使徒言行録27〜28章 難破
ルカの書き続けてきたこの歴史書もようやく終わりに近づいてきましたが、パウロのローマへの船旅についての叙述がまだ残っています。この旅はふたたび「わたしたち」という主語によって語られていることから、ルカ自身がこの旅に同伴していたことがわかります。
ローマへの旅の始まり 「使徒言行録」27章1〜12節
パウロのローマへの旅には数名の囚人の他に百卒長ユリアスの近衛隊が同行しました。おそらくパウロを除く他の囚人たちはローマで猛獣の餌食になる死刑囚であったと思われます。
ユリアスはパウロを信頼していたようです。というのも、シドンに入港したときに彼はパウロが友人たちに会いに行くのを許可しているからです(3節)。もしもパウロがその時逃亡していたなら、ユリアスは自らの命によって逃亡した囚人の代わりに死ななければならなかったところです。
パウロたちのローマへの旅はアドラミテオという町から来た沿岸船に乗って始まりました(2節)。この町はトロアスからみて南東にありました。ルキヤのミラに入港した時、ユリアスはエジプトのアレキサンドリヤからイタリアのローマへと向かうもっと大きな船を見つけました。
エジプトはローマ帝国にとって豊穣な穀物の産地であり、エジプトから来たこの船にも穀物が大量に積み込まれていました(38節)。穀物の輸送船は巨大であり、船によっては300トンを超えるものもありました。船には貨物の他に何百人もの旅客を乗せることができました。しかしその一方で、大きな船にはその巨大さゆえに操縦が難しいという欠点もありました。
「幾日ものあいだ、舟の進みがおそくて、わたしたちは、かろうじてクニドの沖合にきたが、風がわたしたちの行く手をはばむので、サルモネの沖、クレテの島かげを航行し、その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着いた。その近くにラサヤの町があった。」
(「使徒言行録」27章7〜8節、口語訳)
上掲の箇所からは当時の航海の難しさが伝わってくると思います。長い時が経過し「断食期」(9節)すなわちユダヤ人たちの大贖罪日(「レビ記」16章29〜31節)も過ぎてしまいました。断食日すなわちヨム・キップールは西暦で9月〜10月頃に行われます。安全に航海できる時期は終わりかけていました。当時の航海は9月の半ばに終わるのが普通で、遅くとも11月の初め頃にはすべて終了し、ふたたび海に船を出すのは翌年の3月の初め頃になってからでした。
上掲の箇所にあるように、パウロたちを乗せた船はサルモネの沖、クレテの島かげを航行し、その岸に沿って進み、かろうじて「良き港」と呼ばれる所に着きました。名前とは裏腹にこの港は冬を越すのに適当な場所ではありませんでした。これからの旅の計画について話し合いがもたれ、パウロは以下の意見を述べました。
「皆さん、わたしの見るところでは、この航海では、積荷や船体ばかりでなく、われわれの生命にも、危害と大きな損失が及ぶであろう」。
(「使徒言行録」27章10節、口語訳)
これからの航海に関するパウロのこの意見は本当ならば真剣に検討されるべきものでした。理由は二つあります。パウロは福音伝道以外のことに関しても人々から信頼されるようになっていたことと、船旅の経験も豊富だったことです(「コリントの信徒への第二の手紙」11章25節やパウロの宣教旅行からもそれがわかります)。当時、海に船を乗り出すのはそうせざるを得ない事情がある場合でした。航海は大変危険なものと考えられており、実際にもそうだったからです。さらに航海は神々を故意に侮る行為であるとみなされることもあったのです。
しかし人々はパウロのせっかくの警告に耳を貸そうとはせず、冬を越すのにより適した港を求めてふたたび船を海に出したのです。
嵐の始まり 「使徒言行録」27章13〜20節
航海はすべてが順調に進んで行くように始まりました。静かな南風が吹いていましたが、実はそれは大西洋から地中海に吹きつける暴風雨の前触れだったのです。
いったん嵐が始まると船乗りたちにできることは何もなく、残された唯一の手段は船を嵐に任せて吹き流されるままにすることだけでした。
