヨハネによる福音書」11章1節)であるベタニヤは現在ではアラビア語で「ラザロの村」(アル・アッザリエ)といい、そこにはラザロの墓もあります。これはエルサレムの東方3キロメートルのところ、オリーブ山の東の斜面にあります。
「ベタニヤ」は「貧しい人々の家」、「ベテパゲ」は「いちじくの家」を意味します。
イエス様はベタニヤに宿泊なさいました(「ヨハネによる福音書」12章1節)。そのため、祭にきていた大ぜいの群衆はエルサレム市内からもイエス様を出迎えにきました(「ヨハネによる福音書」12章12〜13節)。イエス様がエルサレムに来られたことが知れ渡ると、群衆の数はますます大きくなっていきました。
「向こうの村へ行きなさい。そこにはいったら、まだだれも乗ったことのないろばの子がつないであるのを見るであろう。それを解いて、引いてきなさい。」 (「ルカによる福音書」19章30節、口語訳)
「まだだれも乗ったことのない」動物は聖なる目的のために利用されました(「民数記」19章2節、「サムエル記上」6章7節)。「向こうの村」(19章30節)とは「ベテパゲ」のことでしょう。
イエス様が乗られたのは馬ではなくロバでした。ソロモン(彼も「ダビデの子」でした)もロバに乗って戴冠式に向かいました(「列王記上」1章33節)。馬は当時の戦争での勝利者や将軍の乗り物でした。イエス様は「平和の君」(「イザヤ書」9章5節(口語訳では6節))であられたということです。ロバは次に引用する「ゼカリヤ書」の預言の成就でもありました(「マタイによる福音書」21章4〜5節)。
「シオンの娘よ、大いに喜べ、
エルサレムの娘よ、呼ばわれ。
見よ、あなたの王はあなたの所に来る。
彼は義なる者であって勝利を得、
柔和であって、ろばに乗る。
すなわち、ろばの子である子馬に乗る。」
(「ゼカリヤ書」9章9節、口語訳)
ロバの所有者について「持ち主たち」と複数形で書かれているところから(19章33節)彼らが貧しかったことがわかります。また彼らはイエス様とすでに知り合いであったことが19章31節からわかります。
人々が自分たちの上着をイエス様の進んでいかれる道に敷いたのは(19章36節)、王に対する敬意のあらわれでした(「列王記下」9章13節も参考になります)。
エルサレム神殿が初めて見えてきた場所(19章37節)で聖地巡礼者たちは喜びと感謝の歓声を上げました。今や全員がイエス様に注目していました。イエス様がそれまでなさった最大の奇跡はラザロを死者から復活させたことでした(「ヨハネによる福音書」11章44節)。そしてイエス様の一行はラザロの住む村から出発したのです。
どのように群衆がイエス様に叫んだのかについては、福音書記者たちはそれぞれ異なる言い回しで表現しています(19章38節)。これは当然です。群衆は一人の指揮者の指示の下で声を合わせてイエス様に叫んだ合唱団などではなかったからです。群衆は色々な場所から各々が色々なやりかたで叫んでいました。ルカは「ホサナ」という言葉(ヘブライ語やアラム語)は用いていません。「ルカによる福音書」の想定する読者層が主にユダヤ人以外(すなわち異邦人)であったことを考えると、異邦人に馴染みの薄い「ホサナ」が出てこないのは自然だからです。その代わりにルカはギリシア語の「ドクサ」(栄光)という言葉を用いています。イエス様を表す尊称としてルカは「王」、マタイは「ダビデの子」、マルコは「ダビデの国」、ヨハネは「イスラエルの王」という表現を用いています。これらの尊称は全てこの世的な意味でのメシアを意味するものとして理解することができます。
「ルカによる福音書」の採録した「叫び声」はクリスマスの夜の天の御使たちの賛美の合唱に近似しています(2章14節)。
「ホサナ讃歌」(「詩篇」118篇25〜26節)はエルサレム入城に関わる重要な聖句でした。「なつめやしの枝」(ルカはこれについても記していませんが)は大きな祝祭(例えば仮庵の祭の初日)で使用されました(「レビ記」23章40節)。
「ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。」
(「ルカによる福音書」19章39〜40節、口語訳)
弟子たちが叫ぶのをやめさせるようにイエス様に忠告したファリサイ派(19章39節)はガリラヤから来ていた人々であると思われます。彼らは弟子たちの叫んでいる内容が政治的に危険なものであることを察知し、メシアとして振る舞わないほうがよいとイエス様に勧告したのです。それに対して、イエス様は今や真理が明らかにされる時が来たことを告げられます(「ハバクク書」2章11〜12節も参考になります)。この箇所に関連して3章8節での洗礼者ヨハネによる敵対者への返答(「神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ」)にも注目してください。
イエス様がエルサレムのために泣かれる 19章41〜44節
この箇所はエルサレムの滅亡についてのイエス様の言及としても見ることができます。「城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来る」のです(19章44節)。これは「ユダヤ人たちが自分たちのメシアを見捨てるといったいどうなるか」ということについて具体的に描写している箇所です。エルサレム教会の指導者であった、イエス様の実弟ヤコブや教会の他の指導者たちは西暦62年に殺害されます。そして西暦66年にローマ帝国に対するユダヤ人たちの反乱が始まったとき、それまで残っていたキリスト信仰者たちもエルサレムを出ていくことになりました。それゆえ、西暦70年にエルサレム市が崩壊したときにはユダヤ人しか市内に残っていませんでした。
