マルコによる福音書11章 ダヴィデの子に、ホサナ!

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

王の帰都 11章1~11節

 イエス様のエルサレム到着について読み進める前に、ここで復習しておきましょう。イエス様の活動の中心地は、エルサレムから遠く離れたガリラヤでした。そこからイエス様の評判はパレスティナの各地に広がっていきました。今やイエス様は弟子たちと共に、過ぎ越しのお祝いに参加するためにエルサレムにやって来ました。非常に緊迫した状況です。

エルサレムで過ぎ越しが大規模に祝われたことは、この都が真の意味での大都市に発展していたことを物語っています。ユダヤ人たちは、神様が御民をエジプトでの隷属状態から解放してくださったことを記念して世界各地から聖都へとやってきました。

このお祝いにおける「イエス様の役割」はいったい何でしょうか。旧約聖書にその答えがあります。預言者ゼカリヤは、「いつか王がロバに乗ってエルサレムへやってくる」、と預言していました(「ゼカリヤ書」9章9節)。この預言によれば、来るべき王はへりくだったお方であり、高貴な騎馬ではなく庶民が物を運ぶために用いる動物(ロバ)に乗って、御自分の民のもとに来られるのです。

イエス様はロバを用意させ、それに乗って聖都に入城なさいました。「シオンの娘」はこのイエス様の振る舞いに込められたメッセージを理解しました。旧約聖書で神様が約束された「へりくだった義なる王様」が今まさに都を訪れようとしているのです。ダヴィデの王国の再建に関してはるか昔に与えられた約束が、とうとう今実現しようとしていました。このように状況を理解した人々がたくさんいたために、イエス様はまるで王様のような歓迎を受けたのです(「列王記下」9章11~13節)。群集は歓声を上げて、イエス様がキリストであり到来が約束されていた王である、と告白しました。

イエス様は御自分が何をなさっているか、よく御存知でした。隠されていた権威が今やここで現出したのです。ここにおられる方は、聖書全体が預言する「来るべきキリスト」なのです!

好ましくない安息所 11章12~14節

 イエス様がエルサレムにロバに乗って入城された時はすでに遅い夕方だったため、その日にはもうそれ以上劇的な出来事は起きませんでした。しかしその翌日は早朝から衝撃的な出来事の連続でした。イチジクの木にまつわる奇妙な事件もこの日に起きました。これはイエス様がエルサレムで行った唯一の奇跡であり、何かを呪った唯一の例でもありました。イエス様はベタニヤでの宿泊所だったと思われるライ病人シモンの家(14章3節)を出てきたばかりなのにもうとてもお腹がすいていたというのも少し奇妙なことかもしれません。

しかし特に奇妙なのは、過ぎ越しのお祝いの時期である春なのに、イエス様がイチジクの木から実を探そうとした、ということです。春頃には前年の秋になった実が残っているはずもなかったからです。イチジクの実は早くても6月頃に熟します。もっとも暖冬の後で木に残っていた実がようやく春になってから熟する、ということはありえました。しかし、聖書の伝えるこの事件は非常に奇妙です。「マルコによる福音書」にもはっきりと、「イチジクの季節ではなかった」、と書いてあります。その場にいた弟子たちと同様に私たちもまた、イエス様のイチジクの木に対する振る舞いと宣言した厳しい裁きにただ驚くほかなさそうです。

宮清め 11章15~19節

 イチジクの木を呪った後すぐに、周囲の人々の注目を集める出来事が起きました。エルサレム神殿はユダヤ人の信仰生活の中心として唯一無二の場所でした。過ぎ越しのお祝いの時期には、数え切れないほどの人々が神様に捧げ物をし、必ず特別のお金に両替した上で神殿税を納めました。つまりお祝いの期間には、犠牲のための動物や両替のためのお金が大量に必要となったのです。この機会を利用して短期間にごっそり金儲けをたくらむ大勢の者が店を開いていました。こうした神殿の光景を目にしたイエス様は、両替所の机をひっくり返して商人を追い出し、主の宮への敬意を皆に要求しました。熱心そうな礼拝は、人間の目には「よい行い」と映りました。ところが神様の視点からすると、旧約聖書の預言者たちがそれまで幾度となく警告してきた慰めようもない状況がここでも再現されていました。つまり神様の宮は強盗の巣窟にされていたのです。イエス様の宮清めは、神殿を悪用する偽善的な礼拝を痛烈に批判した旧約聖書の預言者たちの活動を想起させます。さらにイエス様の宮清めを通して、旧約聖書の「マラキ書」の預言も成就していたのです。

