マルコによる福音書4章1~34節 神様の御国
「マルコによる福音書」の4章には、神様の御国に関するイエス様のたとえ話が多く取り上げられています。イエス様のたとえ話は物語としてもすばらしいものばかりです。時代は移り変わりますが、たとえ話はいつの時代にも人の心を動かす新鮮さを保っています。それらは今でもなお、ヨーロッパ諸国の人々の言葉遣いの中などに、消えることのない明らかな痕跡をとどめています。
謎めいた話 4章1~9節
「種蒔きの人のたとえ」は、イエス様の「かわった教えかた」をよく示しています。イエス様はたとえを話されましたが、その意味の説明はしませんでした。たとえの意味を理解しなかった者は、まもなくイエス様の御言葉を忘れてしまったにちがいありません。しかし、たとえの意味を理解した者は、生涯にわたって考え続ける甲斐のある「教え」を受けたことになります。
イエス様は種蒔きに出かけた男について語ります。イエス様がこの世で生活していた時代の人々は、種蒔きに必要な雨を長いこと熱心に待ち続けなければならないことがしばしばありました。ようやく雨が降ると、種を蒔く人が仕事を始めます。その際、はじめに土を耕すのではなく、まず種が蒔かれ、それからそれを土によって覆います。いくつかの種は道端に落ちました。これらの種は芽を出す暇もなく、鳥にあっという間に食べられてしまいました。いくつかの種は岩の上に落ち、すぐに芽を出しましたが、まもなく枯れてしまいました。いくつかの種は茨の茂みの中に落ちました。そこで種は芽を出し伸び始めましたが、覆いかぶさるようにして茂る茨が成長を妨げたので、実をつけるには至りませんでした。残りの種はよい土地に落ちて、種を蒔いた人の期待通りの収穫をもたらしました。うまくいった場合には、もとの10倍の量の実を得ることができました。当時の人々にとっては、元々の100倍の重さの収穫を得るのは、ほぼ実現不可能な夢にすぎませんでした。とはいえ、ひとつの籾には平均的に約35個の実が入っており、非常によい条件の下では100個の実が得られることもありました。
メッセージの意図的な隠蔽 4章10~12節
イエス様は、たとえを聴衆全員には説明なさいませんでした。彼らの中には、たとえの意味を理解した人もいれば、忘れてしまう人もいました。神様は旧約聖書でキリストの到来を約束しましたが、イエス様こそがそのキリストにほかならないことを理解した人々だけが、たとえの意味を理解しました。たとえの意味をたずねた弟子たちに対してイエス様は、「神様の御国を聴衆から隠すために、私はたとえで語るのです」、とはっきり言われました。これは神様の民の歴史においてはじめてのことではありませんでした。主の御言葉の目的のひとつは、主の民の大部分をかたくなにし、御言葉が彼らの傍らを素通りするようにさせることだからです。神様は預言者イザヤを遣わして、メッセージを民に伝えさせました。召命を受ける時点でイザヤが見た幻の中ではすでに、神様のメッセージが民に受け入れられないことが告げられています(「イザヤ書」6章)。このイザヤの言葉をイエス様はここで引用し弟子に語られました。今まで何度も触れられてきた「メシアの秘密」は、この箇所で、おそらくもっとも明瞭にしかもおそるべき様相を呈しているのではないでしょうか?
