ルカによる福音書22章
- インターネットでルカによる福音書22章を読むか聴く(口語訳)
ゲッセマネ、ガッバタ、ゴルゴタ 「ルカによる福音書」22〜23章
四つの福音書、特に「マルコによる福音書」は「長い序文で始まる受難の歴史の語り手」などと言われてきました。イエス様の苦しみ、死、復活はキリスト教信仰の最も中心的なものであるため、福音書記者たちもこれらの出来事を正確に伝えています。すべての福音書記者が一致してイエス様の受難の出来事について描写していますが、それでもそれぞれの語りにはその福音書ならではの特徴がいくつかあります。例えば、ルカは最初の福音書を書いたマルコよりも簡潔な語りかたをしていますが、その一方ではマルコが語っていない出来事についても言及しています。
イエス様に対する裏切り 「ルカによる福音書」22章1〜6節
過越の祭り(ニサンの月14日)と除酵祭(ニサンの月15〜21日)はユダヤ教の最大の祝日でした(「出エジプト記」12章)。ユダヤ人歴史家ヨセフスと同様に、ルカはこれら二つの祝日を一つにまとめて扱っています(22章1節(「過越といわれている除酵祭」))。
この段階に至ってイエス様に敵対する二つのグループが力を合わせました。世俗化したサドカイ派は何よりも権力を失うことを恐れていましたが、ファリサイ派に率いられた律法学者たちにとってイエス様は危険な異端者でした。しかし彼らには深刻な問題が残っていました。イエス様はまだこの時点では民衆に非常に人気があったため、昼間に逮捕しようとすれば、そのせいで暴動が起きてしまう恐れがあったのです。
それゆえ、イエス様の十二弟子の一人だったユダが「群衆のいないときに」(6節)イエス様を裏切るという申し出をしたのは、イエス様の敵対者たちには願ってもないことでした。
ルカはユダが裏切った理由を特に説明せず、たんにそれがサタンの仕業だったと述べています。より詳しい説明を探し求める人々も当然いて、とりわけ次の4つの説明が提案されています。最初の説明によると、ユダは金銭欲からイエス様を裏切ったとされます(「マタイによる福音書」26章15節、「ヨハネによる福音書」12章6節 )。第二の説明によると、ユダは熱心党員(ギリシア語で「ゼーロータイ」)という反ローマ抵抗運動の一員であったとされます。「イスカリオテ」は熱心党員の「短剣男」を意味するギリシア語の「シカリオット」という言葉に似ています。第三の説明は第二の説明とはまったく逆のものです。それによると、ユダは保守的な古い考えかたをするユダヤ人で、宮清めを強行したイエス様に失望したとされます。第四の説明によると、ユダは自分の裏切りが原因で生じたこの絶望的な状況からでさえイエス様なら奇跡的に切り抜けるだろうと考えていたとされます。
したがって、ユダはただイエス様による反乱の始まる時期を早めたかっただけなのか、あるいは、イエス様にすっかり失望したためにイエス様への復讐として裏切ることにしたかのどちらかだということになります。
イエス様を裏切って敵側に引き渡す条件としてユダに支払われた銀貨30枚(「マタイによる福音書」26章15節)は当時の奴隷一人当たりの標準的な価格でした(「出エジプト記」21章32節)。しかし何よりもそれは旧約の預言者ゼカリヤを通してその到来が預言されていたメシア(すなわちキリスト)に対して支払われるべき代価でした(「ゼカリヤ書」11章12節)。大祭司たちは「イエスは自分で自分をメシアに仕立て上げたのだから、彼を裏切るユダの報酬はメシアに支払われるべきはずの代価にしてやろう!」と考えてイエス様を侮辱したのではないか、とも推測されています。
過越の食事の準備 「ルカによる福音書」22章7〜13節
イエス様の一連の受難の出来事はわずか一日の間に起こりました(私たちのカレンダーだと木曜の夕方から金曜の夕方までに相当します)。
エルサレムは過越の祭の時期には巡礼者で大変混雑するため、過越の食事をする場所を見つけるのは容易ではありませんでした。おそらくエルサレムに住んでいたイエス様の弟子の一人が、イエス様と弟子たちに部屋を提供することをあらかじめ約束していたのでしょう。「席の整えられた二階の広間」(22章12節)は、イエス様が昇天された後に弟子たちが集まった部屋と同じだったと考えられています(「使徒言行録」1章13節)。おそらくそれは「マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家」にあった部屋でしょう(「使徒言行録」12章12節)。
弟子たちは部屋を探している時に起きた奇妙な出来事を通して部屋を見つけることができました。ある男性が水の入った容器を運んでいたのです。当時、水を運ぶのは普通は女性の仕事とされていました。
