ルカによる福音書3章 公の伝道活動の始まり
開拓者
「ルカによる福音書」1〜2章は洗礼者ヨハネとイエス様の誕生にまつわる出来事を記述しています。それに続いてルカが述べているのは洗礼者ヨハネの公の伝道活動についてです。ここでルカが時間軸に沿って順序立てて複数の出来事を並行して描いてはいないことに注目しなければなりません。この箇所でもルカはまず洗礼者ヨハネの公の活動について、その終わりまで通して述べた後で(3章1〜20節)、時間軸を戻してイエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた出来事を描写しています(3章21〜22節)。後者の出来事はもちろんヨハネが捕まる前に起きたことです。
洗礼者ヨハネもイエス様も生まれてから約30年の間は公の場では伝道活動をすることなく過ごしました。この静かな時期を経て、おそらく洗礼者ヨハネは約一年間にわたって、またイエス様は約三年間、公の場で伝道活動を行ないました。
洗礼者ヨハネはすでに旧約聖書の「マラキ書」でこの世に到来することが約束されていたもう一人の「エリヤ」でした(「マラキ書」3章19〜23節、「マタイによる福音書」17章9〜13節)。旧約時代の最後の預言者であった洗礼者ヨハネに与えられた使命はメシアのために道を整えることでした。彼は神様の約束が実現する瞬間に居合わせることができたのです(「ルカによる福音書」7章18〜23節)。
洗礼者ヨハネの弟子たちの中にはイエス様の弟子となった人々もいました(「ヨハネによる福音書」1章35〜37節)。しかしその一方では、洗礼者ヨハネの弟子としてそのまま何十年間も留まり続け、彼ら独自の教えを伝え広めた人々もいました(「使徒言行録」19章1〜6節)。
荒野から来た男 3章1〜6節
ルカは洗礼者ヨハネの公の伝道活動の始まった時期についてかなり正確に記しています。次の箇所でルカは五人のこの世の指導者と二人の宗教的な指導者の名を挙げています。
「皇帝テベリオ在位の第十五年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
(「ルカによる福音書」3章1〜2節、口語訳)
西暦14年にローマ皇帝になったテベリオ(ティベリウス)の15年目の治世は西暦27〜29年に当たります。この数年のずれを含む曖昧さはシリヤの暦を用いるかそれともローマの暦を用いるかによるものです。ルカの記述は最初期のキリスト教伝承とよく合致しています。それによると、イエス様の十字架刑は西暦30年4月7日の金曜日であったことになります。
ポンテオ・ピラトはユダヤ(とサマリヤ)の第五代総督として西暦26〜36年の間に活動しました。
紀元前4年にヘロデ大王が死んだ後、その王国は彼の三人の息子たちの間で分割されました。しかしその一人アルケラオスは早くも西暦6年には地方領主の座を追われてしまいます。それ以後ユダヤとサマリヤを支配したのはローマ人の地方総督たちです。要するにこれらの地方はローマ軍が常駐するローマの直轄地となったのです。
ヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主としてヨルダン東方の一部の地域を紀元前4年から西暦39年まで支配した後に罷免されて領主の座を失いました。
ピリポはヘロデ大王の息子であり、イツリヤ・テラコニテ地方の領主として紀元前4年から西暦34年まで在位し死去しました。
アビレネの領主ルサニヤについてはほとんど知られていません。現在残っている当時の一般の歴史書には彼への言及がまったくないため、そもそも彼が歴史上実在したのかどうかさえ長い間疑いをもたれていました。アビレネという地域はダマスコの北西側にあり、後にはパレスティナに属するものとされました。
アンナスは西暦6〜15年の間、大祭司を務めました。その後、地方総督ヴァリウス・グラーティスは彼を罷免し、まずは彼の息子を代わりの大祭司として任命しますが、西暦17年には彼の娘婿カヤパを大祭司として任命しました。カヤパは西暦36年まで大祭司の座に留まりました。イエス様の十字架刑の時にも彼が大祭司でした。
ユダヤ教の律法によれば、ローマ人の地方総督には大祭司を罷免する権限がありませんでした。それゆえ、ユダヤ人たちは依然としてアンナスこそが正規の大祭司であり宗教的な指導者であると考えていました。実際にはアンナスはサンヘドリン(ユダヤの最高議会)で最も影響力のある会員であり、祭司層の指導者でした。
400年の沈黙期間の終わり
イスラエル民族の中では預言者サムエル(紀元前1000年代)から預言者マラキ(紀元前400年代)までは、ほとんどいつの時代にも誰かしら主の預言者が活動していました。しかしマラキを最後の預言者として、一人も主の預言を語らない沈黙期間が始まります。それは洗礼者ヨハネが荒野に現れて伝道活動を開始するまで続きました。
「アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」
(「ルカによる福音書」3章2節、口語訳)
旧約聖書の預言者たちに対するのとまったく同じようにして洗礼者ヨハネにも「神の言が臨んだ」のです(「イザヤ書」1章1節、「エレミヤ書」1章2節、「エゼキエル書」1章3節、「ホセア書」1章1節、「アモス書」1章1節)。
洗礼者ヨハネの活動期間は長くはなく、おそらく約一年間にすぎないものだったと思われます。「ヨハネによる福音書」1章19〜34節によれば、エルサレムからやってきた「調査員たち」が洗礼者ヨハネの権能について尋ねたとき、洗礼者ヨハネはイエス様に洗礼を授けました。イエス様の受洗後、まもなく洗礼者ヨハネの公の活動は終わりを告げ、代わりにイエス様の公の活動が始まりました。
洗礼者ヨハネはヨルダン川で洗礼を授けていました。彼による洗礼はそれ以前にあったユダヤ人たちによる洗礼運動とも、またキリスト教での洗礼とも次のような点で異なっています。
1)洗礼者ヨハネによる洗礼は一度きりのものであり、日々繰り返されるものではありませんでした。後者の例としてはエッセネ派における洗いの儀式があります。前述のように、洗礼者ヨハネはエッセネ派の人々と荒野で一緒に暮らしていた可能性があります。そのことから彼はたしかにエッセネ派の説教者であっただろうとみなされたこともあります。洗礼者ヨハネの両親は彼が生まれてまもなく死去したものと思われます(1章7節)。それゆえ、孤児となった洗礼者ヨハネがエッセネ派の人々によって育てられたと考えることができます。1章80節によれば彼は「イスラエルに現れる日まで、荒野にいた。」とされています。そしてエッセネ派の修道の場も荒野だったのです。
2)ユダヤ人として生まれなかったけれどもユダヤ教に改宗することを希望する人々に対してのみ、ユダヤ人たちは(改宗のための)洗礼を授けていました。洗礼者ヨハネの活動は一部のユダヤ人たちを苛立たせた可能性があります。洗礼者ヨハネはユダヤ教に改宗する異邦人たちを生粋のユダヤ人たちと区別せずに同列に置くような宣教をしたからです。とはいえ、改宗者のための洗礼がイエス様が生きておられた時代にも行なわれていたかどうかについて確実なことはわかりません。この種の洗礼が用いられるようになったのは西暦100年代に入ってからであったという可能性もあります。
3)洗礼者ヨハネによる洗礼には二つの意味が含まれていました。第一に、受洗を希望する者は洗礼を受ける前に自分の罪を悔いなければなりませんでした。第二に、その人には洗礼を通して罪の赦しが与えられました。
4)洗礼者ヨハネによる洗礼はキリスト教の洗礼への道を準備するものでした。洗礼者ヨハネによる洗礼では律法が強調され、人間が己の罪を悔いる行為に力点が置かれましたが、キリスト教の洗礼では神様の御業と恵みに焦点が絞られています(「使徒言行録」19章1〜7節)。
洗礼者ヨハネが民衆に与えた助言 3章7〜14節
大勢の群衆が洗礼者ヨハネの宣教を聴いて洗礼を受けるためにヨハネのところにやってきました(「マルコによる福音書」1章5節)。彼らの中には、洗礼を受けることで自分が確実に救われるようになると考えた人々がいたようです。彼らの考える「救い」は自分たちが神様の選ばれた御民であるアブラハムの子孫に属していることを拠り所にしていました。父アブラハム自身が地獄の門のところに立ち、割礼を受けた者たちが誤って地獄に陥らないよう見張っているおかげで、彼らは誰も地獄行きにはならないと教えるラビ(ユダヤ教の教師)さえいました。
「さて、ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。」
(「ルカによる福音書」3章7〜8節、口語訳)
洗礼者ヨハネは「救いに導く道が複数ある」とする考え方をすべて否定しました。洗礼者ヨハネによる洗礼にも、あるいは特定の民に属することにも、人を救う力はありません。神様は信仰とそれに基づく行いを要求なさるのです。「主の日」(「マラキ書」3章19〜23節、「イザヤ書」2章12節)は全てに関して最終的な決着がつく、神様と人類との間における最後の裁きの日を意味しています。この日はユダヤ人たちを含む人類全体に到来するのです。
洗礼者ヨハネの説教はそれを聞いていた人々の間に「あなたが言っていることがもしも本当のことだとしたら、私は何をしなければならないのか?」という疑問を呼び起こしました。今日でもこれと同様のことが起きています。神様の御意思を正しく宣教することはそれに聴き入る人々の間にその宣教内容が真であるという信頼を生じさせ、「最後の裁きの時に自分はいったいどうなるのか?」という真っ当な疑問を呼び起こすのです。
