使徒言行録8章 この聖句から説き起して
底が抜ける 「使徒言行録」8章1〜3節
民衆の中にはキリスト教信仰者が増えていくことを快く思わない人々もいました。この新しい信仰はユダヤ教にとっては除去すべき脅威だったからです。とはいえ、民衆のうちの全員がステパノを石打ちで処刑することに賛成していたわけではありません。何人かの「信仰深い人たち」が彼を埋葬し「彼のために胸を打って、非常に悲しんだ」のです(2節)。このことからはステパノが律法に従って裁かれたのではないことがわかります。ユダヤ教の律法によれば、裁判で死刑の裁きを受けた者は墓に埋葬してはならないことになっていました。有志が死者のために嘆き悲しむ集いを持ったことは不法な処刑に対する反対表明でもありました。律法に反する処刑が起きてしまったということはエルサレムの住民のうちの全員が律法を守ることに熱心だったのではないことを示唆しています。
サウロはキリストたちを最も激しく迫害した人々のうちの一人でした。彼自身が手紙でそれを認めています(例えば「ガラテアの信徒への手紙」1章13節)。迫害者であった時のサウロの考えは次のようなものでした。キリスト教信仰の運動は行き過ぎた。このような異端の輩は野放しにするべきではない。実力行使に訴えてでも息の根を止めなければならない。
激しい憤怒に駆られた民衆はもはやガマリエルの思慮深い助言を心に留めようとはしませんでした(「使徒言行録」5章35〜39節)。
エルサレム教会が平和に活動を続けることができたのはどの程度の期間だったのでしょうか。この最初の迫害はいつ頃はじまったのでしょうか。パウロの手紙(とりわけ「ガラテアの信徒への手紙」1〜2章)から推論すると、タルソ人サウロがユダヤ教からキリスト教に改宗したのはおそらく西暦32年頃だったと思われます。そうすると、エルサレムのキリスト教会が平和に成長できたのは約2年間だったことになります。
実は勝利だった敗北 「使徒言行録」8章4〜8節
ユダヤ人はキリスト信仰者を迫害することで福音の宣教を阻止しようとしましたが、正反対の結果となりました。彼らは「異端の教え」が拡大していくことを恐れていましたが、まさにそれが実現してしまいました(4章17節)。迫害で各地に散らされたキリスト信仰者たちが復活されたイエス様について行く先々で宣べ伝えはじめたのです。
教会でディアコニアの職を担当していたピリポ(6章5節)は福音をサマリヤ人に宣べ伝えました。「サマリヤの町」(8章5節)とは古代のサマリヤ(北イスラエル王国の首都)のあった所に建設されたセバステか、あるいは「使徒言行録」の時代の首都シケム、現在のナブルス(これは古代サマリヤに隣接しています)を指しているともとれます。セバステはローマ人が移住した都市であり「サマリヤの町」はセバステよりもシケムだった可能性のほうが高いです。
復活なさったイエス様は天に挙げられる前に弟子たちに次のような使命をお与えになりました。それが今、実現しはじめます。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。」
(「使徒言行録」1章8節、口語訳)
福音はエルサレムだけではなくユダヤでもサマリヤでも、さらに地の果てまでも宣べ伝えられていかなければならない重要なメッセージなのです。
ピリポは世界伝道の歴史に新たな一ページを開きました。福音は今はじめてユダヤ人以外にも宣べ伝えられることになったからです。とはいえサマリヤ人は全くの異邦人ではなくユダヤ人と非ユダヤ人の混血民族でした。また彼らの宗教にはユダヤ教だけではなく異教の要素も含まれていました。サマリヤの混血民族が形成された経緯については旧約聖書の「列王記下」17章24〜41節に詳述されています。
当時のサマリヤは様々な迷信や魔術のあることで有名な地方でした。ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していました(「ヨハネによる福音書」4章9節)。しかし神様はサマリヤ人たちもキリスト教会に迎え入れることをお決めになっていたのです。
神様によってつき動かされる
迫害が起こってからようやく最初のキリスト信仰者たちがエルサレムの外の世界に伝道の旅に出るようになったのはなぜでしょうか。イエス様による次のような世界宣教命令に弟子たちは従いたくなかったのでしょうか。
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」
(「マタイによる福音書」28章18〜20節、口語訳)
使徒や他のキリスト信仰者が福音を「地の果てまで」宣べ伝える気持ちをもたなかった最大の理由は、おそらくユダヤ人の持っていた宣教についての考え方に関係していたと思われます。ユダヤ人は世界の救いについて自分たちがその中心になると理解していました。この世の終わりが来ると、あらゆる民が神様の御意思を聴くためにシオンの山に押し寄せてくるという予言が旧約聖書にあったからです。
