使徒言行録15章 調停は成功するか?

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

割礼は必要か? 「使徒言行録」15章1〜5節

パウロとバルナバが最初の海外宣教旅行からシリヤのアンテオケへと帰還した後に、アンテオケ教会にはエルサレムからもキリスト信仰者たちがやってきました。彼らはパウロとバルナバが教えている内容をその場で修正するためにわざわざエルサレムからやってきたのか、それともたまたま来訪時期が重なっただけなのか、ルカは何も語っていないのでわかりません。

ともあれ、その結果として救いの道に関する論争が始まりました。この争いは、かたやパウロとバルナバ(およびその支持者たち)、かたやユダヤからやってきたキリスト信仰者たちという二つの派の間で起きました。

論争における争点

ルカはこの論争におけるユダヤ人キリスト信仰者の主張を「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」(15章1節より)と要約しています。しかし、そもそも「割礼」とはモーセの律法において他の諸規定から遊離した単独の規定ではなく、ユダヤ人にとっては律法全体への服従を意味するものでした。「ガラテアの信徒への手紙」は割礼の意味について次のように説明しています。

「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」
(「ガラテアの信徒への手紙」5章1〜6節、口語訳)

ユダヤ人はユダヤ教に改宗した異邦人に「改宗者の洗礼」(英語ではproselyte baptism)を授けました。そして彼らは割礼を受けた後でようやく「改宗者」から「ユダヤ人」に格上げされることになります。

ここでの問題の本質は、はたしてキリスト教はユダヤ教の一派にすぎないのか、それとも独立した宗教なのかということでした。かりにパウロの反対者がこの論争で勝利を収めていたとしたら、キリスト教はユダヤ教に改宗するための途中の一段階にすぎないユダヤ教の一分派になりさがってしまったかもしれません。

それに対してパウロは、モーセの律法にこだわり「律法による義」を追求するユダヤ教と「信仰による義」を強調するキリスト教との間に明確な境界線を引くべきであるという立場を強調します。この論争でパウロに代表される見解が勝利したことでユダヤ教とキリスト教が互いに分離していく過程が加速したとも言えます。もしも二つの宗教の間の根本的な差異をことさら強調しない妥協的な態度をパウロがとっていたならば、この分離はきっとなかなか進まなかったことでしょう。

ところで、どうしてこの問題は40年代の終わり(おそらく48年頃)になってからようやく浮上してきたのでしょうか。この種の問題が以前にも存在していたことは私たちもすでに指摘した通りです(11章1〜18節)。今になってこの問題がより深刻なものになったのは、多くの異邦人がキリスト教を信じるようになったことや、パウロとバルナバが最初の海外宣教旅行の折に設立した諸教会では異邦人キリスト教徒が大多数を占めていたことなどが関係しています。

結局、この問題の争点は「救いの基礎はどこにあるのか」をめぐるものでした。人が救われるのは自らの行い(すなわち律法に従うこと)によってなのか、それとも神様の恵みのみによることなのかという問題です。この二つしか選択肢はなく、またこれらの間を妥協や調停で取り繕うことは不可能なのです。

アンテオケではひとつの点においては皆の見解が一致したようです。それは、論争の最終的な決着をつけるのはエルサレムで使徒たちの同席する場においてであるということです。アンテオケの教会は自分たちの代表者としてパウロとバルナバそのほか数人の者をエルサレムの使徒会議に参加させるために派遣することにしました(15章2節)。

今回のシリヤのアンテオケからエルサレムへの旅は陸路でした。これにより彼らは旅の途中でフェニキア、ガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ地方の諸教会を訪れる機会をもつことができました(15章3節)。

この論争がパウロにとってどれほど重要なものであったかは「ガラテアの信徒への手紙」にはっきりとあらわれています。この手紙でパウロは異邦人キリスト信仰者にも割礼を要求したユダヤ人キリスト信仰者を相手に反論を展開することを余儀なくされました。「ガラテアの信徒への手紙」はパウロの手紙の中で最も激しい調子で書かれています。

使徒会議 「使徒言行録」15章6〜21節

この論争はエルサレムで使徒たちと長老たちの臨席する会議で決着がつきました。15章13節でヤコブが「兄弟たちよ」と呼びかけて話を始めているように、この会議には参加を希望した他の教会員たちも参加していたと思われます。

