使徒言行録10〜11章 両者を隔てていた壁が崩れ始める
転回点
「使徒言行録」の前半部はどのようにして福音がユダヤ人に伝えられていったのかというテーマに絞って記述が進められました。もちろんこれから先の章で起こること、すなわち異邦人伝道についても、例えばピリポとエチオピヤの高官の出会いについてなど、今までも少しずつ要所要所で記されてきています(「使徒言行録」8章26〜40節)。しかし「使徒言行録」の前半部の時点では福音は主としてユダヤ人の間で広まっていきました。
使徒や他のキリスト信仰者は異邦人に福音を宣べ伝えることに当初はあまり興味を示さなかったようです。このことは私たち現代のキリスト信仰者にはやや理解しにくいことかもしれません。天に挙げられる前、イエス様は弟子たちに全世界に出て行って福音を宣教するようにと命じておられます(「マタイによる福音書」28章18〜20節、「使徒言行録」1章1〜8節)。したがって、もちろんすべての異邦人にも同じ福音を伝えていくべきなのです。それなのにどうして当時のキリスト信仰者たちはイエス様の大宣教命令に積極的に従おうとはしなかったのでしょうか。
現代に生きる私たちにとって異邦人伝道はすでにキリスト教の歴史の一部となっています。しかし当時の使徒たちや最初期のキリスト教会にとっては、それはまったく未知のものでした。例えば海外伝道をアフリカやアジアで始めることがどれほど大きな困難を伴うものであったのかを思い起こしてみるとよいでしょう。
この問題はパズルを例に取ると理解しやすくなるかもしれません。パズルに取り掛かったばかりの段階ではいったいどこにどのピースを置けばよいのか見当がつかないことがあります。ところがパズルに置くべきピースの数が減っていくにつれて残されたピースを正しい場所に埋めていくのは次第に容易になっていきます。私たち現代人の「キリスト教伝道」というパズルには使徒たちの時代のパズルとくらべてはるかに多くのピースがすでに正しい箇所に嵌め込まれています。そのおかげで私たちは多くの事柄を昔よりも理解しやすくなっているのです。使徒たちにとっては困難な問題であった多くの事柄は現代の私たちにとっては当たり前のことになっています。
どのようにして使徒たちが幾つかの極めて重要なピースに正しい場所を見つけることができたのかについて私たちは証する立場にあります。使徒たちの行った福音伝道は決して容易なものではありませんでした。それが適切なやりかたで実行されるためには神様の助けが必要不可欠でした。
ここで「使徒言行録」の叙述は福音宣教の歴史における重要な転回点を迎えました。ユダヤ人のうちの圧倒的多数が福音に対してはっきりと背を向けてしまったのです。それゆえに今度は異邦人に福音が宣べ伝えられることになりました。この転回点はルカにとって極めて重要なことでした。異邦人コルネリオがキリスト教に改宗する出来事が二つの章にわたって詳述されていることからもそれがわかります。
コルネリオの見た幻 「使徒言行録」10章1〜8節
事件はローマ帝国のパレスティナ地域を統括する役所が置かれていたカイザリヤで起こりました。カイザリヤにはユダヤ人よりも異邦人のほうがより多く居住していました。そこには地方領主が住んでおり軍隊も駐屯していました。イタリア隊と呼ばれる部隊(10章1節)がそのひとつです。これはイタリア出身の兵士のみからなる選抜部隊であり、約600名の兵卒とひとりの隊長から構成されていました。この百卒長がコルネリオでした。彼はいわゆる「神様を畏れる者」(ギリシア語で「フォブーメノス・トン・テオン」)であり、信心深く、家族全員で神様を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神様に祈っていました(10章2節)。
「神様を畏れる者」とは旧約聖書に啓示されている神様を信仰する異邦人のことです。彼らは十戒および旧約聖書の清めの規則の一部を遵守しようと努め、シナゴーグの礼拝に参加しました。しかし彼らは「ユダヤ人」とはみなされませんでした。もしもユダヤ人になりたい場合には、もう一歩先に進んで「改宗者」(ギリシア語で「プロセーリュトス」、2章10節)すなわち、割礼を受けてユダヤ教の律法すべてを守ることを要求される者にならなければならなかったのです。
天使(口語訳で「神の使」)がこのコルネリオに現れて神様が彼の祈りを聞き届けてくださったことを告げ、またペテロをヨッパから彼の自宅に招くように命じます。ヨッパはカイザリヤから約50キロメートル離れた場所にありました。
コルネリオはローマ帝国軍の隊長でした。しかしこのことはルカや「ルカによる福音書」の読者たちにとっては特に問題視されなかったようです。これは注目に値します。コルネリオはキリスト信仰者になった後もローマの職業軍人であり続けました。軍人として働くことは最初の頃のキリスト信仰者に禁止されてはいなかったのです。最初期のキリスト教会は苦難と共に歩む教会であったことをここで思い起こしましょう。教会は時の権力者たちとの関わりにおいて幾度となく種々の困難に直面しました。それでもなお、この世の権力者とその代行者に対して常に敬意をもって接し続けたのです。
