マルコによる福音書4章35節~5章43節 奇跡

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

再び、イエス様の権威について 4章35~41節

 いろいろなたとえを話された後で、イエス様は弟子たちを舟に連れて行き、彼らと共に向こう岸に向かいました。すると嵐が来て、一行はおぼれそうになりました。すさまじい嵐の中でもイエス様は眠っておられました。しまいには、おびえきった弟子たちが眠っているイエス様をゆり起こしました。主は起き上がって風と荒れ狂う海とを叱りつけました。すると嵐はたちまち鎮まりました。イエス様は弟子たちを叱りました。おそらくその時の彼らは嵐の時以上に非常な恐れを覚えていたことでしょう。自然界の力さえも従わせることができるこの先生は、いったいどのような権威の後ろ盾によって活動しておいでなのでしょうか?自然界に命じてそれを従わせることができるのは、すべてを創り保たれるお方しかいないはずです!

レギオンの処罰 5章1~20節 

 イエス様は湖の反対側、ゲラサという町に来ました。この地名がここで登場するのは謎めいています。というのは、ゲラサはゲネサレ湖畔から約60キロメートル離れたデカポリスという地域に位置していたからです。ここで町の名前が挙げられているのは、ゲラサがデカポリス最大の町であり、また、この福音書では異邦人の土地については大雑把な地理で十分だとみなされたからではないでしょうか?この箇所でイエス様を出迎えたのは、デーモン(悪霊)によって苦しめられてきた男でした。デーモンは「レギオン」と名乗りました。ローマ帝国のレギオンは、約6千名の男たちによって構成された軍隊の単位です。イエス様はデーモンの群れをその男から追い出して、近くにいた豚の群れに入ることを許されました。約2千頭の群れは崖の下めがけてなだれこみ、失われました。男はデーモンから解放され、正気に戻り、ちゃんと服を着てイエス様に従い、その場に座っていました。その男を以前から知っていた地元の人々は皆一様に驚き、イエス様がその土地から立ち去ってくれるように頼みました。デーモンから解放された男はイエス様から、自分の町にとどまって自分に起きた奇跡について周囲に語るという使命を受けました。

 福音書の記すこの出来事を読むとき、よくわからない点が出てきます。そもそもなぜ「マルコによる福音書」にこの出来事が取り上げられているのでしょうか?たぶん2千頭の豚の群れが湖になだれこむ光景のすさまじさが、そのひとつの理由でしょう。モーセの律法によれば豚は汚れた動物であり、ユダヤ人たちにはそれを食べることが許されていなかったことも、理由のひとつであった可能性があります(「レビ記」11章7節)。しかしこの出来事においても核心となるテーマは、イエス様の偉大な力です。目に見える形で悪霊たちを人から追い出すことができるこの方は、ふつうの人間ではありえないし、それを自らの権威に基づいて行ったはずもありません。

ふたつの奇跡の出来事 5章21~43節

 「マルコによる福音書」は多くの奇跡を記録しており、それらは福音書の非常に大切な部分をなしています。その中でも奇跡の意味を鮮明に示しているのが、ここで取り上げるふたつの奇跡です。これらのうちひとつの奇跡はもうひとつの奇跡の中に内包されています。まずはこれらの出来事を別々に扱い、それから、どうしてそれらがこのように独特な形で構成されているかを考えてみることにしましょう。今回の奇跡は再び、私たちにも馴染みがあるゲネサレ湖の片側、すなわちティベリアやカペルナウムやゲネサレなどがある地方で起こりました。

 ヤイロは地元のシナゴーグ、「祈りの部屋」の会堂長でした。彼は病気の娘を癒してくれるように、勇気を出して「偉大な医者」に助けを求めました。イエス様は大群集に囲まれつつそこに赴かれようとしました。ところが、助けを求めた別の人の方が先に癒されることになり、その間ヤイロは、「イエス様に来ていただく必要はもはやない。娘はもう死んでしまった」、という自宅からの悲報を耳にします。この訃報にもかかわらず、主はヤイロの家へと出向いて、ヤイロを励ましました。当時の慣習に従い、ヤイロの家では死んだ娘のために悲しむ人々の泣き声にあふれていました。イエス様は御自分のことを嘲り笑うやかましい群集を追い払い、娘を起こして、彼女に食べ物をあげるように命じました。皆に娘が本当に生きていることを示すために、イエス様はこのような指示をなさったのでしょう。イエス様はここで再び、「このことを誰にも話してはならない」、と命じられます。しかし、どうしてこの状況でも禁止する必要があったのでしょうか。その理由を理解するのは容易ではないように思われます。騒々しい群集にヤイロの娘がよみがえったことをどのように説明すればよいと言うのでしょう?しかるべき時がくるまでは、イエス様はその真のお姿を人々に明かしたくはなかったのでしょう。ですから、その場で面食らっている人々は、「実は娘は本当にただ眠っていただけなのだ」、という「説明」で満足するほか仕方がなかったのではないでしょうか。

 ヤイロの娘の癒しと並行して進んだもうひとつの出来事では、流血が止まらない病気の女が登場します。彼女は多くの医者に診てもらったものの、病気が治りませんでした。彼女はイエス様の後ろにそっと近づき、その服にひそかに触れました。するとその瞬間、彼女は癒されたのです。と同時に、彼女がイエス様に触れたことがばれてしまいました。押し合いへし合いしている群集の只中にあっても、イエス様は誰かがまったく特別な理由から御自分に触れたことを感じ取られました。女はおびえながらイエス様の前に出頭しました。その彼女をイエス様は平安のうちに送り出してくださいました。彼女はイエス様からひそかに助けを求める必要はなかったし、それを隠しておくこともできなかったのです。信仰について手探り状態にあった彼女は、意を決してイエス様に触れた時に、主と対面することになったのです。

 ふたつの奇跡からなる出来事全体はとても興味深いもので、私たちの心に響いてきます。これらの出来事が「入れ子」になっている理由は、実際にこのような順序で事が進んだからでしょう。他方こうした構成は、イエス様が活動されていた間、奇跡は月に一度だけ起きていたのではなく、継続して日々何度となく起きていたことを示しています。もうひとつ大切なのは、ここで「マルコによる福音書」が死者をよみがえらせることに関してはじめて語っている、という点です。それゆえ、ヤイロの娘の奇跡は大いに注目されるべきものです。病気の女が言葉もなく助けを求める行為と彼女が癒される奇跡とは、これを取り囲むようにして進行するヤイロの娘の癒しの出来事にとって、時間的なずれを埋める不可欠なエピソードです。

 ふたつの出来事がひとつとなっている今回の箇所はとても大切です。新しい局面の到来を告げているからです。今までの箇所では、イエス様は病気や悪霊よりも上位の方であることが明らかにされてきました。この段階では、今まで福音書に登場した者どもよりも強力な悪霊さえも逃げていきます。海も嵐もイエス様の命令に従います。さらに、イエス様は死者を生き返らせることもできました。イエス様以前にも、旧約聖書の聖なる人々(預言者)がそれと類似することを行いました。彼らを通して、神様は特別に力強く働きかけられたのです。たとえば、エリヤ(「列王記上」17章17~24節)や、エリシャ(「列王記下」4章18~37節))などがその例です。自然の力を服従させ自然の法則を破ることができるこの方は、いったい誰なのでしょうか?私たちはすでに答えを知っています。なぜなら、私たちは「マルコによる福音書」を終わりまで読んでいるし、また新約聖書に収められた他のさまざまな証のことも知っているからです。それによれば、ここで人々の間を歩んでおられるのは、人となられた神様、神様の独り子である、ということです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)