使徒言行録16章 牢獄での二重奏

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

教会が強められる  「使徒言行録」16章1〜5節

パウロは最初にデルベを訪れたとルカは報告しています。このデルベは第一次宣教旅行では最後のそして最も東方の訪問地でした。今回の第二次宣教旅行でパウロはいわゆる「キリキヤの門」(標高千メートル以上にある険しい小道)を通って東の方から旅をしました。

紀元前330年代にアレクサンダー大王はマケドニヤ軍を率いてこの同じ「キリキヤの門」を西から東へと通って世界征服の旅に出ました。今回はそれとは逆方向に、パウロはこの門を東から西へと通ってまったく異なる世界征服の旅に出たのだとも言えます。

ルステラではパウロの一行にテモテが合流しました。テモテは後にパウロにとって最も重要な同僚の一人になります。テモテの母親はユダヤ人、父親はギリシア人でした。ユダヤ人の律法解釈によればこのような結婚は律法に違反しており、テモテは非嫡出子とみなされました。テモテは生まれて八日目に割礼を受けるべきでしたが、おそらくギリシア人である父親が反対したために割礼を受けないままになっていたのでしょう。

パウロのとった行動に論理的な矛盾はあるか?

「パウロはこのテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、まず彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることは、みんな知っていたからである。」
(「使徒言行録」16章3節、口語訳)

こうしてパウロはテモテに割礼を受けさせました。このことは研究者の間にさまざまな憶測を生みました。多くの研究者はルカの記述に誤りがあると推定しました。「パウロは誰にも割礼を受けさせるはずがない」と彼らは主張します。

たしかにパウロのもう一人の同僚であるテトスは割礼を受けていません(「ガラテアの信徒への手紙」2章3節)。しかし、テトスがギリシア人であったのに対し、テモテは母親を通してユダヤ人だったという大きなちがいが両者の間にはありました。

とりわけ「ガラテアの信徒への手紙」(例えば5章2節と11節)においてパウロは非常に激しく割礼に反対しているのはたしかです。その時のパウロには「割礼が救いの道である」と考えるガラテアの信徒たちの誤解を解く必要があったからです。しかし今回は状況がちがいました。割礼の意味に関する誤解を解く必要はなく、むしろ福音伝道が割礼の問題のせいで困難になるのを避ける必要があったのです。もしもパウロの同行者の中に割礼を受けていないユダヤ人がいたならば、ユダヤ人たちはまずまちがいなくそのことでパウロの一行に憤ったことでしょう。

「それから彼らは通る町々で、エルサレムの使徒たちや長老たちの取り決めた事項を守るようにと、人々にそれを渡した。」
(「使徒言行録」16章4節、口語訳)

上節でルカが15章の使徒会議で決定された規則に言及していることに注目しましょう。使徒会議がこの規則を採用した理由も、テモテの割礼に関するパウロの判断と同じ目的をもっていました。それはユダヤ人と異邦人との間に平和をもたらすという目的でした。

割礼はもちろんそれ自体としては人の救いを妨げるものではありません。パウロは異邦人が割礼を受けることについて常に反対していたのではないのはそのためです。ところが、割礼を受けることを人が救われるための条件とみなし始めるやいなや、割礼は救いを妨げるものに変わってしまうのです。

救いを妨げるようになるものは他にもたくさんあります。例えば金銭、権力、名誉などです。とはいえ、これらのものでさえ常に救いの妨げになるとはかぎりません。今回のテモテの件ではパウロはユダヤ人たちに対してユダヤ人であろうとしたのです。パウロは手紙で次のように書いています。

「わたしは、すべての人に対して自由であるが、できるだけ多くの人を得るために、自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。律法の下にある人を得るためである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」9章19〜20節、口語訳)

