マルコによる福音書14章 「私はあの男なんか知らない!」

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

張りめぐらされる陰謀 14章1~2節

 エルサレムとその神殿は、ユダヤ人の信仰のまぎれもなく中心的な存在でした。過ぎ越しのお祝いの時期には、この聖都に世界中から聖地巡礼者が押し寄せました。このお祝いは、イスラエルをエジプトの隷属から解放した神様の救いの御業をユダヤの民全体に改めて思い起こさせるものでした。このお祝いの設定は「出エジプト記」12章に書かれています。それによると、お祝いには過ぎ越しの小羊とパン種の入っていないパンを食しました。お祝いは春分の日の後にくる月(ニサンの月)の15日に最高潮に達します。

すでに例年の過ぎ越しのお祝いでさえ、いつ何か事件が起きてもおかしくないほど誰もが神経過敏になる時期なのに、今やエルサレムは、イエス様が都に来られたために独特の緊迫感に満たされていました。ユダヤ人の指導者たちには、わざわざ民の目前で危険な綱渡りをして、自分たちが民の支持を得るかそれとも失うかを試す度胸などはありませんでした。イエス様を目の前から取り除かなければならないのはわかっていましたが、それをお祝いの最中や民の面前で行うのは考えられませんでした。宗教的に熱狂している民がどういう行動に出るかを予測するのは難しいので、彼らは民に気づかれないように細心の注意をもってことを運ばなければなりませんでした。

決断するべき時は間近に迫っていました。こうして人々が気づかぬうちに、暗い影が神様の御国をしだいに重苦しく覆い始めたのです。

女の高価な贈り物 14章3~9節

 イエス様はエルサレムの外にあるベタニアで寝泊りされていました。「マルコによる福音書」は、イエス様がらい病人シモンの家に住んでいたと、伝えています。この場所で、やや謎めいた不思議な事件が起きました。

古代世界では、かぐわしい香りを放つ香油が貴重で価値あるものとされていました。福音書に名前も記されていないある女が高価な香油の入った壺を取り出して壊し、香油をイエス様の頭に注ぎかけたのです。それは当時の労働者の一年分の給料に当たる価値を持つ良質の香油でした。このような香油は大きなお祝いや重要な人物のために用いられました。おそらくその女にはこの慣習が念頭にあったのでしょう。またこの行為は、「イエス様こそは神様が旧約聖書で約束したキリストであり、油注がれた王である」、という信仰告白の表現でもあったのでしょう。さらにイエス様は、女が香油を用いるもうひとつの目的を示されました。当時は、葬式の前に死者に油を塗る習慣がありました。

香油を無駄にしたことを残念がった弟子たちは、イエス様から御叱りを受けました。香油を塗るという女の行為は、イエス様に対する彼女の愛のあらわれでした。愛は計算したり財布を覗き込んだりはしないものです。愛は自らの持っているものを差し出します。まさにそこに愛の偉大さはあります。この短いエピソードが一人の人間のイエス様への大きな愛を証するドキュメントになっています。

よい行いは黒い額縁にはめられてみると、いっそう引き立つものです。この事件の前の箇所は、神様の御民の指導者たちによるイエス殺害計画についてです。またこの香油の塗布の後に続く箇所では、主を裏切ろうとするユダの様子が描かれています。

裏切り者の出現 14章10~11節

 ユダのような人物があらわれたのは、イエス様の敵にとっては「宝くじ」に当たったようなものでした。今や事を公にせず、しかも大した危険もなしに、イエス様を取り除くことが可能になったからです。イエス様の弟子たちの中から裏切り者があらわれたおかげで、大祭司たちは自分たちに都合の良い時機を選ぶことができ、もはや不意の出来事によって邪魔されないことになりました。 ユダは、いつの時代にも人々が興味をもち恐れを感じてきた人物像です。彼自身のことや彼の裏切りの動機については、残念ながらごくわずかのことしかわかりません。キリスト信仰者の誰もが、ユダに対してある種の同情をいだくのではないでしょうか。ユダの裏切り行為にはなんら正当化すべき余地がありません。にもかからず、裏切った後で自らの罪を悔いたユダは、あっさり捨てて忘れてしまうには、あまりにも悲劇的な人物です。なぜユダが必要とされたのでしょう。どのような思いが彼の心をよぎったのでしょうか。どうして彼は悔いたのでしょう。ユダは罪の赦しの恵みを最終的には受けたのでしょうか。答えよりも疑問の方がたくさん湧いてきます。

