使徒言行録

執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「使徒言行録」ガイドブック 


聖書の日本語訳は原則として口語訳にしたがっていますが、旧約聖書の章節数はBiblia Hebraica Stuttgartensiaに準拠しているため、口語訳とは若干のずれが生じています。
また日本語版では読みやすさを考慮し、必要に応じて聖書の引用箇所を明示し、神学的な事柄についての説明を加え、表現を変更するなどの編集が施されています。
引用箇所の表記について、例えば「2章15節」などのように章節のみが記されているものは「使徒言行録」からの引用であることを意味しています。



広まっていく福音

医者であったルカは「ルカによる福音書」の続編として世界初の教会史を書き上げました。とはいえ「使徒言行録」という名称は彼自身によるものではなく後になって付与されたものです。実はこの書名は誤解を招きやすいところがあります。この書でルカは使徒全員の活動にではなくペテロとパウロの伝道に焦点を当てているからです。ところが、ペテロとパウロさえもこの書の主人公ではありません。エルサレムから世界の隅々にまで福音を広める聖霊様の働きを描写するのがこの書物の真の目的だからです。

この書でルカは西暦30〜60年頃の出来事を叙述しています。「使徒言行録」が全28章から構成されていることを考えると、大まかに言って1章分には約1年間分の出来事が含まれていることになります。このかなり早い展開からもわかるように、この書はすべての出来事について均等な詳しさで述べたものではありません。ルカは重要な出来事を掘り下げて記述する一方で、ある時期の出来事については素通りしたり出来事によっては概略で済ませてしまう場合もあります。19章10〜12節がその一例です。

ルカは福音が世界に広がっていくさまを「一方向」すなわちエルサレムからヨーロッパへと向かう運動としてのみ記述しています。それに対して、他の方向、例えば東方やアフリカや北欧への福音の伝播はこの書には記されていません。

「使徒言行録」の内容は例えば次のようにして地域的に区分することができます。

1)1〜7章 エルサレムでの出来事

2)8〜12章 サマリヤ、ガリラヤ、シリヤでの出来事

3)13〜14章 第一回宣教旅行 キプロスと現在の東トルコ

4)15章1〜33節 エルサレムでの会議

5)15章34節〜18章18節 第二回宣教旅行 現在の西トルコとギリシア

6)18章19節〜21章27節 第三回宣教旅行

7)21章27節〜26章32節 パウロ、パレスティナで捕らえられる

8)27〜28章 ローマへの船旅

福音が「使徒言行録」の最終章で当時の世界の中心であったローマに着いたところでルカは筆を置いています。

ルカは「使徒言行録」をおそらく70年代か80年代に執筆したものと思われます。この書がパウロの死を描くことなく突然終わっている印象を与えることから、執筆時期を60年代と推定する説もあります。この問題についてはこのガイドブックの終わりで扱うことにします。執筆場所についてはっきりしたことは知られていません。

「終わりの時」のはじまり

ルカは神様による人類の救いの歴史を次のように三つの時に区分しています。

1)約束と待望の時
天地創造からキリストがこの世へ来られた時まで
神様が約束された救い主メシアの到来を待つ時
旧約聖書が語っていること

2)時の中心、神様がこの世におられる時
約束の成就
イエス様がこの地上で活動された時
「ルカによる福音書」が語っていること

3)終わりの時、教会の時、聖霊様の時
ペンテコステ(聖霊降臨)からイエス様の再臨までの時
世界伝道の時、福音を宣べ伝える時
「使徒言行録」が語っていること

これら3つの時の次に4番目の時が来ますが、これはもはや救いの歴史の一部ではありません。この時にすべての人に起きることは次の二つのどちらかです。すなわち、素晴らしい天の御国と最終的な救いを受け入れるか、あるいは永遠の滅びに落ちていくかです。

「使徒言行録」1章は上記の2番目と3番目の時の移行期にあたります。「使徒言行録」2章にはペンテコステ(聖霊降臨)と聖霊様の時のはじまりが述べられています。

このようにして救いの歴史をいくつかの時期に区分けするのは、これから無味乾燥な歴史書の研究にとりかかるためではありません。どのようにして神様の御霊なる聖霊様がエルサレムから始めて世界の様々な場所に救いの福音を宣べ伝えて行かれたのかを私たちが知るようになるためなのです。この世界的規模の伝道は今も続けられています。その意味では、新約聖書では28章で終わっている「使徒言行録」に続くべき新たな29章の世界の中に今の私たちは生きているということもできるでしょう。