彼らの疑問に対する答えとして洗礼者ヨハネは公正と隣人愛という二つの言葉に集約できる助言を与えました(「マタイによる福音書」22章34〜40節、「レビ記」19章18節を参照してください)。しかし、もしも神様の御意思に従わない場合には、次節のいうように、人は神様から有罪判決を下されて地獄に落ちていくことになります。
「斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。」
(「ルカによる福音書」3章9節、口語訳)
土地が十分になかったパレスティナでは実を結ばない木を植えたまま放置して土地を痩せさせる余裕はなかったため(13章6〜9節)、そのような木は切り倒され燃やされました。洗礼者ヨハネはメシアに道を準備するために来ました。斧は木の根元に当てられています。まもなく最後の裁きの遂行者であるメシアが到来することになっていました。
なお、原語のギリシア語でも翻訳の日本語でもなく、洗礼者ヨハネが実際に話していたと思われるアラム語でみてみると、洗礼者ヨハネの説教には技巧的な言葉遊びが含まれています(3章8節)。「ベナイヤ」(子たち)と「アブナイヤ」(石ころたち)です。
洗礼者ヨハネのもとには一般のユダヤ人たちから蔑まれていた取税人たちや兵士たちもやって来ました。
取税人たちはローマの手先となってユダヤ人たちから関税を不当に多く取り立てて私腹を肥やすことも(しようと思えば)できたユダヤ人たちです。ユダヤ民族を征服したローマ人たちの手先となったばかりではなく、私欲のために不当に高い税金を取り立てているといった理由から、ユダヤ人たちは取税人たちのことを神様に選ばれた御民の一員ではなく、自分の民族を裏切った呪われし者とみなしていました。
洗礼者ヨハネのところに来た兵士たちはヘロデ・アンティパスの兵隊であったと思われます。彼らもまたローマの手先となっているという理由でユダヤ人たちからはひどく嫌われていました。
ところが洗礼者ヨハネは彼らのことも彼らの職業のことも蔑むことなく、彼らを受け入れました。そして「職権を濫用するような罪をこれ以上重ねないように」と勧告したのです。しかし彼らが離職するようには命じませんでした。
それでも洗礼者ヨハネは道の準備する者にすぎなかった 3章15〜20節
「民衆は救主を待ち望んでいたので、みな心の中でヨハネのことを、もしかしたらこの人がそれではなかろうかと考えていた。そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう。」」 (「ルカによる福音書」3章15〜17節、口語訳)
洗礼者ヨハネの生きていた時代のユダヤ人たちはメシアの到来を強く待望していたため、「この洗礼者ヨハネこそがメシアなのではないか」と期待したのは自然ななりゆきでした。それに対して洗礼者ヨハネは自分がメシアではないことを宣言します。彼はメシアの前では自分が当時の最も卑しい奴隷の仕事とされた「そのくつのひもを解く」資格さえないとさえ言っています。ちなみにラビ文献には「奴隷が自分の主人に仕えるすべての仕事を、弟子もまた自分の師に対して行わなければならないが、それでも師のくつのひもは解く必要がない」という格言があります。
実際にも洗礼者ヨハネはメシアの道を準備してメシアを指し示す者にすぎず(「ヨハネによる福音書」1章29節)、メシア自身ではありませんでした。
洗礼者ヨハネ自身は「メシアが公の活動を始めて最後の裁きを下す」ということを待望していました。上掲の箇所で洗礼者ヨハネは神様による来るべき裁きを二つの比喩を用いて説明しています。高い丘で打ち場の麦などをふるい分けることで麦よりも軽い殻は風によって吹き飛ばされるという比喩(「詩篇」1篇4節)と、火によるバプテスマによって焼き捨てられるという比喩です。
ところが、イエス様はメシアの使命を洗礼者ヨハネが期待していたようなやりかたでは行われませんでした。そのこともあって、洗礼者ヨハネはイエス様が本当に来るべきメシアなのかどうかについて確信がもてなくなりました(7章18〜23節)。この点については後ほど詳しく検討することにしましょう。
ヘロデ・アンティパスの邪悪さ、とりわけ彼の結婚の問題点について叱責したために、洗礼者ヨハネは獄中で処刑されることになりました。ヘロデ・アンティパスの当時の妻ヘロデヤは元々は彼の腹違いの兄弟の妻でしたが、ヘロデと結婚するために離婚したのです。ローマの法律によればヘロデは法律違反を犯していません。しかし旧約聖書の律法によれば彼らの行為は離婚の罪ばかりか近親相姦の罪にも該当するものでした。
ルカはこの箇所でも他の箇所でも洗礼者ヨハネの死について直接的なことは何も書き残していません。しかし9章7〜9節の内容は洗礼者ヨハネがヘロデに殺されたことを踏まえて書かれています。それに対して「マタイによる福音書」14章1〜12節は洗礼者ヨハネが斬首される経緯を詳述しています。
イエス様の受洗 3章21〜22節