船はクラウダという小島の陰に入り込むことができ、やっとのことで小舟を舟に引き上げて綱で巻きつけることができました。小舟は船の船尾で曳航されるのが普通のやりかたでしたが、今回の暴風雨では小舟が浸水して沈没してしまうか、あるいは船の側面に激突する危険があったのです(16〜17節)。
何日間も嵐が続いたので、船を軽くする必要がでてきました。人々は積荷の一部や(帆の一部や船の備品など必要不可欠ではない)取り外し可能な船具などを海に捨て始めました。嵐の吹き荒ぶ中で積荷を外すのは大変なことだったでしょう。
船はスルテスの洲に乗り上げる危険がありました。その洲までは約600キロメートルの距離がありましたが、嵐が続くうちに船が危険な浅瀬に近づきすぎている可能性もあったのです。乗組員たちは座礁を避けるために錨を用いて船の走行を遅くするか、あるいは帆を用いて嵐の中の船を操縦しようと試みました。
嵐の暗雲が太陽も星もすっかり覆っていたので、船がどの方向に進んでいるのかを知ることもできませんでした(20節)。
パウロは皇帝の前に立たなければならない 「使徒言行録」27章21〜26節
希望がすっかり失われたようにみえた後、パウロに神様からの御使が現れ(23節)、パウロがじきにローマ皇帝ネロの前に立つようになること、また船の乗客と乗組員全員が船から救出されることを告げました(24節)。
人々がパウロの正しい忠告を受け入れてさえいれば、この船が嵐に巻き込まれることは起きなかったのです。それにもかかわらず、パウロは自分の忠告を無視した人々に対して根に持ってその不幸を喜んだりはしませんでした(21節)。むしろ彼は、人々が今回こそ福音に耳を傾け、彼に福音を告げてくださった神様のことを信じ、決して望みを失わないようにと促したのです。
地中海のこの海域に島は多くはありませんでしたが、このような状況では船がどこかの島に打ち上げられることだけが乗客に残された一縷の希望でした(26節)。
難破と救出 「使徒言行録」27章27〜44節
船はアドリヤ海を漂流し続けました。嵐の十四日目の夜に水夫らはどこかの陸地に近づいたように感じました(27節)。当時「アドリヤ海」と呼ばれた海域にはイタリア半島とバルカン半島の間の湾だけではなく、その南方の海域であるクレタ島とシシリア島の間の海も含まれていました。
水深を測ってみたところ、最初の箇所では二十ひろ(約36メートル)であることがわかりました。それから少し進んでもう一度測ってみたら十五ひろ(約27メートル)しかありませんでした。このことから船が陸に近づきつつあることがわかりました。しかし陸の前に岩礁や砂州が広がっているかもしれないという危険もあったため、船に錨を下して夜明けを待つことになりました(28〜29節)。
水夫たちは小舟でならほぼ確実に陸に上がれることや大きな船が無事に接岸できる可能性はほとんどないことを知っていたため、船からの逃亡を試みました。へさきからさらに錨を投げおろすという口実で水夫たちは小舟を海におろしました。へさきの錨が本当に役立つためには錨を小舟で船から遠いところまで運んでいかなければなりません。しかしパウロは水夫たちの企みを看破し、兵卒たちが小舟の綱を断ち切りました。こうして船から人々が救出されるために重要だった小舟は失われてしまいました。
パウロはこれから全員が泳いで岸に辿り着かなければならなくなる可能性が非常に高いことを知りました。それゆえ乗員全員が陸まで泳ぎ切る力を得るために今のうちにしっかり食事を取る必要が出てきました。パウロが食べ始めたのに倣って他の者たちもしっかりと食事を取りました。その後、残りの穀物の積荷を海に投げ捨てて船を軽くしました(38節)。
この段階でようやくルカは乗客数が276名であったことを明かしています。余談ですが、私たちが翻訳で読んでいる新約聖書の原典は古いギリシア語で書かれており、そのアルファベットにはそれぞれ数字が対応しています。そして276という数字をアルファベットで書くとSOS(シグマ・オミクロン・スティグマ)になります。
ユダヤ人歴史家ヨセフスも難破した自分の経験について書いています。その船にはなんと6000名もの人が乗船していました。
