古典古代期におけるユダヤ・キリスト教とギリシア・ローマ世界の性道徳との関係について
西欧諸国ではここ数十年の間に人間の性とキリスト教倫理をめぐって盛んに議論が交わされてきました。西欧の生活スタイルは伝統的なキリスト教の生活倫理から乖離していく傾向にあります。これはキリスト教会内でも問題になっていることです。ここで視線を過去に向けてみると、初期のキリスト教徒だけではなくイエス様の時代のユダヤ教徒の場合にも、彼らが自らとは異質な世界とその性道徳との対峙を余儀なくされた厳しい現実が見えてきます。
第六戒を知らない生活
「古典古代」に分類される時代が千年以上続いた地中海世界は多種多様な諸国民の生活の舞台でした。ですから、安易にこの時代区分をひとくくりにして取り扱うのは妥当ではありません。とはいえ、ユダヤ教徒やキリスト教徒が古典古代の地中海世界でいかなる性道徳と対峙していたか、という点についてはギリシア人の文献もローマ人の文献もほぼ共通した見解を示しているのはたしかです。当時の人々は自分の教師たちから教わった道徳に程度の差はあれ忠実に従っていました。この点では現代人もあまり変わらないと言えましょう。古典古代の地中海世界にも生活様式や社会常識に関わる様々な規則がありました。しかしそこには、後代の西欧人が否応なしに影響を受けることになる「ある教え」が欠けていました。それはモーセの第六戒です。当時の地中海世界では「姦淫してはならない」という戒めは一般には知られておらず、性行為も夫婦間に限定されるものではありませんでした。婚前の性交も浮気も同性間の肉体関係も、こと男性に関していえば不道徳とはみなされませんでした。これからわかるように、ギリシア・ローマ世界の性道徳はユダヤ・キリスト教の性道徳とは根本的に異質なものだったのです。
ローマ人男性の性道徳
当時のローマ人男性が受けるべきとされた性教育の内容はよく知られています。未婚の青年男子には将来の結婚生活に備えてあらかじめ性体験を積むludusと呼ばれる時期が設けられていました。婚前の性体験は避けるべきものではなく、むしろ逆に推奨されるものと考えられていたのです。奴隷の少女や少年、売春宿などが青年男子の性教育に一役買っていました。結婚した後でも、結婚相手以外と肉体関係をもつことは、それが異性とのものであれ同性とのものであれ、不道徳とみなされることはありませんでした。しかし、浮気相手が他人の妻である場合にはさすがに問題になりました。不倫は容認されていなかったからです。ローマ人の社会は不倫という不祥事を避けるために少年奴隷、少女奴隷、娼婦や男娼を性的に利用したとも言えるでしょう。
自由奔放な性道徳
ギリシア人社会の現実もローマ人社会のそれと非常に似たものでした。たしかにギリシア哲学者のなかには節制の大切さを説く人もいました。節制という徳は古典古代後期においてしだいに強調されていくことになります。しかし一般的には、ギリシア人男性の性生活はいたって自由で奔放なものでした。弁論家デモステネスの現存する演説のなかには次のような箇所があります。
「我々は、快楽のために愛人を、日々の性生活のために同居人を、法律上の実子を得るために妻をもっている。」
このように、ギリシア人にとって結婚の目的とは法律上の相続人を得ることだったのです。これはしかし、結婚前であれ結婚後であれ異性および同性との肉体関係を結ぶ生活を妨げるものではありませんでした。彼らにとって性生活は、道徳的あるいは反道徳的という考え方とはまったく関連付けられていませんでした。彼らの営んだ性生活には、真心の愛もあればペドフィリア(小児性愛)もあるというように、多種多様な性的関係が入り混じったものでした(当時ペドフィリアは社会的に禁じられていませんでした)。
古典古代の文献にはよくあることですが、当時の人々の日常生活に関して私たち現代人が知りうることは(奴隷ではない)自由な身分の男性の視点から語られた事柄や証言に基づいています。生物学的な理由から、女性には男性と同じような自由奔放な性生活を送ることは容認されていませんでした。不慮の妊娠を避けるため、若い女性は若い男性とはまったく異なり、家の中で生活するのが一般的でした。
このように、ギリシア・ローマ世界の性道徳はその大半がユダヤ・キリスト教の考え方とはことごとく異質なものでした。それでは、古典古代期にこの二つの世界はどの程度またどのようにして互いに衝突したのでしょうか。
エルサレムでは多数派、ディアスポラでは少数派
