ルカによる福音書12章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

偽善の危険 12章1〜3節

「その間に、おびただしい群衆が、互に踏み合うほどに群がってきたが、イエスはまず弟子たちに語りはじめられた、「パリサイ人のパン種、すなわち彼らの偽善に気をつけなさい。」
(「ルカによる福音書」12章1節)

ここでイエス様はファリサイ派の家から民衆の只中に戻られました(12章1節、11章29節)。

イエス様はまず弟子たちを教えて(12章1節)、その後で民衆を教えられます(12章13節)。

「パン種」は粉の生地を膨らませます。他には何もそこに加えられなかったのに生地は膨らみました。ファリサイ派はいわばこの「パン種」と同じような偽善的な存在でした。彼らの外面は立派でしたが内面はそれとはかけ離れていました。彼らは真実の姿を覆い隠す仮面を被って偽善者としての役割を演じていたとも言えます。

しかし神様はすべてを見て知っておられるので、神様に対しては誰一人何も隠すことができません。このことをイエス様は私たちに気づかせてくださるのです。

「だから、あなたがたが暗やみで言ったことは、なんでもみな明るみで聞かれ、密室で耳にささやいたことは、屋根の上で言いひろめられるであろう。」
(「ルカによる福音書」12章3節、口語訳)

この節は「道やかきねのあたりに出て行って」(14章23節)福音を公の場で宣べ伝えなさいという奨励でもあります。福音は教会の壁の内側に閉じ込めておくべきものではないからです。

「神様のもの」である人々は安全である 12章4〜12節

「そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。」
(「ルカによる福音書」12章4〜5節、口語訳)

サタンのことを恐れるべきではなく、むしろサタンに対抗するべきなのです(「ヤコブの手紙」4章7節、「ペテロの第一の手紙」5章8〜9節)。私たちは神様のみを畏れるべきです。地獄へと追いやる権能をもっておられるのは神様だけだからです。

上掲の箇所はいわゆる「共観福音書」(「マタイによる福音書」と「マルコによる福音書」と「ルカによる福音書」という三つ福音書の総称)全体を通じて、イエス様が弟子たちのことを「わたしの友」と呼んでおられる唯一の箇所です。また「ヨハネによる福音書」にも次のような箇所があります。

「あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。」
(「ヨハネによる福音書」15章14〜15節、口語訳)。

マタイは「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。」(「マタイによる福音書」10章29節より)と記しています。それに対してルカは「五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。」(12章6節より)と書いています。五羽目のすずめはほとんど無価値だったということです。これからもわかるように、神様は無価値のものをも忘れることなくちゃんと世話してくださるのです!

「その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。」
(「ルカによる福音書」12章7節、口語訳)

人間は「神様の似姿」として造られました(「創世記」1章27節)。それゆえに人間は動物よりも価値のある存在なのです。

「そこで、あなたがたに言う。だれでも人の前でわたしを受けいれる者を、人の子も神の使たちの前で受けいれるであろう。しかし、人の前でわたしを拒む者は、神の使たちの前で拒まれるであろう。」
(「ルカによる福音書」12章8〜9節、口語訳)

「神様の似姿である」ということには「神様との結びつきがある」という意味も含まれています。しかしこの結びつきが切れてしまうと、それを回復しないかぎり、人間は地獄に落ちる危険に晒され続けることになります。最後の裁きの場において決定的な分岐点となるのはイエス様であり、イエス様との関係です。

ペテロは「自分はイエスを知らない」と言ってイエス様との結びつきを公の場で否定したことがあります(22章61節)。しかし後に彼がそれを悔い改めたとき、その罪は赦されました。このペテロのケースからもわかるように、人間にとっては「イエス様との結びつきを否定した人生の時期があったこと」よりも「人生を通じてイエス様との結びつきを拒絶し続け、神様に背を向け続けること」こそが真の危険なのです。

「また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。」
(「ルカによる福音書」12章10節、口語訳)

聖霊様を侮辱する罪の重大さ(罪が赦されないこと)についてどうにも理解できずに深刻な悩みを抱えるキリスト信仰者は少なくありません。

どのようにすれば聖霊様を侮辱することになるのか、私たちは正確には知りません。「マルコによる福音書」3章22〜30節はこの警告を、イエス様が「お前はサタンと契約している」という誹謗中傷を律法学者たちから受けた出来事と関連づけています。その一方で「ヘブライの信徒への手紙」6章4〜8節は、信仰を捨てた者たちのことを聖霊様の侮辱者であると述べています。

