使徒言行録17章 「知られない神に」
パウロのヨーロッパでの伝道活動の始まりは決して容易なものではありませんでした。ピリピでは投獄されましたが、それも結局は祝福をもたらしました。獄吏が家族一同、信仰に入って救われたのです。とはいえ困難が困難であることに変わりはありません。パウロのこれからの伝道も順調に進行するようには見えませんでした。
「天下をかき回してきたこの人たち」 「使徒言行録」17章1〜9節
「一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。」
(「使徒言行録」17章1節、口語訳)
アムピポリスはピリピから48キロメートルのところにあり、アポロニヤはアムピポリスから47キロメートル、テサロニケからは57キロメートルのところにありました。距離的に見ておそらくパウロとその一行はアムピポリスとアポロニヤで宿泊したものと思われます。当時の徒歩による旅の一日の踏破距離は約37,5キロメートルほどであったと一般的に推定されています。パウロはピリピで体を痛めつけられたにもかかわらず、当時の平均的な踏破距離よりも少し長い距離を毎日旅したことになります。
マケドニヤ属州の首都であったテサロニケにはローマ帝国の主権を代表する地方総督(ラテン語でProconsul)が駐在していました。その一方でテサロニケは自由都市の権利を有しており直接民主制に基づく政府ももっていました。都市に関わる事柄は市民議会において決定されました。また自由民の男子全員には会議における選挙権が与えられていました。
いつものやりかたに従ってパウロは福音伝道をユダヤ人の会堂で始めました。そこにはユダヤ人だけではなくギリシア人(正確に言えばギリシア語を話すユダヤ人)も集まっていました。
会堂に通う人々は旧約聖書の内容をよく知っていました。このことはパウロにとって福音を彼らに伝えるためにとても都合の良いことでした。
パウロは今回の説教で次の二つの主張を展開しています。
1)旧約聖書の予言した「メシア」(ヘブライ語)すなわち「キリスト」(ギリシア語)は苦しみを受け、死に、死者の中からよみがえることになっていた
2)ナザレ人イエスこそは旧約聖書が予言したメシアに他ならない
パウロの説教を聴いて信じたユダヤ人も幾人かいました。しかし、信じた人々の大部分は「信心深いギリシヤ人」(旧約の神様を畏れ敬うギリシヤ人)でした。彼らの中には富裕な貴婦人も少なくありませんでした。こうしてユダヤ人の会堂は多くの有力な支持者を失い、それとともにその収入もかなり減ってしまったものと思われます。
このせいもあってユダヤ人たちは妬みに駆られ実力行使に訴えます(17章5節)。彼らはパウロが会堂の支持者たちに新しい宗教のグループ(すなわちキリスト教会)に加わるように働きかけているのを黙認するわけにはいかなかったのです。
再度の暴動
ユダヤ人たちは常套手段を利用します。町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせたのです(17章5節)。しかしこの試みは部分的には失敗しました。シラスとパウロを捕まえることができなかったからです。おそらく二人には身を隠すだけの時間的余裕があったのでしょう。
彼らのかわりに裁きを受ける者として民衆の前に引っ張り出されたのはヤソンという人物でした。彼の家にパウロとその一行が宿泊していたからです。彼はユダヤ人であったと思われます。なぜなら「ヤソン」はヘブライ語の「ヨシュア」あるいは「イエス」という名前のギリシア語訳だからです。しかしそれ以上のことは私たちにはわかりません。
集まってきたユダヤ人たちはキリスト信仰者たちのことを「天下をかき回してきた」張本人であると責め立てました。これはユダヤ人たち自身がしばしば受けてきた批判でもあります。キリスト信仰者たちは「ローマへの反乱を扇動した」という容疑に加えて「ローマ皇帝(「カイザル」)を無視してイエスという別の王を信奉している」という嫌疑も受けました。ユダヤ人たちはイエス様の王権をこの世の普通の王権と同じものと解釈したのです。キリスト信仰者たちに対するこのような糾弾を聞くにおよんで群衆と市の当局者は不安に駆られました。
「そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。」
(「使徒言行録」17章9節、口語訳)
ヤソンたちが要求された「保証金」がいかなるものであったかはわかりません。もしかしたらパウロとその一行を市から追い出すことを要求されたのかもしれません。あるいは、パウロがその後も福音伝道をその場所で続けようとする場合にはヤソンが保証金を取られるという条件だったのかもしれません。
パウロはテサロニケにどれほど長く滞在していたのか?
