ルカによる福音書5章
イエス様が近くにおられると人の罪が明るみになる 5章1〜11節
この箇所は私たちに、人間と神様の間には少々の段階的な差だけではなく決して越えることのできない深い溝が横たわっていることを明らかにします。人類が自然に受け継いできた宗教性によれば、人間と神様の間の違いはどのようにでも調整ができるものであると考えられています。しかし、それが本人自身の意思によるものかどうかはさておき、人間が神様のおそばに近寄っていくにつれてよりいっそう明らかになってくるのは、その人の置かれている絶望的な状況です。
人は罪を行うことによって罪人になるのではありません。人間はいつもすでに罪人なのです。イエス様が近くに来られて己の罪深さを明るみに出された人間は罪人となる(自らの罪深さを自覚する)と言うことができます。そしてこれこそが、多くの人間がイエス様から遠ざかっていきたがる理由なのです。イエス様の弟子になる前のペテロもそのような人間でした(5章8節)。
「話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。」
(「ルカによる福音書」5章4節、口語訳)
漁の専門家であったペテロにはイエス様の助言はさすがに的外れであると思われました。ところが、まもなくそれが実は正しかったことが判明します。この出来事からペテロはイエス様がたんなる偉大な説教者ではなく、また奇跡を行う者にすぎないのでもなく、自然を支配するお方でもあることを体感したのです。神様御自身がイエス様と共におられることをペテロは思い知ったのでした。
「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。」
(「ルカによる福音書」5章8節、口語訳)
この出来事はペテロの人生の転機となりました。「シモン・ペテロ」というようにペテロの名がここで記載されていることがそれを端的に示しています。今までの古い「シモン」という名に新たに使徒としての「ペテロ」という名が彼に与えられたのです。
おそらくペテロ、彼の兄弟アンデレ、またシモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネは漁師仲間だったのでしょう。水深の深い場所で漁をするときには少なくとも二艘の船が必要だったからです。
今や両方の船の漁師たちは一緒にそれまでの古い生業を捨てて「人間をとる漁師」(5章10節)になることにしました。そしてこれは人々を命から死へとではなく死から命へと引き上げる仕事だったのです。
全身「らい病」になっている人を癒す 「ルカによる福音書」5章12〜16節
「らい病」はそれを患う人を社会の外に隔離してしまう病気でした。この病気は接触によって広まったので、罹患した人々は健康な人々から隔離されたのです(「レビ記」13章45〜46節)。彼らに残された唯一の人間関係は他の「らい病人たち」との関わり合いだけでした(「ルカによる福音書」17章11〜12節)。
当時、「らい病」という名称は様々な皮膚病について用いられていました。それゆえ、聖書での「らい病」が現代で「らい病」と呼ばれている病気であるとはかぎりません。
旧約聖書の律法には人が「らい病」から癒されたかどうかを判断するための指針が記されています(「レビ記」14章1〜32節)。しかし旧約聖書全体を通しても「らい病人」が癒された出来事はたった二つしかありません。「民数記」12章10〜15節(モーセの姉ミリヤム)と「列王記下」5章1〜14節(スリヤ王(シリア王)の軍勢の長ナアマン)です。後者についてイエス様はナザレの会堂でお話しになったことがあります。
「イエスがある町におられた時、全身らい病になっている人がそこにいた。イエスを見ると、顔を地に伏せて願って言った、「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。」
(「ルカによる福音書」5章12節、口語訳)
「らい病人たち」は町中に入ることを禁じられていました。しかしこの箇所に出てくる「全身らい病になっている人」は希望がもてない状況におかれつつも、あえて律法の命令に反して町に入りイエス様の御許にやってきたのでした(ただし上節の「町」を「町の領域」と広く解釈する場合には、そこには町を囲む壁の外部の領域も含まれることになります)。
「イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。すると、らい病がただちに去ってしまった。」
(「ルカによる福音書」5章13節、口語訳)
「らい病」を患って以来、初めてこの病人は誰か健康な人が彼に触れるのを感じとり、たちまちのうちに病から癒やされたのです。
イエス様は彼をエルサレムへと送り出しました。癒された人が律法に定められた犠牲を捧げて主に感謝するためであり、それによって神殿の祭司たちにも今やメシアの時代が始まったというたしかな証を与えるためでもありました(後の箇所で洗礼者ヨハネの弟子たちの質問にイエス様がどのように答えられたかも参考になります(7章18〜23節))。
私たちはすでに以前の箇所で、イエス様が癒された人々に癒しの出来事について他言しないように言われた理由について説明しました。
