マルコによる福音書15章 苦しまれるキリスト

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

沈黙を守る被告 15章1~5節

 イエス様はユダヤ人の大議会で裁きを受けます。大議会はイエス様に死の宣告を下しましたが、それは越権行為でした。それで大議会はイエス様をローマ人の地方総督ポンテオ・ピラトの裁決にゆだねました。

ピラトの職歴について正確なことはわかりません。はっきりしているのは、ピラトはローマ皇帝ティベリウスが反ユダヤ的政策を施行した時期にユダヤの地方総督に任命された、ということです。当時、ローマ人支配者として、被支配者であるユダヤ人たちを軽蔑し、必要ならばいかなる手段も辞さない冷酷な人物がユダヤの総督として任命されるのは、ローマ帝国の歓迎するところでした。西暦26年から36年までこの職にあったピラトは多数の流血事件を引き起こしたことで有名です。ローマに対する反乱を少しでもかぎつけると、ピラトは情け容赦のない態度をとりました。歴史家ヨセフスが伝える、聖なる山に結集したサマリヤ人たちや、「ルカによる福音書」が伝える(13章1節)、神殿の犠牲の儀式を行ったと思われるガリラヤ人たちなどが、ピラトの粛清による犠牲者の一例です。ところがローマ帝国本土で反ユダヤ的な傾向が収まった時期に、ピラトは自ら引き起こしたユダヤ人流血事件のある案件に関して取り調べを受け、その結果失脚し左遷されることになります。

さて、イエス様を前にしてピラトは核心を突く質問をしました。それに対してイエス様は、簡潔でしかも二通りの解釈ができるような、「それはあなたが言ったことです」、という返事をなさいました。イエスはローマ帝国に反旗を翻す王になったのか否か、という質問についてピラトがイエス様から引き出した答えは、たったこれだけでした。イエス様は御自身に向けられたひどい誹謗中傷にも一切弁明なさらず、ただ黙って聞いておられました。一般的にもユダヤ人は異邦人とは話したがらないものでした。また、ユダヤ人の自由解放のために戦った勇士たちが、ローマの尋問を受けているときにも、確固たる態度を死にいたるまで貫いたことを、ピラトもきっと耳にしていたことでしょう。それにしても、拷問死を避けようとしないこの男がピラトには奇妙に映りました。もしもピラトが次の「イザヤ書」の預言を知っていたとしたら、どう思ったことでしょうか。

「主は私たちのすべての罪の負債をこの方の上に投げかけられました。この方は虐げられ、それを甘んじて受けられ、口を開かれませんでした。ちょうどほふり場にひかれていく小羊のようであり、また、毛を刈り取る者たちの前で黙っている羊のように、この方は口を開かれませんでした」
(「イザヤ書」53章6~7節より)。

民のご機嫌をとるために 15章6~15節

 ローマの支配組織とユダヤ人との関係は非常に興味深い研究対象です。両者の折衝は、一歩も引かない頑迷さとわずかな自発的妥協とによってようやく保たれていたのです。そして、この均衡関係から生み出された組織の枠組みによって、互いに相手への影響力を強化しようとしていました。ローマが牢獄した囚人のうちの誰かをユダヤ人の過ぎ越しのお祝いの時期に釈放する慣習は、ローマ側からのささやかな好意のあらわれであり、それによってピラトは自己の立場を人為的に強化しようとしました。

内心ではユダヤ人をすっかり軽蔑しているピラトは、ユダヤ人の指導者たちに教えをたれようとしました。ユダヤ人の指導者どもが死刑にしたがっているあの男をユダヤの民衆が釈放するように要求するようなら、さぞかし滑稽な光景だろう、という意地の悪い思いつきがピラトの発言の真意には含まれていたのかもしれません。しかし民衆は捕らえられたその教師には見向きもしませんでした。暴力的な反乱分子バラバの方が彼らの気に入ったようです。民は自分たちの王様に対しては何の興味もありませんでした。「イエスを十字架につけよ!バラバを釈放せよ!」、という声が飛び交います。こうして大祭司たちの策謀はピラトに最後の選択を迫るところまでいきました。イエス様の「犯罪」についてはもはや尋問されることもないまま、イエス様は死刑を言い渡され、鞭打たれ、十字架につけられることになりました。