ともあれ、さっそく次の夜にはパウロとシラスはべレヤに送り出されています(17章10節)。彼らが夜中に出発したことからも危険で切迫した状況であったことが伝わってきます。
テサロニケを出てまもなく、パウロはおそらくコリントから「テサロニケの信徒への第一の手紙」をテサロニケの教会に宛てて書き送っています。この手紙はパウロの書いた手紙のうちで今も残っている最も古いものの一つであると考えられています。この手紙でパウロはテサロニケ教会のキリスト信仰者たちの信仰について率直に喜んでいます。彼らは迫害に苦しんでいたにもかかわらず信仰を保ち続けたからです(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章14節)。
「フィリピの信徒への手紙」4章15〜16節にはパウロが何度もピリピ(すなわちフィリピ)の信徒たちからテサロニケへの経済的な支援を受け取っていたことが記されています。これはパウロがテサロニケに数週間だけではなくもっと長い間滞在していたことを示唆しているようにも思われます。また「テサロニケの信徒への第一の手紙」からも同じような印象を受けます。
ルカは「パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ」(17章2節)と記しています。しかし、パウロの三週連続にわたる説教を通してイエス様を信じるようになった人々が会堂から出て行ってしまった後、ただちにユダヤ人たちによる騒乱が起きたともかぎりません。ユダヤ人がキリスト信仰者を迫害し始めるまでのしばらくの間ヤソンの家にキリスト信仰者が集まり礼拝がもたれていた可能性もあります(17章6節に「ヤソンと兄弟たち数人」という表現が出てきます)。
歴史は繰り返す 「使徒言行録」17章10〜15節
パウロとシラスはベレヤまでの約70キロメートルの旅を歩いて行きました。ベレヤには後でテモテもやってきました(17章14節)。彼はおそらくピリピから来たものと思われます。
「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。」
(「使徒言行録」17章11節、口語訳)
ベレヤのユダヤ人たちは他の町々のユダヤ人たちとくらべて素直な心の持ち主で、パウロの教えた福音をすぐに拒絶することなく、それを旧約聖書に照らして日々吟味しました。今日でも私たちはこのようにするべきです。新しい説教者の教えを聖書以外の何かによってではなく聖書そのものに基づいて吟味するべきなのです。
その場にいた多くのユダヤ人は福音を信じました(17章12節)。しかし予測できた転機がまもなくここでも訪れました。テサロニケのユダヤ人たちがベレヤでの出来事を聞きつけて新たな騒動を起こしにやって来たのです(17章13節)。
今回はパウロだけがベレヤから退去したとルカは伝えています(17章14〜15節)。キリスト教信仰の反対者たちはどうやらパウロのことを首謀者とみなしていたようです。パウロさえいなくなれば教会もまた勢いを失って縮小するだろうと彼らは考えていた節もあります。しかしそうはなりませんでした。それはパウロが教会に書き送った手紙からもわかります。
パウロだけがベレヤから退去した理由としては、シラスとテモテは異邦人の間での福音伝道に集中したためにユダヤ人たちは彼らに対してはパウロに対するのと同じ激しさでは反対しなかったからではないか、という推論もなされています。
おそらくパウロはベレヤから海岸に行き、見送りの人々と共に船でアテネまで旅したものと思われます。陸路をとった場合にはオリンポス山を迂回しなければならず、さらにそれに加えて奥深い山岳地帯を通って行かなければなりませんでした。大きな町で伝道することに主眼を置いていたパウロはできるかぎり速やかにアテネに到着できるルートを選ぼうとしたのでしょう。なお当時のアテネはアカイア属州の都市でした。
こうしてパウロのマケドニヤにおける伝道の仕事は終わりました。その成果として彼は三つの都市と三つの教会を訪れることができましたが、その一方では三つの騒動に巻き込まれることにもなりました。
アテネでのパウロ 「使徒言行録」17章16〜34節
