マルコによる福音書6章 最初の宣教旅行
ナザレ、不信仰の巣窟 6章1~6節
これまでイエス様は、主にガリラヤの田舎の村々や小さな町で活動してこられましたが、故郷の町ナザレでは教えませんでした。ようやく今ナザレの番がきたのです。イエス様がナザレのシナゴーグで教えると、すぐさま聴衆はこの人物のもつ特別な「権威」について議論し始めました。他の教師たちには欠けている偉大な権威をもって、人々の心の中に響くように教える権能を彼に与えたのは、一体誰なのだろうか?なぜ他ならぬ彼を通して大いなる奇跡が起きているのだろうか?こうした疑問への答えを人々は求めていました。その答えはひとつしかありません。ナザレの町で生まれ育ったこの旧知の人物は実に驚くべきことに「神の人」であった、ということです。ところが、ナザレの住民たちはこう結論するどころか、逆にこの方を拒絶してしまいました。ナザレ出身のイエス様は、昔から町の人々の知り合いだったからです。周りからイエス様は「マリアの子」と意地悪く呼ばれていました。当時男の人は、たとえば「ヨナの子シモン」(ペテロのこと)というように、「父親の息子」として呼ばれるのがふつうでした。「マリアの子」という呼び名は、イエス様の本当の父親が誰であるかわからないことを蔑んで揶揄するものだったのです。ナザレのユダヤ人たちと後世のキリスト信仰者たちとは、少なくともひとつの点では意見が一致していました。すなわち、ヨセフはイエス様の本当の父親ではない、という認識においてです。このようにして、イエス様はナザレでは受け入れられませんでした。これで損をしたのは、イエス様ではなく、ナザレの人々のほうでした。故郷の人々の不信仰を驚き怪しみつつ、イエス様は人々を教え癒しながら他の地方へと旅を続けられました。
福音の宣教 6章7~13節
弟子たちをはじめての福音の宣教のために派遣することは、マタイやマルコやルカによる福音書において重要な意義をもつ出来事でした。この段階から、イエス様の教えが文字通り全国各地に広がり始めます。ユダヤ人の慣習によれば、ものごとの真偽を確証するためには、ふたりの証人が必要とされました。おそらくそういうわけで、12人の使徒たちはふたりずつの組に分けられて、十分な持ち物も携えずに伝道へと旅立ったのです。「人は皆、神様の御許のほうへと方向転換しなければならない」というメッセージを伝えるために、彼らはお金もパンもカバンももたずに出て行きました。弟子たちは、「不信仰の人々に対してはその証として、あなたがたの足についた塵を払い落としなさい」(11節)というイエス様の教えを実行せざるを得ない場合もあったでしょう。しかし一方では、悪霊は斥けられ、病人は癒され、福音は聞き手に受け入れられていったのです。
福音の証人としての使命のおわり 6章14~29節
「マルコによる福音書」は、福音の証し人たちが伝道旅行に出発したことを告げる一方で、福音の証し人がはじめて殺害された事件についても記しています。ヘロデ王にとって、洗礼者ヨハネはただでさえ好ましくない人物だったことでしょう。ヨハネが説教で、ヘロデが神様の御言葉に反した形で結婚をしていることを大胆不敵にも叱ったため、とうとうヘロデはヨハネを投獄してしまいました。それでもヘロデはヨハネを殺す気にはなれず、ヨハネの力強い宣教に喜んで耳を傾けていました。ここから先の話は有名です。洗礼者ヨハネを憎んでいたヘロディアは、ヘロデの誕生日の祝会の席で自分の娘が浴びた賞賛をヨハネ殺害の口実にしたのです。娘の名前はサロメです。紀元前10年頃生まれた彼女は、ヘロデの誕生会の時には20歳未満の若い女性として踊りを披露しました。当時、王女が人前で踊ることは不謹慎な振る舞いでした。
悪の華咲くヘロデ王の宮廷では、この娘の踊りは酔いの回った人々の間で喝采を浴びました。ヘロディアの策略によりヨハネは首を切られ、王と王妃の前からようやく邪魔者が排除されたかのように見えました。ところが、イエスという人物が神の御国について説教していることを伝え聞いたヘロデは良心の呵責を覚え、「このイエスは死者の中からよみがえったヨハネなのではないか」、と恐れました。このことからわかるように、ヘロデは自分が殺させたヨハネのことを心の中では忘れることができなかったのです。「マルコによる福音書」は、この小心者の王がいかなる人生の結末を迎えたか、記していません。しかし他の文献によって、ヘロデが権力を失って国外逃亡を強いられ、皆から忘れ去られて死んだことがわかっています。イエス様と洗礼者ヨハネの存在がなかったならば、私たちがヘロデ王についてのエピソードを聞く機会もなかったことでしょう。
