マルコによる福音書12章 どこに果実が?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 イエス様のエルサレム上京に伴い、私たち読者はこの福音書の「頂点」へとますます近づいてきました。今回扱う12章は、イエス様が公にエルサレムで教える時期に当たります。世にも稀な状況の中で緊張が高まっていきます。

「神様の民」はどう行動するのでしょう。群集が「ホサナ」と叫んだときのように、エルサレムの民は「イエス様こそキリストだ」と心から告白して受け入れることになるのでしょうか。イエス様には民やその指導者たちに何か言わなければならないメッセージがあるのでしょうか。

ぶどう園とその借用人たちの犯罪 12章1~12節

 イエス様は「ぶどう園とその借用人たちのたとえ」を話します。イエス様に反対する人々はその話によって心をかき乱され、イエス様に激しく怒りました。「マルコによる福音書」は、当時の社会的・法的な現実を震撼すべき正確さで描き出しています。しかし旧約聖書を知悉する人々は、イエス様がただたんにぶどう園の仕事の大変さを言おうとしたのではない、と理解できました。

「イザヤ書」5章には、預言者の友人がぶどう園をつくって念入りに世話をする様子が描かれています。彼はぶどう園をよりよいものにするために最善を尽くしましたが、実ったのは野ぶどうだけでした。それで、預言者の友人は園を囲む垣根を取り壊して、園が踏みつけられても放っておくことに決めました。

「イスラエルの部族は万軍の主のぶどう園であり、ユダの男たちは主が喜んで植えられた苗木です。主は公平を待ち望んでおられたのに、見なさい、あるのは不正です。主は正義を待ち望んでおられたのに、見なさい、あるのは叫びです。」
(イザヤ書5章7節)

 イエス様のぶどう園のたとえは、この「イザヤ書」のイメージと重なるものです。たとえにおいても、ぶどう園を植林し所有しているのは神様です。ぶどう園の借用人たちは神様の民の代表者たちのことです。召使たちは預言者たちです。神様はイスラエルに御自分の民という特別な地位を与えて御心を告げました。他のすべての国民は「異邦人」と呼ばれ、活ける神様からは何もいただけないはずの立場にありました。主は特別な賜物であるイスラエルの民が御自分の意思と公正に則して忠実に生きて行くことを期待しました。ところがそれに反して、御民は神様をないがしろにして勝手な生きかたをしました。御民の悪い行状に警告を発した預言者たちは、その代償として迫害を受け、中には殺される者もいました。ついに最後の手段として神様は、御民が神様のことを知るために、御民の只中にその愛する独り子を遣わしました。ところがそれは、以前にもまして悲惨な結果を生じました。神様の御子が人々によって捕らえられ、殺されてしまったのです。こうして、神様の御言葉の予告の内容が実現しました。家を造る者たちの捨てた石が「隅のかしら石」となったのです(「詩篇」118篇22~23節)。

イエス様の話の意味は、旧約聖書の内容を理解している聴き手にとっては非常に明瞭でした。ユダヤ人のやりかたに従って話の内容をたとえで包み込みつつも誤解を生まない形で、自分が誰であり、自分の上にこれからどのようなことが起こるのか、イエス様は民全体に語りました。この話は人々の怒りをまきおこしました。それも一因となって、イエス様の予言は字句通りに成就しました。現実にも、神様の御子は皆に捨てられて十字架に打ち付けられたのです。

皇帝への税金 12章13~17節

 ローマ皇帝に税金を払うべきかどうか、という問題はユダヤ人たちにとって難問でした。それは経済的というよりも神学的な問題でした。ローマ皇帝に税金を支払う者は、ある意味で皇帝を事実上のイスラエルの指導者として認めることになります。しかし、イスラエルは神の民であるはずです。こうした矛盾は、ローマ帝国が税金を徴収する時、常に大きな危機的状況を招きました。例えば、神の民イスラエルを敵国ローマの圧政から解放せんとする多くの反乱グループが現れました。逮捕された民族解放運動家の中には、税金を皇帝に払うことよりも拷問による死を選ぶ者もいました。