輝かしい過去の歴史に包まれていた当時のアテネは明るい未来を展望できるような都市でもありました。紀元二世紀の初頭には大規模な建造事業で有名なローマ皇帝ハドリアヌスがアテネの栄光を再興させることになります。パウロが訪れた頃のアテネは「文明の中心地」という観光都市のような扱いを受けていました。当時のアカイア州の首都もアテネではなくコリントでした。
アテネは高度の文明と学問で有名でした。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者たちがかつてアテネで教えました。アテネにはプラトンが開設したアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンなどの学院が存続していました。さらにアテネにはキュニコス派(犬儒学派)や、ルカも述べているストア派やエピクロス派などの哲学者のグループが存在しました(17章18節)。アテネはこれら哲学諸派の学校が並び立つ中心地だったのです。
おそらくパウロは当時の哲学の諸派のうちでもとりわけストア派のことをよく知っていたものと思われます。パウロの出身地タルソはストア派の活動が盛んなところでした。
ストア派は「神はありとあらゆるところに偏在している」という思想をもっていました。見方によってはこのような形で唯一神信仰を表明していたと考えることもできるかもしれません。ストア派は高潔な道徳を守ろうとし、そのためにしばしばいわゆる一般人に対して自分たちのことをより優れた存在であると思い込む傾向がありました。
当時、最も影響力のあった哲学の学派の中にはエピクロス派も含まれていました。エピクロス派は即物主義的な思想をもち、人生における快楽を追求しました。ただし快楽の追求も教養に裏打ちされた節度を守って行うべきものとされました。
宗教的なアテネ人たち
常に新しい知識と知恵を貪欲に追求することで有名だったアテネ人は宗教にも強い関心を寄せました。しかしその宗教性は彼らが理性に基づいて宗教を理解していたことを示しています。彼らがまだ知らない神が何かまだ存在する可能性は否定できないため、念のために「知られない神」にも捧げ物をしなければならない、と彼らが考えていたことからもそれがわかります。「知られない神」のために聖別された祭壇は見つかっていませんが、多くのギリシア人著作家はルカのこの記述が正しいことを裏付けています。
シナゴーグでパウロはユダヤ人たちと「信心深い人たち」に対してキリストについて証をしました(17章17節)。アテネの有名な広場で彼は他の市民たちとも出会って話し合いの時をもちました。
「また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。」
(「使徒言行録」17章18節、口語訳)
アテネ市民はこの新しい教えを宣べ伝える新参者に興味を示しました。もっとも彼らの中にはパウロをたんなる「おしゃべり」ときめつける者もいました。パウロは他の人々の思想をあちこちからついばんできてはそれをわめきちらす無学な者とみなされたということです。また彼らの中にはパウロが「イエス」と「復活」(ギリシア語で「アナスタシス」)という「二人の神」を宣べ伝えていると勘違いする者もいました。
奇妙な教えを説くパウロのことをもっとよく知りたいと思ったアテネの人々はパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行きました。しかしこれはパウロが裁判を受けるために連行されたという意味ではありません。彼らがパウロに示した礼儀正しい態度からもそれがわかります(17章19〜20節)。
アレオパゴスはアテネ市内よりも100メートルほど高いところにある岩の丘でした。しかしこのアレオパゴスよりもさらに高い場所にはアテネ女神のために作られたパルテノン神殿がありました。なおこの神殿は古典古代の建築の最も精緻な芸術作品とさえ言われることがあります。
賢さと愚かさの出会い
アレオパゴスでパウロがイエス・キリストへの信仰について人々に説明した出来事は歴史的な瞬間であったとも言えます。まさにその時にギリシア哲学の思想とキリスト教の信仰という西欧文明の二つの源流が互いに出会ったからです。私たちが生きている現代にいたるまで西欧文明の根幹にはこれら二つの要素が存続してきました。残念なことに近年の西欧社会では特にキリスト教信仰は昔あった社会的な影響力を急速に失いつつあります。