「末の日になって、
主の家の山はもろもろの山のかしらとして
堅く立てられ、
もろもろの峰よりも高くあげられ、
もろもろの民はこれに流れくる。
多くの国民は来て言う、
「さあ、われわれは主の山に登り、
ヤコブの神の家に行こう。
彼はその道をわれわれに教え、
われわれはその道に歩もう」と。
律法はシオンから出、
主の言葉はエルサレムから出るからである。
彼は多くの民の間をさばき、
遠い所まで強い国々のために仲裁される。
そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとし、
そのやりを打ちかえて、かまとし、
国は国にむかってつるぎをあげず、
再び戦いのことを学ばない。
彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、
そのいちじくの木の下にいる。
彼らを恐れさせる者はない。
これは万軍の主がその口で語られたことである。
すべての民はおのおのその神の名によって歩む。
しかしわれわれは
われわれの神、主の名によって、とこしえに歩む。」
(「ミカ書」4章1〜5節、口語訳)
ユダヤ人の役割は「ユダヤ人であること」であり、それによって神様について証することになると彼らは考えたのです。
ところが、キリスト教会の世界宣教命令は中心から周辺に向かって広がっていくように促すものでした。福音は人間がいるところでならどこであれ宣教するべきものです。人々が福音のほうへやってくるのをただ待ち続けるのではなく、逆に福音を人々のほうへと運んでいかなければならないのです。
「使徒言行録」では同じことが幾度も繰り返し起きています。福音が新たな地域に移って伝えられる時に神様はその新局面を御自身の権威に基づく「しるし」によって正式に承認してくださるのです。ペンテコステの時には様々な国語で福音が語り出されるという「しるし」が与えられました。またユダヤ人以外の人々がキリスト信仰者となったときには不思議な出来事が起きました。これと同じようなことがはじめて異邦人たちがキリスト教に改宗した時にも起こることをこれから私たちはみることになります(10章44〜48節)。
魔術師シモン 「使徒言行録」8章9〜25節
ピリポがサマリヤに来る前までそこの宗教的な指導者となっていたのは魔術師シモンという人物でした。ところがピリポが伝えた福音はシモンから追従者を奪い取り、シモン自身も洗礼を受けることになります。しかしシモンは福音を信じていたのでしょうか。
彼は福音を信じていなかったであろうと推定できる十分な理由があります。当時の典型的な奇術師であったシモンはピリポのことをたんなる新しい力ある魔術師だと見誤り、目の当たりにしたこの新しい力を自分でも操れるようになりたいと欲したのです。後になると彼はペテロにつきまとうようになります。ペテロが自分よりも大きな奇跡を行なったからです。
シモンは私たちにとって反面教師的な存在です。人は何かを信じることによってではなくキリストの贖いの御業によって救われます。ところがシモンはイエス様のみを信頼しようとはしませんでした(2章21節)。彼はあたかも自分が信仰者であるかのようなふりを装うことはできましたが、ペテロが言うように(8章23節)神様はシモンの心の奥底を看破っておられました。
この例からもわかるように、人が洗礼を受けるための前提条件としてその人が「信仰」をもっていることを要求するのはある意味では非常に危険なことです。「キリストの贖いの御業」や「洗礼を通して神様からいただく恵み」といった明確な信仰の対象を持たないような曖昧な信仰によっても救われると思い込んだ人がどのような結末を迎えることになるか、考えるだけでも恐ろしくなります。
シモンはペテロとヨハネに嫉妬しました。彼らにはシモンにはない特別な力が宿っていたからです。シモンはその力を金で手に入れたいと望みました。彼の態度は金の力で信仰に関わる霊的な職を得ようとするのと本質的に同じものです。しかし、神様に命令したりその力を金で買い取ろうとしたりするのはそもそも不可能なことです。
シモンに対してペテロは厳しい裁きを下しますが、その一方では悔い改める機会も与えています(8章22節)。それを受け入れてシモンは一見すると悔い改めたような態度を取りました。しかしキリスト教会の初期の伝承、例えば殉教者ユスティノスによれば、後に魔術師シモンは最初期のキリスト教会に対する最も厳しい敵対者の一人となったようです。
ユダヤ属州に住むユダヤ人たちがローマ帝国の支配に対して反乱を起こして敗れたユダヤ戦争(西暦66〜72年)の終結後、サマリヤの住民たちはふたたび旧来の迷信に囚われるようになったことが知られています。シモンは殉教者ユスティノスによると「至高の神」とさえみなされて、サマリヤではキリスト教が斥けられてしまったとされます。
洗礼を通して聖霊様を授かるのか?
「エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。」
(「使徒言行録」8章14〜17節、口語訳)
このサマリヤの出来事は大人の洗礼のみを認め幼児洗礼を否定する人々にとって自分に都合よく解釈できる箇所であったようです。「ルター派やローマ・カトリックやロシア正教は洗礼において聖霊様を受けると教えているが実際はそうではない。最初に信仰がなければならない。その後で洗礼を受けることになるのだ。水による洗礼は何の助けにもならない。聖霊様によってすっかり満たされることが必要なのだ」などと幼児洗礼の反対者たちは主張します。
信仰と洗礼の相互関係をめぐる問題についてはすでに以前に触れました。今の箇所を「幼児ではなく信仰者が受ける洗礼」を正当化するために利用しようとすると同じ問題が生じます。しかし、次に引用する箇所においてペテロは洗礼を受けるすべての人に聖霊様が確実に与えられると言っています。しかもこの約束は今日でも依然として有効なものです。
「すると、ペテロが答えた、「悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう。この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」。」
(「使徒言行録」2章38〜39節、口語訳)
ここで疑問が生じます。それならばどうしてサマリヤではペテロの約束した通りに事態が進行しなかったのでしょうか。その理由はこの出来事がキリスト教会の歴史において非常に重要な転換点にあたる時期に起きたことと関係があります。神様はこの出来事がこの時期特有の例外的なケースであったことを明示しておられるのです。
後にコルネリオの家ではサマリヤのケースとは正反対の出来事が起こることになります。信仰者はまず聖霊様をいただき、その後で洗礼を受けたのです(10章44〜48節)。
これらは両方とも例外的なケースです。それゆえ、これら特殊なケースに基づいて一般的な規則を定めるべきではありません。これらの例外を通して神様は使徒たちに、サマリヤ人にも異邦人にも洗礼を授けることは正しいという確信を与えようとなさったのです。
現代では?
魔術師シモンの事件は現代の私たちに二つのことを教えています。第一に、キリスト教信仰と偶像礼拝とをはっきり区別する必要があるということです。イエス様も次のように教えておられます。
「イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)
第二に、もしも誰かが聖書のあちこちの箇所から引いてきた一節によって何らかの教えを正当化しようとする場合には、そのような試みに対しては慎重な姿勢をとるべきであるということです。聖書の一文一文はその置かれている文脈から切り離すべきものではないのです。
最初のアフリカ人キリスト信仰者 「使徒言行録」8章26〜40節
ルカはピリポの宣教活動に関してもうひとつの出来事を記しています。神様の御霊に導かれてピリポは、現在スーダンの国がある地からはるばるエルサレムを訪れたある人物に、イエス様が旧約聖書の予言したメシアであることを教える機会を与えられました。この人物はエチオピヤ人の女王カンダケの高官でした。「イザヤ書」のギリシア語訳を購入するほどの財力があったことから彼はかなり裕福だったことがわかります。当時の慣習にしたがって彼は声を出して「イザヤ書」を読んでいました。ピリポが彼の馬車に近づいたときに彼はちょうど「イザヤ書」53章7〜8節を読んでいるところでした(8章32〜33節)。カンダケの高官はいわゆる「神様を畏れる者」でした。すなわち、彼はユダヤ人の神様を信仰しており、また律法の定める特に重要な諸規則に従うことを望んでいました。それでも彼は割礼を受けてユダヤ人になること、すなわちユダヤ教に改宗する道は選ばなかったのです。
古代ギリシアの作家プルタルコスによれば、エチオピアの女王カンダケの財務省の役人たちは宦官(すなわち去勢された官吏)であったようです。それゆえ、この高官が割礼を受けてユダヤ人になることはそもそも不可能だったことになります(「申命記」23章1〜2節)。
預言者イザヤは去勢された者に対してもこの世の終わりには神様の御国にあずかることができることを確言しています。
「主に連なっている異邦人は言ってはならない、
「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。
宦官もまた言ってはならない、
「見よ、わたしは枯れ木だ」と。
主はこう言われる、
「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、
わが契約を堅く守る宦官には、
わが家のうちで、わが垣のうちで、
むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、
