マルコによる福音書8章1節~9章1節 「あなたはキリストです!」

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 すでに序で述べたように、「マルコによる福音書」は全体を明確にふたつに分けることができます。今回取り扱う8章において、福音書は第一部から第二部へと移行します。この章では、まずペテロが、イエス様はキリストであることを告白します。それを受けて主は、御自分がこれから十字架と苦難の道へ赴くことを告げます。これは「マルコによる福音書」の中で最も大切な箇所のひとつです。

群集に食べ物を与える二度目の奇跡 8章1~10節

 「マルコによる福音書」6章は、5千人の男たちに食べ物を分け与える奇跡について述べました。この8章でも福音書は、前回起きたのとほぼ同様の奇跡について語っています。すなわち、旧約聖書の記した「食べ物を大勢の人々に与える奇跡」が、イエス様の活動を通して再現されたのです。この後すぐ後に他の三つの出来事が続いて、それから福音書はおもむろに第一部から第二部へと移行します。この奇跡が福音書のこの場所に出てくることは、この奇跡には特別な意味があることを示唆します。すなわち、イエス様は大いなる奇跡を行われたにもかかわらず、神の民の指導者たちはイエス様を認めようとはせず、イエス様の弟子たちもまたイエス様のことを理解しなかった、ということです。

「しるし」なしで 8章11~13節

 ファリサイ人たちはイエス様から「しるし」を要求しました。彼らは、奇跡によって湧き上がった無邪気な好奇心からそうしたのではありません。彼らにとって「しるし」はイエス様の権威の正統性を確かめるのに必要不可欠なものだったからです。旧約聖書において明確に神様からの権威を証しする「しるし」の例としては、カルメル山でのエリヤの行った奇跡を挙げることができます(「列王記上」18章)。預言者イザヤは同じような「しるし」をアハズ王に示しますが、それでも王は自ら選んだ背信の道を進み続けました(「イザヤ書」7章11~12節)。これまでもイエス様は「しるし」を行ってきました。しかし「しるし」を要求する人々の面前では、あえてそれを行いませんでした。イエス様は「見世物」になるのを拒み、ファリサイ派の不信仰のひどさに驚きながら、彼らのもとを退かれました。

メシアの秘密 8章14~21節

 この箇所で「マルコによる福音書」は、日常の些細な出来事について語っています。ところがイエス様のほんの一言で、意外にもこの出来事は普遍的な意味を帯びるものになりました。舟の中にいた弟子たちは、一緒にいる13人(イエス様と12人の使徒たち)のために一個のパンしか携えていないことに気が付きました。どうしたものかと話し合っていると、イエス様は弟子たちに「ファリサイ派やヘロデのパン種」に気をつけるよう警告なさいました。またしても弟子たちはイエス様のこの言葉をふつうのパンのことだと受け取りました。しかしそれはまったくの誤解でした。「パン種」という言葉でイエス様が意味しておられたのは、「教え」のことだったのです。
(「パン種」については、「マタイによる福音書」13章33節も参照してください。)

教えは、料理全体の味を決めてしまう微量の調味料のようなものです。もしもパン種がパンに混入しないようにしたいのなら、過ぎ越しの祭りの時にイスラエルの民がモーセの律法に従っていつもそうしてきたように、パンの生地を入れる器を丁寧に洗ってきれいにし、パン種をごく微量たりとも生地に混ぜないように細心の注意を払わなければなりません。つまり今ここでイエス様は、弟子たちが「ファリサイ派やヘロデの教え」から完全に離れ去るように、と忠告しているのです。「ヘロデの教え」というのは、「ヘロデこそが旧約聖書が約束しているキリストである」、という当時の一部の民衆の支持を受けていた考えかたを指していると思われます。

文脈をふまえると、この出来事のもつ最も重要な意味は、「弟子たちはイエス様の話の内容をまったく理解しなかった」、ということでしょう。何千人もの人々に食べ物を分け与えた奇跡が再現されたにもかかわらず、弟子たちは手持ちのパンが少なすぎることばかり心配していました。イエス様の話の内容を彼らは理解していなかったのです。「あなたがたはまだわからないのですか?」、というイエス様の発言からは、弟子たちがイエス様のたとえの内容だけではなくイエス様の神様としての権威のこともまったく理解していなかったことが読み取れます。弟子たちはいまだに、彼らと共に舟に乗っているこの方がいったいどのようなお方なのか、それなりの理解をもって告白できる用意ができていませんでした。

目の見えない人の視力の回復 8章22~26節

 不信仰にとらわれ無理解なままの弟子たちとのやりとりの後で、イエス様は目の見えない男と話し合い機会を持ちました。この男の友人たちが助けをイエス様に求めたとき、それに応じて、イエス様はその男を癒されました。目の見えない人に起きた奇跡がこのタイミングで起きているのは、偶然ではないでしょう。もうひとつの福音書である「ヨハネによる福音書」もまた、「目の見えない者は見えるようになり、目の見える者は見えなくなる」、と語っています(9章39節)。旧約聖書の大いなる予言がイエス様を通してどんどん実現していきます。それは、神様が約束なさった「救いの時」が今や本当に到来している、という証しなのです。