過ぎ越しのお祝いの食事の準備 14章12~16節

 ユダヤ人たちが過ぎ越しのお祝いの食事をどのように準備するか、ここで「マルコによる福音書」は語っています。これらの記述を基にして、私たちは福音書に書かれている出来事の起きた正確な日時を知ることができます。今は種入れぬパンの最初の日であり、過ぎ越しの食事の準備の日です。それはニサンの月の14日です。つまり、イエス様は翌日のニサンの月の15日に十字架にかけられたことになります。「ヨハネによる福音書」によると、ユダヤ人たちはまだお祝いの食事をしていない時点、過ぎ越しの羊をほふる儀式が始まった時、すなわちニサンの月の15日に、イエス様は死にました(「ヨハネによる福音書」18章28節、19章31節)。ここで大切な点は、これらの出来事は神様が示されている道に沿って進行した、ということです。怒りと殺意のうずまく中、イエス様はこの道を歩まれます。そして「しるし」を用いながら、 神様が彼らと共におられることを人々に示されます。福音書に名前が記されていないある人物が神様の御子の最後の晩餐のために二階の広間を提供してくれました。

裏切り者の驚愕 14章17~21節

 イエス様がこれから起こる裏切りについて話し始めたとき、ユダがどれほど仰天したか、想像もつきません。ところがイエス様は誰が裏切り者かを明示することはなく、「詩篇」41篇の引用にとどめました(41篇10節)。神様の御子の受難の道はすでに旧約聖書に預言されていた、ということです。とはいえ神様は、背後で全部を思いのままに操る監督のような存在ではありません。神様の御子を裏切ることは重い罪であり、その罪を負うのは罪を犯した本人でした。その罪は彼が担うにはあまりにも重過ぎるものでした。

神様が用意なさった食事 14章22~26節

 食事が進むにつれて、不思議なことが起こりました。旧約聖書の過ぎ越しの食事では、神様の救いの御業の記憶に関連する特別な食べ物が供されました。現在でもユダヤ人たちはお祝いの食事の席で、「これらすべては何を意味しているか」、と互いに尋ね合います。「神様はエジプトでの隷属からの自由を今ここで祝っている民を解放してくださった」、というのがその答えです。

「もしもあなたがたの子どもたちが、「この儀式にはどのような意味がありますか」、と尋ねるならば、「これは主の過ぎ越しの犠牲です。主は、エジプトの人々を撃たれたときに、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、私たちの家を救ってくださったのです」、とあなたがたは言いなさい」
(「出エジプト記」12章26~27節)。

神様の救いの御業はたんなる昔の歴史の出来事にすぎないのではなく、なによりも「今ここ」に関係しているものです。イエス様はここで過ぎ越しの食事にまったく新しい説明を与えています。イエス様はパンを神様に感謝してから弟子たちに配ります。パンは今や秘められたかたちでイエス様の体でもあります。同じようにして、イエス様は神様にぶどう酒を感謝します。このぶどう酒は今やイエス様の血でもあります。こうして旧約聖書の奇跡は新たなかたちでより大規模に繰り返されます。神様は私たちとイエス様を通して新しい契約を結んでくださいました。最初の契約と同様にこの契約は血によって確立されました(「出エジプト記」24章8節)。エレミヤがすでに預言したように、新しい契約は旧い契約に取って代わるものです(「エレミヤ書」31章31~34節)。新しい契約は、イエス様の血が全世界のために流されたことに基づいています。その背景にあるのは、神様の戒めを守る人間の力ではなくて、神様の側からの無条件の罪の赦しなのです。

深まる夜 14章27~31節

 聖餐式が設定されてから、再びイエス様は受苦への道を先に進んで行かれます。決定的な瞬間が間近に迫っていることを弟子たちはまだ知りません。旧約聖書の「ゼカリヤ書」13章7節に、「羊飼いを撃ちなさい。その羊は散り散りになります」、と書いてあるにもかかわらず、ペテロは、「イエス様のためならば自分は死ぬのも厭わない」、と自信満々です。ペテロとはちがい、イエス様だけが本当のことを御存知でした。そしてひとり孤独に耐えておられました。私たちは、そのイエス様のお姿に深い感動をおぼえます。

「あなたの御心がなりますように」 14章32~42節

 ペテロとヤコブとヨハネは、イエス様の最も偉大な瞬間のひとつに立ち会う機会を与えられました。イエス様はゲッセマネでの祈りの戦いの支えとして彼らを選んだのです。夜はすでに更け、さきほどまでのお祝いの食事は眠気を誘いました。それは、目を開けていることさえできないほどの眠気でした。弟子たちは、今がどんな時であるか、まったくわからなくなっていました。

