ルカによる福音書15章

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

放蕩息子、富の誘惑 「ルカによる福音書」15〜16章

 

神様は失われた者が見つかったことを喜ばれる  15章1〜2節

今までも何度か指摘したことですが、イエス様が罪人たちと付き合っていたことはファリサイ派や律法学者たちの間で非常に不評でした。

イエス様の活動についてファリサイ派や律法学者たちが「この人は罪人たちを迎えて一緒に食事をしている」と批判したことは、まさしく福音の核心へと私たちを誘います(15章2節)。

ルカは15章でイエス様の話された三つの譬を記しています。これらの譬は「なぜイエス様は罪人たちと一緒にいたのか」についてその理由を教えてくれます。神様がイエス様をこの世に遣わされたのは、「自分はすでに義人になっている」と思い込んでいる人々ではなく「自分は罪人なのだ」と認めている人々を探して見つけ出すためでした(15章7節)。

迷子になった羊、失くした銀貨 15章3〜10節

「羊」は群れからはぐれて迷子になりやすく、我が身を守る能力の点でも最弱の動物であると言われています。これを信仰の問題に当てはめてみると、私たち人間も羊のような存在なのです。魂の敵(悪魔)は私たちを神様の御意思から容易く引き離し迷子にしてしまうからです。しかしそうなってしまうと、もはや正しい道に自分で戻ることもできなくなります。

「失くした銀貨」は羊よりもさらに無力な存在です。銀貨は自分のことを探している者の注意を自分のほうに向けることさえできないからです。私たち人間も、とりわけ救いについては、神様が私たちの中で行ってくださる働きかけに反抗してばかりいます。

すでに旧約聖書は神様を「羊飼い」として描いています(「イザヤ書」40章11節、「エゼキエル書」34章11〜15節、そしてとりわけ「詩篇」23篇)。しかし新約聖書にはさらに重要な関連箇所があります。それは、イエス様が迷子になった羊たちを探す羊飼いについて語っておられる「ヨハネによる福音書」10章11〜18節です。

律法学者たちやファリサイ派は「羊飼い」という職業を軽蔑していました。羊飼いたちは仕事柄、旧約聖書にある宗教儀式の要求事項を完全に満たすことができなかったからです。

ある羊飼いに百匹の羊がいたとして、一匹の羊が消えたなら、羊飼いは消えた羊を探しに出かけなければなりません。もしも消えた羊を探さないままで放置するなら、翌日には98匹しか残っていないかもしれないからです。その後、さらに97匹だけ残っているというように徐々に目減りしていくことでしょう。そうなると「どのような状態になったら消えた羊たちを探しに出かけるのか」という明確な基準を設けることができなくなってしまいます。

羊はその一匹一匹が所有者にとって同じように価値のある存在です。それと同様に、人間も一人一人が神様にとって同じように価値のある存在なのです。

ある女性が持っていた銀貨十枚(15章8節)は嫁入りの贈り物としていただいた飾りだったものかもしれません。その場合には、たった銀貨一枚が欠けただけでも飾り全体がだめになってしまいます。こう考えると、この女性が銀貨(ギリシア語で「ドラクマ」)よりもはるかに重要な婚姻の宴に出席していた女友だちや近所の女たちを呼び集めて、銀貨が見つかったことを大喜びで報告したことにも説明がつきます(15章9節)。

また次のような別の解釈も可能です。失くした銀貨はその女性の元々持っていた銀貨十枚のうちの一枚であったとする説明です。その場合でも失くした銀貨が彼女にとって重要だったことには変わりません。

「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」
(「ルカによる福音書」15章7節、口語訳)

イエス様の羊の譬での「九十九匹の羊」とは、キリスト信仰者たちのことか、あるいは「自分は義人だから救いなどは必要ない」と思い込んでいたユダヤ人たちのことでしょう。イエス様がこの譬を話された元々の状況を考えると、後者の解釈のほうがより自然であると思われます(15章1〜2節)。その場合、上節の終わりの部分は「悔改めを必要としないと思い込んでいる九十九人」と意訳したほうがより実情に合っていることになるのかもしれません。

憐れみ深い父親の二人の息子たち 「ルカによる福音書」15章11〜32節

放蕩息子の物語は最も有名な聖書の箇所の一つでしょう。しかしこの物語の主人公は弟だけではなく兄や父親もそうなのです。

弟は父親が生きているうちに遺産相続での自分の取り分を今すぐもらえるように父親に頼みました。このようなやりかたは当時のユダヤ人社会でもローマ人社会でも一応は認められていました。とはいえ、子どもがそれを父親に要求することは珍しかったのはたしかでしょう。この種の遺産相続は「不動産」を含まない「動産」に限定されていました。屋敷などの不動産は長男が相続する習わしだったからです。

長男は他の兄弟にくらべて二倍の遺産を相続しました(「申命記」21章17節)。それゆえ、この物語のケースでは弟は全遺産のうちの三分の一を、兄は三分の二を相続することになりました。

兄は土地を耕すために家に残りました。この土地は今やすべて彼の相続分になっていました(15章31節)。

その一方で、弟は「甘い生活」を楽しむために異邦人たちの国へと旅立ちました。彼は持ち金がすっかりなくなったときに、それまで彼が「友人」だと思っていた人々が皆、彼の元を立ち去ったことに気づきます。その上、彼の住んでいた地方に起きた飢饉のために彼の生活状況はいっそう悪化しました。

ユダヤ人であった彼は会堂(シナゴーグ)に助けを求める権利がありました。しかし、それまで悪い生活を送っていたことを自覚していた彼はこの権利を行使するのをためらったのでしょう。その代わりに彼はある人の豚の世話をすることになりました。これはユダヤ人にとって最も嫌悪された職業でした。