ヨーロッパに福音を 「使徒言行録」16章6〜10節

聖霊様はパウロとシラスとテモテをヨーロッパへと導かれました。

ピシデヤのアンテオケ(13章14節)からは小アジアの首都エフェソへと通じる軍隊用に整備された道路がありました。エフェソは当時のローマ帝国の五大都市のひとつでした。しかしパウロとその一行はその道を通りませんでした。聖霊様は彼らを北の方へと導いて行かれたのです。

「それから彼らは、アジヤで御言を語ることを聖霊に禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤ地方をとおって行った。」
(「使徒言行録」16章6節、口語訳)

この節の「ガラテヤ」が「ガラテヤ属州」のことなのか、それとも「ガラテヤ地方」のことかについては聖書の研究者の間で意見が分かれています。「フルギヤ・ガラテヤ地方」という表現からわかるように、口語訳は「ガラテヤ属州」説をとっています。しかし、ガラテヤが「ガラテヤ地方」のみを指していると理解する場合には、パウロとその一行はさらに北の、現在のトルコの首都アンカラの方角へと向かったことになります。この些細にみえる問題は、パウロがいったい誰に対して「ガラテアの信徒への手紙」を書いたのかを考察する際に重要になります。

どれほどの長い間パウロがガラテヤに滞在したのかははっきり言えません。彼は北への旅を続けて黒海沿岸のビテニヤまで行こうとしましたが(16章7節)、聖霊様(口語訳で「イエスの御霊」)はパウロとその一行の旅を北西のトロアスの方角へとお変えになったのです。

どのようにして聖霊様がパウロを導かれたのか、私たちにはわかりません。旅のルートを変えるきっかけになったのは例えば「誰かが病気になった」といったことだったのかもしれません。実は「ガラテアの信徒への手紙」にはそれを仄めかす記述があります。パウロはガラテアの信徒たちに向かって次のように書いているからです。

「あなたがたも知っているとおり、最初わたしがあなたがたに福音を伝えたのは、わたしの肉体が弱っていたためであった。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章13節、口語訳)

おそらくパウロがトロアスに教会を設立できたのは今回の伝道旅行の時にではなく次の第三次伝道旅行の時になってからであったと思われます(「使徒言行録」20章5〜7節、「コリントの信徒への第二の手紙」2章12節)。とはいえ、この箇所でルカがトロアスでの(教会設立も含めた)出来事の記述をあえて省略している可能性ももちろんあります。それによってパウロのヨーロッパ到着後の働きについての叙述にできるかぎり速やかに移行するためです。

「ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。」
(「使徒言行録」16章9節、口語訳)

上掲の節で、どうしてパウロは夢に出て来た人物がマケドニヤ人であるとわかったのでしょうか。その人物の衣装(マケドニヤ人は幅の広い帽子を使うという特徴があったそうです)からわかったという説もあれば、マケドニヤ特有のギリシア語方言からわかったという説もあります。

ともあれ、こうしてパウロは神様が彼をヨーロッパで福音を宣べ伝えるために召されたことに確信を得たのです。

「使徒言行録」における「わたしたち」という話者

「パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。」
(「使徒言行録」16章10節、口語訳)

「使徒言行録」ではこの節以降「わたしたち」という話者がしばしば登場します。この「わたしたち」によって語られる箇所は4つの部分に分けられます(16章10〜17節、20章5〜15節、21章1〜18節、27章1節〜28章31節)。ただし20章5〜15節と21章1〜18節は、20章5節〜21章18節というひとつのまとまりと見ることもできます。

これらの箇所は16章10〜17節ではトロアスからピリピへ(第二次伝道旅行)、20章5節〜21章18節ではピリピからミレトを経由してエルサレムへ(第三次伝道旅行)、27章1節〜28章31節ではエルサレムからローマへというように全体でひとつのつながりをなしています。

これらの伝道旅行を記録した「わたしたち」とはいったい誰のことを指しているのでしょうか。この問題には次のような三つの答えかたがあります。

1)「わたしたち」というのはたんなる文章のスタイルにすぎず、ルカは読者を「使徒言行録」の出来事の中にもっと効果的に引き込むためにこのような主語を採用したという説。しかしもしもそうだとすれば、どうしてルカは上記の三つの箇所でのみ「わたしたち」という話者を登場させたのかがわかりません。