夜が明けると、錨は切り離して海に捨て、同時に船尾の舵の綱をゆるめ、風に前の帆をあげて砂浜に向かって船を進ませることにしました。いよいよ上陸を試みることになったのです。
ところが先に述べた、うまくいかなかった場合のシナリオが実現してしまいます。潮流の合流地点に突き進んだために舟は浅瀬に乗りあげ、へさきがめり込んで動かなくなり、ともの方は激浪のためにこわされたのです(41節)。
兵卒たちは囚人らが泳いで逃げるおそれがあるので殺してしまおうと図りました。囚人たちは死刑囚だったと思われます。彼らのうちの誰かが逃亡する場合にはその代償として兵卒たちは自らの命を失うことになります。そのようなリスクをあえてとる理由はまったくありませんでした。しかしパウロを救いたいと思った百卒長ユリアスが兵卒たちの意図を斥けた結果、パウロだけではなく他の囚人たちも殺されずに済みました。
「百卒長は、パウロを救いたいと思うところから、その意図をしりぞけ、泳げる者はまず海に飛び込んで陸に行き、その他の者は、板や舟の破片に乗って行くように命じた。こうして、全部の者が上陸して救われたのであった。」
(「使徒言行録」27章43〜44節、口語訳)
「舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう」(22節)というパウロの予言が実現しました。船は壊れましたが、乗客と乗務員全員が上陸して救われたのです。なお上節に出てくる「板」は穀物を収めた箱の蓋だったのかもしれません。
マルタ島での冬 「使徒言行録」28章1〜10節
海難から救われた旅人たちがそれから三ヶ月間(11節)過ごした島の名はマルタでした。こうしてルカは古典古代において最も優れたものの一つに数えられる航海誌を書き終えました。
しかしこれですべて終わりではありませんでした。マルタ島の住民はギリシア語で「バルバロイ」と呼ばれましたが、これはギリシア語やラテン語を解さない人々を指す言葉でした。彼らマルタ島の人々は降りしきる雨や寒さをしのぐために火をたいて遭難者一同をねぎらいました。そのとき、パウロがひとかかえの柴をたばねて火にくべたところ、熱気のためにまむしが出てきて彼の手にかみつきました(3節)。
島民たちはディケーの神(復讐あるいは正義の女神)がパウロを生かしてはいかないとお決めになったと互いに言い合いました。ところがいくら待ってもパウロは死にません。それをみた島民たちは考えを変え、今度は「この人は神だ」と言い出したのです。以前にもパウロはルステラで同じような扱いを受けたことがありましたが(14章12〜18節)、今回パウロが自分を神扱いする人々に対してどのような態度を取ったのか、ルカは何も書き残していません。
ともあれこの出来事ではイエス様が福音伝道師として選ばれた72人の弟子たちに約束なさった次のことが実現したと考えられます。
「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。だから、あなたがたに害をおよぼす者はまったく無いであろう。」
(「ルカによる福音書」10章19節、口語訳)
島の首長ポプリオはパウロたち旅人を招待して三日のあいだ親切にもてなしてくれました。たまたまこのときポプリオの父が赤痢をわずらい、高熱で床についていました。この箇所でルカは古典古代の医学用語を使用しています。古くから伝わる教会の伝承の通りにルカは医者だったことがこのことからもわかります。パウロはポプリオの父のところに行って祈り、手を彼の上において癒しました。
マルタの島にキリスト信仰者の群れ(教会)が生まれたのかどうか、ルカは何も語っていません。パウロたち旅人を非常に尊敬し、出帆の時には必要な品々を持ってきてくれたという彼らの態度はすでに教会がその島にできていたことを示唆するものかもしれません(10節)。その一方で、島民たちは島に漂着したパウロたちに初めて出会った時からすでに親切な態度を示していました(2節)。なお現代のマルタはローマ・カトリックの影響がとても強い島になっています。
ついにローマに到着 「使徒言行録」28章11〜16節
