使徒言行録19章 霊の欠けたキリスト教なのか

フィンランド語原版執筆者: 
パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

キリスト教信仰を二つの階層に分けることはできない! 「使徒言行録」19章1〜7節

上に掲げた「霊の欠けたキリスト教なのか」という表題の「霊」とは一般的な霊性という意味にも、また聖霊様という意味にもとることができます。「歴史の古いキリスト教会は昔ながらの枠に縛られており霊性に欠けている」といった批判が現代ではしばしば聞かれます。それに対して、この「使徒言行録」ガイドブックでは聖霊様とキリスト教の関係をめぐる問題をこれから扱うことにします。すなわち、上の表題を「聖霊様の欠けたキリスト教なのか」という意味で考えます。

この箇所でルカはほとんど誰も気に留めないようなさりげなさでパウロの第三次の宣教旅行についての描写をはじめています(そして結局これがパウロの最後の宣教旅行になります)。前章の終わりでルカはパウロのエルサレム訪問とシリヤのアンテオケへの帰還について述べましたが(18章22節)、すぐそれに続いてパウロの新たな旅について語り始めています(18章23節)。しかしこの叙述はアポロのエペソ訪問についての記述によってしばらく中断されます(18章24〜28節)。実はこのアポロについての箇所はその後につづく叙述への導入部にもなっています。

アポロがコリントに出発した後、パウロはエペソに着きました(19章1節)。今回はアポロとパウロが互いに出会う機会はなかったことになります。

エペソの教会でパウロはあるグループに関心をもちました。そのグループの人々には聖霊様についての知識が全く欠けていることにパウロは気付いたものと思われます。それゆえにパウロは彼らに二つの質問をしました。それは「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」(2節)と「だれの名によってバプテスマを受けたのか」(3節)という質問でした。ルカは彼らのことを「キリスト信仰者」と呼ぶのを避けて、たんに「ある弟子たち」と呼んでいます。それもそのはず、彼らはキリスト教の洗礼を受けていないことがまもなく判明するからです。

彼らは洗礼者ヨハネの洗礼だけを受けていました(3節)。この洗礼は悔い改めの洗礼、すなわち人間による行いでした(3〜4節)。福音書においてルカは洗礼者ヨハネが「ヨルダンのほとりの全地方に行って、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えた」と述べています(「ルカによる福音書」3章3節)。

ここで彼らはキリスト教信仰による洗礼を受けることになります。パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊様が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりするようになりました(5〜6節)。すなわち聖霊様についての目に見える証も与えられたことになります。

新約聖書によれば、人間が聖霊様を与えられずにキリスト信仰者たることは不可能です。例えばパウロも次のように書いています。

「しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。」
(「ローマの信徒への手紙」8章9節、口語訳)

聖霊様の最も重要な働きのひとつは「イエス様がキリストであり、メシアであり、救い主であること」を教えることです(「ヨハネによる福音書」16章13〜14節)。

イエス様は旧約聖書でその到来が約束されていたメシアです。この確信をもたない信仰はキリスト教信仰ではありえません。また、このことを私たち人間に教えることができるお方は聖霊様をおいて他には存在しません。それゆえ「御霊をもつキリスト教」と「御霊をもたないキリスト教」というキリスト教の二つの階層があるという考え方は正しくありません。聖霊様だけが純真な活きた信仰を人間に生むことができるからです。すべてのキリスト信仰者は聖霊様をいただいているのであり、「御霊を受けているキリスト信仰者」と「御霊を受けていないキリリスト信仰者」というように二つのグループにキリスト信仰者を分けることはできないのです。

どのような場合には洗礼を再び授ける(受ける)ことができるのか?

この「使徒言行録」の箇所は再洗礼派が自らの立場を擁護する最も重要な根拠としてもちだす聖書箇所のうちのひとつです。しかし、ここでも「大人の洗礼」と「再洗礼」という二つの洗礼を互いに区別する必要があります。ルター派もローマ・カトリック派も子どもの頃に洗礼を受けていない大人には洗礼を授けます。それとは異なり、再洗礼派は子どもの頃に洗礼を受けた大人にも洗礼を授けます。彼らは幼児洗礼が正しい洗礼ではないと教えているからです。例えば再洗礼を支持するペンテコステ派はルター派のキリスト信仰者は誰もまだ正しい洗礼を受けていないとみなしていることになります。

