マルコによる福音書10章 一番偉いのは誰か?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

離婚についてのイエス様の教え 10章1~12節

 「マルコによる福音書」の1章から8章までは、ガリラヤでのイエス様の活動が描かれています。いくつかの例外を除けば、イエス様がかなり狭い地域で活動なさっていたことを、ここではおさえておきましょう。今まではイエス様はユダヤ人にとって真の中心地であるエルサレムには来ませんでしたが、この10章ではとうとうユダ地方まで到達しました。イエス様の周りに集まった大勢の人々によるこのムーブメントは、もちろんエルサレムでもすでに知られていました。緊迫した状況の中でファリサイ派は、イエス様が何者であるかを確かめようとしました。

イエス様の教えの信憑性を試すため、はじめの質問として「離婚」がとりあげられました。結婚はユダヤ人にとって聖なるものであり、神様自らが設定なさったものです。「申命記」24章1~4節には、「夫が妻を離婚して立ち去らせようとする場合には、妻に離婚証書を与えるように」、という律法の指示があります。あなたはこれについてどう思うか、という質問をイエス様は受けました。それに対してイエス様は、ユダヤ人のやりかたに従い、逆に質問を投げかけることによってお答えになりました。「モーセは夫が離婚証書を書いて妻を捨てることを許している」、とファリサイ派は理解していました。

しかしイエス様の教えは彼らとはちがいます。それは、「離婚証書についてのモーセの規定は、夫のかたくなな心から妻を守るために与えられている」、というものです。すなわち、心をかたくなにした夫が妻を捨てる場合には、彼は妻に、彼女が再び結婚できる身になったことを証明する文書を与えなければならないということです。当時、夫から捨てられた女性は、もしも再婚しない場合には、貧窮するか、娼婦になるか、事実上この二つしか選択肢がありませんでした。離婚は神様の創造の御業の目的に沿うことではありません。

結婚は神様が設定なさったものであり、そこでふたりの人が「ひとつの肉」となり、彼らはひとつの存在となるのです。神様がこうして男と女をひとつに結び付けてくださったので、人はもはや結婚という契約を取り消すことができません。モーセは離婚を許したのでは毛頭なく、逆に、心をかたくなにした夫の恥知らずな数々の行いから女性を守ったのです。弟子たちに対してイエス様はさらにこの問題について、「離婚後の再婚は神様の御心に反することであり、罪である」、と教えられました。

力強い教えによってイエス様は女性たちを、それまで彼らがユダヤ教の社会の中では持ち得なかった「立場」へと引き上げました。妻を捨てる者は、神様に対してだけではなく妻に対しても罪を犯しているのです。女は、男たちの話題にのぼる人形などではありません。困窮するか娼婦に身を落とすかの選択を、男が勝手に女に迫る権利などもありません。神様は人を男と女として創造なさり、男と女はひとつの肉となります。

イエス様は自らの行いを通じて、この教えをどのように実行するべきか、示しておられます。マルタとラザロの姉妹マリアは、たんにすばらしい給仕であっただけではありません。彼女はまずもって、主の足元で主の教えに聴き入る「弟子」でした(「ルカによる福音書」10章38~42節)。悪いうわさが立つことも意に介さずに、イエス様は女たち(彼らの中には未婚者も既婚者もいました)に、御自分と共に行動しその教えに従うことを許可されました(「ルカによる福音書」8章1~4節)。女たちはまた、イエス様の復活の知らせを伝えるために、空になった墓から駆け出して行きました。

初期の教会は、イエス様が開始した革新的な生き方から少しも逸脱せずに、イエス様の教えに忠実な活動を展開しました。男性と同様に、女性もまた教会の最初期から正式な教会員でした。聖書で名が挙げられている最初のヨーロッパのキリスト信仰者はルデアという女性です(「使徒言行録」16章11~15節)。女性は教会の中でも積極的に活動しました。例として、「ローマの信徒への手紙」16章に名前が出てくる9人の女性たちへのパウロの挨拶や、プリスカの活動(「使徒言行録」18章24~28節)などが挙げられます。その一方では、主の命令として、教会の牧師職は男たちの中から選ぶという制限が与えられています(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33~40節)。教会は「主の命令」(37節)に全幅の信頼を寄せて、使徒の職務に12人の男ばかりをお選びになったイエス様を模範としています。