ペテロの見た幻 「使徒言行録」10章9〜23節前半
コルネリオがペテロのもとに派遣した男たちがヨッパに向かっているとき、ペテロは昼に祈るために屋上に登りました。するとペテロは次の幻を見ました。
「彼は空腹をおぼえて、何か食べたいと思った。そして、人々が食事の用意をしている間に、夢心地になった。すると、天が開け、大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、地上に降りて来るのを見た。その中には、地上の四つ足や這うもの、また空の鳥など、各種の生きものがはいっていた。そして声が彼に聞えてきた、「ペテロよ。立って、それらをほふって食べなさい」。ペテロは言った、「主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないもの、汚れたものは、何一つ食べたことがありません」。すると、声が二度目にかかってきた、「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」。こんなことが三度もあってから、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。」
(「使徒言行録」10章10〜16節、口語訳)
天から下ろされてきた布のような入れ物には、ユダヤ教の教えでは「清くないもの」とされる生き物も含まれていました。ペテロはそれらをほふって食べるように命じられましたが、ユダヤ人としては当然ながら食べることを拒否しました。ところが、ペテロに対して神様は「神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない」とお答えになったのです。
この幻とそれに関わる神様の啓示にはどのような意味があるのでしょうか。ユダヤ人の食物規定を否定することがここでの主題になっているのでしょうか。それとも何か他の意味があるのでしょうか。イエス様もすべての食べ物がきよいと言っておられます(「マルコによる福音書」7章19節)。そもそもここで問題になっているのは単に食物のことだけなのでしょうか。少なくとも、異邦人も神様に受け入れていただけるということがここでの主題のひとつであることははっきりしています。この幻を見た後にペテロはコルネリオの派遣した部下たちと一緒にコルネリオのところへ出発することになったからです。
ペテロはコルネリオの派遣した異邦人たちを家に受け入れました。ユダヤ教の規定によれば、それだけでも律法を破って汚れることになります。そうわかっていたにもかかわらず彼はそうしたのです。
ペテロの「回心」 「使徒言行録」10章23節後半〜33節
ユダヤ教の律法によれば、ユダヤ人が異邦人のもとを訪れると汚れてしまいます。その後で清めの儀式を行わないうちは神様に近づくことも神様の御前に出ることもできなくなります。それでも幻を見たペテロは異邦人コルネリオの家を訪れると決心しました。こうしている今も彼は自分が神様の御前に立っていることがわかったからです。もしもユダヤ人だけではなく異邦人もまた神様の御前に立つことができるのならば、迎えに来た異邦人たちがペテロを汚すこともできないはずです。
この出来事で「回心」したのはコルネリオではなくペテロだったとさえいえそうです。まさにこの時、ペテロの人生にとても大きな変化が訪れたからです。ペテロはユダヤ人だけではなく異邦人も含めたすべての人間が神様に受け入れていただける存在であることがわかりました。ペテロが異邦人を受け入れるほかないようにするために神様がこの出来事を通して取り計らってくださったのです。コルネリオの家では次の「申命記」の引用箇所にある「神様は人をかたより見ない」という教えを人々は改めて実感することになります。
「あなたがたの神である主は、神の神、主の主、大いにして力ある恐るべき神にましまし、人をかたより見ず、また、まいないを取らず、みなし子とやもめのために正しいさばきを行い、また寄留の他国人を愛して、食物と着物を与えられるからである。それゆえ、あなたがたは寄留の他国人を愛しなさい。あなたがたもエジプトの国で寄留の他国人であった。」
(「申命記」10章17〜19節、口語訳)
最初期の教会の宣教師による説教 「使徒言行録」10章34〜43節
「そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。」
(「使徒言行録」10章34〜43節、口語訳)
ルカが記録し保存したコルネリオの家でのペテロのこの説教は最初期のキリスト教宣教師による説教の好例です。この説教はペテロが最初のペンテコステの時のユダヤ人に対する説教と対応するものです。その意味でコルネリオの家での出来事はいわば「異邦人のペンテコステ」と呼ぶこともできるでしょう。