オリーブ山の頂上はエルサレムよりも標高が百メートルほど高く、そこからはエルサレム全体を見渡すことができました。イエス様のエルサレム入城を群衆が歓迎している一方で、イエス様御自身は泣き始めたのです。それは御自分にこれから起こる受難のためではなく、いずれエルサレムに起こる滅亡のためでした。
「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいたら……しかし、それは今おまえの目に隠されている。」
(「ルカによる福音書」19章42節、口語訳)
イエス様の預言なさったエルサレム滅亡はそれから40年ほど経った西暦70年に現実のものとなってしまいます。これと同じように、かつて預言者エレミヤもエルサレム市の滅亡をそれが実際に起きる40年ほど前に預言して(紀元前626〜586年、「エレミヤ書」1章11〜19節)、エルサレムのために嘆いています(「エレミヤ書」8章13〜22節)。エルサレムは40年間という一世代分の時間的猶予を自らの悔い改めのために与えられました。しかし上節でイエス様が言われているように、エルサレムは悔い改めなかったのです。
エルサレムは「平和の都」と呼ばれました。しかしその歴史は現在に至るまで平和とは程遠い出来事が継起してきたことを証しています。この都ほど何度も繰り返し敵に包囲されてきた町はほかには存在しません。将軍ティトゥスの指揮の下、ローマ軍によって包囲され住民たちが飢餓に陥ったエルサレムは西暦70年についに瓦解します。それからしばらく後に将軍ティトゥスはローマ皇帝の座に着くことになりました。
上掲の節の「平和」はギリシア語では「エイレーネー」といい、これはヘブライ語の「シャローム」に対応します。この言葉は創造主と被造物の間に本来あるべき正しい関係性を表しています。
「おまえとその内にいる子ら」(19章44節)とは、エルサレムとその住民たち、「娘エルサレム」(「ゼパニヤ書」3章14節、口語訳では「エルサレムの娘」)の子どもたち全員を指す言葉です。
この箇所の出来事は「ルカによる福音書」にのみ記されています。そして「ルカによる福音書」と「使徒言行録」にあるエルサレムについての言及は、残りの新約聖書全体におけるエルサレム関連の言及よりも多くなっています。
宮清め 19章45〜48節
イエス様がエルサレム神殿を清められたのは受難週の月曜日であったとマルコは記しています(「マルコによる福音書」11章12、15節)。それに対して、ルカはそれがいつ起きたのか述べていません。商売は「異邦人の庭」(神殿の外庭)で行われていました。神殿で犠牲として捧げられる動物たちは神殿貨幣によってのみ購入することができました。原則的にはどのような動物でも犠牲動物にすることができましたが、エルサレムまでの長い旅路のゆえに、人々は神殿でそれらを購入したのです。さらに神殿での売買をより確実なものにするために、エルサレムの外部から神殿商人以外の者たちが持ち込んだ犠牲動物に対しては、何らかの欠点を指摘して難癖をつけ、「犠牲として捧げるには不適当なもの」という評価が下されることもしばしばありました。このようにして最高位の祭司階級は神殿での両替や犠牲動物の売買から独占的に収入を得ていたのです。
ここでふたたびイエス様はメシアの時代の到来を告げるしるしを実現なさいます。次に引用する「ゼカリヤ書」の最後の一節には、メシア時代のしるしのひとつとして「神殿内では商売がもはや行われなくなる」ということを挙げています。
「エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。」
(「ゼカリヤ書」14章21節、口語訳)
「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」(19章46節)というイエス様の発言の聖書的な背景には「エレミヤ書」7章11節(「盗賊の巣」)や「イザヤ書」56章7節(神殿を「祈の家」とみなす箇所)があります。
イエス様は公の活動の始まった頃に宮清めをなさったとヨハネは述べています(「ヨハネによる福音書」2章13〜16節)。このようにしてイエス様は御自分の公の活動の初めと終わりとを同じように「枠付け」なさったのです。これはエルサレム神殿の崩壊への布石となっていました。当時の神殿にはもはや本来の存在意義が失われていたのです(「ヨハネによる福音書」2章17〜21節、「ヘブライの信徒への手紙」9章11節〜10章18節も参考になります)。
イエス様による宮清めの実際的な効果は短かったようです。もうその翌日からは神殿での商売が以前と同じように再開されたことでしょう。
「イエスは毎日、宮で教えておられた。祭司長、律法学者また民衆の重立った者たちはイエスを殺そうと思っていたが、民衆がみな熱心にイエスに耳を傾けていたので、手のくだしようがなかった。」
(「ルカによる福音書」19章47〜48節、口語訳)
まだこの段階ではイエス様は民衆からの支持を受けていたため、ユダヤ人の指導者たちがイエス様を殺害しようとする策謀から守られていました。上節には、ユダヤ人の最高議会(サンヘドリン)のすべての三つのグループが挙げられています。すなわち、祭司長、律法学者、民衆の重立った者たちです。