このように、イエス様に向けて提示されたこの質問は当時のユダヤ人たちには現実的な重大事でした。「イエスは、ローマ皇帝に忠実な臣下なのか、それとも自分の弟子たちに反乱をそそのかす王なのだろうか。この問題にイエスが肯定的に答えても否定的に答えても困るわけだから、イエスの支持者は減っていくことになろう」、という策略でした。

ローマに反抗するならば、イエス様を中心とした活動はたちまち戦いに巻き込まれ、壊滅してしまうことでしょう。当時のローマ当局は、少しでも反乱の疑いを招く行動をとるならば、相手が静かな群衆であっても何千人でも粛清する気でいることを、すでにその武力行使によって示していました。

ところがイエス様は、すかさず驚くべき返答をなさいました。納税用の硬貨には皇帝の絵が彫ってありました。「「皇帝のもの」は皇帝に属しています。それに対して、人は「神様のかたち」としてつくられました。ですから、「神様のもの」である人間は神様に属するようにするべきです」、というのがその答えでした。イエス様は皇帝の使者でもなく、皇帝の反抗者でもありません。神様の遣わした御子として、主の御民を探していたのです。

復活をめぐる問答 12章18~27節

 福音書の緊張は高まる一方です。あまり意味のない出来事については記されません。ですから私たちは、それぞれの出来事の記述を十分な注意を払って読み進む必要があります。このことはとりわけ、サドカイ派がイエス様に復活について質問した事件にあてはまります。

サドカイ派は今まで福音書に登場しなかった当時のユダヤ教の「影の実力者」です。この党派は、神殿祭司階級の強固な支持を受けていました。サドカイ派の中から大祭司が選出されたし、彼らはユダヤ人の最高決議機関サンへドリンの過半数を占めていました。福音書のこの段階にいたって、「神の御民」の実質上の指導者階層がイエス様と直接やりあうことになったわけです。

サドカイ派の教えとファリサイ派の教えとは、明確に異なっています。神様の啓示としてサドカイ派は、「トーラー」と呼ばれる、旧約聖書の最初の5冊の書物(「創世記」、「出エジプト記」、「レビ記」、「民数記」、「申命記」)のみを公認していました。彼らはトーラーから死者の復活に関する明らかな根拠を見つけることができなかったため、復活信仰を認めませんでした。

一方でファリサイ派は神様の啓示として「預言書」(「ネビイーム」と呼ばれます)も公認していました。たとえば、「ダニエル書」の12章(1~3節)が死者の復活について語っているため、復活信仰をもっていました。他の多くの点でも、イエス様の見解はサドカイ派よりもファリサイ派に近いものでした。イエス様がファリサイ派と何度も論争したり、彼らの家を訪れたりしたことは、イエス様とファリサイ派との間のある種の親近感のあらわれとさえ言えるかもしれません。サドカイ派はイエス様を処刑するように画策しましたが、他の点ではイエス様とは何の関わりももちませんでした。

サドカイ派がイエス様に提示した質問は、些細なことに異様にこだわり、針で刺すようなわざとらしく嫌味な類のものでした。「死者の復活」が原則的に不可能なことを示すために、サドカイ派は特殊な状況についてのモーセの律法の規定(「申命記」25章5~6節)に基づくかのように見える、この上なく奇妙で非現実的なケースをひねりだすことを余儀なくされました。

死者の復活についてのイエス様の教えは単純明快です。主は御自分に属する者たちの神なのです(「出エジプト記」3章6節)。ですから、主は死んだ者たちの神ではなく、生きている者たちの神なのです。