今回の箇所にはもう一つの理由が示されています。それは、この奇跡が起きたことで大勢の群衆がイエス様の御許に詰めかける事態となり、イエス様は人々を癒すためにすべての時間を取られて福音を宣べ伝える時間がまったくなくなってしまったということです(4章43節のイエス様の福音宣教計画を参照してください)。
今日でも、宣べ伝えられる福音ではなく奇跡のほうが人々を教会へと呼び寄せる動因になりやすいでしょう。しかし「福音よりも尊く重要なことは他には何も存在しない」ということを私たちは常に覚えておかなければなりません。
罪を赦すことができるのは誰か? 5章17〜26節
イエス様の活動の評判はユダヤ人の宗教的な中心地であるエルサレムにも伝わっていました。ファリサイ派や律法学者たちがイエス様をみるためにエルサレムから来た動機はたんなる好奇心ではなく、イエス様の活動が律法に適っているかどうか、すなわちユダヤ人の律法解釈に合致しているかどうかを評価するためでもあったのは明白でした。
ファリサイ派は祭司階級以外の人々による信仰刷新運動を推進しており、律法には厳格に従うべきであるとする立場を提唱していました。ファリサイ派の人数はそれほど多くはなく、ユダヤ人歴史家ヨセフスによれば、およそ六千人ほどでしたが、一般のユダヤ人たちの事実上の宗教的な指導者としての影響力を持っていました。
サドカイ派は一般市民から乖離した上流階級でした。一般の祭司たちは神殿での犠牲の儀式を遂行する義務を担っていました。
律法学者は職業神学者であり、また法律の専門家でもありました。彼らは旧約聖書の宗教的・司法的な律法を解釈しました。彼らの多くはファリサイ派にも属していました(5章30節)。
「ひとりの中風をわずらっている人」(5章18節)が床にのせたままイエス様の御前に連れられてきました。この出来事はイエス様が御自分の真の姿を公に示される機会となりました。
ファリサイ派の中心的な教えの一つに「病人はその罪が赦される前には癒やされることがない」というものがありました(「ヨハネによる福音書」9章2節を参照してください)。「病気は何らかの罪のもたらした結果であり、病気が癒やされるためには罪の赦しが必要である」と彼らは主張したのです。そして「人が罪の赦しを受けられるのは、その人が律法に要求されている様々な犠牲を捧げた結果としてである」と彼らは理解していました。
この出来事でイエス様はファリサイ派の教えの通りに行われました。まず中風をわずらっている人の罪を赦され、それからその人に健康をお与えになったのです。しかし、イエス様はその人が犠牲を捧げることや何か他の宗教的な儀式を形式的に行うことを要求することなく、その人に対して「無償で」罪の赦しを宣言なさったのです。「このようなことは神様にのみ許されることであり、また可能なことである」とファリサイ派は考えました。
ファリサイ派のこのような考えかたはイエス様との間のやりとりにおける主な論争点となりました。ファリサイ派はイエス様の神性を示す「罪の赦しを無償で与える行為」を涜神行為とみなしました。彼らが待望していたのはこの世的なメシアであって、神様としてのメシアではなかったのです。もしもイエス様がたんなる人間にすぎなかったのだとしたら、ファリサイ派のイエス様に対する告発は正しかったことになります。イエス様は自分が神であるかのように振る舞うことで神様を冒涜したことになるからです。しかし真の人間でも真の神様でもあるイエス様の行為は神様を冒涜することにはなりませんでした。ファリサイ派は真理に近づきはしましたが、残念ながら近づいただけでやめてしまったのです。
「あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言うのと、どちらがたやすいか。」
(「ルカによる福音書」5章23節、口語訳)
上節のイエス様のやや奇妙に聞こえる質問は「罪の赦しの宣言」がいつの時代であってもこの世では目に見えない「天国の広場での出来事」であることを示唆しています。「罪の赦し」とは対照的に、「病の癒し」の効果があったかどうかは人が見てすぐに確認できることでした。
ファリサイ派は自分たちの教え(病人はその罪が赦される前には癒やされることがない)に心から信頼を置いていたのなら、その人の病を癒やされたイエス様がその人の罪も赦されたことを素直に認めるべきだったのです。
「しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あなたがたにわかるために」と彼らに対して言い、中風の者にむかって、「あなたに命じる。起きよ、床を取り上げて家に帰れ」と言われた。」
(「ルカによる福音書」5章24節、口語訳)
「ルカによる福音書」ではここで初めてイエス様は御自分について「人の子」という名称を用いられました。メシアに用いられるこの名称は次の「ダニエル書」の箇所に由来しています。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」
(「ダニエル書」7章13〜14節、口語訳)
新約聖書では二回だけイエス様以外の者がこの名称を口にしています(「ヨハネによる福音書」12章34節でイエス様の発言内容について問いただすユダヤ人群衆および「使徒言行録」7章56節でのステパノ)。
奇跡とは何か?