「突然、あなたがたが探している主と、あなたがたが慕っている契約の天使が神殿に来ます。見なさい、彼が来ます、と万軍の主は言われます。しかし、いったい誰が主の到来の日に持ちこたえることができるのでしょうか。主が現れるときに揺らがない者が誰かいるでしょうか。主は金細工職人の火のようであり、洗濯人の石鹸のようなお方だからです。主は座って銀を溶かし、混ぜ物を取り除きます。主はレビの息子たちを精練し、彼らを精練された金や銀のように、きよめてくださいます。それから、彼らは「義とされたもの」として主に捧げ物を携えていきます」 (マラキ書3章1-3節)
(「マラキ書」の3章を読んでください)。

今や、神様が自ら御民に裁きを下す「その日」が来たのです。不純物の混入した金銀に金細工職人が行うのと同じような厳しい処置がこの時に神様の民に下される、と予告されています。金細工職人は炉に火を起こし、純金と不純物とを容赦なく分離させます。職人が満足して認めるのは、純粋さで輝いている金のみです。それと同様に、神様に受け入れていただけるのは、純粋な信仰と義のみです。これを神殿で見出さなかったイエス様は宮清めをし、大祭司たちを驚愕させました。

イチジクの木の結末 11章20~26節

 主が呪ったイチジクの木がここでまた登場します。たった一日のうちに、その木は根まで枯れてしまいました。

驚く弟子たちに、イエス様は信仰の本質を教えます。揺るがない信仰は、必要とあれば、木を枯らせるばかりか山をも動かすことができるのです。神様との正しい関係は、力と愛の中にあらわれます。疑わない信仰には何でもできます。それはまた、神様が造った人皆に憐れみ深く接して彼らを赦す態度へと、私たちを導いてくれます。

イチジクの木についての事件は、無意味で奇妙な出来事ではありません。それは非常に象徴的な出来事でもあります。「マルコによる福音書」では、この出来事はイエス様の宮清めの前と後に分かれて記述されています。

これからわかるのは、実はイチジクの木はイスラエルをあらわしている、ということです。神様の御子が聖都に来て、義を探し求めます。しかし、義は神殿にはありませんでした。エルサレムでイエス様が聖なる怒りをあらわにされたことと、イチジクの木をのろわれたこととは、互いに対応しています。同様に、木が根まで枯れてしまうことと、エルサレムの滅亡(70年)も、互いに対応していると思われます。

イエス様の権威とは? 11章27~33節

 「マルコによる福音書」ではすでにガリラヤでの活動の段階で、「イエスはいかなる権威に基づき行動し教えているのか」、という質問が何度も登場しました。特に宮清めの後の段階でこの問題を考察するのは時宜に適っていると言えるでしょう。「もしもイエスが普通人の権威によって活動しているのならば、彼は「神殿を汚した者」ということになる。イエスは自らの行動をいかなる権威によるものと主張するつもりなのか?」。

イエス様にそのことを問いただしに来た人々は、思いがけなくもイエス様のほうから逆に、返答に困る質問を投げかけられました。「洗礼者ヨハネの活動は天からのものであったか、それとも人からのものであったか」、という質問です。論戦で劣勢になることを避けるために、イエス様の反対者たちはその質問にはあえて答えませんでした。そこでイエス様は議論を打ち切りましたが、私たちはイエス様の質問の答えを知っています。イエス様の権威についての質問は、洗礼者ヨハネの許ですでに解決されていたのです。ヨハネがイエス様に洗礼を授けた時に、天から「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜ぶ」という声が聞こえました(「マルコによる福音書」1章11節)。もしもヨハネが神様の敵であったのなら、この声の証をまともに受け取る必要はありません。しかし、民全体がそう信じていたように、もしもヨハネが神様の遣わした預言者であったのなら、イエス様は神様の御子の権威に基づいて神殿をきよめたことになります。

こうして、今まで何度もとりあげられたイエス様の権威についての質問に対して今ここではじめて答えが与えられました。しかし、その答えはまだエルサレムの人々からは隠されていました。この点で「マルコによる福音書」の読者は、表面的な理解にとどまった当時の民衆と比べて、福音書全体を見渡せる有利な立場にある、と言えます。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)