マルコによる福音書9章2~50節 輝きの瞬間

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

「輝きの山」の栄光 9章2~10節

 前章は、「マルコによる福音書」の分岐点とも言える箇所でした。「イエス = キリスト」という弟子たちの信仰告白の後で、イエス様の道が孤独、十字架、死へと下降し始めました。神様が遣わされたキリストは、弟子たちが期待したような栄光に輝く地上の王国を築くものではありませんでした。キリストの道は、自分らの命を失った後で神様の御手から再びそれを受け取る、というものでした。イエス様は孤独でした。神様の用意なさった道は人々の目から隠されたものだったからです。

神様の道の下降していく様子とまったく対照的なのが、高い山でわずか三人の弟子を前に示されたイエス様の不思議なお姿でした。ペテロとヤコブとヨハネは信じがたい光景を目撃しました。イエス様の外見は言語を絶する輝きと素晴らしさに満ちあふれ、衣服も光を放っていたのです。その場には旧約聖書の最も偉大な人物たちであるエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合っていました。終末の時にユダヤ人たちはまさしくエリヤとモーセの出現を待ち望んでいたことが知られています。それがこの「輝きの山」で実現したのです。ついには神様御自身が雲の中にあらわれて、イエス様は神様の愛する御子であり、人々はこの方に聞き従わなければならないことを証してくださいました。それから突然この不思議な光景は消えうせ、弟子たちと一緒にいたのはイエス様だけでした。

輝きの山での出来事は「マルコによる福音書」全体を視野に入れて読むべきものです。他の人々の間にいる間、イエス様は自らの真のお姿を隠しておられました。群集の目には、イエス様の歩む下り坂は恥辱と屈辱とに満ちた道にすぎませんでした。しかし真実はちがいました。神様の御子が天の父の与えた使命を今や成就しようとしていたのです。イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた時の出来事と、フィリポのカイザリヤであまり意味を考えずにペテロが「イエス様はキリストです」と信仰告白した出来事の真の意味を、神様は輝く山で明確に力強く示し、イエス様の真のお姿が一瞬強烈な光を放って明かされました。

ところが山から下りるとイエス様は、再び自らを「キリストの秘密」の中に覆い隠しました。「人の子が死者の中からよみがえるまでは、輝きの山での出来事を他言してはならない」、とイエス様はお命じになったのです。弟子たちは主の指示に従いましたが、その意味を理解することはありませんでした。

誰がエリヤなのか? 9章11~13節

 旧約聖書の最後を飾る「マラキ書」は、預言者エリヤが「主の日」の到来の前にやってきて民を神様へと方向転換させることになる、と教えました(「マラキ書」3章23節)。「マルコによる福音書」のこの箇所で弟子たちは、「エリヤがはじめに来なければならなかったのでしょうか」、とイエス様に尋ねました。実はその質問は、弟子たちの信仰告白でもありました。まずエリヤが来て、それからキリストが来るはずでした。いまやキリストが来てくださったということは、いったいエリヤはどこにいるのだろうか?「エリヤはすでに来たのだけれど、人々は彼に注意を向けなかったのだ」、とイエス様は言われました。さらに「マタイによる福音書」では、イエス様は洗礼者ヨハネのことを指してこう言われた、と説明されています(「マタイによる福音書」17章13節)。

この箇所に関連してしばしば提示される質問ではあるもののまったく聖書的ではないある考え方を、ここで取り上げておくことにします。それは、東洋的な宗教性の代表的な例として挙げられる「魂が遍歴するという教え」です。この教えは、「人はひとつのまとまった存在である」とする旧約聖書の考え方とは相容れないものです。東洋的な宗教は、各々の人間の魂には「不死なる神性」が微量ながら含まれている、と考えます。似たような迷信は、古代のギリシア人たちの中にも見出せます。その考えに従って、「人は死んでも、依然としてその魂は世に残り、新しい肉体を見つける」、と信じ込まれていたのです。しかし、聖書にはこのような考え方はまったくありません。聖書によれば、人の肉体と魂は神様の創造の御業の結実であり、神性の一部分などではありません。それゆえ、魂も人から人へと遍歴するようなことはないのです。魂は、神様が創造した人間の内にある、神様が創造した一部分です。もっともエリヤは例外です。というのは、彼は生きたままで天へとあげられたからです(「列王記下」2章18節)。

「不信仰な私を助け出してください!」 9章14~29節

 輝く山のふもとには、この世での苦難が待ち受けていました。弟子たちには小さな子どもを苦しめている悪霊を追い出すことができなかったため、大騒ぎになっていたのです。イエス様が命じると、デーモンは子どもから出て行きました。

実はこの出来事の核心は、万人の悩みである「信仰と不信仰」という問題なのです。弟子たちの信仰は暗闇の諸霊と戦うには非力すぎました。大勢の人々や悩み苦しむ父親の見守る中で、弟子たちは悪霊に敗北したのです。自らの不信仰に悩まされ、興味本位で騒ぎたてる群衆に取り囲まれて、弟子たちは尋常ならざる忍従を強いられました。