2)ルカはパウロの一行にいた名前の出ていない誰か(例えばシラスやテモテなど)による伝道旅行の記録をこれらの箇所で引用しているという説。

3)ルカは自分の旅行記を引用しているという説。

おそらく2)か3)のどちらかから答えを選ぶべきであろうと思います。研究者の間でも見解がわかれていますが、近年ではルカはこれらの箇所で自分の書いた旅行記から引用しているという説がふたたび支持されるようになってきています。もちろんこれが一番自然な解釈でもあります。

ヨーロッパで最初のキリスト信仰者 「使徒言行録」16章11〜15節

「使徒言行録」の「わたしたち」という話者によるこれらの箇所を読むと、現代と当時の世界の間に横たわる歴史的な隔たりに気付かされます。今日の基準でみると、パウロの決行した大がかりな海外伝道旅行はアジアからヨーロッパへの移動でもあり、イスラム諸国からキリスト教諸国への移動でもありました。しかし当時のパウロにはこれら二つの世界の異なり具合はほとんどわからなかったことでしょう。当時では小アジアもマケドニヤも等しくローマ帝国の領土であったからです。

「キリスト教はパウロの伝道旅行を通してヨーロッパに伝来した」という見方は歴史的に正しいとは言えません。「使徒言行録」18章1〜2節はクラウデオ帝がすべてのユダヤ人をローマから退去させるように命じたことを記しています。ローマの歴史家スエトニウスは、「クレストス」という人物をめぐってユダヤ人の間で論争が起きたため49年ユダヤ人は皆ローマから退去を命じられたことを記しています。この「クレストス」はキリストを指しているものと思われます。ということは、ローマにはすでに40年代にキリスト信仰者の群れ(キリスト教会)が存在していたことになります。

パウロがヨーロッパに来たのは50年頃だったと推定されるので、その頃にはすでにローマにはキリスト信仰者たちが存在したことになります。また、ペテロの最初のペンテコステの説教の聴衆の中にはローマからエルサレムに来ていたユダヤ人も含まれていたという説もあります。

「ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。」
(「使徒言行録」16章14〜15節、口語訳)

上掲の箇所に登場するルデヤはヨーロッパの最初のキリスト信仰者ではなかったでしょう。それでもパウロのヨーロッパ来訪にはもちろん深い意味がありました。パウロの指導の下に進められた福音伝道活動を通して多数の重要なギリシアの諸都市に次々とキリスト教会が設立されていくことになったからです。パウロがいなければ、ヨーロッパの歴史は今あるものとはちがったものになっていたことでしょう。

紫布の商人ルデヤはエーゲ海を超えて対岸にあったテアテラ市の出身でした。「ヨハネの黙示録」2章18〜29節にも登場するこのテアテラは紫布産業の中心地でした。

「主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた」とあるように、ルデヤがイエス様を救い主として信じるようになったのは主の働きかけによるものであって、パウロの巧みな話術によるものではありませんでした。もちろんルデヤは旧約聖書の神様についてすでに以前から聴いて知っていたことでしょう。「神を敬うルデヤ」という表現からもそれがわかります。

ピリピ(または「フィリピ」)にはユダヤ人があまり住んでいませんでした。おそらくユダヤ人の会堂で礼拝を開くために必要な10名の男子さえいなかったと思われます。ユダヤ人たちの集会所が会堂ではなく川のほとりの「祈りの場」であったことからもそれがわかります(16章13節)。

人類の敵 「使徒言行録」16章16〜24節

ピリピでもパウロの伝道は円滑には進みませんでした。この町には「占いの霊」につかれた女奴隷がいました。それはアポロ神に仕える「ピュトン」という霊でした(16節のギリシア語版に「ピュトン」と明記されています)。