大群衆に食べ物を与える最初の奇跡 6章30~44節
使徒たちが福音伝道の旅から帰ってきました。イエス様は孤独になれる寂しい場所に彼らを連れて行こうとしました。しかし、周りにいた群衆がイエス様から離れようとはしません。旧約聖書の時代に、イムラの子、預言者ミカヤが見たように(「列王記上」22章17節)、イエス様もまた、民が「牧者のいない散り散りの羊の群れ」のようになっている状態を御覧になりました。イエス様は群集を退けることなく、夕方まで教え続けました。気がつくといつの間にか何千人もの群衆がイエス様の周りに集まってきていた状況下では、彼らへの食事をあらかじめ準備したりはできませんでした。イエス様は民のために食事を用意するように命じ、五つのパンと二匹の魚を祝福なさいました。こうして旧約聖書における奇跡が再び繰り返されることになったのです。荒野を歩むイスラエルの民には、必要十分なマナが与えられました。エリヤの時代にザレパテに住んでいた寡婦には、十分な量のかめの粉とびんの油が与えられました。エリシャもまた大勢の人に食べ物を与える奇跡を行いました(「列王記下」4章42~44節)。このように見てくると、福音書のこの箇所のメッセージは、何千人もの人々が食べて満ち足りた、ということだけではありません。イエス様を通じて神様が旧約聖書の救いの御業を再現なさったことと、イエス様の救いの御業が旧約聖書の奇跡よりもはるかに偉大なものであることをも意味していました。
湖の上を歩かれるイエス様 6章45~52節
群集に食事を与えた奇跡の後、イエス様は一時的に弟子たちから離れました。夜明け頃、舟にいた弟子たちはイエス様が彼らのところに歩いてこられるのを目にしました。恐れ切った弟子たちはわめきはじめました。イエス様は弟子たちを落ち着かせ、船に乗り込まれました。この出来事も、たんに奇跡のゆえに福音書に記されているわけではないのです。イエス様の奇跡はいつも御自身にゆだねられている権威についての「しるし」です。しかも、イエス様の多くの奇跡は旧約聖書のさまざまな奇跡の再現だったのです。この箇所でもまた私たちは、今の奇跡の中に対応する旧約の時代の奇跡を思い起こすことができます。イスラエルの民は皆、葦の海の底を通って渡りました(「出エジプト記」14章)。この民は後にヨシュアの指導の下、ヨルダン川を渡りました(「ヨシュア記」3章)。エリヤとエリシャが自分の外套でヨルダン川を打つと、そこから水が左右に分かれました(「列王記下」2章8、14節)。同じような奇跡がイエス様を通してさらに大規模な形で繰り返されるとき、旧約聖書を知っている読者は、神様が再び御民の中で目に見えるような形で活動されていることを理解するでしょう。ここでもうひとつ注目すべき点は、弟子たちの鈍くなった心です。人間の不信仰と神様をないがしろにする態度は、一般の人々にだけではなく、イエス様の傍にいた弟子たちにも共通して見られることです。これは「マルコによる福音書」を貫いている重要なテーマです。
病人の癒し 6章53~56節
ゲネサレで、今まで何度も繰り返されてきたのと同じことが起きました。イエス様がたくさんの民を集めて、彼らに教え、彼らを癒されたのです。こうして神様の御国がますます拡大していきました。また群集の数も増えていく一方でした。ガリラヤ全体にわたってイエス様の活動が影響を及ぼすようになったのです。群集の規模が大きくなるにつれて、イエス様の活動に反対する人たちも増えていきました。次章では、イエス様と、律法学者やファリサイ人たちとの間に、激しい議論がもちあがります。
聖書の引用箇所は以下の原語聖書をもとに高木が訳出しました。
Novum Testamentum Graece et Latine. (27. Auflage. 1994. Nestle-Aland. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)
Biblia Hebraica Stuttgartensia. (Dritte, verbesserte Auflage. 1987. Deutsche Bibelgesellschaft. Stuttgart.)