パウロはアテネ市内に偶像がおびただしくあるのを見て心に憤りを感じました(17章16節)。しかし、アレオパゴスでパウロは話し始めるにあたり、アテネ市民の盛んな偶像礼拝をすぐさま糾弾せずに、むしろアテネ人の宗教一般への関心の高さを称賛しました。
このパウロの態度には私たちも見習うべきところがあります。キリスト教信仰を宣べ伝えるときには、例えば「なぜあなたがたはクリスマスの時にしか礼拝に参加しないのか?」という批判的な言い方でクリスマス礼拝の説教を始めるのはもちろんよくありません。むしろクリスマスのメッセージを聴きに来た人たちに肯定的な印象を与えるようなテーマを見つけるべきでしょう。
もちろんこの点でも行き過ぎは禁物です。アテネ人の宗教への一般的な関心の高さをほめたパウロもそれによって彼らの宗教性そのものを認めたのではないからです。
私たちの場合も、キリスト教信仰について他の人や聴衆に話す時には、聞き手たちのご機嫌を取ったり彼らの生活態度や考えかたのすべてを追認して「キリスト教的な祝福」を与えたりするべきではありません。
ここで重要になるのは基本的な姿勢です。福音を伝える者が肯定的な態度をとっているのか、それとも否定的な態度をとっているのかという点です。メッセージを聴いている人々はこの点について驚くほど敏感です。宣教者が否定的なことから話し始めると、そのせいで福音の内容が聞き手の心に届きにくくなるのです。
パウロの教えはアテネの人々がそれまで聴いたこともないような、また部分的には軽蔑を招きさえするような内容のものでした。ギリシア人は世界全体(ギリシア語で「コスモス」)が永続すると考えていました(17章24節)。それとは異なり、パウロは神様が創造主であることを彼らに宣べ伝えたのです。ギリシア人は夥しい数の神々を崇拝しました。それとは異なり、パウロは唯一の神様を彼らに宣べ伝えました。アテネ人は賢さで有名でした。しかしパウロは彼らよりも自分の方が賢いと彼らに宣言したのです。なぜならば、パウロはあの「知られない神」の正体を知っていたからです(17章23節、30節)。
ギリシア人は魂のみを永遠の存在とみなし肉体を軽蔑しました。ですから「からだのよみがえり」に関するパウロの教えに反対する人々が聴衆の中から出てきたのも不思議ではありません(17章32節)。ところがパウロは、次に引用する手紙からもわかるように、肉体のことを「聖霊の宮」と呼んで尊重しています。
「不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」18〜20節、口語訳)
キリスト教信仰の核心にある真理は私たち人間の理性とは相いれないものです。しかしそうだからといって私たちは信仰の真理から目を逸らすべきではありません。「信仰の真理」とは、例えば処女懐胎(マリアが処女のまま聖霊様によって神の御子イエス様を身籠ったこと)であり、全人類という罪深い存在の罪をすべて帳消しにするために人類の身代わりとしてイエス様がゴルゴタの十字架で死なれたことであり、イエス様が三日目に死者の中からよみがえられたことです。これらは人間の理性のみに基づいて評価しようとするかぎりは愚かなこととして片付けられてしまうのが普通でしょう。しかし、これらは神様が人間に啓示された真理であり、人間は信仰のみによって受け入れることができるものなのです。キリスト教信仰の教義からいわゆる理性的ではない事柄を逐一排除していく場合、後に残るものと言えば聖書的な信仰とは程遠い残骸だけです。
「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである。」
(「使徒言行録」17章31節、口語訳)
この節でイエス様の死者からの復活がキリスト教信仰の確証とみなされていることに注目しましょう。
キリスト教ではないものすべてが誤りであるとは言えない
「われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、
『われわれも、確かにその子孫である』。」
(「使徒言行録」17章28節、口語訳)
