使徒言行録25〜26章 罪を犯したのは誰か?

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

パウロの取り調べの続き 「使徒言行録」25章1〜8節

前の箇所ではパウロがカイザリヤで投獄されたところまで来ました。地方総督ペリクスはパウロの案件を有罪にも無罪にも決める勇気をもてず、パウロを監禁したまま放置することにしました。総督の地位を退いた後でもペリクスは自分を敵視するユダヤ人たちの歓心を買うためにパウロを依然として投獄しておくことにしたのです。

新任の地方総督ポルキオ・フェストは活動的な人物でした。着任早々三日目にはエルサレムに出向いてユダヤ人の指導者たちと対面しています。その会談ではパウロの案件も話題にのぼりました。このことからもユダヤ人たちがパウロを断罪することをいかに重視していたかがわかります。

ユダヤ人たちはパウロをエルサレムに連れてきて尋問することをフェストに要求しました。以前の暗殺計画を今度はもっと確実な形で実現しようと画策したのです。しかし、囚人パウロをカイザリヤからエルサレムに移すことを望まなかったフェストは、ユダヤ人たちがパウロの案件に関して彼と共にカイザリヤのほうに来るように促しました。この提案を受け入れるほかなかったユダヤ人の指導者たちは地方総督フェストに同行してローマ帝国の統治するカイザリヤ市へと出向くことになりました。

エルサレムからカイザリヤに下ってきたユダヤ人たちはパウロに対してあれこれと重い罪状を申し立てましたが、その具体的な証拠をあげることはできませんでした。その一方で、パウロは「わたしは、ユダヤ人の律法に対しても、宮に対しても、またカイザルに対しても、なんら罪を犯したことはない」と弁明しました(25章7〜8節)。

皇帝に上訴するパウロ 「使徒言行録」25章9〜12節

フェストはパウロの案件がユダヤ人たちにとってきわめて重要な意味をもっていることを理解しました。他のローマの役人たちと同様にフェストもまたユダヤ人を無闇に刺激するのは避けるべきであることをよく知っていました。それゆえ彼はユダヤ人たちの意向を頭ごなしに否定するのではなく、パウロにエルサレムに行って裁判を受けてみる意思があるかどうかを尋ねることにしたのです。

パウロはエルサレムへの旅が危険なものとなることを知っていました。旅の途中には暗殺者たちが待ち伏せしているだろうし、たとえ彼らの手を逃れたとしても、パウロの案件はローマ人を介さずにユダヤ人たちだけで裁定を下すことができるものとみなされる危険もありました。パウロの案件がユダヤ人たちだけで決定される場合にどのような結果になるかは前もってわかりきっていました。

パウロはフェストの言動もペリクスと同様にユダヤ人たちの好意を得るためになされた政治的なものであることを見て取りました。フェストが重視したのは公正の実現ではなく、ユダヤ人たちにおもねることだったのです。自分とユダヤ人たちとを秤にかければ自分のほうが不利な立場になるとわかっていたため、パウロは自分の案件について公正な審議がなされる保証を取り付ける必要に迫られました。だからこそパウロは自分のローマの市民としての特権を行使することを決断したのです。それは皇帝に上訴する権利です。

皇帝への上訴権が実際にどのようなものであったかのは正確にはわかりません。皇帝に上訴できるのはローマの市民だけであり、その案件についてはローマで裁判が開かれることになっていました。おそらく拷問を受けたり死刑になったりすることを回避しようとして皇帝に上訴する場合もあったと思われます。

フェストは陪席の者たちと協議した上で、パウロには皇帝に上訴する権利が実際にあることを承認しました。パウロが皇帝に上訴したことは実はフェストにとっても好都合でした。よくわからない厄介な案件に自ら裁定を下す必要がなくなったからです。

かつてイエス様が死刑になるかどうかを決定したのはユダヤ総督ピラトでした。同様にパウロの案件についてもローマ帝国のユダヤ総督やユダヤ人たちがその裁定に大きな影響力を持ちました。このことはキリスト教信仰とキリスト教会が最初期から政治的な駆け引きに巻き込まれていたことを如実に物語っています。教会と国家との相互関係をめぐる問題は決して近年だけの問題ではありません。

