自信を持って生きるために
この記事はアールニ・セッパラさんの質問インタビューにユハ・ヘイノネンさんが答えたものです。聖書の引用は口語訳によっています。また、日本語版では表現や内容に多少の修正および加筆が施されています。
はじめに
多くの若者は自信のなさに苦しんでいます。それは彼らの日々の生活にも大きな影響を与えています。ところで、聖書は自信(あるいは自負)についてどのように教えているのでしょうか。また、神様は自信についてどのように考えておられるのでしょうか。青年を対象としたキリスト教伝道に長年関わってこられたユハ・ヘイノネンさんにこの問題についてお話を伺いました。
質問) 「自信」とは何でしょうか。
自信とは自分の本来の価値を自覚することです。それは、プレッシャーを感じることなくありのままの自分でいられる生き方でもあります。人間にとって健全な自信を持てるようになることは大切です。なぜなら、そのような自信は健全な人間生活を送るために欠かせないものだからです。無理することなくありのままの自分で生活できるようになると、周りにいる人たちとの関係もより良好なものになっていきます。
聖書によれば、人間の自信(あるいは自負)は「天地創造」に基づいています。天地創造において神様は人間を「御自分のかたち」としてお造りになりました。これについて旧約聖書の「創世記」は次のように記しています。
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
(「創世記」1章27節、口語訳)「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。」
(「創世記」2章7節、口語訳)
神様が命の息を人間に吹き込まれたので、私たちは神様にとってかけがいのない価値を持つ存在となりました。すべての人間が有しているこの尊厳を私たちから奪い去ることは誰にもできないし、また許されてもいません。
質問) 自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。
自信の形成に最も影響を与えるのは周囲の人たちからの感想や意見といったフィードバックでしょう。人間は社会的な存在です。私たちにとって「他の人たちは私たちについて一体何を考えているか」というのは重要なことです。また、私たちがお互いを受け入れ合うことも大切です。人間には四つの基本的な欲求があると言われています。それらは、愛されること、承認されること、評価されること、自分らしく生きる権利です。これらの中でもとりわけ「私たちが愛されること」が大事であるのは言うまでもありません。
人間の自信の形成に影響を与えるものとしては、その人が置かれている現実の状況に加えて、その人の過去や今までの経験などを挙げることができます。例えば、小さい時にいじめられたことがある人はなかなか自分に自信を持てない一面を抱えてしまう場合が多いのではないでしょうか。
質問) 自信が持てない場合にはどうすれば良いのでしょうか。
これは本当に難しい問題ですね。たしかに神様は「御自分のかたち」として私たちを創造してくださいました。しかしこれは、自動的に私たちが自信を持てるようになることを保証するものではありません。聖書では神様の天地創造の後に人間の罪への堕落に関する記述が続きます。はじめの人間たちは神様の御心に反して罪へと堕落しました。その影響で、彼らの末裔である全人類は皆「罪深い存在」としてこの世に生まれてきます。この「生まれながらの罪」のせいで、私たち人間はこの世で常に様々な問題や苦しみに付きまとわれるようになり、自信を持って生きていくことができなくなってしまいました。
人間にとって自分の弱さや中途半端さを素直に認めることは決して容易ではありません。そして、これが人間の自信のなさを生んでいる一因でもあります。ともすると人間は自らの弱さや中途半端さのせいで「ありのままの自分ではきっと周りから認めてもらえない」という思い込みに支配されやすくなります。
質問) 自分の弱さを抱えながら生きていくにはどうしたら良いのでしょうか。
私自身の例を挙げて説明しますね。私は吃らないで言葉を発することができないのです。中学校時代の私は「自分は他の同級生たちよりも劣っている」と感じていました。この劣等感にどう対処すべきか、私は本当に長い間思い悩みました。そしてついに、私が劣等感から解放されて先に進んでいけるようにしてくれる二つの視点を見つけることができました。
一つ目は「弱さを抱えているのは私だけではない」という発見でした。ある時、私の友人は腰に肉体的欠陥を抱えていることを打ち明けてくれました。「人は皆、人目から隠そうとしている弱さを抱えているものなのだ」と私はその時気づいたのです。聖書によれば、はじめの人間たちが罪に堕落した結果、彼らの子孫である全人類も同様に各々が自分の弱さを抱えこむようになりました。
より重要な二つ目の発見は聖書からでした。どうして人間には弱さがつきまとうのか、その理由を私は聖書から見つけたのです。新約聖書の「コリントの信徒への第一の手紙」には次のような箇所があります。
「それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」27〜29節、口語訳)
人は自らの弱さや中途半端さを自覚する時に「自分はイエス様なしでは自信を持って生きていけない」ということがわかるようになります。私たちに関わるすべてのことがうまく行っている場合、私たちはいともたやすく神様の大切さを忘れてしまいます。神様は人間一般に共通するこのような「弱さ」をよくご存知なので、私たち皆に個別の弱さを与えてくださったのです。
自信は私たちの人格に深く関わっています。このことをはっきり理解するように心がけましょう。完全無欠な存在になろうとする必要などありません。それどころか、私たちは弱さを抱えたありのままの姿で神様に受け入れていただけるのです。この聖書の教えを素直に受け入れましょう。
質問) 「恵みに基づく自信」とはどのようなものでしょうか。
人間は自分自身の弱さに向き合い、神様の憐れみ深い恵みを受け入れることで、健全な自信を持てるようになります。私はこのような自信を「恵みに基づく自信」と名付けています。
例えば、パウロは聖書の多くの箇所で「キリスト信仰者たちを迫害した過去を持つ自分はすべての使徒たちの中で最も卑しい存在である」と言っているにもかかわらず、健全な自信を持っていました。しかも、パウロの身体には「棘」が刺さっていました。彼は主なる神様にその棘が取り除かれるように乞い願いました。ところが、イエス様はパウロに次のようにお答えになりました。
「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節前半、口語訳)
このイエス様の御言葉のおかげで、パウロは自らの弱さについて自信を持って誇ることができたのです。
「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節後半〜10節、口語訳)