聖霊様を侮辱する罪とは、聖霊様よりも上に自分を位置付ける不遜な態度であると言えると思います。

聖霊様を侮辱するとどのような結果を招くかははっきりしています。そのようなことをする人は最終的に心がかたくなになり、神様に背を向けてしまうのです。しかし、罪の意識がまだ残っている人は聖霊様を侮辱してはいません。罪の自覚があることは、まさに聖霊様が私たちに働きかけておられる証に他ならないからです。

聖霊様を侮辱する罪はどうして赦されることがないのでしょうか。聖霊様は人に罪を悔いイエス様を救い主として信じる心(悔い改め)を起こしてくださいます。そして聖霊様なしではこの悔い改めは不可能だからです。

「あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである。」
(「ルカによる福音書」12章11〜12節、口語訳)

当時の会堂はユダヤ人たちの地方裁判所でもありました。そのことを踏まえると、上掲の箇所はキリスト信仰者たちに対する迫害について述べていると理解できます。

上節の「人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが」というイエス様の言葉を恣意的に解釈して霊的に怠慢な生きかたを正当化することはもちろんできません。ちなみに「怠惰」(ラテン語で「acedia」(アケーディア))はローマ・カトリック教会では七つの大罪の一つとされています。

貪欲の誘惑 12章13〜21節

「先にあったことは、また後にもある、
先になされた事は、また後にもなされる。
日の下には新しいものはない。」
(「伝道の書」1章9節、口語訳)

遺産の分配はいつの時代も諍いをもたらし、親族間にも亀裂を生んできました。

旧約聖書は長男に対して他の兄弟とくらべて二倍の遺産を相続する権利を付与しています(「申命記」21章17節)。しかし遺産相続に関する他の点については何の指示も与えていません。ラビたちは世俗的な法律の問題解決にも関与しました。当時の背景を踏まえると、イエス様が遺産分配の裁判官になるように依頼されたのも理解できます。

ところがイエス様は依頼を引き受けず、冷たくあしらいました。それは、その依頼人が公正な遺産相続を実現するためにではなく自分に都合の良い結果を引き出すためにイエス様を利用しようとしたからかもしれません。この箇所にも福音書記者ルカが実に優秀な書き手であったことがよく表れています。

イエス様は世俗的な事柄の「分配人」(12章14節)ではありませんでしたが、これから続く箇所からもわかるように、財産(12章22〜34節)や隣人(12章35〜48節)や家族の成員(49〜53節)に関する「偉大な分配人」でした。

「それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。」
(「ルカによる福音書」12章15節、口語訳)

貪欲(ラテン語で「avaritia」(アヴァーリティア))はローマ・カトリック教会で七つの大罪のうちの一つとされています。聖書でも貪欲は偶像礼拝であるとして厳しく断罪されています(「エフェソの信徒への手紙」5章5節)。次の箇所も貪欲の危険性を指摘しています。

「富むことを願い求める者は、誘惑と、わなとに陥り、また、人を滅びと破壊とに沈ませる、無分別な恐ろしいさまざまの情欲に陥るのである。金銭を愛することは、すべての悪の根である。ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」
「テモテへの第一の手紙」6章9〜10節、口語訳)。

宗教改革者マルティン・ルターは大教理問答書の第一戒の説明で、人にとっての「神」とはその人が最終的な拠り所にしているものであると言っています。12章34節でイエス様も「あなたがたの宝のある所には、心もあるからである」と言っておられます。金銭のもっている悪い特徴は、人が金銭を際限なく欲しがるように駆り立てることです。金銭は「持てば持つほど欲しくなる」ものなのです。あるフィンランドの神学者がいみじくも言ったように、この世の「信仰告白」は「もっとたくさん!」というごく短い標語に集約できます。