ユダヤ教の教義をめぐる議論においては最初に若い者、最後に長老という順で意見を述べるやりかたがとられていました。そしてこの使徒会議で最後に意見を述べたのはペテロでした。ペテロは人間の理性に頼った説明などには目もくれずに、ただひたすら神様の御業のみに注目しました。

「激しい争論があった後、ペテロが立って言った、「兄弟たちよ、ご承知のとおり、異邦人がわたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようにと、神は初めのころに、諸君の中からわたしをお選びになったのである。そして、人の心をご存じである神は、聖霊をわれわれに賜わったと同様に彼らにも賜わって、彼らに対してあかしをなし、また、その信仰によって彼らの心をきよめ、われわれと彼らとの間に、なんの分けへだてもなさらなかった。しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。確かに、主イエスのめぐみによって、われわれは救われるのだと信じるが、彼らとても同様である」。」
(「使徒言行録」15章7〜11節、口語訳)

最初期の頃より神様は御自分の御心をはっきりとお示しになってきたのです。コルネリオの家の異邦人たちは割礼を受けることなく神様に受け入れていただけました。その認証として神様は彼らに聖霊様を賜ったのです(10章1節〜11章18節)。このように、すでに論争の結論は出ています。そして神様のこの決定を認めない者は神様への不信感を表していることになります。

「初めのころに」というパウロの表現にも注目しましょう。ともすると私たちは「使徒言行録」のさまざまな出来事が次から次へと早いスピードで起きていったように考えがちです。しかし実際には「使徒言行録」の描く出来事の数々はおよそ30年間(30〜60年代)にわたって起きたことでした。使徒会議の開催された時期は48年か49年であったと思われます。ということは、この会議は最初のペンテコステの時から15年以上も経ってから開かれたことになります。

ペテロの主張には重要な視点が含まれています。キリスト教はユダヤ教の分派などではなく、ユダヤ人も他の民族とまったく同じやりかた、すなわちイエス・キリストへの信仰によって救われるべきであるという考えかたです。もしもユダヤ人が律法によって救われないとしたら、異教から改宗した異邦人キリスト信仰者をユダヤ教の不毛な要求の数々によって圧迫する理由はまったくなくなります。もしも信仰がすべての人間にとって救いの基であるのならば、律法を救いの基として混入する理由もなくなるはずです。そのようなことをするのは無益であるばかりか害をもたらしさえします。これは後の事態の進展をみてもわかります。

ユダヤ主義者は「キリスト信仰者は皆、正統的なユダヤ人にもならなければならない」と考えていました。とりわけ割礼はモーセの律法をすべて遵守する意思の表明であるとみなされていました。ユダヤ主義者にとってキリスト教は非ユダヤ人(すなわち異邦人)が異教からユダヤ教にいたる途中の一段階と位置付けられ、旧約の義に多少のことを付け加えたものにすぎませんでした。

ユダヤ主義者とはまったく異なり、ペテロ(およびパウロとその支持者)は「キリスト信仰者はユダヤ人になる必要はない。ユダヤ人にならなくてもキリスト信仰者であることができる」という見解を持っていました。実のところ、ペテロはさらに踏み込んだ考えかたを提示しました。彼は「ユダヤ人のほうこそキリスト信仰者になるべきである」と要求したのです。「ユダヤ教は最終到達点などではなく、むしろキリスト教への通過地点なのだ」というのが彼の主張でした。

旧約聖書では「神様から選ばれた民」としての特別な地位をイスラエルの民は何度も約束されていました。このことを思い起こすとき、当時の人々にとってこの論争に結論を出すのが決して容易ではなかったことが伝わってくるのではないでしょうか。たしかにキリスト信仰者は「新しいイスラエル」でしたし、それは今もこれからも変わりません。とはいえ「古いイスラエル」もその意味をすっかり失ってしまったわけではないのです。

この使徒会議では宣教活動における二つの考えかたが互いに衝突したとも言えます。常にイスラエルという中心に戻っていくユダヤ人のやりかたと、イスラエルから地の果てへと広がっていくキリスト教的なやりかたです。ユダヤ主義者も非ユダヤ人(すなわち異邦人)がキリスト信仰者となることを望んでいたとは思います。それでも彼らは依然として狭い意味でのイスラエル(すなわちユダヤ民族)をその他の人々よりも上位に置こうとしたのです。ところがパウロは狭い意味でのイスラエルがすでに神様を捨てていると判断しました(13章46〜48節)。それゆえ今こそ異邦人伝道に集中すべきであると彼は考えたのです。

