ルカによる福音書11章
イエス様が弟子たちに教えた祈り 11章1〜13節
1500年代初頭までラテン語はすでに何百年間にもわたって西方教会における支配的な言語でした。しかし十五世紀のルネサンスによってヨーロッパの聖書研究者たちは新約聖書が元々はラテン語ではなくギリシア語で書かれていたことに気づきました。それとともに「誰がギリシア語の新約聖書を最初に出版するのか?」という競争が始まりました。この競争に勝ったのはロッテルダムのエラスムスでした(西暦1516年)。
まもなくこのギリシア語版は「Textus Receptus」(「承認されたテキスト」という意味のラテン語)になりました。最初に出版されたギリシア語原語版新約聖書という最大の評価を獲得したからです。当然ながらそれは他の諸言語の新約聖書の翻訳の底本としても使用されるようになりました。
この版を作成するにあたりエラスムスは一番手っ取り早く手に入る写本を自分の新約聖書の草稿に急いで取り入れていきました。新約聖書全体のギリシア語版を完成させるために彼は当時まだギリシア語写本が発見されていなかった「ヨハネの黙示録」の一部の箇所についてラテン語のウルガタ聖書を逆にギリシア語に訳し戻すという芸当さえこなしています。このような急ぎの「やっつけ仕事」だったため、エラスムスの新約聖書版には「後から付加あるいは変更されたもの」であることが後の研究で判明したテキスト部分も紛れ込んでいます。この「付加あるいは変更」は故意にあるいは意図せずになされた複製のミス、書き間違い、あるいは何か他の種類の変更であったと考えられています。
ルカ版の「主の祈り」には上述の「変更」に該当すると思われる箇所が二つあります。ルカ版にはマタイ版(「マタイによる福音書」6章9〜13節)の「主の祈り」の三番目の祈り(「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。」)と七番目の祈り(「悪しき者からお救いください。」)が欠けています(「ルカによる福音書」11章2、4節)。これらの箇所については、福音書を写本した誰かが「マタイによる福音書」から意図的に、あるいは記憶の間違いによってルカ版のように引用した可能性があります。もちろん逆にマタイのほうがルカを引用したという可能性もあります。このようにルカ(あるいはマタイ)のテキストには後からルカ自身(あるいはマタイ自身)によるものではない変更が加えられたとも考えられるのです。
1800年代および1900年代に聖書のテキストの研究が進み、上述のTextus Receptusは(新約聖書の元々の形により近いと思われる)もっと良質のテキストに取って代わられていきました。
マタイ版とルカ版の「主の祈り」の間に相違点が存在する理由としては「イエス様がこの重要な祈りを何度も繰り返して弟子たちに教え込まれたために生じた」という説明が最も明快かつ単純でしょう。あるいはまた「主の祈りの箇所についてのアラム語版の一つのテキストに対して二つの異なるギリシア語訳が存在していた」という推定に基づく説明も可能ではあります。
宗教改革者マルティン・ルターは小教理問答書で「キリスト信仰者は皆、主の祈りを毎日少なくとも三度(朝、食事の際、夜)祈るべきである」と教えました。
「主の祈り」は祈りの模範例であるだけではなく「私たちは何について、どのように祈るべきか?」についても教えています。イエス様は次のように言っておられます。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」
(「マタイによる福音書」6章33節、口語訳)
最も大切なのは神様の御国であり、この世的に必要なものは副次的なものにすぎません。
「わたしたちに負債のある者を皆ゆるしますから、わたしたちの罪をもおゆるしください。わたしたちを試みに会わせないでください。」
(「ルカによる福音書」11章4節、口語訳)
上節をどう理解するべきか、主の祈りを唱える人たちは悩んできました。私たちは隣り人たちに赦しを与えた分に応じてそれと同じだけの罪の赦しをいただけるということをこの節は教えているのでしょうか。
この節のギリシア語で「ガル」という接続詞は「なぜならば」という意味よりも広い意味を持っています。「マタイによる福音書」18章22〜35節に述べられている、憐れみの心に欠けた僕についての譬はこの点でわかりやすいヒントを与えてくれるでしょう。彼は隣り人に対して憐れみの心を持ちませんでした。その後で彼は自分に対する罪(負債)の赦し(赦免)をも失うことになりました。このことを踏まえると次のように言えるでしょう。私たちは罪の赦しの恵みを良い行いの報酬として受け取ることはできないが、神様の御意思に反する行いによって恵みを失うことは起こりうるのです。