イエス様が語られたこの譬の登場人物は全く正しく行動しました。彼は注意深く仕事をしたのです。ただし、彼の人生の支柱が間違っていたということが問題でした(「マタイによる福音書」7章24〜27節を参照してください)。彼は自己中心的な考えかたをする金持になり、隣り人の窮乏を気にかけようともしませんでした。その一方で彼は「人間はいつまでもこの世で生きていくことはできない」という基本的な真実さえ意識の隅に追いやっていたのです(12章19節)。自己中心的な生きかたのせいで彼は孤独になりました(12章20節)。財産に取り囲まれた彼には孤独を和らげ合う友人がいなかったのです。

四人の福音書記者の中でルカは貧者、財産とその危険について最も関心を示した人物です(後ほど扱う16章10〜15節には正しい「マモン」の使いかたを説明しています。他にも3章11節、6章30節、11章41節、14章13〜14節、16章9節、18章22節、19章8節も参照してください)。

聖書は貧困や富を人間にとって理想的な状態であるとは捉えておらず(「箴言」30章7〜9節)、むしろ経済的な中庸を重視しています。これからすると「金持ち」とは「必要以上に富を持っている者」と定義できるでしょう。それに対して「貧者」とは「必要を満たすお金もない者」とも定義できます。

ルター派の「二つの権力」の教義によれば、この世界には二つの権力が存在します。法律によって支配するこの世の権力と、福音によって支配する霊的な権力です。これら二つの権力が混同されることによって歴史上数多くの問題が生じてきました。

「すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。」
(「ルカによる福音書」12章20節、口語訳)

私たち人間の寿命を決めるのは神様であることに注目しましょう。私たちは「死ぬまでにまだ「長年」(12章19節)の時間が残されている」と考えるのではなく、「今夜(12章20節)が最後になるかもしれない」という覚悟を持って生きていくべきなのです。

信仰のおかげで不安を持たずに生活できる 12章22〜34節

ここでイエス様はふたたび弟子たちのほうに振り向かれます(12章22節)。ここで扱う箇所は「この世でどのように経済的責任を担うべきか」についてではなく「神様を信じる人間が自分の財産に対してどのような態度を取るべきか」について教えています。

「からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。」
(「ルカによる福音書」12章24節、口語訳)

旧約聖書では「からす」は穢れた動物とされています。しかしそのような動物のことも神様はちゃんと養ってくださるということをイエス様はここで教えておられるのです。

「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」
(「ルカによる福音書」12章25節、口語訳)

思い煩うことは寿命を延ばすよりもむしろ縮めてしまうことが現代では知られています。

「きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。」
(「ルカによる福音書」12章28〜30節、口語訳)

神様は私たちに必要なものを知っておられ、それについてもちゃんと面倒を見てくださるのですから、思い煩うのは無意味です。異邦人たちはこのことを知らないために思い煩うのです。

「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。」
(「ルカによる福音書」12章32節、口語訳)

神様の御国は「贈り物」です。神様が私たちにくださる最大の贈り物なのです(「ローマの信徒への手紙」8章32節)。それゆえ、偉大な価値のある御国を切に願い求めるのは私たちキリスト信仰者にとってとてもふさわしいことです。

「自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。」
(「ルカによる福音書」12章33節、口語訳)

人間はこの世で所有しているすべての持ち物をしまいには手放さなければならなくなります。死んだ後でも私たちについてくるのは信仰あるいは不信仰だけです。

イギリスには"First things first"(「最重要なことを最初にする」)という諺があります。これと同じことをイエス様もここで教えておられます。次善が最善にとって最悪の敵になってしまう場合がしばしば起きるからです(12章16〜21節を参照してください)。

私たちは「変えられること」と「変えられないこと」を判別できるようになるべきです。イエス様は私たちをこの世を改善していくためにも招いておられます。とはいえ、その「報酬」として天の御国をいただくことはできないし、改善したこの世を天の御国の代替物にすることもできないことは覚えておかなければなりません。

目を覚ましていなさい! 12章35〜48節

この箇所には「目を覚ましていること」の大切さを教える三つの譬が含まれています。主人が婚宴から帰ってくること(12章36節)はイエス様の再臨を意味しています。イエス様の再臨については21章8〜35節で詳述されます。

一番目の譬(12章35〜38節)は、主人の帰りを待つ僕たちについてです。当時の婚姻の儀礼は何日間も続くものだったため、いつ主人が婚礼から帰ってくるか、僕たちはあらかじめ知ることができませんでした。

