どうして礼拝に参加するのですか?

フィンランド語原版執筆者: 
ミーカ・アウヴィネン(神学修士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

日本語版では表現や内容に加筆修正がなされています。


(質問)
どうして礼拝に参加するのですか?

(回答)
何日間も何も飲まず食わずの状態で過ごしてみたことがあなたにはありますか。少なくとも自らすすんでそのようなことを試すことはなかったのではないでしょうか。生命を維持するためには最小限でも水分の補給が必要不可欠であることはよく知られています。食べ物がなくても何日間はなんとかなるでしょうし、ひょっとしたら何週間でさえ生きながらえることができるかもしれません。しかし、そのような状況ではあなたはベストコンディションではいられません。

これと同じことがキリスト教の礼拝参加にも当てはまります。もしもあなたが教会の礼拝と無関係な生活を続けているとしたら、あなたは霊的な意味で次第に弱っていく危険に晒されていると言えます。

キリスト教の礼拝の目的は礼拝参加者に霊的な栄養を分け与えることにあります。礼拝ではイエス・キリスト御自身が御言葉と祈りと聖餐の賜物によって私たちを養い癒してくださいます。とりわけ聖餐式でキリストは御自分のまことの身体とまことの血を聖別されたパンとぶどう酒を通して分け与え、私たちの罪を赦してくださるのです。このようにしてキリストが私たちに仕えてくださることがキリスト教の礼拝の出発点になっています。

一方では、人が健康的な生活を送るためには次のような面もあります。もしも食べ続けるばかりで、溜め込んだエネルギーを消費するために何もやろうとしないなら、あなたの体重は増えていくばかりでしょう。また、健康のバランスも徐々に失われて、以前と同じようには生活できなくなっていくことでしょう。

教会の礼拝に参加して聖書の教えを学ぶことはとても大切です。しかし、それと同じくらい大切なのは、学んだことを実生活の中で活用していくことです。礼拝自体も、またキリスト信仰者の生活全体も「キリストに仕えていただくこと」に終始するばかりのものではありません。礼拝から霊的なよい影響を受けて「仕えるキリスト信仰者として生活していくこと」でもあるのです。「キリスト信仰者は全生涯にわたって神様にお仕えしていくべきである」というのが聖書のメッセージです。そして、このことは週一回の礼拝の時に限られるものではありません。

イエス様は緻密な教義体系を人々の頭に叩き込むために哲学の学び舎を設立なさいませんでしたし、壮麗な教会建築が地上に聳え立つようになさったのでもありません。イエス様は実際に出会われた人々を「隣り人」として愛し、様々な傷を受けていた彼らに寄り添い、御自分に従うように彼らを召されました。そして、実際にイエス様に従った人たちは皆、イエス・キリストが彼らに示された愛を体験することができました。また、神様の御国がいかに偉大なものかを、イエス様はこの世での生活を通して弟子たちに教えてくださいました。その結果として、神様の愛と無条件の罪の赦しの恵みの影響を受けた多くのキリスト信仰者が、キリストからいただいた愛を今度は他の人たちにも自然に分かち合っていくことになったのです。

周囲にいる人々をキリストの御許に招き、彼らと共に歩んでいくことは、キリスト信仰者の群れである教会の大切な活動目的のひとつです。礼拝で私たちはキリスト御自身と共に歩みます。「キリストの身体」は教会において具体的な形をとります。教会ではキリスト信仰者ひとりひとりがキリストの身体を構成しており、とりなしの祈りや出会いや様々な奉仕を通して互いにキリスト信仰者として支え合っています。そのようにして、罪の赦しの恵みをいただいた私たちは神様の御心にかなうやりかたで実生活を通して仕えていくことができるように整えられていきます。

このように、礼拝とは神様御自身が霊的な栄養と奉仕への備えを礼拝参加者に分け与えてくださる素晴らしい時であり場所なのです。

最後に私は逆に聞き返したいと思います。礼拝にあえて参加しない理由がありますか。