何についての告発か? 「使徒言行録」25章13〜22節

パウロが皇帝に上訴したことでフェストは裁判官の役割からは解放されましたが、その一方では新たな問題も出てきました。それは、いかなる嫌疑からパウロに対して告発がなされたのかを皇帝に説明しなければならないという問題です。実はフェストはパウロを逮捕しておくために十分な嫌疑がないことを知っていました。とはいえ、まさか目の前にいるユダヤ人たちの機嫌を取る目的でパウロを囚人扱いしたなどと皇帝に奏上することはできません。パウロがローマ帝国の法律に違反したことを示す何らかの告発を捏造しなければならなかったのです。それではどのような告発を行うべきなのかが次の問題になります。

すでに皇帝の好意を失っていた前任者ペリクスに全責任を転嫁することもやろうとすればもちろんできたでしょう。しかしそれでは、フェストはなぜ無罪であると自分が判断した囚人パウロを釈放しなかったのかということを説明できません。

ところがフェストにとって都合のよいことに、ヘロデ・アグリッパ二世とその姉妹ベルニケとが新総督フェストに敬意を表するためにその時にカイザリヤを来訪したのです。

このヘロデ・アグリッパ二世はアグリッパ一世の息子でした。アグリッパ一世の死のいきさつについては「使徒言行録」12章21〜23節に記述があります。父親と死別した時にアグリッパ二世はまだ17歳でした。しかし、ローマ側は彼の父親の広大な領土の統治をそのまま彼に委譲するつもりはありませんでした。最初、彼はパレスティナ北部のごく小さな領土の統治権を委ねられるにとどまりました。しかし、クラウデオ帝は彼に何回かの段階を踏んで次第により広い領土の統治を委任するようになりました。それでも彼は依然として実権をもたない傀儡の為政者に過ぎませんでした。

ある意味でアグリッパ二世はフェストにとって大いに役立つ存在でもありました。それは、アグリッパ二世がユダヤ教の大祭司(すなわちユダヤ人の宗教的な指導者であり宗教の専門家である人物)を任命する権限をもっていたという点です。アグリッパ二世はパウロの案件についてフェストに助言を与えることができる公的な立場の人物であり、パウロの案件は明らかに宗教的な論争に関わる問題でした。

アグリッパ二世の姉妹ベルニケは当時のパレスティナで最も知名度の高い女性の一人でした。彼女の結婚は悪評の的でした。初めに彼女は若くして自分の叔父と結婚しました(このような婚姻関係はヘロデの家系では一般的でした)。寡婦となった後で彼女は小アジア地方のある小国の王と結婚しました。ところが、まもなく彼女は夫を捨てて自分の兄弟のところに居を移したのです。

ヘロデ・アグリッパ二世とその姉妹ベルニケとは夫婦のような生活を送っているらしい、と人々は噂し合いました。エジプトのファラオたちの場合、このような近親婚は珍しくありませんでした。ファラオの時代の後のエジプトを支配したギリシア出身のプトレマイオスの家系もその点では同じでした。しかし、ユダヤ人にとってはそのような近親婚はおぞましいことでした(「レビ記」18章6〜18節)。

ユダヤ人たちがローマ帝国に反旗を翻した西暦66年にユダヤ人制圧の命を受けたのは後にローマ皇帝となるティトゥス・ウェスパシアヌスとその傘下のローマ軍でした。ほどなくベルニケはこの軍司令官と昵懇の間柄になり、来るべきローマ皇帝の妃の座を射止めそうにさえなりました。しかしローマ側の激しい反対にあったティトゥスはベルニケと結婚する計画を中止するほかありませんでした。

お偉方の尋問を受けるパウロ 「使徒言行録」25章23節〜26章23節

今回の尋問ではすでに今まで述べてきたことの蒸し返しが多くみられました。すなわち、パウロは自分に向けられた告発が虚偽であると否定し、この問題は宗教的な論争であるためローマの役人たちにはこの問題を扱う責任がないと主張したのです。