イスラエル旅行者はオリーブ山にある主の祈りの礼拝堂(聖母礼拝堂)に案内されることがよくあります。伝承によれば、その礼拝堂のある場所でイエス様が主の祈りを教えたとされています。礼拝堂には主の祈りが少なくとも62の言語で書かれています。ルカは場所について何も記していませんが、この場所自体は正しいのかもしれません。
主の祈りは「終わりの時」を通して次のように終末論的に理解することもできます。
神様の御名を崇めることは神様の敵が滅ぼされた時にようやく完全に実現する。
神様の御国はキリストの再臨の時にようやく完全に訪れる。
日々の糧は天の御国での婚姻の宴の食事を示唆している。
罪の赦しをいただくことは最後の裁きの日に正式な承認の印を押されることを意味している。
悪魔が滅ぼされた時に、栄光の中で悪からの解放が最終的に真実となる。
あきらめずに祈ること
「あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。」
(「ヤコブの手紙」4章2節、口語訳)
イエス様はあきらめずに祈ることの大切さを説かれました。「ルカによる福音書」11章5〜8節の話は神様による活動についての例や描写ではなく譬です。
この譬では、予期せぬ客人の来訪によって家の主人は困ってしまいます。当時、パンはその日に必要な分だけ焼くものだったので、客に分けるパンは夜にはもう残っていませんでした。それで隣人に助けを求めに出かけて行く以外に手段はありませんでした。「パンを三つ」(11章5節)は当時の人が一日で食べる分量でした。
しかし隣人はすでに眠っており起きてこようとはしませんでした。当時は家族全員が一つの布団の敷物の上に両親が両隅に子どもたちが真ん中になるようにして寝ました。ですから一人が起き上がるとそれで全員が目を覚ましてしまいます。しかし来客を受けた家の主人が隣人に諦めず頼み続けたために、とうとう隣人は起き上がってくれました。
「そこでわたしはあなたがたに言う。求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。」
(「ルカによる福音書」11章9〜10節、口語訳)
神様は悪い人々よりも「善いお方」なのです。上掲の箇所の動詞は受動態になっており、神様がその主体であることを示しています。
「あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか。」
(「ルカによる福音書」11章11〜13節、口語訳)
最後にイエス様は「私たちは自分たちがお願いすることを神様からいつもいただけるとはかぎらない」ということも教えてくださいます。父母は我が子に悪い贈り物を与えはしません。それと同じように、天の父なる神様も私たちがお願いすることを、それが私たちにとって有害である場合には、私たちに賜らないのです。
人間には自分にとって好ましい物事ばかりを見たり聞いたり気が付いたりする傾向があります。そのせいで、私たちはこの箇所でも「神様は祈りを聞いてくださる」という約束にばかり注目して「神様は私たちの祈りに対してどのように答えられるか」という教えには関心を示さないことがよくあります。
神様は私たちの祈りをたしかに聴いておられますが、私たちが願うことばかりを与えてはくださいません。神様は私たちにとって最善のものを賜るお方だからです。
イエス様とベルゼブル 11章14〜23節
マタイはこの出来事に登場する男の人について、口が聞けないだけではなく目も見えなかったと語っています(「マタイによる福音書」12章22〜30節)。
ファリサイ派や、イエス様の敵対者たちは実際に目の前で起きた奇跡を否定することができませんでした。しかしその奇跡を神様の御業と認めたくもなかったため、彼らは何か他の説明を捻り出す必要に迫られて、「彼は悪霊のかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出しているのだ」という言いがかりをつけました(11章15節)。