「腰に帯をしめる」(12章35節)は衣服の長い裾を腰に結ぶということです。そうすることで、仕事や歩行の邪魔にならないようにするのです(「出エジプト記」12章11節を参照してください)。キリスト信仰者は常に仕事が行えるように備えていなければなりません。

「主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。」
(「ルカによる福音書」12章37節、口語訳)

上節では主人と僕の役割が普通の場合とは入れ替わっており、主人が僕に給仕をしています。これは、イエス様が弟子たちの足を洗う出来事を示唆しています(「ヨハネによる福音書」13章1〜12節)。さらにこの出来事は、神様が十字架の死に至るまで人間たちに仕えてくださったことも描写しています。イエス様があなたに仕えてくださる場合にのみ、あなたは「イエス様のもの」でありうるのです。このことはとりわけ救いに関わることにあてはまります。

「主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。」
(「ルカによる福音書」12章38節、口語訳)

ギリシア語原文は第二と第三の「夜警時」(ギリシア語で「フュラケー」)について記しています。当時のローマ人は夜全体を四つの夜警時(18時〜21時、21時〜24時、0時〜3時、3時〜6時)に区分していました(例えば「マルコによる福音書」13章35節には「夕方か、夜中か、にわとりの鳴くころか、明け方か、」とあります)。それに対してユダヤ人は夜を三つの夜警時(18時〜22時、22時〜2時、2時〜6時)に分けていました(「士師記」7章19節)。そしてこの箇所ではユダヤ人の夜警時によって夜の時間が区分されています。

二番目の譬(12章39〜40節)は、家に侵入した盗賊について述べています。当時の家の壁は粘土でできており、木の扉よりも粘土の壁を壊して家に侵入するほうが容易だったのです(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章1〜11節を参照してください)。

イエス様は今、外に立ったまま家の戸を叩いておられます(「ヨハネの黙示録」3章20節)。しかし世の終わりの時がくると、イエス様はそれぞれの人の人生に有無を言わさないやりかたで入ってこられるのです。

「するとペテロが言った、「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。それとも、みんなの者のためなのですか」。」
(「ルカによる福音書」12章41節、口語訳)

ペテロがこのような質問をしたのは、イエス様が譬を語りかける対象が、普段は民衆であったのに今回は弟子たちになっていたからであると思われます(8章10節、12章22節)。イエス様は使徒たちだけではなく「御自分のもの」であるすべての人々をも対象としてこの譬を語られたのです。

三番目の譬(12章42〜48節)は、主人の全財産を忠実に思慮深く管理するために「家令」の職務に任命された僕たちについてです(16章1節も参考になります)。彼らの中には善い僕もいれば(43〜44節)、悪い僕もいました(45〜46節)。

「そこで主が言われた、「主人が、召使たちの上に立てて、時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、いったいだれであろう。」」
(「ルカによる福音書」12章42節、口語訳)

キリスト信仰者の行うべき使命は命のパンを人々に分け与えていくことです(12章42節、「ヨハネによる福音書」21章17節)。

「主人のこころを知っていながら、それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。多く与えられた者からは多く求められ、多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」
(「ルカによる福音書」12章47〜48節、口語訳)

上掲の箇所は神様の公正さについて述べています。裁判では被告が事件当時置かれていた状況などが考慮されます(「マタイによる福音書」25章14〜30節、「ローマの信徒への手紙」2章12〜16節)。

「目を覚ましていること」で一番難しいのは、何かがちょうど今起きるのを待つことです。それに比べて、少し時間を置いて(例えば明日)何かが起こるのを待つことは容易です。

平和ではなく分裂をもたらす 12章49〜53節

「わたしは、火を地上に投じるためにきたのだ。火がすでに燃えていたならと、わたしはどんなに願っていることか。」
(「ルカによる福音書」12章49節、口語訳)

上節でイエス様が「火」という表現で意味しておられるのはいったい何なのか、多くの解釈者が頭を悩ませてきました。少なくとも次の三つの解釈が提案されています。

1)最後の裁き(「ヨエル書」2章1〜3節)

2)聖霊降臨の出来事(「ルカによる福音書」3章16節)

3)「イエス様のもの」である人々(キリスト信仰者たち)が火の真っ只中のような苦しい状況に追い込まれる

これら三つの中から一つを選び出すのは容易ではありません。イエス様がこれらすべてのことを含意しておられた可能性すらあるからです。

「しかし、わたしには受けねばならないバプテスマがある。そして、それを受けてしまうまでは、わたしはどんなにか苦しい思いをすることであろう。」
(「ルカによる福音書」12章50節、口語訳)