上掲のペテロの説教には最初期のキリスト教の宣教の主要なポイントがよくまとまっています。
1)すべてが洗礼者ヨハネの活動からはじまったこと
2)洗礼者ヨハネの働きはイエス様の受洗で終わったことと、イエス様の洗礼は神様がイエス様をメシアとして正式に召された証であったこと
3)それに続いてイエス様の公の活動についての短い描写があること
4)この公の活動が終わったのはイエス様の死においてであること
5)イエス様が死者の中から復活なさったこと
6)これらすべては使徒たちや目撃者たちの証言と旧約聖書の予言の数々によって真実であると証明されたこと
キリスト教会にとっての歴史的な瞬間 「使徒言行録」10章44〜48節
神様の働きかけによって始まったペテロの説教を途中で止めさせたのもまた神様御自身でした。説教を聴いていた異邦人たちの上に御言葉を通して聖霊様が注がれたのです。この時ようやくペテロはヨッパでみた幻の意味をはっきりと理解しました。それは今や異邦人も神様の御民として受け入れていただけるようになったということです。聖霊様が与えられた異邦人たちはそれでも洗礼を受ける必要がありました。聖霊様と洗礼とはひとつに結びついているからです。洗礼には神様の御民の一員になるという意味もありました。
ここでルター派の立場から「霊の洗礼」と「水の洗礼」の関係について考えてみる必要があります。この問題への答えを探るときには次の二つの点に留意すべきです。
1)御霊が注がれることについて言及している新約聖書のすべての箇所でその対象となっているのは特定の個人ではなく人間のグループであること
2)後述するすべての箇所(A, B, C)はそれぞれキリスト教会の歴史的な瞬間に関係していること
A)「使徒言行録」2章1〜13節
最初のペンテコステ
聖霊様の時のはじまり
ユダヤ人に対する福音伝道によってユダヤ人たちがキリスト教信仰に入る
B)「使徒言行録」8章14〜17節
サマリヤの人々がキリスト教信仰に入る
サマリヤの民(すなわちユダヤ人と異邦人との混血によって生まれた民)がキリスト教信仰を通して神様に受け入れられる
C)「使徒言行録」10章44〜48節
コルネリオの家で異邦人がキリスト教信仰に入る
異邦人もキリスト教信仰を通して神様に受け入れられる
上述の三つのすべてのケースでは「霊の洗礼」と一緒に「水の洗礼」についても述べられています。御霊と水の洗礼とはひとつに結びついています。ルター派の信仰告白書が教えている通りに、洗礼を受ける時には子どもも大人も聖霊様という賜物をいただくのです。
とはいえ、このように素晴らしい洗礼の恵みのうちに人が留まり続けるかどうか、ということはまた別の問題になります。自分が受けた幼児洗礼を否定して自らの「信仰」を公に表明するために洗礼を受け直す人々ははたして全員それからずっと信仰の道に留まれるのでしょうか。また、このような「再洗礼」を支持する人々は再洗礼を受けた後で信仰を捨ててしまった人々に対していったいどのような態度をとるつもりなのでしょうか。
批判にさらされるペテロ 「使徒言行録」11章1〜18節
エルサレムに戻ったペテロは難しい立場におかれます。「あなたはどうして異邦人の家に行ったのか。さらに異邦人と一緒に食事までしたとはどういうつもりか」といった批判を周囲から受けたのです。
ユダヤ人キリスト信仰者が福音を異邦人に宣べ伝えたがらなかったのは他の諸民族から分離して生活しなければならないとユダヤ人が考えていたことにも起因しています。こうした理由からユダヤ教では清さと汚れにまつわる律法規定がとても重要視されたのです。ユダヤ人が他の諸民族と分離して生活するのは、異邦人にもユダヤ人にも同じ唯一の神様がおられることを明示するためでもありました。
もう一つの理由として考えられるのは、福音はまずイスラエルの民全員に伝えられるべきものであり、それが済んでからようやく異邦人にも福音を伝える順番がめぐってくるといった考え方が背景にあったためかもしれません。
ペテロは自分が異邦人たちと交流したことがまちがいではなかったことを示すために自分が見た幻を引き合いに出します。彼は批判者たちにヨッパとカイザリヤで起こった出来事を一通り説明してから最後にこう言います。
「このように、わたしたちが主イエス・キリストを信じた時に下さったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったとすれば、わたしのような者が、どうして神を妨げることができようか。」
(「使徒言行録」11章17節、口語訳)
ペテロのとった行動は彼自身の選択によるものではなく神様の選択によるものだったのです。