イエス様はおひとりで祈り戦いました。イエス様を待ち受けていたのは、苦難と恥辱と死でした。エレミヤが「民全体に飲ませるように」という使命を受けたあの「神様の怒りの杯」(「エレミヤ書」25章15節)が、今イエス様の目前にありました。イエス様はこの使命から解放されることを祈り求めますが、かないませんでした。天は閉じられ、神様は御子に迂回する道をくださいません。イエス様はすべての人間のすべての罪が当然受けるべき罰である「怒りの杯」を、おひとりで一滴のこらず飲み干さなければならなかったのです。イエス様はそれを受け入れる心構えをし、敵との絶望的な遭遇に備えて、弟子たちを呼び集めます。

夜にまぎれた卑怯者たち 14章43~50節

 過ぎ越しのお祝いの時期は満月でしたが、夜のとばりに包まれた園は、そこから逃げ出したい者にとってはうってつけの場所でした。大勢の群衆が動き回っていました。イエス様の敵たちは、あてずっぽうに暗中模索してイエス様を探したいとは思いませんでした。それでわかりやすい合図として、ユダの口づけが必要となりました。この合図を契機として、戦いがはじまります。イエス様は自己防衛のための暴力の行使を拒否しました。今や、最も陰鬱な聖書の預言が文字通りに実現する「暗闇の時」が来ました。すると弟子たちは勇気の最後の一片も失って、皆いっせいにその場を逃げ出してしまいました。

これは誰? もしかしたらマルコ? 14章51~52節

 その時その場に、福音書の読者の想像を掻き立てる「ある若者」があらわれました。おそらく若者の家は園のすぐそばにあったのでしょう。彼は最初に逃げ出した人々の様子を見て何事かと思い、寝巻きのまま現場に駆けつけたのではないでしょうか。若者は登場したときと同じように、またあっという間に退場しました。この一見意味がないように思われる若者の行動を読んで、「福音書記者マルコが自分のことをここに書いているのではないか」、と想像をめぐらす人も少なからずいます。これはたしかにありえないことではないですが、たんなる推測の域をでるものでもありません。

ついに取り除かれる奥義のヴェール 14章53~65節

 大祭司たちは、ただちに大議会サンへドリンを召集します。70人の議員からなるこの委員会はユダヤ人たちの最終的な意思決定機関であり、ローマ人たちはこの議会に広範な権限を授けていました。しかし死刑の裁決は大議会の権限外でした。急遽開かれた今回の大議会の公的な有効性については疑いの余地がありましたが、それほど大祭司たちにとって急を要する重大事でした。イエス様に関する案件はどうしても明朝までに片付けなければならなかったのです。さもないと、民が何をしでかすか見当もつかなかったからです。

モーセの律法によれば、死刑の裁決のためには、犯罪についてふたりの証人が要求されました(「申命記」19章15節)。ところが、イエス様の犯罪を立証することはどうしてもできませんでした。さまざまな証人が立ったものの、彼らの証言が互いに矛盾していたため、死刑の裁決を下すことができなかったのです。それで今度は、大祭司が直接イエス様を尋問しました。今や(まだ民の指導者たちの前だけではあるものの)「メシアの秘密」が明示されようとしていました。大祭司は神様について婉曲表現(「ほむべき方」)を用いましたが、その質問の内容自体は見え透いており、イエス・キリストは神の御子であるかどうか、ということでした。イエス様の答えも大祭司の質問と同じく明瞭でした。それゆえ大祭司はイエス様を神の侮辱者として告発します。大議会は裁きを下し、神の民はイエス様を捨てました。神の侮辱者をわれら聖なる民から除去し滅ぼすべし、という怒りが爆発し周囲に拡散していきます。

ペテロは? 14章66~72節

 イエス様の弟子たちのリーダー格であり、後に教会のまぎれもない第一人者となるペテロに対しても「マルコによる福音書」は手加減しません。彼がどれほど臆病だったか、また彼の自信がどのように打ち砕かれたか、について容赦のないやりかたで包み隠さずに描写しています。たしかにペテロの置かれた状況は自らの命にかかわるほど困難なものでした。それでもペテロは、自らの態度を恥じるほかなかったのです。ほんの数時間前までは、イエス様に対して死をも辞さぬ忠誠を誓いさえした男が、今や、召使いの少女たち数人に対してさえもおびえを隠せません。ペテロが悔いの嗚咽にむせぶとき、イエス様の側に属する人々の信仰が破綻したことは誰の目にも明らかになってしまいました。


聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)