私たちは「イエス様は奇跡を行ったので神様の御子なのである」という論理的順序で考えるべきではありません。むしろ「イエス様は神様の御子なので奇跡を行われた」と考えるべきなのです。実から木は知られるものだからです!
それでは奇跡とはそもそも何なのでしょうか。聖書での奇跡の出来事をたんなる過去の時代の無知の産物にすぎないものと説明したがる人は大勢います。「現代の知見によってそれらの現象にも理性的な説明を与えることができる」と彼らは考えます。
聖書での奇跡、特に福音書での奇跡は神様が奇跡を通して実際に働きかけておられることを証するものです。ですから個々の奇跡の出来事に対して自然現象としての説明を探す必要はありません。奇跡は神様の御業だからです。神様の御業は部分的には人間の理性でも理解が可能ですが、決して理解できない部分も必ず存在するのです。
奇跡それ自体には価値がないことをよく覚えておくべきです。神様は人間をその肉体的な危機からも霊的な危機からも助け出そうと望んでおられます(5章12節)。しかし神様は御自分のやりかたでそうなさるのです。イエス様の時代でさえすべての病人が癒されることはありませんでした。
神様は肉体的な病も霊的な病も癒やされるようにと私たちのことも招いておられます。しかし「何が重要なことか」という適切な基準を見失うべきではありません。それは「罪という霊的な病は常に肉体的な病よりも重大な病気である」という基準です(5章24節)。
罪の赦しがあるところには神様の御国も臨在しています。これは今日でも変わりません。
彼らの信仰
「イエスは彼らの信仰を見て、「人よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。」
(「ルカによる福音書」5章20節、口語訳)
上節で「彼の信仰」ではなく「彼らの信仰」と書かれていることに注目してください。病人を運んだ人々(「マルコによる福音書」2章3節では四人の男たち)と彼らに運ばれてきた病人自身とがこの表現には含まれています。彼らが病人をイエス様の御許に運んだ行為が「彼らの信仰」の証となりました。
私たちも人々を祈りによって神様の御前に「運んでいく」ことができます。「私たちの信仰」も「彼らの信仰」と同じように素晴らしい結果を生むことができます。その結果とは罪の赦しと救いです。
レビは立ち上がりイエス様に従った 「ルカによる福音書」5章27〜32節
当時、ダマスコからエジプトに至る「海の道」と呼ばれる重要な交通路がありました。カペルナウムの近くを通るこの道の傍で取税人レビが収税所に座り、ヘロデ・アンティパスのために税金を徴収していました。
ユダヤ人たちは取税人たちのことを「祖国の裏切り者」とみなして憎んでいました。彼らはユダヤ人であるにもかかわらず、ローマの手先として自分の同胞から税金をしばしば不当に多く搾取していたからです。
組織的な不正が罷り通るこの徴税制度はローマ人たちが税金を徴収する権利を「競売」にかけて落札させていたために起きました。彼らは自分の取り分を確保しさえできれば取税人たちが実際にどれほどの税金を徴収したのかにはあまり興味を示しませんでした。そしてこのことは取税人たちによる不当な取り立てを助長しました。
「そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。」
(「ルカによる福音書」5章27〜28節、口語訳)
レビがイエス様の弟子として召された出来事の記述は実に簡潔です。この箇所をアラム語で考えてみると、レビの召しには「レーヴィ(レビよ)、ラヴァー(私たちに従いなさい)!」という言葉遊びが含まれています。取税人たちは裕福さで有名でした。それゆえイエス様の弟子になるのはレビにとって勇気のいる決断でした。「自分のものとしてずっと持ち続けることができないものを自ら手放す者は愚か者ではない。むしろ、自分のものとして失うことがないはずのものを自ら手放す者こそが愚か者なのである」とあるアメリカ人宣教師は言ったそうです。この世のすべての持ち物や財産をいつかは手放さなければならない時が必ずきます。しかし、イエス様への信仰だけは自分が死んだ後でも意味を持ち続けます。実にこの信仰こそが永遠の命を与えてくれるからです。
貧しい人々がイエス様を受け入れたことをルカはしばしば強調しています。レビはこの点で、富裕さそれ自体は人が神様の御国に入る妨げにはならないことを示す好例です。とはいえ、まさに富裕さのせいでその持ち主が御国に入れなくなってしまうケースも多々見られます。もちろん人が御国に入れなくなる原因には富裕さだけではなく他にもいろいろあります。例えば友人関係や仕事などもそうです。
取税人は「罪人」とみなされていました(5章30節)。彼らは安息日にも税を取り立てなければならなかったし、ユダヤ人たちから汚れたものとみなされていた動物や荷物も職業上扱わなければならなかったからです。
そういうわけで、イエス様の行動をうかがっていた者たちはイエス様とその弟子たちが取税人レビの主催した食事会に参加なさったことを非難したのです。
彼らの批判に対してイエス様は「医者が病人たちと一切接触しないという考えは無意味である」とお答えになりました。病人と接する医者と同様に、罪人たちの癒し主なるイエス様には「罪人たちと付き合わない」などという選択肢はありえなかったのです。
興味深い細部について
紙幅の都合上、このガイドブックでは福音書の細部にはあまり立ち入ることなく、核心的な出来事を取り上げています。