律法によれば、小羊の肉を過越の食事で食することができる場所はエルサレムだけであり、エルサレム以外での過越の食事には苦いハーブ、赤い果物のピューレ、種なしパン、グラス4杯分のぶどう酒しか含まれていませんでした。また過越の食事には長い儀式が伴いました。
通常の場合、イエス様が十字架につけられた日の正午までは過越の小羊が屠られることはありませんでした。聖書学者たちは、イエス様が(正式の暦と並行して当時使用されていたことが知られている)非公式の暦に従って過越の食事をなさったか、あるいは御自分の受難の出来事を事前に知っていたために早めに過越の食事を取ることになさったかのどちらかだと考えています。かつてスウェーデンのルーテル教会の司教だった神学者Bo Giertzは「福音書はイエス様と弟子たちが「過越の小羊」を食べたとは明記しておらず、「過越の食事」(13節)についてのみ言及しているため、イエス様の最後の晩餐には小羊が含まれていなかったのかもしれない」と言っています。
ユダヤ人の慣習によれば、当時の裕福な人々が寝そべって食事をとったように、過越の食事も横になって食べることが要求されました。このやりかたはイスラエル人が「自由な民」であることを示すものでもありました。
「私の血における新しい契約」 22章14〜23節
22章17節の「杯」は過越の食事の4つの杯のうちの1杯目か2杯目のいずれかに当たるものであり、22章20節の杯は3杯目か4杯目のものです。
「あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない。」
(「ルカによる福音書」22章16節、口語訳)
旧約聖書の神殿でのすべての犠牲がこれから起こる受難の出来事の「予型」(予兆や前兆)にすぎなかったことをイエス様はこの節で示しておられます。最後の予型である「最後の晩餐」の時が来ました。旧約聖書の予型がついに現実の出来事になる時が来たのです。
「またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。」」
(「ルカによる福音書」22章19〜20節、口語訳)
上掲の箇所でイエス様は新しい契約を結ばれました。次の引用箇所のように、旧約の預言者エレミヤは神様が世の終わりに御自分の御民とこの契約を結ぶことを予言していました。ユダヤ人たちの過越の食事は、今やこの新しい契約、聖餐式の食事となったのです。
「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」
(「エレミヤ書」31章31〜34節、口語訳)
私たちが聖餐式を施行する時にイエス様御自身が臨在しておられます。「これは…」(22章19〜20節)がそれを明瞭に示しています。宗教改革者マルティン・ルターはこのイエス様の御言葉を文字通りに厳格に守り、聖餐式をイエス様の御業をたんに記念するだけの食事と考える改革派(ツヴィングリ)の教義には同意しませんでした。
イエス様による最初の聖餐では、さらにもうひとつの予型的なことが行われました。イエス様が聖餐のパンを取り、感謝してこれを裂かれたのです。このパンはイエス様御自身のからだにほかなりません。まもなくイエス様のからだは実際にも引き裂かれることになるのです。
「しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食卓に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである。」
(「ルカによる福音書」22章21〜22節、口語訳)
イスカリオテのユダもこの最初の聖餐に参加していました。しかし彼はすでにこの時点で「自分の行く道」を選んでしまっており、聖餐の後でその場を立ち去ります(「ヨハネによる福音書」13章30〜31節)。
イエス様を殺害するのはサタンの策略でした。しかしサタンの手先となったユダは自分の裏切り行為についてその責任を負うことになりました。
理解力のない弟子たち 22章24〜38節
イエス様が十字架に近づいて行かれるにつれて、弟子たちはイエス様を正しく理解することがよりいっそう難しくなっていったようにみえます。今扱う箇所でルカは、ゲッセマネでの祈りの戦いの始まる以前からすでにイエス様がいかに孤独であったかを三つの出来事の描写によって示しています。自分たちの身勝手な期待にしか関心がなかった弟子たちには、今何が起ころうとしているのか理解することができなかったのです。
弟子たちはイエス様を待ち受けている受難に一瞥も払うことなく、イエス様が樹立なさるはずの将来の王国で誰がどのような地位を得るかといったことについて前もって互いに熱心に話し込むばかりでした。
「あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。」
(「ルカによる福音書」22章28〜30節、口語訳)
イエス様は彼らが将来イスラエルの十二の部族をさばくようになること自体は否定なさいませんでした。しかしイエス様は、彼らが自分を他の人々よりも上位に置くのではなく、イエス様が彼らにお仕えになったように彼らもまたすべての人々に仕える者となるべきであると教えられたのです。イエス様の奉仕の御業にはイエス様が自ら弟子たちの足を洗われたこと(「ヨハネによる福音書」13章1〜17節)だけではなく、イエス様の最大の奉仕の御業である十字架の死(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節)も含まれています。
天の御国での弟子たちの「支配権」についての話は、たとえ私たちが天の御国でどれほど完全に幸せで平等になろうとも、私たちには天の御国でもそれぞれ異なる任務が与えられることを示唆しています。
イエス様への弟子たちの無理解は、ペテロが「自分はイエス様と一緒に死ぬ覚悟がある」と熱心に誓ったことにも表れています。どのようなことがイエス様をこれから待ち受けているか、ペテロが少しでも予期していたのなら、このような大それた約束を彼が口にしたとはとても思えません。
しかしイエス様は御自身にこれから起こることだけではなく、ペテロにこれから起こることも知っておられました。イエス様が私たちの弱さもご存じであることは私たちにとって慰めになります。私たちの堕落や罪はイエス様にとって「驚くべきこと」ではなく、それらについてもイエス様は罪の赦しを用意してくださっているからです。それゆえ、私たちはこの用意された罪の赦しを、自分の堕落や罪を悔いてイエス様を救い主と信じることで、私たち自身のよい行いの報酬としてではなく、ひとえに神様の恵みとしていただくことができるのです。
「するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。」
(「ルカによる福音書」22章34節、口語訳)
この節の「きょう」はユダヤ人の時刻の考えかたによって説明できます。それによると「一日」は夕方の18時頃に始まるものとされました。
弟子たちがイエス様を正しく理解していなかったことを示す最後の第三の証拠は「剣」をめぐる話し合いです。イエス様は弟子たちに、彼らが旅支度のほぼない状態で福音を宣べ伝えに出発して行ったときにも御自分がいかによく弟子たちの世話をなさったか、弟子たちに思い出させたのです(「ルカによる福音書」9章1〜6節)。しかしまもなく彼らには、イエス様なしでやっていかなければならない時が来ようとしていました(「ヨハネによる福音書」14章25〜31節)。その時になれば、弟子たちには十分な旅支度をした上で伝道旅行に出かける権利が与えられることになります。
ところが、ここでの弟子たちはイエス様の主導のもとに反乱がまもなく始まると勘違いして剣を取り出しました。そして、それへのイエス様のお答えは口語訳では「それでよい」と訳されていますが、「そのような話はもうよい」とも訳せるものです。
ゲッセマネ 22章39〜53節
ルカは「ゲッセマネ」という地名を明示していませんが、おそらく彼はヘブライ語の言葉の使用を避けようとしたのでしょう。彼は読者として異邦人(非ユダヤ人)を想定して福音書を書いていたからです。
ゲッセマネにはすでに西暦300年代には教会が建てられたと考えられています。この教会は1919〜1924年に建てられた現在の「万国民の教会」の内部にあるモザイクの床の一部を除けば廃墟しか残っていません。
「イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。」
(「ルカによる福音書」22章39節、口語訳)
「いつものように」という表現には、イエス様がユダの裏切りから逃げずに、あえて御自分が裏切られるままになさったことを示しています。
「「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。」
(「ルカによる福音書」22章42〜43節、口語訳)
苦悶の最中にある孤独なイエス様を力づけるために天からの御使が現れたことは、イエス様が全き人間でもあったことの表れです。この「杯」は聖書では受苦と、神様による怒りの裁きの完全な実現を意味しています(「詩篇」11篇6節、「イザヤ書」51章17節、「ヨハネの黙示録」16章の「神の激しい怒りの七つの鉢」)。
「祈を終えて立ちあがり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。」