マルタ島には冬の間そこに停泊していた「もっと幸運な」という意味をもつアレキサンドリヤの貨物船がありました。この船はできるかぎり速やかにイタリアに到着するのを目的にしていました。というのも、冬が終わった直後こそは穀物の価格が一番高騰する時期だったからです。
パウロの一行はこの船で旅を続けることになりました。船の船首には航海者たちを特別に守護すると信じられていたギリシアの主神ゼウスの双子の息子カストルとポリュクスの像が付けられていました(11節)。この旅は順調に進み、パウロは滞りなくローマに到着することができました。
私たち異邦人 「使徒言行録」28章17〜31節
キリストを受け入れないユダヤ人たち
ローマに着いたパウロはできるかぎり早く自分の民であるユダヤ人の代表者たちに会おうとしました。三日後にこの面会は実現しましたが、日を改めて別の日にもっと多くのユダヤ人たちがパウロに会いに来ることになりました。
ローマでのパウロはひとりの番兵をつけられ、ひとりで住むことを許されました(16節)。これは彼が軟禁状態に置かれていたことを表しています。もしかしたら彼は番兵と鎖でつながれていたのかもしれません。このためにパウロはローマを巡り歩いて福音を宣べ伝えることは叶いませんでしたが、その代わりに客を自宅に迎え入れることはできました。
おそらくパウロは「獄中書簡」と呼ばれる手紙群(「エフェソの信徒への手紙」、「フィリピの信徒への手紙」、「コロサイの信徒への手紙」、「フィレモンへの手紙」)のうちの少なくとも一部をローマ滞在中に書き記したと思われます。
パウロは彼の話を聞いている人々の感情を汲み取り「イエス様こそがメシアである」という直接的な表現は用いず、これと同じ内容を「イスラエルのいだいている希望」(20節)という言葉で表しました。
ローマでユダヤ人たちがどれほど大きな権限をもっていたか、パウロはよく知っていました。今まで扱った箇所からも、彼らには地方総督ペリクスを罷免させるほどの影響力があったことがわかります(24章27節)。ローマ皇帝ネロの妻ポッパエアもユダヤ教に興味をもっていたため、ユダヤ人たちはネロの宮廷とも良好な関係にあったと思われます。それゆえ彼らはパウロの処遇についてもその気があればいくらでも難しくしたり容易にしたりすることができたのです。
「そこで彼らは、パウロに言った、「わたしたちは、ユダヤ人たちから、あなたについて、なんの文書も受け取っていないし、また、兄弟たちの中からここにきて、あなたについて不利な報告をしたり、悪口を言ったりした者もなかった。」
(「使徒言行録」28章21節、口語訳)
研究者たちはローマのユダヤ人たちがパウロに関する手紙をエルサレムから受け取っていなかったという上掲の節の記述に首を捻っています。しかし実際にそのような手紙がなかったことには例えば次のような複数の原因が考えられます。
1)その手紙を運ぶ船はまだローマへの旅の途上にあった可能性がある。それに対して、パウロのローマへの旅はさまざまな不測の事態にもかかわらず、とても速やかなものだった。
2)手紙を運んでいた船が暴風雨で沈没した可能性もある。
3)パウロがパレスティナを離れた後、エルサレムのユダヤ人たちはパウロに対する興味を失った可能性がある。なぜなら、パウロがローマからエルサレムにふたたび生還する可能性はほぼないに等しいものだったからである。
パウロがローマのキリスト教会と同じキリスト信仰者のグループに属する者であることを、ローマのユダヤ人たちは少なくとも初めは理解していなかったと思われます(22節)。詳しく意見を交わした後、彼らのうちのある者はパウロの言うことを受けいれ、またある者は信じようとしませんでした(23〜24節)。
「互に意見が合わなくて、みんなの者が帰ろうとしていた時、パウロはひとこと述べて言った、「聖霊はよくも預言者イザヤによって、あなたがたの先祖に語ったものである。
『この民に行って言え、
あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。
見るには見るが、決して認めない。
この民の心は鈍くなり、
その耳は聞えにくく、
その目は閉じている。
それは、彼らが目で見ず、
耳で聞かず、
心で悟らず、悔い改めて
いやされることがないためである』。