しかしこの箇所ではいくつかの細部について考察することにします。聖書を注意深く読むことでごく短い断片からも多くの情報を引き出せることを示すことができるからです。
「イエスは答えて言われた、「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。」
(「ルカによる福音書」5章31節、口語訳)
上掲の節でルカは「マルコによる福音書」と「マタイによる福音書」の用いた「健康な(人たち)」というギリシア語の単語(イスキュオンテス)を別の単語に置き換えています。マルコとマタイの用いた単語は実は「強い(人たち)」(複数形)という意味の単語です。それに対してルカの用いた単語(ヒュギアイノンテス)は医学用語であり、文字通り「健康な(人たち)」(複数形)を意味しています。
他の箇所でもルカは当時の医学でよく知られた単語を何度も使用しています。このことは「ルカによる福音書」の執筆者ルカが医者であったことを証しています。
「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
(「ルカによる福音書」5章32節、口語訳)
この節でイエス様が「わたしがきたのは」という表現で言われたいのは「私はナザレからカペルナウムにきた」ということではもちろんなく「私たち人としてこの世に生まれた」ということです。この箇所はイエス様がこの世に人としてお生まれになる前にも神様の御子として世の始まる前からすでに存在なさっていたことを示唆しているのです。このテーマ(「キリストの先在」と呼ばれます)については「ヨハネによる福音書」1章1〜18節および「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節に明示されています。
聖書の執筆者たちはすべてのことについて誰にでもわかるような形でいつも明瞭に述べているとはかぎりません。むしろ、そのメッセージは一見すると「隠されている」こともあります。
婚礼の客たちは断食しない 「ルカによる福音書」5章33〜35節
「また彼らはイエスに言った、「ヨハネの弟子たちは、しばしば断食をし、また祈をしており、パリサイ人の弟子たちもそうしているのに、あなたの弟子たちは食べたり飲んだりしています」。するとイエスは言われた、「あなたがたは、花婿が一緒にいるのに、婚礼の客に断食をさせることができるであろうか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう」。」 (「ルカによる福音書」5章33〜35節、口語訳)
「ルカによる福音書」を読み進めていくとき、ここでの断食をめぐる問答はその直前に出てくるレビの食事会での出来事であったかのような印象をもちます。しかし「マルコによる福音書」2章18節では、断食をめぐる問答は別の出来事に関連付けられています。これから私たちは次の二つのことを学びます。
1)ルカは出来事の起きた時間的順序にさほど関心をもっていなかった。
2)福音書記者たちは資料の内容の多くを福音書に書き記せないことが何度もあった(下記の引用箇所を参照してください)。しかも私たちはその結果生じた「欠落部分」に気が付きにくいことがしばしばある。
「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」
(「ヨハネによる福音書」21章25節、口語訳)
モーセの律法は断食の日を一年のうちで一日だけ要求しました。ヘブライ語で「ヨム・キプル」と呼ばれる「贖罪の日」です。
「これはあなたがたが永久に守るべき定めである。すなわち、七月になって、その月の十日に、あなたがたは身を悩まし、何の仕事もしてはならない。この国に生れた者も、あなたがたのうちに宿っている寄留者も、そうしなければならない。この日にあなたがたのため、あなたがたを清めるために、あがないがなされ、あなたがたは主の前に、もろもろの罪が清められるからである。これはあなたがたの全き休みの安息日であって、あなたがたは身を悩まさなければならない。これは永久に守るべき定めである。」
(「民数記」16章29〜31節、口語訳)
バビロン捕囚の後、ユダヤ教では毎週二度断食の日を設ける習わしができました(「ルカによる福音書」18章17節も参照してください)。木曜日と月曜日に断食したのです。これはモーセが木曜日にシナイ山に登り、月曜日にそこから下山したことを覚えるためでした。
断食しなくても律法を破ることにはなりませんでしたが、律法を熱心に守ろうとするユダヤ人として認められたい場合には断食しなければなりませんでした。
断食をめぐる問答でのイエス様のお答えは意外なものでした。婚礼の客たちはユダヤ教の断食の慣習を破るほかありませんでした。当時の婚礼は一週間も続くものであったため、婚礼の客は誰もその期間中には断食しなかったからです。このように断食が不可能な例外的な状況は実際にあるのです。
イエス様のお答えには「人類の救いの歴史」にかかわる視点も含まれています。すなわち、ユダヤ人たちはイスラエルを「神様の花嫁」とみなしていたということです。神様の花嫁であるイスラエルの「花婿」が到着したということは、花婿イエス様は神様にほかならないということになります。ここでも再びイエス様は御自分が神様であることを明らかになさったのです。
しかしイエス様の敵対者たちはこの婚礼に参加するのを望まず、むしろ断食することを欲したのです。神様の御子と御民の間に交わされる「新約」という婚姻関係の外部へと彼らは自ら歩み去っていきました。
断食とは何か?