たとえの説明 4章13~20節
弟子たちは今ようやくたとえの説明を聞くことができます。このたとえのキーポイントは、蒔かれる種とは神様の御言葉のことだ、ということです。この点をしっかりおさえておけば、あとは説明の必要もないほど容易に、たとえのもつ意味が明らかになります。種とは神様の御言葉のことであり、さまざまな土地はさまざまな人々をあらわしています。種のさまざまな成長の仕方は、神様の御言葉がさまざまな仕方によって人間の内部に影響を及ぼすことを意味しています。
道端に落ちた種とは、聞く耳を持たない群衆に語られた神様の御言葉のようなものです。彼らは御言葉を聞きはするものの、それを気にも留めません。サタンが御言葉をすぐに取り去ってしまうので、御言葉が「芽を出す」暇もありません。耳に入ったと思ったらあっという間に忘れさられてしまいます。神様の福音が彼らの心に響くこともありません。
岩場では種はすぐに芽を出しますが、太陽に照りつけられて乾燥し、実をならせるにはいたりません。ここで描かれているのは、神様の御言葉を最初は喜んで受け入れてもまもなくすると捨ててしまう人たちのことです。彼らが御言葉を捨てる理由はなんでしょうか。ここでイエス様は、困難や迫害などの外面的な要因を挙げておられます。人間の外側にも内側にも人が御言葉を捨て去る原因をいくらでも見つけることができるでしょう。多くの人はいともたやすく疲れ果て、もはや神様の福音を必要とはしなくなるものです。
茨の茂みに蒔かれた種は芽を出し、命をつなぎます。しかし、この芽には一番大切なものが欠けています。それは収穫の実です。種蒔きの目的は実を得ることなのですから。茨の茂みのような土地は、御言葉を受け入れて学ぶ生徒にはなるものの、しまいにはこの世的なものに飲み込まれていく人たちを描いています。富や心配や種々のこの世的な欲望が彼らを振り回すため、実がならないままで終わってしまいます。
よい土地に落ちた神様の御言葉の種は、ちゃんと本来の目的を果たします。その場合、最後まで人は神様の御言葉の忠実な生徒として留まります。御言葉を聴く人がこのような者とならせることが、神様の御言葉の説教の目的です。これ以外のケースでは、御言葉の教えは益もなく無駄に聞き流されることになってしまいます。
福音を公に 4章21~23節
前のたとえは、「どうすれば神様の御言葉を正しく聴くことができるか」、についてのイエス様の教えに関係しています。神様の御言葉の光を心にいただいた者は、それを隠していてはいけません。ロウソクに火を点した者は、それを入れ皿で覆ったりはしません。火のついたロウソクは、部屋全体が明るくなるように、できるだけよい場所に置かれるものです。これと同じように、神様の御言葉は世界全体に向けられています。御言葉には、恥ずべきことや隠すべきことは何もありません。「マルコによる福音書」の続きの箇所も、このことに関連しています。御言葉は注意深く聴かれるべきものだし、さらに先へと伝えられていくべきものです。先へと伝えていくべき御言葉が多ければ多いほど、神様はそれだけ多くの御言葉についての理解力を、それを伝える人に与えてくださいます。それにひきかえ、御言葉を恥じて覆い隠す人からは、その人がもっていた御言葉を理解するわずかばかりの力さえも奪われてしまうことになります。
成長させてくださる神様 4章24~29節
イエス様は神様の御国や御言葉について語られます。イエス様はたとえについて説明なさいません。それでも、たとえ自体を理解するのは容易なはずです。農夫が種を蒔きました。その後はしばらく何もやることがありません。種は芽を出し、おのずと茎を伸ばし、そして穂をつけ、さらに穂の中に実をならせます。ようやく収穫の時になって、農夫は畑に向かいます。このたとえでは、農夫は神様であり、畑は世であり、種は神様の御言葉です。つまり、神様はこの世では御言葉を通して働きかける方なのです。神様が望まれることを実現するのが、御言葉です。信仰が人々の間に広がっていくのは、人間の業績ではなく、神様の奇跡です。時が来て、神様は御言葉を人々に与えてくださいます。また、「神様の時」が来ると、神様は刈入れをするために使者を派遣されます。ここで「刈入れ」は最後の裁きを意味していると思われます。
小さな種から大きな木へ 4章30~34節
私たちにとって馴染み深い「からし種」の木は、とても小さく取るに足りないものに見えます。それは蒔かれるとぐんぐん成長して、ついには大きな木になります。麦の実よりもずっと小さい種が、驚くほど大きく成長するわけです。これと同じように神様の御国も、この世では非常に小さく取るに足らない存在に見えます。しかし、それはどんどん成長して強くなり、ついにはすべての国民に避難所を提供できるほどまでの大きさになります。大きな木の陰に巣を作る空の鳥たちのたとえは、「ダニエル書」と関連しています(4章16~19節)。その箇所では、ネブカドネザルの強大な権勢が「いたるところに枝を伸ばしている木」にたとえられています。ダニエルはネブカドネザルに対して、神様がこの「大木」すなわちバビロン帝国を倒すことを予言しているのです。これとは反対に、小さくて取るに足りないように見える神様の御国は、大きく強く成長していくわけです。
聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)