ルカによる福音書2章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

クリスマスの福音 2章1〜20節

「そのころ、全世界の人口調査をせよとの勅令が、皇帝アウグストから出た。」
(「ルカによる福音書」2章1節、口語訳)

ルカは救いの歴史とこの世の歴史とを結びつけて叙述します。アウグストはローマ帝国の初代の皇帝であり、彼が皇帝になるまでローマは共和国でした。アウグストは紀元前30年から西暦14年までの間ローマの支配者の地位にありました。

上掲の節で「世界」はギリシア語で「オイクーメネー」といい、人が住んでいる地域のことを指します。当時のローマ人たちにとって「全世界」とはローマ帝国全域を意味していました。

以前ならばルカの歴史認識の正確性について研究者の間で疑義が提示されることもありました。しかしエジプトから発見されたパピルス資料は、税を徴収するために当時実施された人口調査についてルカの得ていた情報が歴史的に正しいものであったことを証明しました。ローマ帝国は14歳以上の者全員を対象として税の徴収を14年ごとに実施しました。ルカの描写しているちょうどその時代に新たに税の徴収が開始されたのは、ローマ帝国の臣民に対しては税金が免除されることになったからでした。

ルカがこの箇所で述べているのは税の徴収自体ではなく課税調査のための住民台帳に住民が記載するようにという勅令についてであったと推定されています。当時のユダヤ人歴史家ヨセフスによれば徴税自体は紀元前7年に行われました。この徴税についてルカは「使徒言行録」5章37節で述べています。

「これは、クレニオがシリヤの総督であった時に行われた最初の人口調査であった。」
(「ルカによる福音書」2章2節、口語訳)

クレニオは地中海の東端の地域で多くの異なる役職を歴任しました。彼がシリヤの総督に就任したのは西暦6年になってからでした。

「ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。」
(「ルカによる福音書」2章6〜7節、口語訳)

イエス様の生まれた場所は最初期のキリスト教伝承で明かされており、すでに西暦130年には聖地巡礼者たちがその場所を訪れています。ローマ皇帝として初めてキリスト信仰者となったコンスタンティヌスが母親ヘレナの希望によりその場所にイエス様の誕生したことを記念する教会を西暦333年に建てさせました。そこには今でも教会があり、おそらく現存する世界最古の教会であろうと考えられています。この教会の地下には洞窟があり、そこでイエス様が誕生なさったとされています。殉教者ユスティノスはこの洞窟がイエス様の誕生された場所であると西暦150年頃に書き記しています。

当時のパレスチナでは動物を洞窟に飼っていることがしばしばありました。動物たちの安全な眠り場所だった洞窟を羊たちが牧場にいる間にヨセフとマリアに夜の宿泊場所として提供することができたのです(ちなみにイエス様の誕生についての絵画でよく描かれている牛やロバは「イザヤ書」1章3節に由来しています)。

「飼葉おけ」は洞窟の壁に刻まれた凹みだったと思われます。3〜4月や11〜12月にかけて羊たちは外で過ごしました。しかし周囲からよく守られた環境にいた羊たちは気候が穏やかな年には一年中外にいました。ですから私たちにはイエス様の誕生日を特定する手がかりがありません。

「さて、この地方で羊飼たちが夜、野宿しながら羊の群れの番をしていた。すると主の御使が現れ、主の栄光が彼らをめぐり照したので、彼らは非常に恐れた。御使は言った、「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。」
(「ルカによる福音書」2章8〜12節、口語訳)

ベツレヘムはエルサレムから10キロメートルほど南方にあります。旧約の預言者ミカはそれをメシアの誕生する場所であると預言しています(「ミカ書」5章1節(口語訳では2節)、「マタイによる福音書」2章5〜6節)。エルサレム周辺にはエルサレム神殿で犠牲として捧げられることになる羊たちが飼育されていました。

ユダヤ教の教えを熱心に守ろうとした人々は羊飼いたちを自分たちよりも身分の低い者として見下していました。羊飼いたちはその生業のゆえに安息日規定などのモーセの律法を守ることができなかったからです。律法遵守に熱心なファリサイ派によれば、羊飼いと女性は裁判で有効な証人とはみなされませんでした。ところが救い主イエス様の誕生に立ち会う証人として神様がお選びになったのはまさしく彼らでした。

旧約聖書は神様を「万軍の主」と呼びました。「天の軍勢の神様」ということです(2章13節)。

イエス様がマリアの長男であることに注目してください。マリアとヨセフは他にも子どもたちを授かったのです(「マルコによる福音書」6章3節)。それゆえ、ローマ・カトリック教会の教義であるマリアの永遠の処女性は聖書に基づくものではありません。

「しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。」
(「ルカによる福音書」2章50〜51節、口語訳)

マリアも起きた出来事の全てを理解してはいませんでしたが、神様の御計画と御意思について心の中で思いを巡らすことを望んだのです。

誰が働きかけたのか?