パウロはピュトンを女奴隷から追い出しましたが、それは福音がギリシア神話の偶像の女祭司に結びつけられるのを望まなかったからです。ここでのパウロと同様に、次の福音書の箇所でイエス様は御自分のことを「神の子」と呼んだ悪霊を追い出されました。

「日が暮れると、いろいろな病気になやむ者をかかえている人々が、皆それをイエスのところに連れてきたので、そのひとりびとりに手を置いて、おいやしになった。悪霊も「あなたこそ神の子です」と叫びながら多くの人々から出ていった。しかし、イエスは彼らを戒めて、物を言うことをお許しにならなかった。彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。」
(「ルカによる福音書」4章40〜41節、口語訳)

占いの霊を追い出された女奴隷の主人たちは利益を得る望みが絶えたのを見て、パウロとシラスとを捕え、役人に引き渡すために広場に引きずって行きました(16章19節)。彼らは女奴隷が占いの霊から解放されて癒されたことについてパウロとシラスを責めるわけにはいかなかったので、ユダヤ人一般に対する敵意を民衆に焚き付けることにしました。

「この人たちはユダヤ人でありまして、わたしたちの町をかき乱し、わたしたちローマ人が、採用も実行もしてはならない風習を宣伝しているのです。」
(「使徒言行録」16章20〜21節より、口語訳)

彼らの告発は民衆を怒りに駆り立てました。ピリピはマケドニヤの一部であり、ローマ帝国の軍隊が駐屯する植民都市すなわちコロニアでした(16章12節)。町の住民はイタリア各地のローマ帝国の臣民と同じ権利を有しており、それに加えて自治権や免税権も得ていました。彼らはローマ人よりもローマ的であろうとしたとさえ言えます。

パウロとシラスには弁明をする機会さえ与えられませんでしたが、たとえ弁明したところで事態が好転したとも思えません。彼らはむちで打たれ、投獄されました。

神様による介入 「使徒言行録」16章25〜34節

パウロとシラスは普通の囚人のようには振る舞いませんでした。彼らは神様を賛美し始めたのです。ピリピは地震が頻繁に起こる地域でしたが、ちょうど彼らが投獄されていたその夜に地震が起こって牢屋の扉を開き、囚人を鎖から解き放ちました。しかし囚人たちは牢獄に留まりました。このことは彼らがその夜の地震とあの奇妙な二人の新入りの歌った賛美とに何らかの相関関係があると感じていたことを示しています。

地震で目が覚めた獄吏は牢屋の扉が開いていることに気が付き、当然ながら囚人たちは逃げ出したものと思い込みました。当時の獄吏は囚人を逃亡させた場合には死刑に処せられました(12章19節)。それゆえ、彼は町の支配者による裁きと処罰を待たずにその場で自ら命を絶とうとしました。

パウロは獄吏がつるぎを抜いて自殺しようとするのを思いとどまらせます。救いの道を尋ねた獄吏をパウロはキリストへの信仰へと導きます。

「そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。それから、彼とその家族一同とに、神の言を語って聞かせた。彼は真夜中にもかかわらず、ふたりを引き取って、その打ち傷を洗ってやった。そして、その場で自分も家族も、ひとり残らずバプテスマを受け、さらに、ふたりを自分の家に案内して食事のもてなしをし、神を信じる者となったことを、全家族と共に心から喜んだ。」
(「使徒言行録」28〜34節、口語訳)

家族で洗礼を受ける

上掲の箇所でパウロとシラスは獄吏とその家族一同に神の言を語って聞かせ、イエス様への信仰による救いを宣べ伝えました。そして獄吏は家族全員で洗礼を受けることになります。この「家族全員」の中に子どもはひとりも含まれていなかったと主張されることもありますが、それはこじつけにすぎません。前述のルデヤの受洗の箇所ではそのような解釈もありえますが、獄吏の家族に子どもがいなかったと考えるのは無理があります。