上掲の節で、パウロはアレオパゴスでの説教にギリシア人の詩を引用しています。これはパウロの出身地タルソで活躍したストア派の詩人アラトスからの引用であったと推定されています。
「キリスト教信仰に由来しないものはことごとく悪であり捨て去るべきものである」というように教える伝道者もいます。しかしこのような考えかたは必ずしも正しいとは言えません。この世界は神様がお造りになったものです(17章24節)。それゆえ、この世界には罪の堕落によって腐敗しなかったことも含まれているからです。
キリスト信仰者が神様に召されたのはこの世から隔離して生きるためではありません。次の引用箇所でイエス様が言われているように、むしろこの世における「塩」や「光」として存在するためなのです。
「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」
(「マタイによる福音書」5章13〜16節、口語訳)
神様から離れて生きている人々に対して必要以上に距離をとることは、彼らに福音を伝える機会もなくしてしまうことになります。むしろ彼らと何らかの形で交流をもつことによって彼らに伝道することも可能になるのです。
どのようにすれば私たちは信仰から離れてしまった人々に対して福音を伝えることができるのでしょうか。また、私たちはキリスト教から乖離したこの世の文化に対していかなる態度を取るべきなのでしょうか。これらの問題には様々な要素が重層的に絡み合っており、単純に白黒をつけることができません。
とはいえ、この世が「魂の敵」(悪魔のこと)を味方につけて連帯を組んでいるということも事実です。教父アウグスティヌスは「神よ、あなたはあなたの秩序からはずれた魂がそれ自身に対する罰となるようにお定めになりました」と書いています。
神様はイエス様において人となられました(「フィリピの信徒への手紙」2章5〜11節)。神様は人類の外側にたんなる傍観者として留まることを望まれなかったのです。それゆえ、キリスト信仰者もキリスト教会も、神様が成し遂げられた人類の救いの御業を覚え、この世とは断絶しない伝道的な生きかたを模索するべきなのです。
わずかな成果
アテネ人たちは教養人だったため、パウロの教えを聞いて騒ぎ立てることもなく、もちろんパウロに石を投げたりしませんでした。彼らは自分自身と異なる意見の持ち主たちとも冷静に議論することに慣れていたからです。
アテネでパウロが伝えたキリスト教信仰のメッセージはまたしても聴衆を二つのグループに分けることになりました。彼らの中には意地の悪い者もいれば礼儀をわきまえた者もいました。しかし両者ともパウロの教えを拒絶した点では同じでした。
「死人のよみがえりのことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「この事については、いずれまた聞くことにする」と言った。」
(「使徒言行録」17章32節、口語訳)
しかしその一方では、やはり今回も聴衆のうちの何人かには信仰が生まれたのです。ルカは二人の名前を挙げています。「アレオパゴスの裁判人デオヌシオとダマリスという女」です(17章34節)。
この時点でアテネにはキリスト教会が誕生しなかったことを教会史から窺い知ることができます。これは示唆的です。アテネではキリスト教の福音に対して激しい反対が起きませんでした。しかし、おそらくはまさにそれゆえにアテネではキリスト教が広まっていくこともなかったのです。アテネ人は教養人にふさわしく党派的な態度はとりませんでした。ここで主イエス様が「ヨハネの黙示録」でラオデキヤにある教会に対して言われた次の言葉が思い起こされます。
「わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。」
(「ヨハネの黙示録」3章15〜16節、口語訳)
このアテネのケースをみると、キリスト教に対するあからさまな反対が持ち上がることにはむしろよい側面もあるとさえ言えそうです。反対が起こると、人はキリスト教信仰に対して自らの態度を明確にしなければならなくなるからです。自分の立場を曖昧なままにするのは現代人の多くが抱えている重大な問題だと思われます。ともすると私たちはあたかも神様が存在しないかのように思い込んで日常を無為にやり過ごす生き方に流されてしまうことになりがちだからです。