彼らの詭弁に対してイエス様は「あなたがたはわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出していると言うが、もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。」と反論なさいます(11章18〜19節より)。イエス様がベルゼブルと契約関係にあるという非難は見当違いであることを示されたのです。どうしてサタンが自分自身と戦い始めたりするでしょうか。
「ベルゼブル」という名前の正確な意味はよくわかっていません。元々この名前はカナン人たちの偶像を指すものでした(「列王記下」1章2節)。しかしイエス様の時代には「蝿の王」や「糞塚の王」という意味であったと推測されています。これらの蔑称はサタンのことを意味していました(11章15節の「悪霊のかしらベルゼブル」という表現に注目してください)。
当時のユダヤ人の中には「悪霊祓いの専門家」として名を馳せた人々がいました(11章19節、「使徒言行録」19章13〜16節も参考になります)。
「またほかの人々は、イエスを試みようとして、天からのしるしを求めた。」 (「ルカによる福音書」11章16節、口語訳)
口の聞けない人を癒すだけではそれが神様の御業であることを納得しようとしない人々がいました。上節のような彼らのさらなる要求に対してイエス様は11章29〜32節でお答えになっています。不信仰な心の持ち主に対しては、たとえどのような奇跡が起ころうとも、それが神様の御業であると納得させることはできないのです。
「しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」
(「ルカによる福音書」11章20節、口語訳)
上節の「神の指」は「出エジプト記」8章15節(口語訳では19節)にも見られる表現です。その箇所では、モーセのもたらした疫病に対抗することができなかったエジプト人の魔術師たちが「これは神の指です」とファラオに証言しています。
神様の御国はイエス様を通して私たちのところにも近づいてきます(17章20〜21節も参考になります)。
「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」
(「ルカによる福音書」11章23節、口語訳)
イエス様に従いたくない者は神様の御国の外側に取り残されてしまいます。中立の立場は存在しません。人間は神様の御国かサタン一味かのどちらか一方に属しています。信仰に関わる事柄においては中立な態度の保留はできないのです!だからこそ、キリスト信仰者は自分が勝利者イエス様の側にいることを力強く明確に打ち出すべきなのです(11章22節)!
空虚を満たすもの 11章24〜26節
「汚れた霊が人から出ると、休み場を求めて水の無い所を歩きまわるが、見つからないので、出てきた元の家に帰ろうと言って、帰って見ると、その家はそうじがしてある上、飾りつけがしてあった。そこでまた出て行って、自分以上に悪い他の七つの霊を引き連れてきて中にはいり、そこに住み込む。そうすると、その人の後の状態は初めよりももっと悪くなるのである。」
(「ルカによる福音書」11章24〜26節、口語訳)
イエス様のこの譬は前掲の11章23節がどのように実現するかを示す具体例になっています。霊的な空虚は必ず何かで満たされてしまうということです。
人間の霊的な空虚には悪霊ではなく聖霊様が住みにきてくださらなければなりません(「コリントの信徒への第一の手紙」3章16節および6章19〜20節)。そうならない場合には悪霊が戻ってきてしまうからです。
この出来事はまだキリスト信仰者になって日が浅い人々の信仰のケアを続けることがいかに大事なことであるかを強調しています。罪を悔いイエス様を救い主として信じるようになった信仰体験だけでは十分ではありません。信仰にしっかりと根ざした日々の生活を送って行くことが肝要なのです。
キリスト教信仰を捨てた者がふたたび神様の子どもに戻ることは、初めて信仰の道に入ることよりもはるかに難しいものです。サタンは棄教した者たちに対して以前よりもいっそう強く働きかけるようになるからです(11章26節)。
この箇所でイエス様は、悪霊を追い出してもらって癒された人々をイエス様の御許に連れて来ようとせずにそのまま放置するユダヤ人の悪霊祓いの専門家たちのことを揶揄しておられるのかもしれません(11章19節)。現代心理学や精神医学でもこれと同じような間違いが繰り返されることがあります。患者の人生に新たな内容を与えずに心の病気を一時的に改善しようとする場合です。それでは心の病気が一時的に癒やされても心がただ虚ろになるだけで、その空虚を埋める良い代替物は何も提供されないのです!