新約聖書は子どもが洗礼を受けることを特に強調してはいません。それは子どもが洗礼を受けることに誰も疑念を挟まなかったからです。ユダヤ人の子どもの場合も割礼を受けずに放置されることはありませんでした。幼児洗礼を否定する運動は時代がかなり経ってから現れてきたものです。それは大人だけに洗礼を施すという運動でした。しかし、聖書に反するこの運動は正統的なキリスト教会では異端とされ、教会から除外されてきました。

洗礼を授けてから教えるべきか、それとも教えてから洗礼を授けるべきか?

パウロは獄吏の家族に地震のあったその夜に洗礼を授けました(33節)。パウロはその翌日に自分がまだ生きているかどうかわからない状態に置かれていました。しかし彼が獄吏の家族の洗礼を急いだ最大の理由は、たんなる信仰心ではなくまさしく洗礼こそがキリスト教会に属するための唯一の門であったからでしょう。最初期のキリスト教文書からもわかるように、洗礼を受けている者だけが聖餐式に参加することができます。もちろんこれは今でも同じです。聖餐はキリスト信仰者同士で主イエス・キリストのまことの体とまことの血を祝福されたパンと葡萄酒を通していただく「恵みの手段」(ラテン語でmedia gratiae)のひとつです。

今日の海外宣教活動の現場では、異教からキリスト教に改宗した人にすぐに洗礼を授けるべきか、それとも十分に教えた後で洗礼を授けるべきかについて様々な意見があります。実際にはどちらのやりかたも行われていますし、それぞれに長所と短所があります。

多くの異邦人にとって洗礼は以前の宗教との最終的な決別を意味します。しかしいたずらに急いで洗礼を授けることは、受洗者のうちの大多数が後になるとキリスト教から離れてしまうような結果になるかもしれません。

キリスト教信仰について教えるのは常に必要なことです。しかし教えることが長引くと、人によっては手っ取り早く教会員になれる他の可能性を探すようになるかもしれません。

すでに最初期の教会では洗礼志願者が受洗前に十分な時間をとって必要な信仰教育を受ける場が設けられていました。特にイースターは教会で洗礼式が行われる祭日としてよく知られていました。

立場の変更 「使徒言行録」16章35〜40節

夜が明けて町の長官たちは獄吏にパウロとシラスを釈放する許可を与えました。ユダヤ人説教者たちに対する処罰としてはむち打ちと一晩の投獄で十分だという判断だったのでしょう。

しかしパウロは、設立されて間もないこの町の教会の立場を守るために、自分がローマ人であることを告げました。ローマの市民権を有する「ローマ人」という公的な資格を持っていたのはローマ帝国領内の全住民のうちでもほんの一握りの人々だけでした。ローマの法律によれば正式な裁判もなくローマ人をむちで打つことや投獄することは許されざる不法行為でした。ところがローマ人パウロはそのような仕打ちを受けたのです。なおパウロの同僚シラスもローマ人だったのかどうかははっきりしません。この箇所で判断する限りはそうだったようにも見えますが、新約聖書でそのことを示唆する他の箇所はありません。パウロとシラスはここで起きた出来事では二人とも同じ扱いを受けたということなのでしょう。

長官たちは自分らがローマ法に違反する処罰を行ったことに気づきました。それで彼らはパウロが騒ぎ立てることなくこの町を出ていってくれるようにと頼んだのです。こうしてこの町の教会も守られることになりました。今回パウロとシラスが受けたような迫害をこれから先この教会が理由もなく受けることがないようにとパウロはあらかじめ取り計らったのです。

「ふたりは獄を出て、ルデヤの家に行った。そして、兄弟たちに会って勧めをなし、それから出かけた。」
(「使徒言行録」16章40節、口語訳)

パウロとシラスはテサロニケに向かって出発する前にルデヤの家を再訪し信仰の兄弟姉妹を力付けました。