「クリスマスの福音」としておなじみの「ルカによる福音書」2章1〜20節は「そして(次の出来事が)起きた」という言い回しで始まります(ギリシア語では「エゲネト」という、動詞「ギノマイ」の受動態で表現されています)。このぎこちない言い回しはルカのギリシア語の力が不十分だったからではなく、ユダヤ教の影響によるものです。モーセの律法の中でも最重要なのは十戒ですが、その第二戒には「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。」(「出エジプト記」20章7節より))とあります。このためユダヤ人たちは神様の御名を事実上決して唱えることがありませんでした。旧約聖書での神様の御名はヘブライ語の四つのアルファベット(英語のアルファベットだとJHWHに対応します)で表され「テトラグランマトン」(聖四文字)と呼ばれています。しかし上記の理由により、これがどのように発音されたのかについて確実なことはわかっていません。現行のヘブライ語聖書の底本ではアルファベットに母音記号が付されています。そしてJHWHに付されている母音をそのまま発音した「エホバ」が本来の読みかたではないことははっきりしています。ユダヤ人たちはJHWHを「アドナイ」という言葉(「主」という意味)に言い換えて発音していたからです。そしてこの「アドナイ」に付された母音が後の時代にはJHWHにも付されるようになったのです。今では「ヤハヴェ」という発音がJHWHの本来の読み方に近いのではないかと推測されています(「出エジプト記」3章14節を参照してください)。

神様による御業について表記するときに旧約聖書では受動態が用いられました。こうすることで神様の御名を主語として明示しないで済むからです。この伝統は新約聖書でも受け継がれています。このために前述の「ルカによる福音書」2章1節でも「そして(次の出来事が)起きた」というようにギリシア語では受動態の表現になっているのです。残念ながら各種の翻訳ではこうした側面は言語間の相違のために看過されてしまう傾向があります。そのまま訳そうとすると不自然な言い回しになりやすいからです。

エルサレム神殿にはじめて訪れたイエス様 2章21〜40節

これから扱う箇所(特に2章39節)はパウロが次の「ガラテアの信徒への手紙」4章4節で述べていることと内容的に同じものです。

「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」 (「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、口語訳)

旧約聖書の律法は人も獣もその初子を主のために聖別しなければならないと次のように命じています。

「イスラエルの人々のうちで、すべてのういご、すなわちすべて初めに胎を開いたものを、人であれ、獣であれ、みな、わたしのために聖別しなければならない。それはわたしのものである。」
(「出エジプト記」13章2節、口語訳)

人の初子は銀五シケルであがなわなければならないとされました(「民数記」18章15〜16節)。これはヨセフにとって約二ヶ月分の収入に相当しました。レビ人たちはイスラエルの初子の代わりとして神殿で奉仕しました(「民数記」3章11〜13節、8章17〜18節)。

女性は男の子を産んだ後、宗教的に四十日間穢れた状態にあるとされました(女の子を産んだ後では八十日間穢れた状態にあるとされました)。この期間が過ぎると彼女は宗教的な清めのために次のようなことを行います。

「男の子または女の子についての清めの日が満ちるとき、女は燔祭のために一歳の小羊、罪祭のために家ばとのひな、あるいは山ばとを、会見の幕屋の入口の、祭司のもとに、携えてこなければならない。祭司はこれを主の前にささげて、その女のために、あがないをしなければならない。こうして女はその出血の汚れが清まるであろう。これは男の子または女の子を産んだ女のためのおきてである。」
(「レビ記」12章6〜7節、口語訳)

もし彼女が貧しくて小羊を捧げるほどの経済的な余裕がない場合には、山ばと二羽か、家ばとのひな二羽かを取って、一つを燔祭、一つを罪祭とし、祭司はその彼女のために、あがないをしなければなりませんでした(「レビ記」12章8節)。

このことから、ヨセフとマリアは貧しかったことがわかります(2章24節)。

次にメシアの到来を待ち望んでいたシメオンとアンナという二人の人物が登場します(10章23〜24節も参照してください)。ヘブライ語では彼らの名前だけではなく他の名詞にも意味があります。ヘブライ語で「シメオン」は「彼(神様)は聴いてくださった」、「アンナ」は「恵み」、「パヌエル」(2章36節)は「神様の御顔」あるいは「神様の臨在」、「アセル」(2章36節)は「幸い」あるいは「救い」を意味します。アセル族はイスラエルの北王国に属する十部族のうちの一つであり、当時残存していた部族民はごく少数でした。

「その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。」
(「ルカによる福音書」2章25節、口語訳)

聖霊様がシメオンの上に留まっていたと上節に記されていることは注目に値します。旧約聖書の時代には神様の御霊が人々の上に留まるのは瞬間的にすぎないと考えられていたからです。ところがシメオンは新約と旧約の境界に立つ人物だったのです。

ユダヤ教の教師であったラビたちは、旧約聖書には七人の女性の預言者がいたと教えました。新約聖書が女性の預言者たちについて言及している箇所は二つあります。今扱っている箇所と「使徒言行録」21章9節(伝道者ピリポの四人の娘)です。2章37節に描かれているような信仰生活を送っていたアンナはいわば「神殿の囚人」でした。神殿内にずっと留まっている人々のことをユダヤ人たちはそのように呼称していたのです。

「シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに
この僕を安らかに去らせてくださいます、
わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
異邦人を照す啓示の光、
み民イスラエルの栄光であります」。」
(「ルカによる福音書」2章28〜32節、口語訳)

幼子イエス様を見ることができた老人シメオンは神様から与えられた務めからついに解放されました。幼子イエス様がエルサレム神殿に来られたからです。この出来事は、シメオンがひたすら待ち続けてきたメシアが神殿に来られたということを意味しています(2章29節)。イエス様が全世界の救い主であることを公の場で宣言したのはシメオンが最初でした(2章31節)。

「するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。」
(「ルカによる福音書」2章34〜35節、口語訳)

上掲の箇所のように、シメオンはイエス様の受難と死についても新約聖書で他の人々に先駆けて予言しています。イエス様はイエス様の側につく者たちとイエス様に反対する者たちという二つのグループにすべての世代を二分することになるのです(「マルコによる福音書」9章40節)。

ルカはベツレヘムでの出来事についてこれ以上のことを記していません。それに対して、例えば「マタイによる福音書」2章1〜13節は東からきた博士たちや幼児の集団虐殺などについて詳述しています。マタイはヨセフの視点から語っており、そのためヨセフ自身の故郷であるベツレヘムでの出来事についてルカよりも高い関心をもっていたのです。

12歳のイエス様の神殿での出来事 2章41〜52節

「さて、イエスの両親は、過越の祭には毎年エルサレムへ上っていた。」
(「ルカによる福音書」2章41節、口語訳)

上節でも「ルカによる福音書」はマリアとヨセフの信仰熱心さを強調しています。律法は聖地エルサレム詣を年に三回行うよう指示しています。その三回の時期とは過越の祭と七週の祭と仮庵の祭の時です。過越の祭はキリスト教での復活祭(イースター)に、七週の祭はキリスト教での聖霊降臨祭(ペンテコステ)にそれぞれ対応する時期に行われます。しかし実際には過越の祭の時にパレスティナに住むユダヤ人たちは一年ごとに、そして「ディアスポラ」の(各地に離散していた)ユダヤ人たちは一生に一度はエルサレム詣をすることを目指していたと言えます。律法によると、エルサレム詣は男性に対してのみ要求されるものであり、女性は自分で希望する場合には行えばよいことになっていました。とはいえ、エルサレムでの祭には家族単位で参加するのが普通のありかたでした。

この箇所でエルサレムを訪れた時点ではイエス様はまだいわゆる「律法の子」(13歳になったユダヤ人男子)にはなっていませんでした。「律法の子」になると律法(ヘブライ語で「トーラー」)を遵守する責務を負うことになります。ここで「律法」とは直接的には旧約聖書の冒頭の五書(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)のことを指しています。

「そして三日の後に、イエスが宮の中で教師たちのまん中にすわって、彼らの話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。」
(「ルカによる福音書」2章46節、口語訳)

イエス様が両親の前から消えていたのが三日間であったと記されているのは興味深いです。

「するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。」
(「ルカによる福音書」2章49節、口語訳)

これは私たちに知られているイエス様の最初の言葉です。すでに最初からイエス様は御自分が旧約聖書にその到来が約束されていたメシアであることを知っておられたのです。

イエス様は神様のことを「自分の父」と呼んでおられます。これは例外的なことでした(メシアについての預言として知られる「詩篇」89篇27〜28節、「サムエル記下」7章14節も参照してください)。イスラエルは御民として神様のことを「われわれの父」と呼んでいました(「イザヤ書」63章16節)。しかしユダヤ人は一個人としてはそのような呼称は用いなかったのです。

「それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。」 (「ルカによる福音書」2章51節、口語訳)

イエス様が御自分の両親にお仕えになったというのは、イエス様が神様の定められた秩序や御計画に対して従順を貫かれたという意味です(「エフェソの信徒への手紙」6章1〜9節にあるパウロの家訓を参照してください)。

上節は「ルカによる福音書」で父ヨセフの出てくる最後の箇所です。キリスト教会の伝承によればイエス様が19歳の時にヨセフは死んだとされています。ともあれ、イエス様が約30歳で公の伝道活動を開始された時にはすでにヨセフは死去していました。また母マリアはエフェソで死去したとも言われています。イエス様の母マリアの今後の世話を十字架上のイエス様から依頼されたヨハネは(「ヨハネによる福音書」19章26節)、人生最後の日々をエフェソで過ごしたことが知られているからです。

今まで述べてきたように、公の場で伝道活動を始められる以前のイエス様の人生については少しのことしかわかっていません。福音書記者たちは私たち読者にイエス様のこの世での最後の三年間についてのみ語っていると言うこともできます。しかも実際には三年間のうちでも特にその最後の一週間に焦点を絞って詳述しているのです。「マルコによる福音書」は「長い序文のついた受難の記録」と呼ばれることがあります。私たちがもっている福音書はイエス様の人生の伝記ではなくイエス様の行いや意味についての叙述であると言えましょう。