何が正しいキリスト教の洗礼なのか、ここで考えてみる必要があります。どうして洗礼者ヨハネの洗礼はパウロには不十分であり、ヨハネの洗礼を受けた者たちに再び洗礼を授けなければならなかったのでしょうか。なお、同じ人に二度洗礼を授けた聖書の箇所はここだけです。この問題に対する伝統的なキリスト教会の答えは次のとおりです。正しい洗礼とは、父、御子、御霊の御名によって授けられた洗礼のことです。この洗礼を受けた人が他のキリスト教会からルター派の教会に移籍する場合には、その人に再び洗礼を授けることはしません。洗礼はひとつだからです(「エフェソの信徒への手紙」4章5節)。この点ではローマ・カトリック派もギリシア正教派もルター派と全く同じように洗礼について考えています。

しかし上記の場合と異なって何か他の「洗礼」を受けた人に対してはキリスト教の洗礼を「再び」授けるのです。

「そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。」
(「使徒言行録」19章4〜6節、口語訳)

パウロが彼らに正しい洗礼を授けた時に聖霊様が彼らにくだり、その洗礼の正しさを証してくださいました。これと同じようなことは以前にも3回起きています。そしてその度ごとに新しいグループがキリスト教会の一員として迎えられることになりました。

1)ペンテコステでの洗礼(「使徒言行録」2章)ユダヤ人たち

2)サマリヤでの洗礼(「使徒言行録」8章1〜25節)サマリヤ人たち

3)コルネリオの家での洗礼(「使徒言行録」10章)異邦人たち

ある意味で今回の出来事は今までの3つの先例とは異なっています。先例においては「ある特定のグループをキリスト教会の一員として受け入れてよいかどうか」という問題がその出来事に深く関わっていました。しかし今回はむしろ「洗礼者ヨハネの弟子たちにもキリスト教の洗礼を授けなければならない。それ以外のやり方では彼らはキリスト教会に属することができないからである」というのがその主題になっています。

パウロの第二の活動拠点 「使徒言行録」19章8〜10節

コリントは現在のギリシアに相当する地方におけるパウロの福音伝道の拠点となりました。前章の終わりの記述からわかるように、パウロ自身が設立したのではないにもかかわらず、エペソ教会はパウロの福音伝道の第二の拠点となっていました。ここを拠点としてパウロはエーゲ海の東海岸、現在のトルコの西部地域で宣教活動を行いましました。

当時のエペソは人口約25万人の大都市でした。ローマ帝国領内におけるユダヤ人の人口比率は約10パーセントで、都市部に住むユダヤ人の人口比率は一般的にはそれよりももっと高かったようです。彼らのうちの多くは手工業者や商人であり、エペソにもたくさん住んでいました。

パウロはエペソのユダヤ教の会堂で3ヶ月間教えることができました。しかしその後、ユダヤ人とキリスト信仰者は決別せざるをえなくなったため、パウロはツラノの講堂に場所を移して福音伝道を続けることになります(19章9節)。一部の写本はパウロが第五時から第十時まで教えたと付記しています。私たちの時刻で言えばそれは11時から16時までに当たります。当時この時間帯は昼食と午睡の時間だったので、一部の写本によるこの付記は実情を反映していた可能性はあります。この時間帯ならば奴隷たちもパウロの話を聴きに行くことができたからです。もっともその代わりに、パウロの聴衆は一日で一番暑くなる時の貴重な昼休みを失うことにはなりましたが。

パウロはエペソに合わせて3年間ほど滞在しました(20章31節)。その時期に福音は小アジア地方全域すなわちエーゲ海の東海岸にまで広まっていきました(19章10節)。この3年間は西暦53年から56年の間であったと思われます。この時期にはエペソ教会に加えてラオデキヤ教会やコロサイ教会などが設立されました。エペソ教会やラオデキヤ教会は「ヨハネの黙示録」に登場する7つの教会に含まれていますが、おそらく他の5つの諸教会(スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア)も同じ頃に設立されたのではないかと思われます。

エペソに滞在していた頃のパウロの福音伝道は危機を迎えていました。コリント教会やガラテヤ教会で深刻な問題が生じたのです。パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」と「ガラテアの信徒への手紙」をエペソで執筆し、エペソからコリントへ向かう旅の途中で「コリントの信徒への第二の手紙」をマケドニヤで執筆したものと思われます。