律法を重んじる立場をとっているエルサレムのキリスト信仰者たちはペテロの説明を聞いた後ではペテロのとった(律法に反する)行動を承認します。しかし彼らは自分自身の活動の仕方を変えようとはしませんでした。おそらくペテロの報告した出来事は例外扱いされたのでしょう。以前は異邦人だった者がキリスト信仰者になった場合、その人とユダヤ教との関係は曖昧なままに放置されました。しかしこの問題はまもなく使徒会議で明確な解決を迫られることになります(15章1〜2節)。そして使徒会議が結論に至るまでの議論においてはペテロがヨッパで見た幻が大きな役割を果たすことになります。
家族全員が洗礼を受ける
ペテロの弁明には注目すべき箇所がひとつあります。それは「この人は、あなたとあなたの全家族とが救われる言葉を語って下さるであろう」(11章14節)です。ペテロによれば、神様はコルネリオ一人ではなくその家族全員をも救うことを約束してくださったのです。幼児洗礼が聖書的であるという事実を否定しようとして「この家族の中に子どもはひとりもいなかった」などと主張するのは詭弁にすぎません。
初期のキリスト教文献には幼児洗礼を否定するような「大人の洗礼」の例は存在しません。後者のような「洗礼」は後に何百年も経ってから出てきたものです。キリスト教会では最初の頃からキリスト教信仰に入った家族の全員が洗礼を受けたこと、そしてキリスト信仰者の家族は自分の幼い子どもたちにも洗礼を受けさせたことが聖書に基づくすべての証言からはっきりとわかります。
アンテオケで多くの人がキリスト教信仰に入る 「使徒言行録」11章19〜26節
ここでルカはステパノの殉教という痛ましい事件に戻ります。この事件をきっかけとして多くのキリスト信仰者は迫害を逃れてパレスティナから各地へと移住していきました。彼らの中にはシリヤのアンテオケ(「アンティオキア」とも書きます)に行った者もいます。当時のアンテオケはローマ帝国においてローマとアレクサンドリアに次ぐ三番目の規模を誇る大都市でした。それはシリヤ属州の州都であり、そこには約50万の人が住んでおりユダヤ人居住区も存在しました。
アンテオケはギリシア文化、東洋の密教、ユダヤ教が互いに交差する場となりました。アンテオケでの福音伝道における当初の主要な宣教対象はヘレニスト・ユダヤ人でしたが、まもなく異邦人への伝道もそれと並行して行われるようになっていきます。ここでいう「異邦人」とはユダヤ人以外の諸国民のことではなくギリシア語を話す人々のことです。
当時のエルサレム教会は各地に点在したキリスト教会全体についての責任を担う立場にありました。それゆえ、アンテオケに生まれた教会を信仰的に支えるためにバルナバが派遣されることになりました。アンテオケでの福音伝道が広範囲に及ぶことがわかったバルナバはパウロを自分の助手とするために探し始めます。
こうしてアンテオケ教会は異邦人伝道を担う中心的な存在となりました。後にパウロはこの教会を起点として三回にわたる海外宣教の旅に出ることになります。
アンテオケの人々はイエス様を信じる者に対して新しい呼び名を与えました。ギリシア語で「クリスティアーノス」というこの名は当時ではおそらく蔑称として用いられたものです。しかし現在ではイエス様を救い主として信じる者を表す最も一般的な呼び名となっています。「クリスチャン」や「キリスト者」などと訳されるのが普通ですが、このガイドブックでは「キリスト信仰者」という訳語を採用しています。なお最初期のキリスト信仰者は自分たちについて「弟子たち」(「使徒言行録」15章10節)や「兄弟」(「コリントの信徒への第一の手紙」6章8節)や「聖徒たち」(「エフェソの信徒への手紙」1章1節)などという呼称を用いていました。
飢饉 「使徒言行録」11章27〜30節
この11章の終わりでルカはある飢饉に言及しています。この飢饉はクラウデオ帝がローマ皇帝であった時代に起こりました。ユダヤ人歴史家ヨセフスもこの飢饉について述べています。飢饉は西暦44年から48年の間に起こったものと考えられるため、次章で語られるヤコブの処刑という事件は11章の終わりの出来事よりも時間的には先に起きたことになります。ルカは複数の出来事を述べる際に地域的な関連性を優先する傾向があります。それゆえ、ここでのように時間的な順序が前後する書き方になるところがでてきたのでしょう。
ここには注目に値する点がもうひとつあります。最初期のキリスト信仰者たちの交わりは真心に満ちたものでした。一人の教会員が苦しんでいる場合には当然のようにして他の教会員が助けを差し伸べたのです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章)。アンテオケ教会は飢饉に見舞われたエルサレム教会の貧しい信徒たちに支援金を送りました。それを受け取ったのは「長老たち」でした(11章30節)。12章の初めの出来事(ヤコブの処刑)が当時まだエルサレムに残っていた使徒たちやディアコニアの職員たちをもエルサレムから追い払ってしまうことになったために長老たちが教会の責任を担っていたのです。今回もまたキリスト信仰者への迫害は神様の御国の地域的な拡大を逆に加速する結果になりました。使徒たちが各地に散らされた結果、福音がよりいっそう広域に宣べ伝えられていくことになったからです。