十字架刑は、ローマ人が知っていた最悪の恥辱と苦痛をともなう処刑法でした。彼らはこの拷問刑をペルシア人から学びました。この処刑法を採用する理由として現代人には理解しがたい重要な点は、受刑者をはずかしめることでした。十字架には、すでに事切れた人間も打ち付けられて、皆の面前で晒され貶められました。

人が生きたままで十字架につけられる場合には、故意に流血の量が最小限に抑えられるように調整されました。こうしてあわれな受刑者は何日間も半死半生の状態を彷徨うことさえありました。ローマ軍の残忍さを十分に満足させるながら、のどの渇きか、傷による発熱か、あるいは呼吸困難になって受刑者は死に至りました。息の根を止めるのに、受刑者のかかととひざの間の足の骨を折るという方法が用いられました。この死刑はあまりにも酷いやりかただったので、十字架刑の前に行われる鞭打ちは、受刑者の死を「人間的なもの」にするようにさえ思えてきます。鞭打ちによって血がたくさん流され、受刑者はより早く死ぬことができるからです。

ローマ人たちは、本国では主として凶悪な犯罪を犯した奴隷を他の者たちの見せしめとして十字架刑に処しました。属州ではこの最悪の処刑法は、道端に出没する強盗やローマ帝国の反乱者に対して適用されました。その目的は、重罪を犯した人々のおぞましい結末を目にした者皆に恐怖心を植え付けることでした。主の民とこの世の最高権力とが今、神様の御子をこの受苦の道へと送り出そうとしています。

栄光の王の下降 15章16~20節

 ローマ帝国は軍勢をローマやイタリアから動員するだけでは整えることができなかったので、この点で属州側の協力を必要としていました。ローマは徴兵のさいに過去にあった戦争と隣国間の不和とを巧妙に利用しました。ユダヤ人を押さえつけていたローマ軍は主にシリアの傭兵から構成されていました。これは、ユダヤの民と彼らを圧迫する軍団とがいつしか同調してしまうような危険をなくすためでした。今このような軍団が「ユダヤ人の王」を手中にしたのですから、敵意に満ちた享楽がはじまったのは当然でした。紫色の衣、茨の冠、葦の王笏、肉体暴力、道化芝居。これ以上の低みに神様の御子なる栄光の王が下ることはありえないほどでした。「マルコによる福音書」の読者はここで、あらゆる軽蔑と恥辱の対象になりながらも、神様に忠実を尽くした「イザヤ書」の「苦難の僕」を思い起こすことでしょう(「イザヤ書」50章4~9節)。

ゴルゴタへ 15章21~32節

 処刑場というものは、どの社会共同体でもたいていは都市の外にあります。それはあたかも死刑囚が社会の外側へと追放される様を象徴しているかのようです。イエス様もまたこのような仕打ちを受けました。

ここでアレキサンデルとルポスの父として名が挙げられているクレネ出身のシモンが、イエス様の受苦の道のりに登場します。アレキサンデルとルポスの名が挙げられているのは、彼らが初代教会でよく知られていた人物だったためかもしれません。

没薬を混ぜたぶどう酒は、のどの渇きに苦しんでいる者にさらなる拷問を加える手段だったかもしれません(「詩篇」69篇21~22節)。しかし一方では、それが気持ちをほぐして痛みを和らげる飲み物であった可能性もあります。ともあれイエス様は差し出されたぶどう酒を拒みました。

イエス様は第三時頃に十字架につけられました。それは、私たちの時計ではおよそ9時頃に相当します。十字架にかけられた者の目の前で、彼の服を誰がもらうか、くじが引かれました。「あの男」はもう服がいらないからです。こうしてまた旧約聖書のひとつの預言が実現します(「詩篇」22篇19節)。ピラトは死刑の理由として、イエスがユダヤ人の王になろうとしたことを挙げました。この王を神様の民全員が今や完全に捨て去ったのです。