現代では断食は健康ダイエットと関連づけて理解されることがしばしばあります。しかしユダヤ人たちにとって断食とは罪を悔いるしるしであるため、洗礼者ヨハネの弟子たちが断食に熱心だったことにも納得がいきます(5章33節)。
キリスト教信仰における断食の核心には、無益なことや余分なことを捨て去って重要事項に心を集中しやすくするという考えかたがあります。
受難についての最初の啓示
「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。」 (「ルカによる福音書」5章35節、口語訳)
上節は、イエス様の公の伝道活動がどのような結末を迎えるかを明確に述べている「ルカによる福音書」での最初の啓示です(2章34〜35節も参考になります)。「花婿が奪い去られる」とは、イエス様が十字架上で死なれることを示唆する表現です。
この表現が受動態になっているのは、その行為者が神様であることを示すためです。これは神様の働きを表すために用いられる受動態であり、同様の表現は聖書の他の箇所にもあります。イエス様を十字架へと導いたのがほかでもなく神様御自身の御意思であったことがこの受動態によって明確に表現されているのです。
この節にはまた他の宗教のグループ(例えばアドベント教会)が見落とした点があります。キリスト信仰者は「モーセの律法による暦」ではなく「救いの歴史の暦」によって日時の経過を計算するという点です。イエス様の復活は新たな日時の始まりでした(「使徒言行録」20章7節も参考になります)。この新たな日時によれば「安息日」(土曜日)ではなく「復活の日」(日曜日)が聖日とされました。
三つの間違った選択肢 「ルカによる福音書」5章36〜39節
イエス様のここでの譬えは「律法の道」と「恵みの道」という二つの信仰の考えかた、およびそれらを一つにまとめたものを踏まえると理解しやすくなるでしょう。
イエス様は律法と恵みを一つにする間違った三つのやりかたについて指摘しておられます。
「それからイエスはまた一つの譬を語られた、「だれも、新しい着物から布ぎれを切り取って、古い着物につぎを当てるものはない。もしそんなことをしたら、新しい着物を裂くことになるし、新しいのから取った布ぎれも古いのに合わないであろう。」
(「ルカによる福音書」5章36節、口語訳)
一番目の間違ったやりかたは、新しいものからも古いものからも少しずつ取ってきてそれらを混ぜ合わせるというものです。福音が古い規則の代替物にすぎないと考える人々はこのような考え違いをしています。
「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになるであろう。」
(「ルカによる福音書」5章37節、口語訳)
二番目の間違ったやりかたは、古い信仰も新しい信仰もそれぞれ丸ごと全部を取って来ようとするものです。当時一般の「皮袋」はヤギの皮を丸ごと縫って袋にしたものでした。古い皮袋は柔軟性を失い硬くなっていたため、新しいブドウ酒が発酵する際にそれに合わせて変形することができなくなっていました。それと同じように、福音(新しい皮袋)は律法(古い皮袋)を補完するものではなく、全く新しい別の何かなのです。
「まただれも、古い酒を飲んでから、新しいのをほしがりはしない。『古いのが良い』と考えているからである」。」
(「ルカによる福音書」5章39節、口語訳)
三番目の間違ったやりかたは、新しいものを捨てるというものです。もともと人間は変化に反対する傾向を強くもっています。新しいことを試すよりも古いことを墨守するほうが容易だからです。
「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」
(「ルカによる福音書」5章38節、口語訳)
唯一の正しいやりかたは、新しいものだけを採用することです。これは恵みのみによって生きていくという意味です(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節も参考になります)。