イエス様がこの世に生きておられた時代のユダヤ人は、彼らがパレスティナに住んでいるかそれともディアスポラの状況下にいるかに応じて、互いにまったく異なる社会的現実に直面して暮らしていました。ここで「ディアスポラ」とは、パレスティナ以外の地域で他の諸民族の只中で生活するユダヤ人共同体の置かれた状況を表す言葉です。「パレスティナのユダヤ人」と「ディアスポラのユダヤ人」という区別はもちろん大まかなものに過ぎません。当時のパレスティナにはユダヤ人以外の諸民族もたんさん住んでいたし、ディアスポラにおいても状況は地域によって様々だったからです。大都市アレクサンドレイアには、社会的にもかなりの自律を達成していたと思われる大規模なユダヤ人共同体がありました。かたやフィリピのような都市には、シナゴーグ(ユダヤ人の集会堂)さえなく、川のほとりで小さなユダヤ人の集会が細々と活動していたのです(使徒言行録16章)。
ユダヤ人教師たちの性教育の考え方は当時の様々な文献(「ミシュナー」など)から知ることができます。初期のラビたちの教えによれば、律法は若い頃結婚した伴侶に生涯忠実を尽くすことを男女双方に義務付けています。結婚外での性交も(m. Sot. 9:13)、同性間の性交も(m. Sanh. 7:4)、ラビたちは厳しく斥けています。これらラビ文献の他にも、ユダヤ教の性道徳を異邦人(つまり非ユダヤ人)向けに要約して説明した文書、ユダヤ人向けに旧約聖書の出来事を新たな視点を加えて語り直した文書、性に関する道徳教育を含む教理問答書などが、ユダヤ教の文献として今も残されています。
自分の妻のみ
ユダヤ人歴史家ヨセフスの著作「アピオーンへの反論」には、ユダヤ人の性道徳に関するとても重要な記述がまとめられています。この書物でヨセフスは、ユダヤ人にレッテルを貼りたがるギリシア人著述家たちに対する反論を展開し、終わりにユダヤ人の信仰に関して短い描写を試みています。この興味深い箇所には次のような記述があります。
「私たち(ユダヤ人)の性道徳に関する律法はいかなるものか。律法が(男性に)認めているのは女性との自然な形で行われる性交だけであり、それも子どもを得るためだけのものとしてである。律法は男同士の性交を厳しく禁じており、そのようなことを試みる者は死なねばならない。(中略)夫は妻とだけ肉体関係をもつべきであり、他のすべてのケースは神をないがしろにする悪業である。他の者に嫁ぐはずの処女を強姦したり他人の妻を誘惑するなど、いかなる形であれ禁じられた性行為を行う者は決して救われることがない。」(2,199; 201)
ユダヤ教を弁護するこの書物でヨセフスは、ユダヤ人に対する異邦人の憎悪にはさしたる根拠がないことを示すために、ユダヤ人共同体の有様を理想化して描いています。これは護教的な文書にはよくみられる特徴です。とはいえ、ヨセフスの性道徳に関する言及のうちに、彼がエルサレムで育ち学んだ時期に直面した現実の社会状況が反映されているのはまちがいないと言えましょう。
ヨセフとポティファルの妻
ユダヤ人が自らのアイデンティティー保持のために採用した重要な方法は、旧約聖書を改めて語り直す、というものでした。この点で当時のユダヤ人聖書学者たちは聖典(旧約聖書)に対して時には大胆とも言える新たな説明を加えました。それは、聴衆が異邦人社会の只中でユダヤ人として生きて行く術を伝授するためになされました。たとえば、大都市アレクサンドレイア在住のユダヤ人哲学者フィロンは、創世記39章のポティファルの家での出来事について改めて語り直した際、ヨセフがポティファルの妻に対してユダヤ人の生活規範を説明するくだりを次のように付け加えています。
「私どもヘブライ人は自分らの律法と慣習に従っております。他の民族の男子は14歳になると娼婦や道端の売春婦や誰であれ自分を売る者たちのところに行くことが何の妨げもなく容認されるようになります。それに対して、私どもの間では娼婦は生きることさえ許されておらず、売春を営む女性は死罪になります。律法にかなう形で性交ができるようになる前には、私どもは一度たりとも女性と寝ることがありません。私どもは清い童貞として清い処女のもとに行くのです。私どもが結婚から求めるものは快楽ではなく、律法が認める嫡子です。今日にいたるまで私は自分を清く保ってきました。ですから、最初の罪として姦淫を行うつもりはありません。」 (De Iosepho 42-44)
聖書の語る出来事に上記のようなヨセフのとっさの返答を加えることで、フィロンは当時のユダヤ人共同体を教育する姿勢を示しているとも言えます。エジプトのアレクサンドレイアはギリシア人の都市であり、住民はギリシア人の性道徳に従って生活してしました。そこのユダヤ人共同体はたしかに大規模なものでしたが、それでもギリシア人の生活慣習に巻き込まれる危険は常に存在しました。とりわけ大きな危険は性道徳に関してでした。種々の危険を斥けるためにユダヤ人ができることは、教え続けることだけでした。フィロンはそれを実行し、結婚外における異性間の性交だけでなく、あらゆる同性間の性交をもきっぱりと否定しました。彼はプラトンなどギリシア哲学者たちを高く評価していたにもかかわらず、彼らの性道徳観に対しては距離を置くほかなかったのです。