真の救いのさいわい 11章27〜28節
「イエスがこう話しておられるとき、群衆の中からひとりの女が声を張りあげて言った、「あなたを宿した胎、あなたが吸われた乳房は、なんとめぐまれていることでしょう」。しかしイエスは言われた、「いや、めぐまれているのは、むしろ、神の言を聞いてそれを守る人たちである」。」
(「ルカによる福音書」11章27〜28節、口語訳)
この箇所では、実母マリアが救いのさいわいにあずかっていることをイエス様が否定していると理解されることがあるようです。しかし「むしろ」と訳されているギリシア語原文の「メヌーン」(二語の合成語)には肯定的な意味合いが含まれており、「マリア自身も救いのさいわいにあずかっている」という意味に取ることができるのです(1章45、48節)。
この救いはイエス様の親族だけにではなく(「ヨハネによる福音書」7章2〜5節からも彼らはユダヤ人だったことがわかります)、「神の言を聞いてそれを守る人たち」全員にも提供されています。当然、その中には異邦人(非ユダヤ人)も含まれています。救われるためには血のつながった親族でありさえすれば十分であるということはなく、イエス様の霊的な親族となることが必要不可欠なのです(「マルコによる福音書」3章31〜35節を参照してください)。ユダヤ教の教師であるラビたちは「割礼を受けた者が一人も地獄に落ちることがないようにアブラハム自ら地獄の門のところで見張っている」というように教えていました。しかし永遠の世界での所在を決定するのは出自(ユダヤ人かそうでないか)ではなく、イエス様との関係なのです(11章23節)。
ヨナのしるし 11章29〜32節
「さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。」
(「ルカによる福音書」11章29〜32節、口語訳)
「天からのしるし」を要求する者たち(11章16節)に対してイエス様は上掲の箇所でお答えになりました(「マタイによる福音書」12章38節と「マルコによる福音書」8章11節も参照してください)。
イエス様の言われた「ヨナのしるし」という表現にはどういう意味が込められているのでしょうか。次に二つの解釈例を挙げます。
1)それは「しるしなど何もない」という意味である(「マルコによる福音書」8章12節)。ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めた。ヨナはニネベで何の奇跡も行わなかった。それゆえイエス様の同時代人たちに対しても「言葉だけ」で十分なはずである。
2)「マタイによる福音書」12章40節によれば、「しるし」とはヨナが大きな魚の腹の中に三日三晩いたことである。「ルカによる福音書」11章30節の「人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう」に使われている未来形(「となるであろう」、ギリシア語で「エスタイ」)はこのことを指している。
上のどちらの解釈も正しいと思われます。この地上におられたときのイエス様の最も重要な使命は奇跡を行うことではなく福音を宣べ伝えることでした。結果的にユダヤ人たちは欲しがっていたしるしを得ることができました(「コリントの信徒への第一の手紙」1章22節には「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。」とあります)。その「しるし」とはイエス様が三日目に死者の中から復活なさったことです。しかしユダヤ人たちはこのしるしも信じようとはしませんでした(16章31節を参照してください)。
しるしを要求することは信仰と正反対の態度であるとも言えます。神様から何か「しるし」を願うとき、信仰がもはや必要ではなくなるような「証拠」を求めることになるからです。しるしを要求する者にとって神様の約束と御言葉だけでは不足なのです(例えば「士師記」6章36〜40節でのギデオンの行動)。
ここでふたたびイエス様は最後の裁きについて語っておられます(11章31〜33節)。最後の裁きは今日の宣教においても避けることができないテーマです。それは否応なく歴史の終点となる出来事だからです。
「南の女王」(11章31節)はソロモン王の知恵を聴くためにサバ(現在のイエメン)からやってきました(「列王記上」10章1〜13節、「歴代志下」9章1〜12節)。約二千キロメートルもの長旅を厭うことなく女王はソロモン王のもとを訪れました。それに対して、ユダヤ人たちは神様の御子イエス様がはるばる天から彼らのところに来られたときにイエス様に背を向けてしまったのです。
ヨナは「キリスト」という存在を旧約の時代に先取りして提示した「予型」であると言えます。当然ながら、予型の成就であるイエス様は予型にすぎないヨナにまさるお方でした(11章32節)。死にかけたときにヨナは死からの蘇生に近い経験をしました。それに対して、イエス様は本当に死なれ、また本当に死者の中から復活なさったのです。
暗闇と光 11章33〜36節
「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない。むしろはいって来る人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上におく。」
(「ルカによる福音書」11章33節、口語訳)