その一方で、パウロはせっかくのこの機会を利用することにしました。彼は社会的に高い立場の人々に向かってこれまでの自分の人生をかいつまんで説明しつつ福音を宣べ伝えたのです。パウロの弁論はいくつか興味深い細部を含んでおり、それらをより詳しく考察する必要があります。

パウロはユダヤ教徒であった頃すでに後々必要になる知識をもっていた 「使徒言行録」26章4〜11節

パウロは弁論を聞いている人々に向かって、かつてキリスト信仰者たちを迫害していた頃にも旧約聖書についての知識を十分に持っていたと述べました。もちろん彼は旧約聖書がメシアについて教えている内容も知悉していました。

迫害者側だったユダヤ教徒時代のパウロの真の問題は旧約聖書の知識が不足していたことにではなく、ナザレ人イエスこそがほかならぬこのメシアであることを理解していなかったことに関係していました。そして彼は自分自身の力によってはこの事実を決して学び知ることができませんでした。ダマスコへの旅の途中で神様御自身が教えてくださったおかげでパウロはイエス様こそがメシアであられることをようやく理解できたのです。

例えばキリスト教が国教となっているフィンランドでは学校や教会でキリスト教の基本事項を少なくとも知識として学ぶ機会があります。にもかかわらず、多くの人はキリストとは個人的な関わりをまったくもたない生活を送っています。どうしてこのようなことが起こるかというと、信仰はたんなる知識の問題ではないからです。神様の御霊なる聖霊様のみがキリストの真の意味を私たち人間に明らかに示してくださるのです。

もしかしたらここで「どうして神様はすべての人間をキリスト信仰者にしてくださらないのか」といった悩ましい疑問をもつ人もいるかもしれません。一方でこれは私たちに開放感を与えてくれる発見ともなりえます。というのは、私たちの隣り人がキリスト教信仰に導かれたり信仰によって救われたりすることはひとえに神様御自身の働きかけによるものであって、決して私たち人間や私たち自身の証の力によるものではない、ということになるからです。

キリスト信仰者はキリストを悪く言うことはできない

「それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、彼らに対してひどく荒れ狂い、ついに外国の町々にまで、迫害の手をのばすに至りました。」
(「使徒言行録」26章11節、口語訳)

キリスト信仰者を迫害していた時のパウロは誰がキリスト信仰者であり誰がそうでないかを識別する恰好な手段をもっていました。キリスト信仰者は誰もイエス様の悪口を言えないことを彼はよく知っていたのです。

これと同じ手口は江戸時代の日本でも用いられました。日本では1630年代に十字架のキリスト像や聖母マリア像を足で踏ませるというやりかたが始まりました(なお、マリア像が使われたのは当時の日本のキリスト信仰者がカトリック教徒だったからです)。キリスト信仰者なのではないかと疑われた人物は自分が信者ではないことを証明するために、地面に置かれたこれらの像を足で踏みつけなければなりませんでした。そして日本人は全員正月になると踏み絵を足で踏みつけなければならないという慣習が広まり、江戸時代の間は続けられました。

日本の村々はその村人全員への踏み絵を実施する責任を負いました。そして踏み絵がきちんと実施されなかった場合には、村全体が処罰を受けました。このような手段によってキリスト教信仰を日本全国から根絶することができると当時の支配者たちは考えていたのです。ところが、それでも抜け道がまだひとつ残っていました。村民全員がキリスト信仰者であった場合には、彼らは互いを裏切らず密告もしなかったのです。そして、約250年間にわたる鎖国の期間を経て1800年代の終わり頃に日本が外国のキリスト教宣教団体による伝道活動に門戸を開いた時、驚くべきことに日本にはいまだにキリスト信仰者たちが生き残っていたことが発見されたのです。

ところで現代人の私たちの場合にも、どのような場所や機会にキリストの悪口を言う誘惑に駆られることがあるのか反省してみるのも大切だと思います。

重要なことは全て旧約聖書の中に書いてある

「しかし、わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。」
(「使徒言行録」26章22節、口語訳)

人類を救済する神様の御計画について知っておくべきことはすべて旧約聖書の中に書いてあることをパウロは証しました。宗教改革者マルティン・ルターによれば、すべての重要事項は「創世記」の中に書いてあり、聖書の残りの書物群はその註釈にすぎません。