ユダヤ人の教理問答書
古典古代の地中海世界で広域にわたって存在したユダヤ人共同体には、国民教育を目的としてユダヤ人の信仰と生活についての伝統的な教えをまとめた文書が多数存在していたことが知られています。それらのうちの幾つかはギリシア語の詩として書かれており、異邦人もその対象となっていたと思われます。また、最初ヘブライ語で書かれた文書もあり、これは他の言語に翻訳される際の底本となったと推定されます。初期のキリスト教の教理問答書の模範となったこれらの文書には、性道徳について多くの説明を加えるケースがしばしば見うけられます。一例として、著名なギリシア人フォキュリデスの名を借りた何者かの手によるユダヤ人文献(擬フォキュリデス)を挙げることができます。この文書は実際のフォキュリデスが生きていた時代よりもはるか後になって書かれたものです。ともあれこの文書からは 、「ユダヤ人になるためには必ずある種の規範に従わなければならない」、という主張が読み取れます。そして、信仰の核心部分についてはまったく触れないまま、性道徳を何度も話題に取り上げています。結婚前の性交は強い口調で否定され、「結婚式の日まで処女は鍵のかかった部屋に留めておかなければならない」、とされます(215)。同性間の性交は厳禁です。「自然に反する性交によって自然が定めた境界を超えてはならない。なぜなら、動物でさえオス同士では性交を行わないからだ。女性は男性の役割を演じてはならない。」(189-191)
「当時のユダヤ人は同性間の性的関係について暴力的な乱行というイメージしかなかったために同性愛について否定的になったのだ」、とこじつけの説明を試みる現代の神学者もいます。しかし、当時すでに地中海世界の各地で生活していたユダヤ人はギリシア・ローマ世界の異性間および同性間の性生活に関わる倫理とその実態についてよく知っていたのは明らかです。そして、多数派(異邦人)が容認する生活スタイルに対して少数派(ユダヤ人)が用意した解決策は、自らの性道徳観について倦まず弛まず自民族を教え続けていくことでした。
ユダヤ人文書の再利用
古典古代期のギリシア・ローマ世界の現実と、ユダヤ人が自らの道徳法に基づきその現実に対処した方法とは、新約聖書の文書にも新たな光を投げかけます。パウロがコリントでいかなる現実に直面したか、今や私たちはより深く理解することが可能になりました。パウロが「コリントの信徒への第一の手紙」を執筆した頃には、当地の異邦人キリスト教徒がキリスト教を受け入れてからまだ5年も経ってはいませんでした。コリント在住のユダヤ人から教えを受けていたキリスト教徒も中にはいたかもしれません。それでもパウロは彼ら宛の手紙で次のように書く必要があったのです。
「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」
(聖書のコリントの信徒への第一の手紙6章9〜11節、口語訳)
聖書に関する個別の説明についてはBible ToolBoxの聖書の解説のほうを見ていただくことにして、ここでは聖句を記すのみにとどめます。それでは次に、ユダヤ人が始めた性道徳に関する国民教育をどのようなやりかたで初期のキリスト教会が継承したかを概観することにしましょう。
ユダヤ人が執筆した初期の教理問答書は驚くほどの速さでキリスト教会でも採用されました。その過程は複雑であり興味深いものです。以下、初期キリスト教会の使徒教父文書から例を挙げることにします。100年を過ぎてまもない頃エジプトで書かれたと推定される「バルナバの手紙」はユダヤ教徒を厳しく攻撃しています。ところが道徳教育の話題に関しては、現存しないユダヤ人の教理問答書を逐一引用しています。もしも「ディダケー」(12使徒の教訓)の著者が同じ出典をもとにその教理問答書を編集していなかったとしたら、私たちがこのユダヤ人の教理問答書を知ることはなかったでしょう。「ディダケー」の編集版として今に伝わるユダヤ人の教理問答書はたとえば次のように教えています。
「それに対して、死への道は次のようなものである。まず最初にそれは悪いものであり呪いに満ちている。すなわち、殺人、姦淫、毒の調合、略奪、偽証、(等々、以下略)」 (ディダケー5章1節)
「バルナバの手紙」はそれに対応する内容を次のように教えています。
「売春してはならない。姦淫してはならない。少年を辱めてはならない。(以下略)」