当時の燭台は水差しの形をしているものが多く、その「注ぎ口」から燈心が外に出ていました。燭台は粘土でできており、あかりをともすためにオリーブ油が使われました。
イエス様は世の光です(「ヨハネによる福音書」1章9〜11節および3章19〜21節)。ファリサイ派や律法学者たちが暗闇の中に居続けたのはイエス様のせいではありません。神様の光がこの世の中で輝いていたのに、彼らはそれを受け入れようとしなかったのです(8章16節、「マタイによる福音書」5章15節および6章22〜23節、「マルコによる福音書」4章21節)。
私たち人間の内にあるものは、たとえそれが最良のものでも、暗闇です。そう考えると、私たちの内にある最悪のものがどれほど邪悪かは想像もできません(11章35節)。
歪んだ信仰は神様の御意思に基づく生きかたとは全く異質なありとあらゆるものを生み出してしまいます(11章39〜52節)。イエス様は次のように言っておられます。
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは、天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし、はいろうとする人をはいらせもしない。」
(「マタイによる福音書」23章13節、口語訳)
ファリサイ派と律法学者は「わざわいだ」 11章37〜54節
ファリサイ派はユダヤ教の一派であり、罪人たちから自らを分離しようとする信仰復興運動の提唱者たちでした。例えば彼らは「律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」と言っています(「ヨハネによる福音書」7章49節)。
律法学者たちは律法解釈の専門家の集まりでした。彼らの大部分はファリサイ派に属していました。そしてファリサイ派の教義の大半は律法学者による旧約聖書の解釈に基づくものでした。
今回の箇所でイエス様はあるファリサイ派の人物から食事に招待されました。おそらくこれは会堂での礼拝の後であったと思われます(11章37節)。
「ところが、食前にまず洗うことをなさらなかったのを見て、そのパリサイ人が不思議に思った。」
(「ルカによる福音書」11章38節、口語訳)
「食前にまず洗うこと」は実際に洗う行為というよりも儀礼的な清めという意味合いをもっていました。この箇所の新約聖書のギリシア語原文では「洗礼」を表す言葉と同じ言葉が使用されています(この言葉の動詞の基本形は「バプティゾー」)。
「人々と接しているうちに自分が被ったかもしれない穢れから清められたい」というのがこの慣習の意図するところでした。ファリサイ派の教義理解によれば、人間を穢れさせてしまうかもしれない事象や行動は多々ありました。
以前にも同じ非難がイエス様の弟子たちに向けられたことがありました(「マルコによる福音書」7章2〜5節)。実は旧約聖書はこのような「洗い」を要求していません。しかしファリサイ派は自分の作った規則を破ることを旧約聖書の律法規定を破ることよりも重い罪とさえみなしていました。「律法規定には解釈による不確定さがつきまとうが、ファリサイ派の生活規定は確実で正確である」と彼らは考えたのです。
イエス様はファリサイ派と律法学者たちに対して四つの「わざわい」を宣告していきます。
「そこで主は彼に言われた、「いったい、あなたがたパリサイ人は、杯や盆の外側をきよめるが、あなたがたの内側は貪欲と邪悪とで満ちている。愚かな者たちよ、外側を造ったかたは、また内側も造られたではないか。ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたにとって、清いものとなる」。」
(「ルカによる福音書」11章39〜41節、口語訳)
一番目の「わざわい」(ただしこの言葉そのものは使われていません)は、ファリサイ派に対してです。彼らの活動は見せかけだけの偽善にすぎないということです(「マタイによる福音書」23章13、15、23、25、27、29節)。彼らは外面的な清さには細心の注意を払っていたものの、彼らの心の中には貪欲と邪悪が染み付いていたのです。
イエス様は次のようにおっしゃっています。
「さらに言われた、「人から出て来るもの、それが人をけがすのである。すなわち内部から、人の心の中から、悪い思いが出て来る。不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、邪悪、欺き、好色、妬み、誹り、高慢、愚痴。これらの悪はすべて内部から出てきて、人をけがすのである」。」
(「マルコによる福音書」7章20〜23節、口語訳)
人間を穢すのはその心の中にあるものです。その穢れは日々、直に感じられるものです。
「しかし、あなた方パリサイ人は、わざわいである。はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を宮に納めておりながら、義と神に対する愛とをなおざりにしている。それもなおざりにはできないが、これは行わねばならない。」
(「ルカによる福音書」11章42節、口語訳)
二番目のファリサイ派に向けられた「わざわい」は、一番目のものに関連しています。ファリサイ派はしきたりを事細かく墨守することによって本来の公正さと神様への愛を退けてしまったのです。
「あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。」