子どもの父親の信仰と不信仰は、今日に至るまでずっと人々の心に深い印象を与えてきました。父親は信じています。しかし彼の信仰は、イエス様の求める水準には達しませんでした。信じる者にはあらゆることが可能です。父親の信仰の力では、山を移動させることなどできません。にもかかわらず、父親はイエス様に助けていただくために、イエス様の御許に留まる決心をしました。イエス様は彼を追い出すどころか、自らの不信仰を嘆く哀れな父親とその息子に対して、助けを差し伸べました。

三度目の苦難の予告 9章30~32節

 イエス様は弟子たちを群集の中から連れ出して、彼らだけを相手に教え始めました。その内容はフィリポ・カイザリヤでの教えと同じものです。すなわち、人の子なるイエス様は人々の手中に落ち、殺され、死んだ後で3日目によみがえる、というものです。この教えはイエス様の教え全体の核心であり、イエス様の最重要の使命に関わるものなのに、弟子たちにはそれがまったくわかりません。旧約聖書においてすでに準備された神様の救いの御計画は、人々の理解を超えるものでした。弟子たちでさえ理解できなかったのです。このように「キリストの秘密」は、イエス様自らが教えているものなのに、人々にとっては依然としてわけのわからない謎のままでした。

誰が一番偉いのか? 9章33~34節

 イエス様が自らに訪れようとしている受難について初めて弟子たちに告げた時もそうでしたが(「マルコによる福音書」8章)、イエス様が二度目にこのことを告げた時にも、弟子たちは「受難」の意味を理解しませんでした。弟子たちでさえイエス様のことをわかっていなかったのです。この周囲の無理解もキリストの十字架の道の一部でした。

弟子たちはイエス様から、「あなたたちはここに来る途中でいったい何を論じ合っていたのですか」、と尋ねました。弟子たちにとって、これは先生から訊かれたくない質問でした。彼らは恥ずかしくなって返答できませんでした。「自分が他の人よりどれほど偉いか、互いに言い争っていた」、などと誰も言いたくなかったのです。イエス様は彼らの真ん中に小さい子どもを連れてきて、神様の御国の基本的なルールを教えました。それは、一番偉い人は他の人たち皆の従僕にならなければならない、ということです。神様の御国には偉い人のための名誉職などはなく、あるのはただ僕の職だけです。小さい子どもに仕える者は、その子を通して実はキリストに仕えているのです。そしてキリストに仕える者は、キリストを通して神様に仕えているのです。

見知らぬエクソシスト 9章38~40節

 見知らぬ男が現れ、イエス様の御名を用いて悪霊を追い出していました。弟子たちは困惑し、彼の活動をやめさせようとしましたが、イエス様は「彼がしたいようにさせておきなさい」と言いました。イエス様の御名の力を借りて奇跡を行う者が、そのあとすぐにイエス様の悪口を言いはしないものです。人々を弟子の仲間に迎え入れていくのが大切なのであって、「お前たちは弟子ではない」と排他的に追い出すべきではありません。イエス様に反対しない人は、イエス様の味方なのです。

このイエス様の御言葉は、おそらく後世の教会の歴史で実際に繰り返し実現したことでしょう。キリスト教徒が周囲の怒りを買い迫害される中で、迫害する側にも迫害される側にもつかない人々がいました。彼らに対しては、次のどちらの御言葉を適用するべきなのでしょうか。「私たちに敵対しない者たちは私たちの味方なのです」、でしょうか。それとも、「私の側にいない者は私に敵対しており、私と共に集めない者は散らしているのです」(「マタイによる福音書」12章30節)、でしょうか。「キリストに属する人々」に対して同情心をもつ者は、たとえ自らの旗色を明らかにしないで沈黙する場合であっても、報酬を受けないままではいないことを、ここでイエス様は私たちに思い出させてくださいます。それゆえイエス様に属する者は、自分たちのグループに所属するための条件をあまりにも厳しくして、弟子とそれ以外の人とを性急に分け隔てするべきではありません。その境界線を引くのは、神様の御業に属することがらだからです。

気をつけなさい! 9章41~50節

 イエス様はキリスト信仰者にとって躓きとなる誘惑について語ります。キリストに属する人々が信仰を捨てるように仕向ける人々がいます。彼らの受ける裁きは過酷で情状酌量の余地のないものになります。この罪以上の厳しさで裁かれている罪は、聖書の中にはあまりありません。「彼らの誘惑に耳を貸さないように」、というこの厳かな警告は、キリストに属する人々に向けられたものです。

イエス様の御言葉の意味は明瞭です。大切なのはたったひとつ、すなわち、人がいつか神様の御国の中に入れることです。これと比較したら、すべての誘惑に対するどのように極端な反対でさえも、度が過ぎた否定的態度であるとは言えなくなるでしょう。もしも人が神様の御国の中に入れないなら、たとえその人がどんなに健康であったとしても、陰府では何の役にも立ちません。

三番目の警告もまたキリストに属する人々に向けられています。この箇所は非常に難解ですが、たとえば次のようにして理解することができるでしょう。イエス様に属する人は皆、火の様な試練に遭い、神様の御国のために自分を捨てざるをえなくなります。このような人は、モーセの律法通りに塩によって味付けされた神様への捧げ物に等しい存在です。「塩味が付けられた」というのは、「イエス様とその御国とに結びつけられた」ということでしょう。にもかかわらず、こうした塩をもつ人が、自分で考えているよりもいともたやすくその塩味を失ってしまう場合があります。そういった危険についてイエス様は厳粛に警告しています。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)