そこで、あなたがたは知っておくがよい。神のこの救の言葉は、異邦人に送られたのだ。彼らは、これに聞きしたがうであろう」。」
(「使徒言行録」28章25〜28節、口語訳)
この時にユダヤ人たちの間で意見が二つに分かれたというのは、一部の者はパウロの意見をまったく受け入れず、また一部の者はパウロの意見には一理あると認めたもののキリスト信仰者になろうとはしなかったという意味でしょう。ともあれ、上掲のようにパウロは別れ際に旧約聖書を引用しました。その箇所はイエス様が種蒔く人のたとえ(「マタイによる福音書」13章14〜15節)で引用されたのと同じ「イザヤ書」6章9〜10節でした。ユダヤ人たちは率先して自分自身を天の御国の外側に閉め出してしまったという意味です。
このようにして福音はユダヤ人たちのもとから異邦人たちのもとへと移行しました。ユダヤ人たちが福音を受け入れなかったために、福音は異邦人たちに宣べ伝えられるべきものとなったのです。しかも異邦人たちの中には実際に福音を受け入れる者たちが大勢出てきました。
ここでルカは「使徒言行録」の筆を置くことになりました。
なお一部の写本には28章29節が存在します。それは「彼がこう言うと、ユダヤ人たちは互いにたくさん論争し合いながら立ち去った」と訳すことができます。しかしこの節は信頼できる古い写本群の中には存在しないため、私たちの使用している聖書の本文には含まれていません。
「使徒言行録」は未完なのか? 「使徒言行録」28章30〜31節
「使徒言行録」の終わり方は多くの仮説を生みました。唐突に終わっているような印象を与えるのはたしかだからです。ルカはパウロのその後の様子についてこれ以上知らなかったのでしょうか。それともルカはパウロがネロの迫害によって剣で殺されたことを語りたくなかったのでしょうか。
この問題への答えかたとしては例えば次のようなものがあります。
1)ルカには三部作を書く予定があったのではないか。それらは「ルカによる福音書」と「使徒言行録」と三番目の書物からなるはずだったが、最後の本は何らかの理由で書かれなかったか、あるいは消失してしまった。
2)「使徒言行録」の最後の部分は消失してしまったため最後の数ページが欠けている。
3)例えば投獄や病気や死など何らかの要因によってルカの執筆が妨げられたために「使徒言行録」は途中で終わってしまった。
4)ルカはパウロがまだ投獄されていた時点で「使徒言行録」を書き終えていた。「使徒言行録」はパウロの裁判における弁論とさえみなすことができる。ルカはこの弁論によってパウロとキリスト教信仰が政治的に危険なものではないことを示そうとした。
しかしこれらよりも真実に近いと思われる説明は、このようなかたちでルカが意図的に「使徒言行録」を書き終えたというものです。結局のところ、ルカが「使徒言行録」で書き記したことはパウロの生涯ではなく福音が宣べ伝えられ広がっていく歴史だったからです。ルカの判断は神学的なものでした。「使徒言行録」の最後で福音は当時世界の中心とみなされていたローマにもたらされ、それに対して福音のかつての中心地だったエルサレムは後方に退きました。これは当時の教会の状況の変化をよく表しています。異邦人が中心となるキリスト教会の時代が本格的に到来したのに対してユダヤ人中心のキリスト教会は縮小していったのです。
福音はユダヤ教の(十戒を除く)律法の諸規定に関わる古い垣根を崩しました。過去の重荷から解放されて、福音はその敵対者たちの中心地から世界の果てにまで宣べ伝えられて多くの人々の心をとらえる準備が今や整いました。
教会のある古い伝承によれば、パウロは釈放されてスペインに行き、まもなく(約64年頃に)そこでネロ帝の迫害によって殉教したとされます。
福音をさらに前に進めていくことは他の者たちの使命となりました。今、この使命は私たちに与えられています。私たちはもはや過去の思い出だけに浸って生きていることはできません。パウロの時代と同じように福音のために働くべき時がきています。イエス様が唯一の救い主であられることを知らない人々は世界中に今もなおたくさんいるからです。
私たちはたった今「使徒言行録」29章を生きているのです。
(おわり)