「三位一体」に関するいくつかの基本的なことについて
キリスト信仰者は唯一の神様を信じています。そして、この神様は父でもあり子でもあり聖霊でもあります。この神様の本性を神学では「三位一体」と呼びます。聖書にはこの用語は出てきません。しかし、キリスト教会では古くから「聖三位一体」(ラテン語ではtrinitas、英語ではtrinity)、「三位一体なる神様」という表現が用いられてきました。神様の三位一体性を信じるこの信条はキリスト教会にとってきわめて大切であり、このことを認めない人はキリスト信仰者とみなされない、というのが教会の伝統に基づく立場です。
これから以下に記す小文は、三位一体論という大いなるテーマにふさわしいであろう「深遠な説明」ではありません。そのような説明は、例えば「三位一体論」を詳述する著作を残したアウグスティヌスなど教会史の偉大な神学者たちや、キリスト教の多くの教義解説書によってすでになされてきました。しかし、このテーマについて基本的なことだけを記すこの小文にもきっと独自の意味があるだろうと思います。
出発点
キリスト信仰者は、キリスト教会の誕生以来変わることなく旧約聖書の伝える信仰を共有してきました。それは、「唯一の神様が存在する」という信仰です。これがイスラエルの民の信条であり、使徒パウロもまたこの信条を共有しています。
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。」
(申命記6章4節)
新約聖書は、この旧約聖書の骨格をなす信仰を明確に共有すると同時に、父と子と聖霊についても記しています。
「イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(マタイによる福音書28章18〜20節)「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」
(コリントの信徒への第二の手紙13章13節)
以上見てきたように、唯一の神様が存在します。しかしまた聖書は、父と子と聖霊についても記しています。ですから、キリスト信仰者は、神様の本性にはこれら両方の側面があることを素直に受け入れていかなければなりません。
父は神であり、キリストは神であり、聖霊は神であること
父が神であることについて異論を挟む人は、聖書を読むキリスト信仰者の中にはいないでしょう。神の御子なるイエス・キリストが神であることを、新約聖書は明快に教えています。その例を以下に挙げます。
「神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。」
(ヨハネによる福音書1章18節)「さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。」
(ヨハネの第一の手紙5章20節)「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており」
(コロサイの信徒への手紙2章9節)
すでに旧約聖書もまた、神様が人間に授けられる「神の霊」について記しています。
「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる。」
(エゼキエル書36章26〜27節)
次の例にある新約聖書のエフェソの信徒への手紙を読むと、「悲しむ」という言葉からもわかるように、聖霊様は、物理的な重力による影響などに比較できるものではなく、ペルソナ(位格)と呼ばれる個性を持った存在なのです。
「神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。」
(エフェソの信徒への手紙4章30節)
新約聖書の使徒言行録は、アナニヤとサフィラが聖霊様すなわち神様を欺いて、その罪の罰を受けた出来事について記しています。
「ところが、アナニヤという人とその妻サッピラとは共に資産を売ったが、共謀して、その代金をごまかし、一部だけを持ってきて、使徒たちの足もとに置いた。そこで、ペテロが言った、「アナニヤよ、どうしてあなたは、自分の心をサタンに奪われて、聖霊を欺き、地所の代金をごまかしたのか。売らずに残しておけば、あなたのものであり、売ってしまっても、あなたの自由になったはずではないか。どうして、こんなことをする気になったのか。あなたは人を欺いたのではなくて、神を欺いたのだ」。アナニヤはこの言葉を聞いているうちに、倒れて息が絶えた。このことを伝え聞いた人々は、みな非常なおそれを感じた。それから、若者たちが立って、その死体を包み、運び出して葬った。三時間ばかりたってから、たまたま彼の妻が、この出来事を知らずに、はいってきた。そこで、ペテロが彼女にむかって言った、「あの地所は、これこれの値段で売ったのか。そのとおりか」。彼女は「そうです、その値段です」と答えた。ペテロは言った、「あなたがたふたりが、心を合わせて主の御霊を試みるとは、何事であるか。見よ、あなたの夫を葬った人たちの足が、そこの門口にきている。あなたも運び出されるであろう」。すると女は、たちまち彼の足もとに倒れて、息が絶えた。そこに若者たちがはいってきて、女が死んでしまっているのを見、それを運び出してその夫のそばに葬った。教会全体ならびにこれを伝え聞いた人たちは、みな非常なおそれを感じた。」
(使徒言行録5章1〜11節)
このように、父は神であり、キリストは神であり、聖霊は神です。にもかかわらず、存在するのは唯一の神です。すなわち、三つのペルソナ(位格)を有する唯一の神様が存在することになります。
父、子、聖霊は人間に対して互いに互いをはっきり知らせる
信仰に入ったばかりのある若い女の子は途方に暮れた顔でこう尋ねました。「私は誰に祈るべきなのでしょうか、父にですか、子にですか、それとも聖霊にですか。」
この質問に対して、年老いたおばあさんは女の子の悩みを解決する単純な助言を与えました。「その中の誰に祈ってもよいのだよ。彼らのうちの誰が助けに来るかは、彼らが互いに決めることだから。」
それでは、このおばあさんの素晴らしい助言が聖書の教えに沿うものであることを確かめることにしましょう。
まず、父なる神様を知らずして、御子イエス様を知ることはできない、とイエス様ご自身が言っておられます。
「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。」
(マタイによる福音書11章25節)「イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」」
(マタイによる福音書16章17節)
しかし、それと同時に、イエス様なしでは、誰も父を知ることはできません。
「すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。」
(マタイによる福音書11章27節)イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」
(ヨハネによる福音書14章6節)
また、聖霊様なしでは、誰も神様を知ることはできません。
「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。」
(ローマの信徒への手紙8章15節)「神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。」
(コリントの信徒への第一の手紙12章3節)
このように、父と子と聖霊は、人間に対して互いに互いをはっきりと知らせる関係にあります。
三位一体の教えについての簡単なまとめ
Phillip Careyという人が書いた本に、三位一体論についてアウグスティヌスがまとめた簡単な七つの文が紹介されています。
1.父は神です。
2.子は神です。
3.聖霊は神です。
4.子は父ではありません。
5.子は聖霊ではありません。
6.聖霊は父ではありません。
7.唯一の神が存在します。
これら七つの文はすべて聖書に従った教えです。それらを用いることで、三位一体について簡単な理解を得られます。唯一の神様には三つのペルソナがあります。神様の本性の深淵に分け入ろうとする必要はありません。神様は大いなる奥義であり、それについて私たち人間が理解できることは、聖書を通して知らされているほんのわずかなことだけだからです。
これらの基本文に加えて、三位一体については考えるべき事柄がまだたくさんあります。もっと多くのことを語ることができるし、もっと細かいことを記した優れた解説書もあります。しかし、この小文で述べたことだけでも三位一体の教えについて、とりあえずまとまった理解を得ることができるかと思います。
(聖書の引用は口語訳からのものです)
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