ペテロの説教は終わりました。この説教は「使徒言行録」におけるペテロの最後の説教です。この時パウロとバルナバは「割礼を受けて律法を遵守する」という条件なしに神様が異邦人たちをキリスト信仰者として認めてくださったことを自分の体験を交えながら力強く証しました。

最終結論

最終的に結論を出したのはイエス様の実弟ヤコブでした。同名の使徒ヤコブは別の人物であり、使徒会議の約5年前に殉教しています(12章1〜2節)。ヤコブは結論を出すにあたって旧約聖書に基づく理由も提示しました。次の箇所で引用されているのは「アモス書」9章11〜12節です。

『その後、わたしは帰ってきて、
倒れたダビデの幕屋を建てかえ、
くずれた箇所を修理し、
それを立て直そう。
残っている人々も、
わたしの名を唱えているすべての異邦人も、
主を尋ね求めるようになるためである。
世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった』。
(「使徒言行録」15章16〜18節、口語訳)

律法はもはや人間に救いをもたらす道ではなくなったため、律法に従うことも従わないこともできる外面的なものになりました。とはいえ、このことはモーセの十戒が無効になったという意味ではありません。無効になったのは例えばユダヤ教における祭儀に関連する儀礼規定などです。

教会には異邦人出身のキリスト信仰者もユダヤ人出身のキリスト信仰者もいました。ユダヤ人キリスト信仰者を不必要に刺激しないためにも異邦人キリスト信仰者のもっている「律法からの自由」に対して一定の制限を設けることが適切であると使徒会議は判断しました。ヤコブは異邦人キリスト信仰者が守るべき4つの規則を挙げています。

「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから」。」
(「使徒言行録」15章19〜21節、口語訳)

1)キリスト信仰者は偶像礼拝のために汚れた物を避けなければならない。
2)キリスト信仰者は不品行を避けなければならない。ここで「不品行」とは近親間の婚姻関係を意味しています(「レビ記」18章16〜18節)。
3)キリスト信仰者は絞め殺した動物の肉を避けなければならない。
4)キリスト信仰者は血を避けなければならない。

旧約聖書(「レビ記」17〜18章)ではイスラエルで生活する異邦人も同じ4つの規則に従うように要求されました。上記の「使徒言行録」15章21節からは、当時のユダヤ教が広い地域に浸透しつつあったために律法の諸規則にも十分な考慮を払わなければならなかったものと推察することができます。使徒会議はここで次の二つの点に配慮しなければなりませんでした。まず、律法を無視してユダヤ人を無闇に刺激することは彼らがキリスト信仰者になるのを一層難しくしてしまうので避けなければなりませんでした。また、教会にいるユダヤ人キリスト信仰者たちにも十分な配慮を払わなければならなかったのです。

「使徒言行録」が記しているパウロの伝道活動にはこれらの規則の影響はみられません。パウロも手紙でこれらの規則に一度も言及していません。それにもかかわらず、パウロが伝道活動においてこれらの規則を遵守しようとしたことに私たちは気が付かされます。「コリントの信徒への第一の手紙」10章14〜33節でパウロはコリント教会のキリスト信仰者に対して、飲食に関して彼らと異なる考え方をする他のキリスト信仰者にも配慮するように奨励しています。使徒会議の決定事項がパウロの伝道活動にはわずかしか反映されなかったように見えるのは単純な理由によります。パウロの活動した諸教会は異邦人キリスト信仰者の教会であり、ユダヤ人キリスト信仰者に配慮する必要性はパレスティナの諸教会と比べてはるかに小さかったということです。

使徒会議の与えた指示は今もなお有効です。キリスト信仰者の有する正当な「律法からの自由」を行使することでユダヤ人だけではなく他の人々をも無駄に刺激して苛立たせるような真似は避けるべきなのです。例えばユダヤ人を自宅に招く場合には血が取り除かれていない食べ物をわざわざ提供するべきではありません。他の人々への十分な配慮こそがキリスト信仰者の自由の正しい用い方なのです。

ちなみに普通の屠殺場では動物をまず殺してから血を抜き去ります。これでは使徒会議の制定した諸規則の条件が満たされません。しかしユダヤ人の屠殺の仕方では動物の頸動脈を切断します。それにより動物は大量の血を失うことで死に至り、その肉は可能な限り血を含まないものになります。