最初期のキリスト信仰者にとっての「聖書」とは旧約聖書にほかならなかったことをここで思い起こしましょう。彼らは旧約聖書の中からキリストを見出したのであり、彼らの礼拝では旧約聖書が朗読されたのです。

旧約聖書と新約聖書の間には深くて強いつながりがあります。それゆえキリスト信仰者もまた旧約聖書を熱心に読むべきなのです。

復活がすべての鍵である

「すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです。」
(「使徒言行録」26章23節、口語訳)

パウロは自分が告発されたのは死者の中からのよみがえりを信じているがゆえであると述べて弁明を終えました。もともとパウロはユダヤ教の教師たちから旧約聖書に書いてある復活信仰を学んだのです。にもかかわらず、今度はユダヤ教の教師たちがパウロをまさにその復活信仰のゆえに告発しパウロに対して厳しい裁きを要求するという奇妙な構図になりました。

しかし、ユダヤ人たちとパウロは復活に関して一つの点で互いに異なっていました。パウロが復活信仰を捨てることはありえません。もしもそれを捨てるならば、キリストもまた死者の中からよみがえらなかったことになり、その結果、キリスト教信仰の核心を否定することにもなるからです。このことについてパウロは手紙で次のように書いています。

「もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」15章19〜24節、口語訳)

問題の中の問題 「使徒言行録」26章24〜29節

ユダヤ教について十分な知識がなかったユダヤ総督フェストはパウロの弁明の意図をあまりよく理解できなかったようです。彼はパウロが哲学的な問題に深入りしすぎたせいで頭がおかしくなったと考え「博学が、おまえを狂わせている」と言いました(24節)。

パウロはそれをはっきりと否定し、答えかたが難しい質問を逆にアグリッパ王に投げかけます。死者からの復活をアグリッパ王が信じていることをパウロは知っていました。そのようなアグリッパ王にとってイエス様の復活を信じるのを妨げるものは何もないはずです。

アグリッパ王はパウロの質問に対して否定的にも肯定的にも答えられない自分に気がつきました。ここでもし復活を信じると答えるならば「彼もキリスト信仰者なのか」という嫌疑をかけられることになります。しかしまた、復活信仰を否定するならば復活信仰をもっているユダヤ人たちからの攻撃を受けることになります。それゆえ彼はパウロの質問に対し「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」と言ってはぐらかしたのです(28節)。

そもそも人はイエス様の復活に関する質問をはぐらかすことができるのでしょうか。否定も肯定もしないあいまいな態度はそれ自体がイエス様に反対する態度なのではないでしょうか。イエス様御自身、次のように言っておられます。

「わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしと共に集めない者は、散らすものである。」
(「ルカによる福音書」11章23節、口語訳)

奇妙な道 「使徒言行録」26章30〜32節

尋問の結果はパウロにとって意外なものではありませんでした。パウロは無罪であり、もしも皇帝に上訴してさえいなければ釈放されただろうに、というものです。もはやパウロの問題はユダヤ総督が裁定を下せるものではなくなっていました。パウロはローマ皇帝の面前に出ていかなければならなくなったのです。フェストがパウロを皇帝のもとに送り出す時にパウロに関してどのような罪状文を持たせたのか、私たちには知るよしもありません。

パウロが皇帝に上訴したのはまちがいだったのでしょうか。しかし、もしも上訴していなければ彼はこの時点ではもはや生きてはいなかったでしょう。彼はエルサレムへの旅の途中かあるいはエルサレムに着いてから殺されてしまっただろうからです。

ともあれ、こうしてパウロは何年間も行きたいと願っていたローマに行けることになりました(「ローマの信徒への手紙」15章22〜24節)。神様の備えてくださる道は私たちの望んでいる道といつも同じものであるとはかぎりません。しかし、神様の御心のほうが私たち自身のやりたいことよりも常によりよいものであるのは確実です。

ところで、主の祈りで「御心がなりますように」と祈る時に私たちはどのように祈っているのでしょうか。神様の御心が実現することを本当に望んでいるのでしょうか。それとも、私たち自身があらかじめ立てた計画を神様が祝福してくださることを望んでいるだけなのでしょうか。