「さて、民衆がみなバプテスマを受けたとき、イエスもバプテスマを受けて祈っておられると、天が開けて、聖霊がはとのような姿をとってイエスの上に下り、そして天から声がした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。」
(「ルカによる福音書」3章21〜22節、口語訳)
上掲の箇所のように、ルカはイエス様の受洗の出来事についてごく短く述べています。洗礼を授けた洗礼者ヨハネの名さえここには出てきません。
洗礼を通してイエス様は罪人たちのグループに属することになりました。生涯にわたって全く罪のないお方だったにもかかわらず、すすんで自らを罪人と似た者となされたのです(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節)。しかしそれと同時に、この洗礼にはイエス様が公の伝道活動をたった今、正式に開始されたことを告知する「就任式」のような意味合いもありました。
イエス様の受けられた洗礼は「キリスト教の最初の洗礼」であるとも言えます。この洗礼にはキリスト教の洗礼のサクラメント(聖礼典)のあらゆる要素が含まれていたからです。それらの要素とは水に結び付けられた神様の御言葉と聖霊様です。
神様の御子の系図 3章23〜38節
ユダヤ人は30歳で成人になります。祭司も(「民数記」4章3節)レビ人も(「民数記」4章47節)30歳で各々の職務に就きます。
イエス様は紀元前7年頃かあるいは遅くともヘロデ大王が死去した紀元前4年にはこの世にお生まれになったと現在では推定されています。このように考えるとイエス様は西暦27〜28年頃には約35歳だったことになります。この年齢はルカのイエス様の年齢についてのやや曖昧な記述とよく合致していると言えます。
「ルカによる福音書」と「マタイによる福音書」にあるイエス様の親の系図は互いに相違している部分があり、それに関して多くの説明がなされてきました。以下に挙げるのはその中でも最も重要だと思われる説明のしかたの例です。
1)宗教改革者マルティン・ルターは「ルカによる福音書」の系図をイエス様の母マリアの系図であるとみなしました。
2)西暦220年に死去した教父アフリカヌスによれば、ヨセフの母のレビラト婚(「申命記」25章5〜10節)を通してヨセフには二人の父親がいたとされます。「レビラト婚」とはやもめが死亡した夫の兄弟あるいは近い親戚と結婚する慣習のことです。ヨセフの母には最初の夫との間には子がおらず、夫の死後レビラト婚によって母の二番目の夫となったのはおそらく最初の夫の従兄弟だったと思われます。そしてこの二番目の夫がヨセフの実の父親だったことになります。こうして、ヨセフの父親の名前が「ルカによる福音書」3章23節では「ヘリ」なのに「マタイによる福音書」1章15〜16節では「ヤコブ」になっていることへの説明がつきます。
3)現在最も支持されている解釈によれば、「マタイによる福音書」はダビデの子孫で戴冠した王たちの連なる系図を表しているのに対して、「ルカによる福音書」はヨセフの実際の家系図を表しているというものです。
この問題については最終的な解決をみていません。
系図の問題を考える上で最も重要なのは、ルカとマタイの系図の両方ともイエス様を人間として提示すると同時に、旧約聖書でその到来が約束されていた「ダビデの子」としても提示しているという点です。「マタイによる福音書」とは異なり「ルカによる福音書」は系図を神様に至るところまで遡って表示しています。こうすることでルカはイエス様がユダヤ人だけではなく全世界の救い主でもあることを強調しているのです。
「イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時であって、人々の考えによれば、ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子、」
(「ルカによる福音書」3章23節、口語訳)
この節で「人々の考えによれば、ヨセフの子であった」と書いてあることに注目してください。ここにもイエス様が処女マリアからお生まれになったことが暗に述べられています。
3章29節の「ヨシュア」はギリシア語では「イエースース」といい日本語だと「イエス」にあたりますが、この箇所では旧約聖書の「ヨシュア」を指しています。イエス様のヘブライ語での名前は「ヨシュア」でした。新約聖書でのギリシア語名はその元となっている旧約聖書でのヘブライ語名とはかなり異なった形をしている場合もあります。互いに語族が異なるギリシア語(インド・ヨーロッパ語族)とヘブライ語(セム語族)のアルファベットの間には完全な対応関係がないのがその理由です。日本語に翻訳する場合にはさらに問題が大きくなります。「ヨシュア」と「イエス」が元々は同じ名前であることが日本語では読み取れなくなっているからです。