一番大切な戒め 12章28~34節

 イエス様はサドカイ派とファリサイ派の間の古くからの論争に自分の立場を述べるように、強く求められました。その話し合いを傍らで聞いていた律法学者が、イエス様の鋭い回答に感心したのは当然です。それで彼は、イエス様をわざと困らせるためではなく、いたって真面目に、イエス様に別のことを質問します。モーセの律法には何百もの戒めや禁止があります。そのことに頭を悩ました律法学者たちは、それらをなんらかの方法で整理し序列化したいと望んでいました。第一戒がもっとも大切な戒めであるというのが、彼らの一般的な理解でしたし、イエス様もそう教えておられます。「神様を何にもまして愛しなさい」、というこの第一戒がはじめに守られるべき戒めです。今これと関連して、第一戒と同様に大切な戒めとして、「隣人を自分と同じように愛しなさい」、というもうひとつの戒めが与えられました。これらふたつの戒めを心に留めて、それにしたがって生きていくとき、旧約の神殿祭司による犠牲のささげものによっては決して到達し得ない(信仰の)核心に私たちは導かれます。質問をした律法学者がこの教えに賛同するのをご覧になって、イエス様は彼に、「あなたは神様の御国から遠くはない」、と言われました。

キリストとは誰か? 12章35~37節前半

 イエス様がキリストであるかどうか、確信がもてない神様の御民が驚嘆したり困惑したりしているときに、イエス様は御自分のほうから、当時律法に関わる全問題の中で最も関心を集めていた問題を取り上げました。それは、旧約聖書でその到来が約束されたキリスト(メシア)の本質にかかわる問題でした。旧約聖書の約束によれば、キリストはダヴィデの子、すなわちダヴィデの子孫である支配者です。ところが一方では、ダヴィデ自身がキリストを主と呼んでいます(「詩篇」118篇1節)。つまり、キリストは同時にダヴィデの子でもダヴィデの主でもあるわけです。これをどのように説明するべきでしょうか?

旧約聖書に約束されたキリストは、この世のたんなる支配者ではありません。キリストは人間以上の存在であり、それゆえダヴィデの子孫であると同時にダヴィデの主でもあるのです。この預言はイエス様において実現しました。イエス様は義理の父親ヨセフを通してダヴィデの系図につながっています。その一方で、イエス様は神様の御子としてダヴィデの主でもあります。

蜂の巣をつつくように 12章37(後半)~40節

 イエス様はエルサレムでいわゆる「外交術」を一切用いませんでした。死者の復活に関する質問に答えることでサドカイ派を完膚なきまでに恥じ入らせた後、すぐにイエス様は律法学者たち(その大部分はファリサイ派に属していました)に対しても激しい批判を浴びせました。批判を受けたのは、彼らの見てくれだけの偽善でした。

立派な信仰者という外見や周囲からの賞賛によっては、人は神様の御前で「自由」とはみなされません。往々にして他より抜きんでて模範的な信仰者だとみなされる人物の内側で、罪は最も醜い姿をとるものです。御民から尊敬されていた律法学者たちは、実は貪欲な偽善者にすぎませんでした。神様は人間の外見によってだまされるようなお方ではありません。それゆえ、偽善者は他の人々よりも厳しい裁きを受けることになるのです。

二枚のレプタ銅貨 12章41~44節

 ユダヤ人は、貧しい人たちに施しをすることを神様に喜ばれるよい行いであるとみなしていました。神殿には施しのための箱が置いてあり、そこに集められたお金は貧しい人々に分配されました。過ぎ越しのお祝いのときに、多くの金持ちは多額の寄付をしました。しかしイエス様は寄付金の量などには惑わされません。

イエス様は人間の立場と真の状態を見ておられます。人が生きるためには、ほんのわずかなもので足りるものです。有り余っているお金はすべて必要な人々に与えるべきだし、またそのようなお金を人に与えても自分が貧しくなったりはしないものです。ところがそういう場合とは異なり、この貧しいやもめは日々生きるために必要なぎりぎりのお金さえも神様にささげました。これこそが、本当にささげるということなのです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)