私たち現代人の生活ではこれら4つの規則を遵守することは稀であり例外的です。それとは異なり、西暦40年代の終わり頃にはこれらの規則はキリスト教会が二つに分裂する事態を避けるために必要不可欠なものだったのです。

異邦人伝道を続けることに 「使徒言行録」15章22〜35節

ヤコブの提案は使徒会議の決定として承認されてアンテオケに通知されました。パウロやバルナバそしてバルサバというユダおよびシラスが手紙の内容を口頭で補完するためにアンテオケに派遣されることになりました(27節)。

シラスはまもなくパウロの親しい同僚になります(15章40節)。「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節と「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章1節)に出てくる「シルワノ」はこのシラスと同じ人物です。

それに対してバルサバというユダについてはほとんど知られていません。バルサバは直訳すれば「安息日の息子」であり「安息日に生まれた」という意味にもなります。

エルサレム教会はアンテオケ教会を混乱に陥れたユダヤ人キリスト信仰者との関わりをきっぱりと否定しました(24節)。使徒会議でなされた決定は、異教からキリスト教に改宗した異邦人には割礼を受けることや律法に従うことを要求しないという意味合いを含んでいました。使徒会議の決議事項はパウロが主張する「律法に対して自由である福音」の明白な勝利でした。

エルサレム教会に派遣された者たちがしばらく経ってエルサレムへと帰還しました(15章33節)。現行の新約聖書のギリシア原語版には15章34節が欠けています。内容の信憑性が最初期の写本群より劣る後の時代のギリシア語写本の一部にはこの節が付加されており、口語訳ではその部分がカッコ内に入れられて「しかし、シラスだけは、引きつづきとどまることにした。(そしてユダだけが(エルサレムに)出発した)」と訳されています。この付加された一節は、どうしてシラスが40節の時点でアンテオケにいたのかを説明するためであったと思われます。

使徒会議とパウロの第二次海外宣教旅行との間にはあまり時間的な間隔がなかったかのような印象を「使徒言行録」の読者は受けるかもしれません。しかし実際には両者の間にはかなり長い時間が経過していたものと思われます。「幾日かの後」(15章36節)はルカが次の出来事の叙述に移る際に使う常套句であり、いつも同じ時間的な経過を表しているとはかぎりません。このように考えると、シラスにはエルサレムとアンテオケの間を往復する時間的な余裕が十分にあった可能性もあり、前述の34節のような状況説明を補足する必要はなくなります。

ふたたび同じ町々へ 「使徒言行録」15章36〜41節

15章の終わりでルカはパウロの第二次宣教旅行がさほど好ましくない状況下で始まったことを記しています。

バルナバは今回の伝道旅行にも従兄弟の「マルコというヨハネ」を同行させたいと提案しました(彼がバルナバの従兄弟であったことは「コロサイの信徒への手紙」4章10節からわかります)。ところがパウロはヨハネを連れていくことを拒みました。というのは、このヨハネは第一次宣教旅行の時に途中でエルサレムに引き返してしまったからです(13章13節)。

パウロとバルナバはこの件をめぐって意見が対立したために、今回の伝道旅行では互いに別行動を取ることになりました。パウロはシラスを同僚に選び、バルナバはマルコというヨハネと一緒にバルナバの故郷の地方クプロ(すなわちキプロス島)に出発したのです。

彼らが別行動をとることになったのはとても残念なことでしたが、それにはよい点もありました。このおかげで、一つではなく二つのグループが別々のところで伝道できるようになったからです。

これはバルナバという人物について「使徒言行録」が記述している最後の箇所です。しかしパウロの手紙からは、後にバルナバおよびマルコというヨハネがパウロの同僚として一緒に伝道したことがわかります(「コロサイの信徒への手紙」4章19節、「フィレモンへの手紙」24節、「テモテへの第二の手紙」4章11節)。どうやらこの決別は一時的なものだったようです。

パウロがシラスと共に訪れたのは、第一次宣教旅行の時にパウロがバルナバと一緒に訪れたことのある町々でした。今回も彼らは「西から東に」ではなく「東から西へ」と伝道旅行を続けて行きました。

当初パウロは以前に訪れた町々だけを再訪する予定でいましたが、「使徒言行録」の後の記述からもわかるように、神様にはパウロとは異なる御計画があり、この第二次伝道旅行でパウロはヨーロッパを訪れることになります。これについては次章でとりあげることにします。