タルムード(律法をめぐるユダヤ教学者たちの議論を集めた長大な歴史的文献)は豚飼いを呪われた者と宣言しています。この放蕩息子は宗教的な意味でも神様の選ばれた御民の外側に追い出されてしまったのです。

新たな職を得てからも彼は飢えに苦しみ続けました。豚たちでさえ彼よりも食事の点では恵まれていたのです。

ユダヤ人の諺には「イスラエル人は豆類を食べるように強制されるところまで落ちぶれるとようやく改心する」というものがあります(「ホセア書」2章9節も参考になります)。この諺通りのことが放蕩息子にも起きました。彼は父親の家を思い出し、そこに戻って召使いにしてもらおうと決心しました。もちろん彼は自分にはよい待遇を要求できる資格がないことを自覚していましたが、「父親なら自分を憐れんでくれるかもしれない」という期待をもっていたのでしょう。

「立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください。」 (「ルカによる福音書」15章18〜19節、口語訳)

これは「天の御国に入るために私たちにはどのような資格があるのか」という問題にかかわる描写でもあります。その答えは「自分自身にはそのような資格などはまったくない」ということです。自分自身の公正さによってではなく神様による恵みのおかげで私たちは天の御国に入ることができるのです。

この物語で息子は父親から受け継いだ財産をすっかり浪費してしまいました。この出来事は、罪深い人間が神様から与えられたせっかくの賜物を無駄にしてしまったことの比喩にもなっています。

「そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。」
(「ルカによる福音書」15章20節、口語訳)

放蕩息子が実家に帰ってきたとき、父親の態度は彼をまったく驚かせるものでした。父親は彼を召使いとしてではなく息子として迎え入れてくれたのです。中近東の文化圏では「走る」という習慣がありません。人が走ってもよいのは、せいぜい逃げる時か、あるいは火事の時であるとされていました。走るのは皆からの敬意を受けている年老いた男性にはとりわけふさわしくない振る舞いでした。しかし父親は自分にふさわしい行動かどうかには一切構うことなく、息子が生きて帰ってきたことを心から喜んで走り寄ったのです。

「しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
(「ルカによる福音書」15章22〜24節、口語訳)

「はきもの」は(奴隷ではなく)自由な身分の者であることのしるしでした。父親は息子の帰還を祝う宴も設けさせました。

放蕩息子は自分が浪費した財産ではなく父親の意思に反逆したことを悲しんだのです。それと同様に、自分が本当に罪深いという意識を持つ人には、自らの罪のせいで自分の人生がこうむった不幸についての悲しみももちろんありますが、「神様の御意思を破ってしまった」という悲しみこそが最も深い悲しみとなるのです。

兄の場合

兄が仕事から帰ってくると、家の方からは祝宴の音楽や踊りの音が聞えてきました(15章25節)。弟が家に帰ってきたと聞いた兄は同じ家の中に入ろうとさえしませんでした。父親は今度は兄のために家の外に出て彼を迎え入れなければなりませんでした。

兄は自分が不当な扱いを受けたと感じたのです。彼は落ち度なく父親に仕えてきましたが、仕事で得た成果を享受する機会を与えてもらえませんでした。もしかしたら彼は弟が異国で「甘い生活」を送ってきたことに嫉妬していたのかもしれません。

もちろん父親には兄にも友人たちと喜び祝う機会を喜んで与える心の用意があったでしょう。しかし、そのような父親の心を知らなかった兄は、父親の身近に暮らしていながら父親の善き意思を知らなかったのです。

この兄のケースは律法主義的なキリスト信仰者あるいはファリサイ派のユダヤ人のことをよく表しています。彼らにとって神様の御意思に従うことは自分たちの人生から喜びを奪うものだったのです。それに対して、真のキリスト教信仰は「神様の御意思に従うことは人生に喜びをもたらす」と考えます。

兄は放蕩息子のことを弟とさえ認めず、父親に対して「あなたの子」と呼んでいます(15章30節)。これと同じようなことは、さまざまなキリスト信仰者たちのグループの間でも容易に起きます。「自分たちとは異なるグループに属している人々は自分たちの信仰の兄弟姉妹ではなく、同じ御父の子どもですらない」などと考えがちなのです。

放蕩息子に対する父親の親切さは兄を怒らせました(「マタイによる福音書」20章10〜16節を参照してください)。兄にとっては、父親の家が丸ごと自分の相続財産になっている(15章31節)ということさえ慰めを与えなかったのです。

兄がこの後どうなったのか、兄は祝宴の外に留まったのか、それとも祝宴の中に入っていくことにしたのか、イエス様は何も語っておられません。

「ユダヤ人たちは神様からの御国への招待を受け入れるのか、それとも受け入れないのか」という問題には現時点でははっきりした答えがありません。「ユダヤ人たちは終わりの時に自らの高慢さを捨てて神様の恵みの下にへりくだることになるであろう」とパウロは予見しています(「ローマの信徒への手紙」11章25〜27節)。「彼らが神様からの招待に対してどのように応答するのか」はまだわかりません。「兄」は今もなお庭で考え込んでいる最中なのです。

この「兄」を私たちキリスト信仰者にあてはめて考えることももちろんできます。具体的に罪を犯した人々が悔い改めて教会の正式な会員として受け入れられることは決して容易ではないというのが、残念ながら一般的に見られる傾向でしょう。しかし、イエス様は彼らのこともいつも受け入れてくださったのです(15章1〜2節)。