パウロはコリント教会やガラテヤ教会に現れた論争者たちに対して勝利を収めることができました。ルカがこれらの戦いについて何も述べていないのが残念です。

悪の権力に対するイエス様の勝利 「使徒言行録」19章11〜20節

「神は、パウロの手によって、異常な力あるわざを次々になされた。たとえば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気が除かれ、悪霊が出て行くのであった。」
(「使徒言行録」19章11〜12節、口語訳)

ルカの叙述するエペソでの出来事は使徒たちの働きのなかでもとりわけペテロのエルサレムでの活動を思い起こさせます(5章12〜16節)。そのどちらの場合でもイエス様の言われた次の予言が実現しました。

「よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。」
(「ヨハネによる福音書」14章12節、口語訳)

しかし今回の出来事ではイエス様の言われたもう一つの予言も実現しました。すなわちイエス様の御名を悪用する者たちが現れたのです。

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」
(「マタイによる福音書」7章21〜23節、口語訳)

パウロも次のように書いています。

「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」12章3節、口語訳)

古典古代のユダヤ人のなかには名の知られた魔術師や呪術師がいました。ユダヤの祭司長スケワという者の七人の息子たちもイエス様の御名を呪文として使おうとしましたがうまくいかずに大変な目に遭いました。

「そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。」
(「使徒言行録」19章13〜16節、口語訳)

興味深いことに「私はヘブライ人たちの神イエスの名によってお前に命じる」という呪文の記されているパピルスがエジプトから発見されています。

エルサレムにスケワという名前の祭司がいたことは知られていません。しかし「ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたち」という「使徒言行録」19章14節の記述は「大祭司の親戚であるスケワの七人のむすこたち」という意味であるか、あるいは自分たちが立派な一族の出身であることを誇示するような称号をスケワの息子たちが勝手に付け加えたのかのどちらかであるというように説明することもできます。

エペソでのリヴァイヴァル

「このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。また信者になった者が大ぜいきて、自分の行為を打ちあけて告白した。」
(「使徒言行録」19章17〜18節、口語訳)

このようにスケワの息子たちの結末はユダヤ人やギリシア人に恐れを抱かせただけではなく教会を刷新する機会にもなりました。

多くのキリスト信仰者はキリスト教に入信する以前の異教の慣習や迷信や書物などに密かに縛られ続けていました。しかし古い異教と新しいキリスト教の両方を信じ続けることはできません。異教から改宗したキリスト信仰者は古い間違った信仰とそれに関連する慣習や物を捨てるべきなのです。旧約の預言者エリヤもイスラエルの民に対して次のように言っています。

「そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。」
(「列王記上」18章21節、口語訳)

エペソで起きたリバイヴァル(信仰覚醒運動)で信仰に入った人々は魔術からも解放されました。

「それから、魔術を行っていた多くの者が、魔術の本を持ち出してきては、みんなの前で焼き捨てた。その値段を総計したところ、銀五万にも上ることがわかった。」
(「使徒言行録」19章19節、口語訳)

当時莫大な金額で売買されていた魔術書が別の人に転売されたりはせずに皆の前で大量に焼き捨てられました。売ると今度はそれを買った人が魔術の悪影響を受けることになります。それを避けるために魔術書そのものを焼却したのです。

この出来事は当時のローマ帝国でエペソがエジプトのアレクサンドリア(口語訳では「アレキサンデリヤ」)と並んで様々な宗教が混在し魔術が盛んな都市の代表格であったことを示しています。

「このようにして、主の言はますます盛んにひろまり、また力を増し加えていった。」
(「使徒言行録」19章20節、口語訳)

異教とはっきり決別したキリスト教会は力強く成長していきました。

またこの出来事は、信仰を守り続けるためには霊的に目覚めていることが大切であると私たちに教えています。この出来事が起きるまで、エペソのキリスト信仰者たちは以前の古い生活習慣に逆戻りしていたか、あるいはそもそも古い生活習慣から離れたことがなかったのでしょう。

悪の帝国は存在する

この出来事は悪の帝国が実際に存在することを私たちが忘れないように諭しています。「悪霊がいるとしてもそれは合理的な思考がまだ浸透していない発展途上国の地域だけの話であって西欧先進諸国にはそのようなものが存在する余地はない」などと私たち現代人は考えがちです。しかし英国のある牧師によれば、ロンドンでは悪魔教の司祭の数はキリスト教の牧師や司祭をすべて集めた数よりも多いそうです。わざわざロンドンまで行かなくとも、例えば様々な宗教団体の出版物の広告や占いのコーナーなどが載っている新聞や雑誌などが身近に溢れていることからもわかるように、悪の帝国が現に存在し積極的に活動を続けていることは一目瞭然です。

