マルコによる福音書3章7~35節 強まる反対

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

前章では、イエス様の活動によって皆がどれほどイエス様の権威の偉大さに驚嘆したか、について述べました。他方、イエス様の活動がどのように人々の反対と怒りを生むようになっていったかについても触れました。今の箇所では、この反対と怒りが強まっていく過程を私たちは目にします。

広まっていくイエス様の評判 3章7~12節

 イエス様はゲネサレ湖のほとりで仕事をつづけられました。イエス様は福音を説教し、病人を癒し、悪霊を人々から追い出されました。イエス様は、御自分について証することができないように悪霊の口を封じられました。イエス様の評判は時と共に広がっていきました。そして、イエス様のはじめられた運動も拡大していきました。ガリラヤだけではなく他の地方からも、多くの人がイエス様の御許に押し寄せてきました。遠く北やユダヤやエルサレムからも、イエス様の話を聞きに、あるいはイエス様の助けを求めに、人々が訪れました。イエス様の周囲は人で混み合うようになったのです。

12人の使徒たち 2章13~19節

 イエス様は12人の使徒たちと共に山に登りました。イエス様は彼らに特別な使命を用意しておられたのです。イエス様には、この使徒のグループに属していない他の弟子や親しい友人もたくさんいました。

 主がちょうど12人の使徒を選んだのは偶然ではありません。彼らがイスラエルの12部族に対応するように選ばれたのは間違いないでしょう。彼らには神様の御国における特別な任務がありました。それは、キリストの受難と復活の証人となることでした。主キリストの教会は、使徒的な信仰の中に留まっている教会としてのみ存在してきた、とも言えます。

 イエス様に従った人たちをより詳しく調べてみると、いろいろ興味深いことがわかってきます。とくに驚くべきことは、政治的に互いに異なる意見の持ち主たちをイエス様がひとつにまとめられた、ということでしょう。カナネ―ウス・シモンは疑いようもなく「ゼーロータイ」(熱心党)に属するユダヤ民族解放運動の闘士でした。その一方で、同じ使徒のグループには(ローマの手先として働いていた)取税人も属していました。このようにイエス様の使徒たちは、本来なら互いに最悪の敵同士であるはずの人々から構成されたグループだったのです。彼らは師匠の赴くところならどこへでもつき従って行きました。

イエス様の不信仰な身内の者たち 3章20~21節

 イエス様の周囲に集まる人々はどんどん増えていくばかりでした。ここで「マルコによる福音書」はある意外な出来事について手短に報告します。イエス様の身内の者たちが、イエス様の権威を理解せず、イエス様を家に連れ戻すつもりでやってきたのです。彼らはイエス様の頭がおかしくなったのだと思い込み、イエス様を群集の中から連れ出そうとしました。イエス様の身内の者たちの不信仰については、他の福音書にも記述があります(とりわけ「ヨハネによる福音書」7章1~10節)。とはいえ後になってみると、イエス様の身内の者たちも、イエス様の権威が神様から授かった正真正銘の権威であることを信じるようになったようにも見えます。今の箇所の段階でイエス様の身内たちがイエス様の本当のお姿を理解しなかった盲目さは、「マルコによる福音書」では「メシアの秘密」と呼ばれる全体の大きな流れの中で理解されるべきものでしょう。福音書は、人間にとっては予想外で遺憾な出来事についても、それを無視したり素通りしたりはしません。そのような出来事も、イエス様の主権が(人の目から)いかに深く隠されたものであったか、ということをよく示しているからです。

何の権威によって? 悪魔の親玉の権威によって? 3章22~30節

 これまでにも私たちは何回となくイエス様の権威にかかわる疑問に直面してきました。この疑問に対して、エルサレムから来訪した律法学者たちはある答えをひねり出しました。それは、「イエスは悪魔の親玉ベルゼブルの与えた権威によって活動している」、というものでした。「もしも大物の悪魔が権威を与えたのなら、その力によって小物の悪魔が退いたとしても、何の不思議もあるまい」、というわけです。

 イエス様は、この「答え」が的外れであることを迅速かつ徹底的に示されます。 「悪魔は仲間の働きを妨げません。もしもサタンが仲間を迫害しはじめたのだとしたら、実に奇妙な状況というべきです。そうではありません。悪魔を追い出しているのはサタンなどではなく、サタンに反対する力なのです。それでは、この「力」とは何ですか?少なくともそれはサタンよりも強い力です。弱々しく頼りない者が、自分よりも強い者を倒して何かを奪い去ることはできません。今やサタンの支配が崩れつつのです。それは、サタンよりも強いお方が活動を開始した証拠なのです。」

 イエス様の権威についての問題は、さらに次のように書き換えることもできます。 「もしもイエス様に権威を与えた者がサタンではなく、サタンよりも強い存在だったとしたら、それはいったい誰なのか」。

 イエス様はユダヤ人教師に典型的なやりかたに則って、自らの質問に自ら答えることはなさいません。しかし、正解はもちろんひとつだけです。「イエス様のうちでは、自らの権威によってサタンを追い払う全能の神様が働いておられる」、というのがそれです。

 エルサレムから来訪し間違ったことを教えた律法学者たちに対して、イエス様は極めて厳しい言葉を向けられました。彼らは神様の御霊とその力を確かに感じていたにもかかわらず、姑息にもイエス様を受け入れようとはせず、イエス様と共に活動なさっている神様の御霊をも否定したからです。神様の働きを拒絶する者は、聖霊様を侮蔑することになるので、もはやその罪が赦されることはなくなります。ここでイエス様が警告なさっているのは、何らかの不用意な言葉遣いについてではなく、イエス様を拒絶することの重大さについてです。聖霊様に対する罪とは「不信仰」にほかなりません。

イエス様の真の「身内」 3章31~35節

 イエス様とその身内たちについての描写がつづきます。興味深いことに、ここにはイエス様の父親は登場しません。母親と弟たちや妹たちは、身内としての義務感からイエス様のおられた家の外に立って、言葉を交わす機会を待っていました。イエス様の神の子としての権威を認めていなかった彼らは、「イエスは気が狂った」、と思ったのです。ところがイエス様は、身内と話すために外に出ることもなく、周りにいる人々に対して、「神の御心を行う者が、神の弟であり妹でありまた母なのです」、と言われました。この世で生活していた時のイエス様は、自分の親戚や家族からの保護もない孤独な状態におかれていました。イエス様は自らの使命を成就するために、誰からも支援を受けることがありませんでした。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)