(「ルカによる福音書」11章43節、口語訳)
三番目のファリサイ派への「わざわい」は、彼らの名誉欲と虚勢を指摘しています(18章9〜14節に述べられている会堂でのファリサイ派と主税人の箇所も同じテーマを扱っています)。
「あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる。」
(「ルカによる福音書」11章44節、口語訳)
四番目の「わざわい」は、ファリサイ派の危険性を指摘しています。墓はそれに触れた者を七日のあいだ穢れさせるものでした(「民数記」19章16節)。ファリサイ派の教義は「人目につかない墓のようなもの」であり、誰一人その穢れを伝染させる影響力に気がつかないし、むしろそれと逆のことを人々に思い込ませているということです。彼らは「ファリサイ派の教義は人を生かすものである」という誤解を撒き散らしましたが、実のところ、人はその教義に接することで穢れてしまい、最終的には死に至るのです。
「そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」。」
(「ルカによる福音書」11章46節、口語訳)
一番目の律法学者への「わざわい」は、彼らが「負い切れない重荷」を次から次へと罪人の上に負わせることしかしていないということです。初めの重荷でさえ満足に負うことができない人に新たな重荷を押し付けて状況をいっそう悪化させ、ついには絶望的なものにしてしまいます。ところがイエス様はそれとはまったく反対のことをなさいました。罪人たちから重荷を取り除いてくださったのです(「マタイによる福音書」11章28〜30節)。
「あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。」
(「ルカによる福音書」11章47〜51節、口語訳)
二番目の律法学者への「わざわい」は、彼らが敬意を表するのは死んだ預言者たちに対してだけであって生きている預言者たち(イエス様や洗礼者ヨハネ)に対してではないということを指しています。
上掲の箇所に出てくる『神の知恵』(11章49節)とは、すでに消失してしまった書物のことか、あるいはイエス様御自身を意味しているものかもしれません。7章35節には「しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する」とイエス様は言っておられます。なお、引用箇所(『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』)は旧約聖書には見当たりません。
アベル(11章51節(口語訳では50節)、「創世記」4章8節)は旧約聖書で信仰のゆえに殺された最初の殉教者でした。しかしイエス様がここでもう一つの例としてザカリヤを挙げておられるのはどうしてでしょうか。それは単純に説明できます。ザカリヤの殺害については「歴代志下」24章20〜22節で語られています。そして「歴代志上・下」はヘブライ語旧約聖書では合わせて一つの書になっており、旧約聖書の末尾に位置します。このことからわかるように、イエス様は全旧約聖書の殉教者を含めるためにこの二人を例示なさったのです。ただしこの配置は殉教の起きた歴史的な順序に従った最初と最後の例にではなく、旧約聖書における書としての最初と最初の位置に基づくものになっています(「マラキ書」が最後にくるキリスト教会の旧約聖書の配列とは書物の順番が異なることに注意しましょう)。
「エホヤダの死んだ後、ユダのつかさたちが来て、うやうやしく王に敬意を表した。王は彼らに聞き従った。彼らはその先祖の神、主の宮を捨てて、アシラ像および偶像に仕えたので、そのとがのために、怒りがユダとエルサレムに臨んだ。主は彼らをご自分に引き返そうとして、預言者たちをつかわし、彼らにむかってあかしをさせられたが、耳を傾けなかった。そこで神の霊が祭司エホヤダの子ゼカリヤに臨んだので、彼は民の前に立ち上がって言った、「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」。しかし人々は彼を害しようと計り、王の命によって、石をもって彼を主の宮の庭で撃ち殺した。このようにヨアシ王はゼカリヤの父エホヤダが自分に施した恵みを思わず、その子を殺した。ゼカリヤは死ぬ時、「どうぞ主がこれをみそなわして罰せられるように」と言った。」
(「歴代志下」24章17〜22節、口語訳)
ザカリヤが死ぬ前に残したこの最後の説教には興味深い「偶然」が含まれています。「神はこう仰せられる、『あなたがたが主の戒めを犯して、災を招くのはどういうわけであるか。あなたがたが主を捨てたために、主もあなたがたを捨てられたのである』」という箇所です。
「あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた。」
(「ルカによる福音書」11章52節、口語訳)
三番目の律法学者への「わざわい」は、彼らは神様の御意思に聞き従おうとしなかったばかりか、他の人々が天の御国に入ることをも妨げようとしたことを指摘しています。
なお、ルカは敵対者たちがイエス様を退けようと試みた出来事が他にも四回あったと記しています(11章54節、6章11節、19章47〜48節、20章19〜20節、22章2節)。