旅行の計画 「使徒言行録」19章21〜22節

地中海東岸での福音伝道は十分にできたと考えたパウロはエルサレムを訪問した後でローマに行くというこれからの希望を述べました(19章21節)。彼はローマからさらに西方のイスパニヤすなわち現在のスペインに相当する地域にも足を伸ばしたいという計画をもっていました(「ローマの信徒への手紙」15章23〜29節)。

しかしその前に彼はマケドニヤやアカヤ(すなわち現在のギリシアの地域)を訪れるつもりでした。アカヤからローマに直行するなら短い旅になりますが、パウロはエルサレム経由でローマに行こうとしました。エルサレム教会の貧しい信徒たちを援助するために今まで彼が異邦人キリスト諸教会から集めた献金を先にエルサレム教会に送り届けたかったからです(「ローマの信徒への手紙」15章26節)。

「使徒言行録」の記述からはパウロのこの計画が実現しなかったような印象を受けます。囚人となったパウロはたしかにローマには行けました。はたしてパウロはそれからイスパニヤにも行くことができたのでしょうか。キリスト教会の古い伝承によれば行けたことになっていますが、実際にそうであったのかは聖書からは知ることができません。

パウロが伝道旅行の計画をあらかじめ慎重に立てていたのと同じように、私たちもこの世のことがらに関しては理性的な判断や理解をないがしろにするべきではありません。私たちは計画を立てることができるし、またそうすべきなのです。もしもその計画が神様の御心に沿うものでない場合には、神様はそれを変更する力をもっておられます。

エペソでの騒動 「使徒言行録」19章23〜40節(口語訳では41節まで)

エペソでのパウロの福音伝道はすぐにその効果が現れたようで、エペソの偶像崇拝者たちは自分らの立場が脅かされていると感じ始めました。

デメテリオという銀細工人は銀でアルテミス神殿の模型を造って職人たちに少なからぬ利益を得させていました(19章24節)。ところがパウロの福音伝道の成果によってデメテリオの商売は以前のようにはうまく行かなくなってきました。それで彼はその職人たちや同業者たちがパウロに反対するように扇動するために次のような演説をしました。

「諸君、われわれがこの仕事で、金もうけをしていることは、ご承知のとおりだ。しかるに、諸君の見聞きしているように、あのパウロが、手で造られたものは神様ではないなどと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説きつけて誤らせた。これでは、お互の仕事に悪評が立つおそれがあるばかりか、大女神アルテミスの宮も軽んじられ、ひいては全アジヤ、いや全世界が拝んでいるこの大女神のご威光さえも、消えてしまいそうである」。
(「使徒言行録」19章25〜27節より、口語訳)

この演説でデメテリオは自分らの個人的な経済的な損失の危機を、アルテミス崇拝に対してエペソ市民が抱いている尊大な自負心と先入観とに実に巧みに関連づけています。パウロが信用ならないユダヤ民族の一員であったこともパウロの立場をいっそう難しくしました。デメテリオは大群衆の扇動にまんまと成功したのです。

アルテミス神殿は古典古代の七不思議のひとつに数えられています。それはアテネのパンテオンの4倍の大きさで、その柱は5階建ての家の高さに匹敵しました。アルテミスは古典古代で最も崇拝された女神でした。実際にはアルテミス崇拝は小アジアの古い母神崇拝に結びついていました。

激昂した群衆はいっせいにエペソの劇場になだれ込みました。この劇場の跡地は今日でもよく保存されており観光に訪れることができます。劇場には約2万5千人を収容できる観客席がありました。無秩序な群衆の集会ではよくあることですが、今回の騒動でも群衆の中にはいったい何のために集まったのかもわかっていない人々が混じっていました(19章32節)。

群衆の中に分け入って行こうとしたパウロを弟子たちは制止しました。パウロの友人であったアジヤ州の議員たちも彼に使をよこして、劇場にはいって行かないようにとしきりに頼みました(19章30〜31節)。