(バルナバの手紙19章4節)
「二つの道」(ラテン語でduae viae)に関する古来のユダヤ人の教えは上述したキリスト教文書(使徒教父文書)にも生かされています。結婚外の肉体関係やあらゆる同性愛を厳しく否定するなど、性生活の倫理に関する記述にも、キリスト教徒がユダヤ人から受け継いだ教えが明瞭に見て取れます。
共通の遺産
ユダヤ人とキリスト教徒との間では共通の遺産をめぐって戦いの火花が散らされたことも時にはありました。にもかかわらず、まさにこの遺産が両者を結びつける働きをしました。キリスト教徒は倫理教育の多くの点でユダヤ人の用意した「武器」を活用し続けました。親が望まない妊娠の結果生まれた小児を遺棄する行為は、たしかに旧約聖書でも新約聖書でも直接的には一度も禁じられてはいません(ただし「エフェソの信徒への手紙」6章4節がそれを含意している可能性はあります)。しかし、初期のキリスト教文書はユダヤ人の教えを正確に継承してこの殺人行為をはっきり禁じています。たとえば前述した使徒教父文書のひとつ「ディダケー」では、「堕胎によって子どもを殺してはならないし、生まれて来た子どもを殺してもならない。」と教えています(2章2節)。
同じことは性道徳の考え方一般にも当てはまります。たとえば「使徒教父文書」には、ユダヤ人の文書の引用もあれば、使徒の文書の逐語的な引用もあります(「フィリピの信徒へのポリュカルポスの手紙」5章3節)。主要な点に関しては、キリスト教徒はユダヤ人が行ったのと同じ仕事を続行したと言えます。もちろん、両者の間には強調点の異なるところもあります。多くのユダヤ教文書は、結婚と子どもの出産とをユダヤ人全員が従うべき神の戒めである、とみなしました。しかしキリスト教徒にとっては、未婚のままでいることは、キリスト教の始まり以来ずっと、人間の立派な生きかたの一つとして承認されています。もっとも数百年後のカトリック教会のように、未婚は結婚よりも優れた生き方である、とする偏った見方が強まることもありました。ともあれ、結婚の神聖さを強調し婚前および結婚外の性交を否定する点で、「アブラハムの子孫」は一致団結したのです。同性間の性交に関しては、ユダヤ教もキリスト教も、旧約聖書の教えのおかげでまったく議論する必要がありませんでした。初期のユダヤ教はそれを厳しく否定し、初期のキリスト教会も同様に決然とした態度で明確に斥けました。
私たちが学ぶべきこと
古典古代期のユダヤ人は地中海世界各地で少数派として生きていくほかありませんでした。それは彼らに絶えざる課題をつきつけました。性道徳の領域でも少なからず問題が生じました。ユダヤ人共同体が彼らを囲繞する他民族の生活慣習の影響を受けて自律性を失い周囲に呑み込まれる危険を避けるためには、ユダヤ人の性道徳を自民族に倦まず弛まず教え続けていくほか道がありませんでした。
ユダヤ人はこの困難な課題に取り組み、自国民を教育し続ける道を選びました。彼らは自らの道徳観を異邦人に向けて大げさに誇示した場合もありますが、彼らの教えの主要な対象はユダヤ人共同体でした。ユダヤ教の場合もキリスト教の場合も、自らの道徳観の説明は、聖書の他の論拠によってなされる場合も時にはあったにせよ、神の啓示である聖書に基いてなされるのが一般的でした。人間の理性によって道徳を根拠付けようとするだけでは不十分だったのです。
ユダヤ人教師たちがどれほどきちんと自国民を教えることができたのか、私たちは知りません。ユダヤ人と異邦人との間の結婚は律法によって禁じられています。にもかかわらず、当時も新約聖書のテモテの母親のようにこのような「国際結婚」を選んだユダヤ人がいたのはたしかです。多数派(異邦人世界)の圧力の下で少数派(ユダヤ人)として生きることは容易ではなかったでしょう。しかしそのような状況下でもユダヤ人共同体は自国民を教える努力を続けたことが当時の文書から読み取れます。そして、この努力は実を結んだと言えます。今日に至るまで世界各地にあるユダヤ人の共同体もその教えも変わることなく存続し守られてきました。大部分のユダヤ人は周囲の道徳観に巻き込まれずに済みました。自らの宗教を守り抜くという明確な意思をもっていた点において、初期のキリスト教徒もユダヤ人とまったく同じだったと言えるでしょう。
少数派として生きることは誰にとっても楽ではありません。しかし、それしか選択肢がない場合もあるのです。古典古代の地中海世界におけるユダヤ人もキリスト教会も、少数派として生きる道、信仰教育を続けることで自らの性道徳を守り抜く道を選びました。現代の(とりわけ西欧の)キリスト教会は岐路に立っています。性道徳に関しても、聖書の教えに反する「見知らぬ道」に惹かれる教会員が増えつつあるのが現状です。