子どもたちを祝福するイエス様 10章13~16節

 イエス様が子どもを祝福なさるこの箇所は一般にもよく知られており、人気のあるシーンです。ユダヤ人は律法遵守の義務を成人に対してのみ課しました。これに依拠して弟子たちは、子どもはイエス様の教えを受けるにはまだ幼すぎる、と考えました。ところが、イエス様の教えはちがいます。子どもは大人と比べて未熟な存在などではなく、逆に大人が「模範」とすべき存在だ、というのです!人は神様の御国を子どものように受け入れなければなりません。神様に認めていただける人間は、物事や仕事のよくできる者や大人などではなく、子どもなのです。ところが人々は、子どもが神様にお仕えすることなどはまだとうていできはしない、などと勝手に思い込んでいたのです。

このテーマは、救いの歴史全体に共通する特徴のひとつでもあります。福音によれば、終末が近づく時、この世の価値観は他のケースに関しても同様の転倒を起こします。金持ちは傍らへ斥けられ、貧乏人が受け入れられます。偉人は捨てられ、収税人や娼婦が神様の御国の中に入ります。ここでも同様に、人間的には賢いはずの大人たちは、イエス様が子どもを正しい信仰者の模範として示される様子を、傍らから眺めることになりました。

富の危険 10章17~27節

 イエス様は数え切れないほど多くの人々を教え、きっと何千人もの人たちと個人的に話し合われたことでしょう。聖書は、イエス様がどのようにしてひとりの人を弟子として召されるかについて、何度か語っています。今の箇所でも、イエス様の召しを受けることになる男の人が登場します。彼は、人生の最も大切な質問に対してイエス様から答えを得ようとしました。

イエス様のはじめの答えは基本的な内容のものでした。しかし、男はそれでは満足しませんでした。イエス様の次の答えは、彼にとってはまさに爆弾でした。彼はその答えを聞いて、もはやイエス様と話し合う気をすっかりなくしてしまいました。イエス様はその金持ちの男に、「持ち物を全部売り払って貧しい人たちに分け与え、こうして天に富を積んで、それから私に従いなさい」、と命じられたのです。しかし男には、すべてをイエス様にゆだねて自分の生きかたをまったく変えてしまうほどの信仰はありませんでした。それで、お金は懐にかかえたまま、その実ひどく困窮しつつ、彼はイエス様の御許を立ち去ることになりました。今回のイエス様の召しは「うつろな耳」に響いたのです。

この出来事には、富の危険を指摘するイエス様の深刻な警告が含まれています。金持ちが神様の御国に入るのは非常に難しいことです。もっとはっきり言えば不可能なことなのです。お金が人を縛りつけ、連れ去ってしまいます。イエス様の教えを聞いた弟子たちは天の門が非常に狭いことに驚愕します。救いはまさしく神様の御業としてのみ可能なのであって、人間自らの行いによってはまったく無理なことなのです。

弟子たちに用意されている報酬 10章28~31節

 「マルコによる福音書」は、弟子たちの「受ける報酬」に関するイエス様の御言葉を伝えています。多くの人は主に従う中で、多くのものを捨てなければならなくなりました。イエス様が御許に召した人たちはとりわけ厳しい目に遭いました。さらに悪いことには、迫害がこれから起こることも予告されています。しかしイエス様は御自分に属する人々に、すでにこの世でも豊かな人生を、さらに来るべき時では永遠の命を約束なさいました。ただしこの約束には、人は神様の御国の宝を自分でも気が付かないうちにたやすく失ってしまいがちである、という警告が伴っています。

