マルコによる福音書13章 目を覚ましていなさい!

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 ロバに乗ってエルサレムに到着しから死んで復活なさるまでの最後の期間に、イエス様が何を教えてくださったか、これからまた学びましょう。まさにこの時期が福音書の頂点なので、私たちは今、御言葉の一語一語に注目して読み進める必要があります。

この箇所(「マルコによる福音書」13章)でとても大きな位置を占めているのが、「来るべき滅び」についてのイエス様の予言です。この箇所を「ルカによる福音書」や「マタイによる福音書」の該当箇所とあわせて読むと、それが「どのように世界が終わるか」に関する全聖書を通しても稀なほど詳細な説明であることがわかります。

幸福な都? 13章1~2節

イエス様の時代のエルサレムは大都会でした。とりわけヘロデ王がつくらせた神殿は、貧しいパレスティナの住民たちにとっては壮観に映ったにちがいありません。聖地に立てられたこの立派な神殿は、とくにユダヤ人のお祝いの時期には皆から感嘆のまなざしを向けられました。ところがイエス様の目には、この幸福な都の外見がまったく失われる未来が映っていました。それは、一切が倒壊して粉々になり跡形もなくなる、という光景でした。

「終わりの時」の到来 13章3~13節

 オリーブ山でイエス様は「終わりの時」について詳しく語っています。人類の歴史は常により輝かしい光に向けて着実に歩み続ける、ということにはなりません。それどころか、世界はいっそう陰惨な状態の中に沈んでいくようにさえ見えます。

こうした状態に拍車をかけるのが、あたかも自分が「正真正銘のキリスト」であるかのように振舞って人前に登場する「偽のキリストたち」です。多くの者は彼らを本物だと思い込み、間違った道にひきずりこまれていきます。戦争や地震や飢饉が起こり、キリストに属する信仰者たちは法廷に引き出され、拷問を受けます。兄弟が兄弟を死に追いやり、父は子を死なせ、子は両親を死に渡します。怒りはますますどす黒く渦巻いていきます。そのような悲惨な状況下でも、神様の新しい時代が始まりつつありました。それは「産みの苦しみ」なしにはありえません。

産みの苦しみの只中でキリスト御自身がキリストに属する信仰者と共にいて、導かれます。そして、最後まで耐え忍ぶ者は救いにあずかるのです。

大いなる苦難 13章14~23節

 暗闇が増していく中、大いなる苦難の時が訪れようとしています。「時のしるし」として「荒らす憎むべきものがいてはならないところにあらわれる」というのです。その時がきたら、ユダヤにいる人々はすぐさま町々から逃げ出して、持ち物などには目もくれずに、道もない山々に避難しなければなりません。この苦難の時は、それが寒い冬に起こる場合には、とりわけ厳しいものになります。

さらに悪いことに、偽キリストたちと偽預言者たちがあらわれて、大勢の人々を「奇跡」によって惑わします。キリストが選び分かち、主の警告を銘記していた人々のみが、こうした惑わしをまぬかれます。

イエス様の御言葉はとても謎めいていますが、それは「終わりの時」にかかわる予言ではよくあることです。ヴェールに覆われた力強い言葉を説明しようとするときには、自制と慎みが必要とされます。教会の歴史のなかでは、聖書のこの箇所について自分の説明の正しさに確信をもつ人々が数え切れないほどいました。しかし歴史は証明しているように、自分たちの生きた時代の政治的・宗教的な潮流をむりやり聖書に押し付けた「解釈者たち」などを本当なら誰一人信じるべきではなかったのです 。このことを念頭に置いて、ここで私たちは聖書の難しい箇所についていったい何が言えるか、慎重に試みることにしましょう。

イエス様の御言葉のなかには、まぎれもなく「世の終わり」や「西暦70年に実際に起こったエルサレムの崩壊」に関係している部分があります。これらのふたつの予言を別々に選り分けるのは、不可能ではないにせよ困難な作業です。ともかくも、エルサレムは包囲され非常な苦難の時に見舞われ、ついには瓦解し、石が石の上に残されることさえありませんでした。当時すでにひどい迫害を受けていたユダヤ人キリスト信仰者たちが、これを機にイスラエルの反乱計画から身を引き、山岳地方に避難したのは、ほぼ確実です。ユダヤ戦争の間には、都市も山々も言語に絶する過酷な現実にさらされました。これらイエス様の予言は、少なくとも一度はすでに現実のものとなったのです。

「荒らす憎むべきもの」とは、旧約聖書的な表現で、ある特定の事例をさしています。紀元前160年、シリア王アンティオコス・エピファネスは軍隊をエルサレムに入城させました。王の要求にしたがって、聖なる神殿ではギリシア人たちの最高神ゼウスに犠牲をささげる儀式が始められました。この異邦的な犠牲の儀式、「荒らす憎むべきもの」が活ける神様の神殿で行われたことは、ユダヤ人たちにすさまじい憤怒を生み出しました。そして彼らは、自分たちよりもはるかに強大な敵に立ち向かって反旗を翻し、勝利を収めました。アンティオコス王は神殿での異教の儀式を取りやめることを余儀なくされ、神殿はすみやかに清められました。この出来事の詳細は旧約聖書外典「マカバイ記」に記されています。また「ダニエル書」も、「荒らす憎むべきもの」について二度言及しています(「ダニエル書」11章31節、12章11節)。これは、元々は聖なる神殿での儀式をひどく汚す行為をさしていました。