イエス様の「受けねばならない洗礼(ギリシア語で「バプテスマ」)」とは、ゴルゴタの十字架で死なれる時に流された「血の洗礼」のことです(「マルコによる福音書」10章38節)。

メシアは平和の君です(「イザヤ書」9章5節(口語訳では6節))。しかしこの「平和」とは、人々の間に諍いがない状態のことではなく、神様と人々との間に平和がある状態のことです(「エフェソの信徒への手紙」2章14〜22節)。

「というのは、今から後は、一家の内で五人が相分れて、三人はふたりに、ふたりは三人に対立し、また父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに、対立するであろう。」
(「ルカによる福音書」12章52〜53節、口語訳)

家族内に分裂が起きます。両親(二人)と子どもたち(三人)がそれぞれ別々の陣営に入ってしまうのです。そして、この分裂をもたらしたのはイエス様です。最後の裁きにおいてもイエス様は同じように人々の間に分裂をもたらすことになります。

時のしるし 12章54〜59節

パレスティナの天候を予測することは比較的容易です。西風が地中海から湿気を運んできて、十月から四月にかけては雨季になります。五月から九月までの乾季にはアラビア半島から乾燥した風が吹き付けてきます。

「偽善者よ、あなたがたは天地の模様を見分けることを知りながら、どうして今の時代を見分けることができないのか。」
(「ルカによる福音書」12章56節、口語訳)

上節の「天地」での「天」は私たちの目に見える天空のことです。この天空の現象についてならば、イエス様の時代のユダヤ人たちもそれを読み取って解釈することができました。しかし彼らは「時のしるし(兆候)」についてはそれができなかったのです。

ヘブライ語(「シャーマイム」)やギリシア語(「ウーラノス」)での「天」には二つの意味があります。それらは目に見える天と神様の天です。多くの言語ではこれらの二つにはそれぞれ別の単語があてられています(例えば英語ではsky/heaven)。イエス様の時代のユダヤ人たちは目に見える天だけを見ていました。しかし神様の真実と救いの歴史は彼らには隠されたままでした。

上節の「時代」という言葉はギリシア語原文では「カイロス」になっています。この単語は長い時間ではなく短い決定的瞬間を表しています。イエス様がユダヤ人たちのもとに来られたまさにその時にユダヤ人たちの「時」(カイロス)は到来していたのです。それと同様に、イエス様が私たちに近づいて来られる時に私たちの「時」(カイロス)も到来しているのです。私たちは、イエス様の時代のユダヤ人たちと同じようにイエス様に対して背を向けるのでしょうか、それとも救い主を受け入れるのでしょうか。

「たとえば、あなたを訴える人と一緒に役人のところへ行くときには、途中でその人と和解するように努めるがよい。そうしないと、その人はあなたを裁判官のところへひっぱって行き、裁判官はあなたを獄吏に引き渡し、獄吏はあなたを獄に投げ込むであろう。わたしは言って置く、最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは、決してそこから出て来ることはできない。」
(「ルカによる福音書」12章58〜59節、口語訳)

上掲の箇所にはユダヤ人とローマ人の法律用語が含まれています。このことも「ルカによる福音書」の書き手がローマ文化を知悉していた異邦人であったことを示唆しています。

この箇所は、この世の時はいつか終わるものであり、人には皆、裁き主の御前に出ていかなければならない「時」(カイロス)が必ずやってくることを忘れずにいるように私たちを促しています。裁きの時が来てから自分の負債を自分では返済できないことに気づいたとしても、もう手遅れです。この世にいる間にイエス様と出会い、イエス様を信じて受け入れるなら、イエス様は私たちにとっての救い主となります。しかしもしもイエス様との出会いがこの世の時の後(すなわち最後の裁きの時)になってしまうならば、裁き主としてのイエス様と出会うことになります。

この箇所でもイエス様が世の終わりの裁きの時についてさらりとふたたび言及しておられることに注目しましょう。最後の裁きは聖書からどれほど抜き去ろうとしても決して完全に抜き去ることができない、神様による重大決定事項なのです。