絶えることのない、とこしえの名を与える。
また主に連なり、主に仕え、
主の名を愛し、そのしもべとなり、
すべて安息日を守って、これを汚さず、
わが契約を堅く守る異邦人は――
わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、
わが祈の家のうちで楽しませる、
彼らの燔祭と犠牲とは、
わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の
祈の家ととなえられるからである」。
イスラエルの追いやられた者を集められる
主なる神はこう言われる、
「わたしはさらに人を集めて、
すでに集められた者に加えよう」と。」
(「イザヤ書」56章3〜8節)。
この高官がユダヤ教について知識を得るようになったのは母国エチオピアにいたときでした。そこには当時多くのユダヤ人が居住する植民地域が存在したのです。
ピリポはエチオピアの高官に聖書を教えました。「イザヤ書」53章に出てくる苦難の僕とはイエス様のことであり、イエス様への信仰と洗礼を受けることによって、ユダヤ教からは除外されている外国人(この高官もその一人です)も救われるというキリスト教信仰の基本を彼は教えたのです。エルサレムとガザを結ぶ約100キロメートルの道の傍には川あるいは池があり、そこでピリポは最初のアフリカ人に洗礼を授けました。
「道を進んで行くうちに、水のある所にきたので、宦官が言った、「ここに水があります。わたしがバプテスマを受けるのに、なんのさしつかえがありますか」。」
(「使徒言行録」8章36節、口語訳)
洗礼を希望する高官のこの姿勢からは最初の頃のキリスト信仰者たちにとって洗礼がいかに重要なものであったのかが伝わってきます。また、ピリポのごく短い聖書の説明に洗礼についての教えが含まれていたこともわかります。ところで、現代のキリスト教の教師たちははたして洗礼の大切さについて十分に教えているのでしょうか。
洗礼を授けた後、御霊はピリポをその場から取り去り、まずアゾトにそれからカイザリヤに連れて行きました。「使徒言行録」のずっと後の箇所で私たちはピリポとカイザリヤで再会することになります(21章8〜9節)。
エジプトの高官は自分が救われたことを喜びつつ母国へと帰って行きました。教会の歴史から知られるように、現在ではスーダンのある地域にはすでに最初の頃からキリスト信仰者たちの集まり(コプト教会)が存在したのです。
この高官が洗礼を受ける前にもアフリカにはすでに他のキリスト信仰者がいた可能性はもちろんあります。2章9〜11節からわかるように、ペンテコステの時にペテロのはじめての説教を聴いていた人々の中にはアフリカやヨーロッパからの来訪者も混じっていたからです。ともあれ、少なくともこの高官からはじまって、アフリカでもイエス様に従う信仰者たちがでてきました。「使徒言行録」においてこの出来事は人間が個人としてキリスト教に改宗する様子を描いている最初のケースです。
聖書の出来事において人々に働きかけた聖霊様は今もなお御言葉すなわち聖書を通して働きかけておられます。聖書からはキリストが見つかります。現代ではユダヤ人はシナゴーグの礼拝で「イザヤ書」53章を朗読しなくなりました。この箇所そのものが削除され、その代わりに「ここにはいくつかの箇所が欠けている」と但し書きされている場合さえあります。それはユダヤ人から見ても「イザヤ書」53章の予言は明らかにイエス様を指していることがわかるからではないでしょうか。
括弧の中の節
〔これに対して、ピリポは、「あなたがまごころから信じるなら、受けてさしつかえはありません」と言った。すると、彼は「わたしは、イエス・キリストを神の子と信じます」と答えた。〕
(「使徒言行録」8章37節、口語訳)
かつて聖書に章や節の番号を割り振った時の基準になった聖書のテキストは現在からみると最善のものではありません。いくつかの箇所は元々の聖書に後から加えられたものであることが判明したため、現行の聖書からは取り除かれました。しかし、従来の章節番号を変更することで生じる混乱を避けるために、それら削除された節は欠番扱いになっています。そのような箇所のひとつが上に挙げた8章37節であり、口語訳では括弧に入っています。この場合の付加は、よく考えもせずにあまりにも早急に洗礼を授けることへの反対表明として書き加えられたとも考えられますし、あるいはまた、この箇所を複写した誰かがこの出来事の記述に自分の属する教会で使われる洗礼式の式文の一部を付け加えたと考えることもできます。この節にはそれ自体何もまちがったことは書いてありません。しかしこの節は「使徒言行録」の原本(に相当するテキスト)には含まれていなかったことが判明したため、現行の聖書では他の普通の箇所とは区別して括弧に入れられているのです。
もっと見る、
説教「神の意思 ― 他人事か、自分事か?」吉村博明 牧師 、使徒言行録8章26ー40節