三度目の受難の予告 10章32~34節

 イエス様がこれから受けることになる自らの苦難について弟子たちに告げたのは、これで3度目です。今回の内容は前の2回よりも詳細になっています。神様がイエス様を大祭司や律法学者たちの手に渡される、というのです。イエス様は(最高議会で)死を宣告され、異邦人であるローマ人たちに引き渡されます。この受難告知は、弟子たちの先に立ちエルサレムへと向かって進むイエス様の揺るぎない決意についても語っています。苦難と死が待ち受けているのを知りつつも、それらへ向けて歩むイエス様の姿勢は弟子たちの間に困惑と恐怖を生みます。御父が御子にお与えになった道を、イエス様は一歩たりとも踏み外しませんでした。またこの道は、聖書にあらかじめ示されていた道でもありました。

ゼベダイの息子たち 10章35~45節

 イエス様は12人の弟子たちを「使徒」として選抜しました。12という数字には、明らかに象徴的な意味が込められています。使徒である男たちは「イスラエルの12部族」に対応し、新しい神様の御国を代表するように選ばれているのです。神様の御国を弟子たちは待ち望んでいました。とりわけ彼らが、「イエス様こそは旧約聖書で約束されているキリストである」、と確信するに及んでは、なおさら期待は高まりました。

来るべき神様の御国での大臣職を、この段階ですでに弟子たちが自分らに割り当てる真似事をするのは、その意味で自然な成り行きでした。この「大臣ごっこ」には、ヤコブとヨハネというゼベダイの二人の息子たちも参加していました。こうして、以前と同じような光景が繰り返されることになります。イエス様が来るべき受難について話されると、すぐその後で弟子たちの無理解が明るみになります。

イエス様とヤコブとヨハネの話し合いの様子から、イエス様が彼らと身近な親しい間柄であったことがわかります。まずイエス様は彼らに、「私のゆえに苦しみを受ける用意ができていますか」、と尋ねました。この質問の後、実際に彼らがこれからイエス様のゆえに苦しみに遭うことが告げられます。また、御国のさまざまな要職をイエス様が御自分で分けるつもりはなく、父なる神様の決定にゆだねるつもりであることが、ようやく明らかにされます。ヤコブに関するイエス様の預言は、エルサレムでの使徒会議(「使徒言行録」12章2節以下)が開催される前に現実となります。

ヤコブとヨハネのお願いを耳にし、それをきっかけとして生じた弟子たちの憤懣を目にして、イエス様は弟子たちに御国の支配に関する教えをもう一度おさらいさせました。この世の支配者たちは民を権力でねじ伏せて威張っているが、御国ではそうではありません。一番えらくなりたい者は皆の僕にならなければなりません。

そしてイエス様は直接自らをその模範として示されました。周りから仕えられるためにではなく、仕えて自らの命を皆のための贖いとして差し出すために、イエス様はこの世に来られたのです。イエス様の使命は、自らを犠牲としてささげ、この世すべてのために御自分の血をささげて、罪深い人間という存在を「神様に属する者」とするために贖い出すことでした。このキリストの愛は、イエス様に従う者皆にとって模範でありつづけています。

目の見えない乞食 10章46~52節

 イエス様がこの世で生活していた当時のユダヤ社会では、目の見えない人の立場は惨めなものでした。親戚がその人の世話を引き受けない場合には、その人は自分で物乞いをして生計を立てていかなければなりませんでした。それも、そんなことができる間の話です。結局その人を待ち受けているのは、時とともに深刻の度を増していく悲惨な生活であり、最終的には孤独な死でした。これがバルテマイの置かれた状況だったのです。

彼は群集がイエス様と一緒に移動していくのを耳にして、人生の転換期が訪れたことを知りました。そして命がけでイエス様に助けを求めました。「黙れ」という声が飛んできましたが、彼はこの唯一のチャンスにしがみついて、群集の言うことなどには耳も貸しませんでした。イエス様はバルテマイの叫びを聴いて、助けを差し伸べてくださいました。バルテマイの人生は「御言葉の一撃」で完全に変わりました。

このバルテマイの癒しの出来事も、イエス様の受難告知に関係があります。それは8章22~26節で語られているのと同じような出来事です。キリストの受難の傍らでは、目の見える者は目が見えず、目が見えない者は目が見える、という不思議なことが起こるのです。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)