エルサレムが破壊されたとき、神殿も破壊されました。ローマ人はユダヤ人がどんな民族か知っていたので、神殿を汚した年にはユダヤ人たちに対してとくに激しい攻勢に出ました。歴史家ヨセフスによれば、ちょうどこの頃、自らメシアを名乗り御民に救いを約束する男が神殿にあらわれました。こうして、「荒らす憎むべきもの」にかかわる「しるし」と、偽キリストがあらわれるというキリストの予言とが実現しました。エルサレム滅亡の最中に神殿は汚されました。異邦人たちが神殿で自分たちの最高神ジュピター(つまりゼウス)を敬うためになだれこんだのです。

このように、イエス様の御言葉とイエス様の時代の後まもなく起きた出来事との間には、具体的な対応関係が多く見出されます。しかし、これらすでに実現した歴史上の出来事は、「荒らす憎むべきものというイエス様の御言葉は、もはや聖書に書いてあるとおりに繰り返されることがない」、と言っているのでしょうか。それを知っているのは神様だけです。かつてエルサレム神殿のあった場所は、今ではムスリム(イスラム教徒)たちの聖なる場所、岩のモスクになっています。多くのユダヤ人は、それが取り壊されて二千年ぶりに新しい神殿が建てられることを要求しています。しかしそれを実現しようとするのは、全世界のムスリム全員に対して宣戦布告するようなものです。このように、かつてエルサレム神殿のあった区域は世界的に見ても最悪の「爆薬庫」になっています。

イエス様の御言葉は、黙示の言葉に典型的に見られるように、説明が困難でヴェールに包まれています。しかし、もしも預言がまとめて一挙に実現するなら、その出来事は誰の目にも明らかになることでしょう。

キリストの再臨 13章24~27節

 苦難の時を経て、ようやく終末がやってきます。もう後戻りはできません。世界は震え、日は暗くなり、星は落ちます。イエス様が終末の大いなる裁き主として戻って来るのです。「人の子」という名前は「ダニエル書」にでてきます(7章13~14節)。「人の子」は御自分に属する人々を集めて、決して揺るぐことのない王国を築きます。この世の終わりに関連するすべての騒乱は、この喜ばしい新たな時のための生みの苦しみなのです。キリストが再臨し御国が人々の只中に見えるかたちで到来する時に、この生みの苦しみは終わります。その時、完全に新しい天と新しい地が創造されます。

しかし、それは何時か? 13章28~32節

 何千年もの間、人々は、いつキリストがふたたび戻ってこられ、いつ世の終わりがくるのか、知ろうとしてきました。ところが、主はこの疑問に答えてはくださいません。主は、御自分の再臨がいつであるか、人間も天使も誰一人知らないし、キリスト御自身さえも知らないこと、それを御存知なのは御父ただおひとりだけであることを、はっきりと告げておられます。

私たちのやるべきことはふたつあります。まず、私たちはいつも準備ができていなければなりません。次に、私たちは実現していく神様の大いなる御計画につきしたがっていかなければなりません。

心構えとして大切なのは、キリストの再臨を忘れて準備を怠るような瞬間が私たちの生活の中にあってはならない、ということです。それはちょうど、家の主人がいつ帰宅するか知らずに待っている門番のようなものです。門番は一瞬たりとも眠り込んではなりません。たえず完全な準備ができていなければなりません。それと同じようにして、イエス様のこともずっと待ち続けていなければなりません。なぜなら、イエス様はいつ何時戻ってこられてもおかしくないからです。

「時のしるし」を追い求めていくときには、知恵と慎重さが必要とされます。「よく見える目」と神様の御言葉の理解があれば、世の終わりに先立って起きる事象に目が向くようになります。これらの「しるし」はしばしば重苦しく希望を奪い去るようなものです。しかしキリスト信仰者にとって、それらの「しるし」は長い間待ち望まれていた「春の訪れのしるし」なのです。新しい時、神様のすばらしい御国が到来しようとしています。それゆえ、どのような苦難であろうともキリスト信仰者から希望を奪い取ることはできません。

子どもを出産する時も苦痛が伴います。にもかかわらず、子どもの誕生は皆から待ち望まれていることです。それとまったく同様に、神様の御国が世の終わりの時にねじりこむようにしてこの世の中に到来するのは、多くのものを滅茶苦茶に引き裂くような激しい苦痛を伴う出来事です。しかし私たちはそこに、言葉では表せないほどの喜びと希望を見出します。このようにしてキリスト信仰者は主の再臨を待ち望むことを学びます。

30節についてはすでに8章1節~9章1節の説明のときに取り扱いました。ここでは一番大切な点を短く復習することにしましょう。神様には「神様の時」というものがあります。神様は私たちにどんなことでもなさる権威をおもちです。全能なる神様にとっては、御自分の計画をいちいち私たちに尋ねたりはせず自由に変更することも、もちろん可能なことです。ですから、私たちは大いなる主の御前にひれふし、主に栄光を帰したいと思います。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)