暗闇の中の一瞬の輝き 15章33~41節

 第六時ごろ、つまりお昼頃から3時間にわたって、地上を暗闇が覆いました。ここに、「イザヤ書」の「私は黒い衣を天に着せ、悲嘆の荒布でそれを覆います」(「イザヤ書」50章3節)という預言との関係をおそらく見て取ることができるでしょう。

イエス様は十字架上で皆から見捨てられて、たったひとりで叫びました。しかしそれを聞いた者はその叫びを誤解しました。イエス様はエリヤに助けを求めて叫んだのではなく、「詩篇」22篇を引用したのです。「詩篇」の最初の数節を引用することは、その「詩篇」全体を引用することと同じでした。この「詩篇」22篇を読むことで、イエス様の侮辱者たちの視線には映らなかった、十字架上の出来事の真の意味を理解できるようになります。主は神様の義なる僕を貶めて見捨て、神様をないがしろにする者たちの手に渡されたのです。しかし苦痛に耐える僕は窮地にあっても愚痴をこぼさず、信仰を失いません。彼は惨めな者の苦難を侮らず助けを求める叫びを聴いてくださる神様に感謝します。神様が苦難の僕を助けるとき、主は全世界からの賛美をお受けになります。イエス様は死にます。しかし、憤懣やるせない失敗者としてではありません。イエス様はたしかに私たちのゆえに神様から見捨てられたのですが、死ぬ時にも神様を呪いはしませんでした。御自分を死の瞬間にも御父の御手にゆだねて、神様の力に信頼なさいました。

神様の与えられた「しるし」として神殿の幕が真ふたつに裂けました。それは、もはや異邦人とユダヤ人とを分け隔てる必要がないことを象徴する出来事でした。今や神様への道が開かれたのです。イエス様の受苦と死の瞬間は「マルコによる福音書」の頂点です。まさにこの頂点で、神殿の幕の他にも「裂かれたもの」があります。これまで長い間にわたって幾度も読者には理解しがたいものとして隠されてきた「メシアの秘密」が、ついに明らかにされました。残酷な十字架刑の執行責任者であったローマ兵はイエス様が死ぬのをみて、「この方は神様の御子である」、と告白します。イエス様が神様の御子として認知されるようになったのは、まさに十字架につけられ屈辱的な死にかたをした存在としてでした。このようにイエス様は、人間とは関わり合いのない神的存在や幽霊などではなく、全世界の罪を帳消しにするために御自分のいのちを従順に死に渡された、御父に忠実な御子だったのです。

墓での安息 15章42~47節

 金曜日も夕方になり、イエス様は死んで十字架にかかったままでした。モーセの律法は、神様のくださった聖なる土地を汚さないようにするために、「木にかけられた者の死骸はかけられたのと同じ日のうちに埋葬されなければならない」、と定めています(「申命記」21章22~23節)。ちょうど大きなお祝いの時期に聖なる土地を汚すのは、とりわけ人々の心を傷つける行為でした。それゆえ、大議会の議員でありイエス様の友人でもあったアリマタヤのヨセフは、意を決してピラトのもとへおもむき、イエス様を埋葬する許可を求めたのです。はじめピラトは、イエスはもう死んだのか、といぶかりました。イエス様の早すぎる死は、十字架刑の前にひどく鞭打たれて多くの血をすでに失っていたためであるのはまちがいありません。十字架から降ろされたときに、イエス様が息を吹き返す見込みはまったくありませんでした。

墓に埋葬されたのは、人の目には立派でもなく美しくもない死にかたをしたひとりの男にすぎませんでした。その人は弟子たちや民衆に見捨てられ、神様に呪われた者でした。こうしてイエス様のはじめた改革はまったく瓦解したように見えました。しかしまだこの段階では「詩篇」22篇のはじめのほうの御言葉が成就しただけであったことを、今の私たちは知っています。