殉教は自発的に追求するべきものではありません。もしも殉教することが神様の御計画の中に入っている場合には、もちろん神様はいずれ殉教する時を備えてくださいます。

ここでのパウロの友人たちの判断は正しかったと言えます。激情に駆られた群衆はパウロがたとえ何を言おうとも一切聞く耳を持たなかったことでしょう。

「そこで、ユダヤ人たちが、前に押し出したアレキサンデルなる者を、群衆の中のある人たちが促したため、彼は手を振って、人々に弁明を試みようとした。ところが、彼がユダヤ人だとわかると、みんなの者がいっせいに「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけた。」
(「使徒言行録」19章33〜34節、口語訳)

上掲の箇所に出てくるアレキサンデルという人物は群衆に対して、ユダヤ民族はパウロやその信仰とは何の関わりももっていないという説明を試みたものと思われます。しかし群衆はアレキサンデル自身がユダヤ人であるという理由からその弁明には一切耳を貸しませんでした。

群衆はユダヤ人たちもまた偶像やそれをかたどった模型を侮蔑していたことを知っていたので、ユダヤ人であるアレキサンデルには発言の機会が与えられなかったのです。偶像礼拝に対する旧約聖書の立場は例えば「イザヤ書」44章9〜17節や次に引用する「エレミヤ書」の箇所によくあらわれています。

「イスラエルの家よ、主のあなたがたに語られる言葉を聞け。
主はこう言われる、
「異邦の人の道に習ってはならない。
また異邦の人が天に現れるしるしを恐れても、
あなたがたはそれを恐れてはならない。
異邦の民のならわしはむなしいからだ。
彼らの崇拝するものは、林から切りだした木で、
木工の手で、おのをもって造ったものだ。
人々は銀や金をもって、それを飾り、
くぎと鎚をもって動かないようにそれをとめる。
その偶像は、きゅうり畑のかかしのようで、
ものを言うことができない。
歩くこともできないから、
人に運んでもらわなければならない。
それを恐れるに及ばない。
それは災をくだすことができず、
また幸をくだす力もないからだ」。」
(「エレミヤ書」10章1〜5節、口語訳)

アレキサンデルが群衆の前に出ようとしたことは状況をいっそう悪化させました。群衆は「大いなるかな、エペソ人のアルテミス」と二時間ばかりも叫びつづけたのです。これは毎年行われるアルテミス祭の儀礼文から取られた標語のようなものでした。

ついには市の指導者層までが群衆を沈静化するために動き出しました。百年ほど前にエペソで反乱が起きた時にローマの軍隊がエペソ市民を虐殺し市全体を壊滅させたことがありました。彼らの脳裏にはその歴史的惨事がよぎったのではないでしょうか。かりに今の状況がさらに悪化すれば、ローマ人たちがこの騒乱を新たな反乱とみなす危険性は大いにありました。もしもそうなればエペソの自由都市としての地位は失われてしまうことになるでしょう。

市の書記役は演説によって群衆を鎮静化することができました。その演説の要点は、パウロ、あるいは群衆によって劇場に連れ込まれたパウロの二人の友人マケドニヤ人ガイオとアリスタルコ(29節)は、「宮を荒す者でも、われわれの女神をそしる者でもない」(37節)し、いかなる犯罪にも加担してはいないということでした。それでもなおデメテリオなりその職人仲間なりが彼らを裁きたいと望む場合には法律に基づいて裁判の日に訴え出るべきであると書記役は付け加えました。彼はこの騒動の背景に、パウロたちのせいで自分らの商売がうまく行かなくなったことへのデメテリオとその職人仲間の不満があったことを見抜いていたようです(38節)。

書記役の発言が功を奏して群衆は散会し、パウロは難を逃れることができました。

この騒動が「コリントの信徒への第一の手紙」15章32節や「コリントの信徒への第二の手紙」1章8〜11節でパウロが述べている出来事と同じものであるかどうかははっきりしません。コリントの信徒たちへの手紙の箇所は、事件の時にパウロ自身が劇場で群衆の只中にいたという印象を与えます。それゆえ、これらは異なる二つの状況についての叙述であるとも思われます。パウロがエペソに滞在した三年の間には、今回の事件と似た危険な状況は何度も繰り返し起きたのではないでしょうか。

おそらくルカがこの事件を「使徒言行録」でことさら詳細に述べた理由は、キリスト教信仰がローマ帝国やその社会制度そのものを脅かすものではないことを明示するためであったと思われます。