「あなたはキリストです!」 8章27~30節

 フィリポ・カイザリヤの近郊で、ついに真実が明かされる時が来ました。イエス様はまず弟子たちに、「人々は私のことを誰であると言っていますか」、とお尋ねになりました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、あるいは預言者のひとり、などと答えはまちまちでした。引き続きイエス様は弟子たちにはっきりと、「あなたがたは私が誰であると言いますか」、と質問しました。弟子たちはどう答えたでしょうか?「イエス様はキリスト、神様の約束なさった王です」、とためらわずにペテロは素直に告白しました。イエス様をキリストと告白する光がこうして世に一瞬輝きました。その後すぐにふたたび「秘密のカーテン」が、神様の定められた「暗闇の時」まで「イエス・キリスト」という告白の光を覆い隠しました。ともあれこの段階で弟子たちは、イエス様がいったいどのようなお方であるかを一応知ることになりました。

キリストが苦しむ? 8章31~33節

 「イエス様はキリストです」、という弟子たちの告白は、「イエス様がイスラエルの王となり、真のダヴィデの子となる」、という信仰と明らかに結びついていました。彼らは目に見える具体的な王国を待ち望んでいたのです。ですから、イエス様がこれから歩まれる受難の道について話し始めたのは、彼らにとってはまったく想定外でした。イエス様は、どのようにして御自分が見捨てられて殺され、死者たちの中から復活するか、について語られました。ここで今イエス様は、これから起こることについてすべて包み隠さずに話されました。

ペテロにとってこれは衝撃の告白であり、彼の思いを深く傷つけるものでした。一番弟子といってよいペテロがイエス様を叱責した時、イエス様はそれを激しく拒みました。そして、サタンが今ペテロの人格の中で働いて、神様がキリストにためにあらかじめ用意なさった「受難の道」をイエス様が歩むのを妨げようとしていることを、看破しました。イエス様は、この世的な幸福ではなく苦難を受けることになっていたからです。「メシアの秘密」のカーテンが開かれてはみたものの、弟子たちの誰ひとりその意味を理解しなかったことが、こうしてはっきりしました。

 この箇所には二種類の「神学」が提示されています。そのうちのひとつは「栄光の神学」と呼ばれるものです。この神学は、神様の力、キリストの栄光、キリスト教信仰の合理性、キリスト信仰者の強さなどを強調します。もうひとつは「十字架の神学」と呼ばれるものです。この神学の核心は、この世で神様は御自身の力を隠されるということです。それゆえ神様の力が具現するのは、傷つけられた十字架のキリストにおいてであり、人間的な理性に反するように見えるキリスト教の信仰においてであり、またキリスト信仰者の弱さにおいてなのです。福音書のこの段階で、ペテロは「栄光の神学」しか理解できていません。他方、イエス様は受難と十字架の道へ向かって歩み出されます。

十字架と苦悩 8章34節~9章1節

 ペテロはイエス様に自分の忠告を押し付けようとして失敗しました。イエス様は民衆を御許に集めて、皆に「十字架の道」について話しました。その話のポイントは、私たちは神様の道に従って歩まなければならないということです。神様の道を歩む者はこの世の心地よい陽だまりから引き離されて、暗い谷へと導かれます。イエス様に従っている者たちもまた十字架の道を歩み始め、イエス様と福音のために自らの命を失うことになります。逆説的ではありますが、このように自分の命を失うことによってのみ、人は自分の命を本当に見出すことができるのです。もしもイエス様が最後の裁きの座でその人のことを「イエス様に属する者」として認めてくださらないならば、どれだけお金があっても人間が入手できるどんなものをもっていたとしても、まったく役に立ちません。キリストをこの世で恥じる者を、キリストは最後の裁きの座で恥とされます。

イエス様のこの箇所の終わりでの発言(9章1節)は後続の箇所(栄光の山での出来事)と文脈的につながっている、と後の教会は理解してきました。この節は聖書を読む大勢の人々を困惑させてきました。イエス様はここで、「私と共にいる者のうちの何人かは、神様の御国が大いなる力をもってあらわれるまでは、死ぬことがありません」、と約束なさっているからです。これについては、さまざまな説明が試みられてきました。たとえば、「神様の御国は栄光の山でその力をあらわした」(9章2~10節)という説明があります。たしかに栄光の山には何人かの弟子たちがイエス様と共にいました。「一日は主の御前では千年に等しく、また、千年は一日に等しい」(「ペテロの第二の手紙」3章8節)という御言葉に注目する人たちもいました。しかしこれらの説明では、「9章1節の御言葉はすみやかに実現するかのような印象を与えるものなのに、どうしてイエス様はいまだに地上に戻ってきてくださらないのだろうか」、という疑問が残ります。「イエスの予想は間違っていた」と考える人たちも大勢います。しかし、使徒パウロはどう言っているでしょうか?「マルコによる福音書」以前に書かれた「ローマの信徒への手紙」9~11章は次のように要約できます。

「神様はキリストにおいて、まず御自分に属する民であるイスラエルを御許に招かれた。ところが例外を除けば、イスラエルの民は御言葉に耳を貸さず、せっかく彼らに用意されていた救いを拒んだ。それゆえ神様は、福音が異邦人(非ユダヤ人)の間で受容され伝播していくように計らわれた。つまり神様は御計画を変更なさった。全宇宙の主なる神様にはそうする権利がある。救われるべき異邦人の数が御国で満席になった時、ようやくユダヤ人も福音に心を開くようになる。神様は、異邦人もユダヤ人も皆心がかたくなな罪深い存在として、神様からの一方的な罪の赦しの宣言の対象となさった。まだ神様は御民(ユダヤ人)をその頑迷さゆえに最終的に裁くことはしていない。それどころか彼らを憐れむために、わざわざ迂回する道を選ばれた。」

今の私たちも同じ迂回の道を歩んでいると考えることができるでしょう。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)