(「ルカによる福音書」22章45〜46節、口語訳)
「起きて祈っていなさい」という表現からもわかるように、当時は立ったまま祈るのが普通のやりかたでした(18章9〜14節も参照してください)。イエス様がひざまずいて祈っておられたことからは、ゲッセマネの園で非常な苦痛の中で祈られていたことを察することができます。
イエス様を逮捕に来た者たちに対して、ペテロ(「ヨハネによる福音書」18章10節)は剣をもって自分の主人を守ろうとしましたが、イエス様はそれを制止なさいました。「それだけでやめなさい」(22章51節)は、イエス様を捕らえようとした者たちにではなく弟子たちに向けられた言葉です。
「それから、自分にむかって来る祭司長、宮守がしら、長老たちに対して言われた、「あなたがたは、強盗にむかうように剣や棒を持って出てきたのか。毎日あなたがたと一緒に宮にいた時には、わたしに手をかけなかった。だが、今はあなたがたの時、また、やみの支配の時である」。」
(「ルカによる福音書」22章52〜53節、口語訳)
イエス様の逮捕を背後から指図したのはユダヤ人の宗教的な最高指導者たちでした。彼らは神様ではなくサタンに仕えていたのです。神様をないがしろにした彼らの頑なさは度を越していました。たった今その場で起こった奇跡(21章51節の癒しの奇跡)でさえも、イエス様を捕らえた者たちが「自分はどのような方を捕まえようとしているのか」と自問するようにはできませんでした。また彼らはイエス様がその場から自由に逃げることを許された弟子たちには全く関心を示しませんでした。
ペテロによるイエス様の否認 22章54〜62節
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」(22章33節)と大見えを切ったことのあるペテロが、この箇所ではすっかり臆してイエス様を人前で否認するまでに落ちぶれた様子をルカは淡々と描写しています。イエス様の直弟子たちでさえも決して「信仰の超人」などではなかったのです。
ペテロはここで三度も繰り返して「イエスを知らない」と人前で否定しました。後にペテロは三度も繰り返して「イエス様を愛している」とイエス様に信仰告白します(「ヨハネによる福音書」21章15〜17節)。イエス様は御自分を否認する者にも、その罪を赦して御許に立ち戻る機会をお与えになったのです。
「約一時間たってから、またほかの者が言い張った、「たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから」。」
(「ルカによる福音書」22章59節、口語訳)
ガリラヤ地方の方言はユダヤ地方で話されている方言とはやや異なるものでした(「マタイによる福音書」26章73節も参照してください)。当時のガリラヤの住民はローマに反抗する姿勢を幾度も明示したことで知られていたため、「ガリラヤ人」は「反逆者」という意味になることもありました。例えば西暦66年のユダヤ人による反ローマの反乱もガリラヤで始まっています。
「主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。」
(「ルカによる福音書」22章61〜62節、口語訳)
イエス様がペテロに向けられたまなざしについてはルカだけが語っているものです。
イエス様を信じない人々 22章63〜71節
ルカは全く異なる二つのグループがイエス様にメシアである証拠を要求したと述べています。まず兵士たち(22章63〜65節)、次に71人で構成される最高議会「サンヘドリン」(22章66〜71節)です。しかしどちらのグループも彼らが欲していた証拠を得ることができませんでした。
ユダヤ人の慣習によれば、取り調べが終わった同じ日に判決を下すことはできませんでした。それゆえ、最高議会はこの判決の合法性を形式上示すために夜が明けるのを待ったのです。
手始めに彼らはイエス様に「反逆的で世俗的なメシアを騙る人物」というレッテルを貼ろうと試みました(22章67〜69節)。しかしイエス様はそのような誹謗中傷をまともに相手になさいませんでした。たしかにイエス様は昔も今もメシア(救世主)ですが、敵対者たちの言う意味でのメシアではありません。
最終的にイエス様は「神を冒涜した罪」で有罪判決を受けました。「イエスは自分を神と同等の存在、そればかりか神そのものとみなした」というのがその罪状でした(22章70〜71節)。
この罪に対する刑罰はただ一つ、死刑でした。ところが、ローマ帝国はユダヤ人たちから死刑判決を下す権利を剥奪していたため(「ヨハネによる福音書」18章31節)、ユダヤ人たちはイエス様の罪状について自分たちの代わりに決定して法的に承認する責任をローマ人たちに委任する必要がありました。