恵みの賜物について聖書は何と言っていますか?
私たちキリスト教信徒は聖書を大切にしたいと思っています。恵みの賜物が存在する、と聖書は言っています。神様の御霊は、私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書を重んじているならば、このような賜物を否定したり軽んじたりはしないし、これらの賜物を用いることに反対したりもしないものです。
一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも聖書を大切にする態度です。また、恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。たしかに聖書は恵みの賜物そのものは認めていますが、同時に、それらを間違って用いないように忠告してもいるからです。
ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、どうか心を開いてください。そして、聖書が言っていることを読んでください。この恵みの賜物というテーマに関しても実際にはどういうことであるのか、聖書の説明を受けてください。また、聖書に反していることは拒絶してください。聖書が教えていることを受け入れて身に着けてください。たとえその教えがあなたにとって新しいもので、あなたが以前考えていたこととは違ったものであったとしても、です。たしかにこれを実行するのは本当に難しい場合があります。それでも、これは安全な道です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせはしないからです。
私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、目下、信仰の道のどのような局面を歩んでいるところか、というのも人によってさまざまです。そして、こうした差異は各人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この差異は認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この差異は神様の教会の中の豊かさでもあります。ただし差異とは言っても、すべての人が神様の御言葉に従って信じ、活動しなければならないことに変わりはありません。
恵みの賜物とは何でしょうか?
恵みの賜物にはいろいろなものがあります。私たちは聖書からそれについて多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ別の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらは恵みの賜物の具体例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世で使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて恵みの賜物だと言えるでしょう。賜物の中には私たちが元々は持っていないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そのような場合に恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそのひとつです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる目立たないものかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えてください。それが恵みの賜物です。
「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それは各人の業績によって配分されるものではありません。もしもそうであるなら、それは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。しかし、私たちは神様のそのお考えを知りません。ですから、教会において「誰にはどんな賜物があり、誰にはないのか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。神様の御霊は恵みの賜物を、それらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ、という意味のことをパウロは言っています。そして、神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる、とも。人々から一般的にも高く評価されるような「恵みの賜物」をもっていない人たちは、実のところそれを必要ともしていません。それでも、彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(「コリントの信徒への第一の手紙」12章24節)。
恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。
三位一体なる神様のことが知られていないか、あるいは拒絶されてしまっているところでも、人が異言で話したり病気を癒されたりする現象が起こることがあります。なぜなら、悪魔でも奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそ最も巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、時おり神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらをはっきり問題視しています。そして、教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再びこの世に帰ってこられる再臨の時に裁きを受けることになる、と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい状態である」、などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは、「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていたとしても、きっと神様はそれを追認してくださるだろう」、などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、たとえば幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと一緒に宣教活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼については神様の御言葉に反して教えているからです。もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ、神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる、と神様の御言葉は私たちに対しても警告しています。
恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。
恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ真の信仰がある、ということではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要などありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。人が救われて神様の子どもとして生きていくためには、福音だけで十分なのです。このことについては、神様が恵みの賜物を分与なさっているところで、ことさらに強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が周りからそれをもつようになるようそれとなく要求されてもそれができずに自分をだめな存在だと思い込んでしまうような状況においても、とりわけ強調されるべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、あなたは十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、神様の子どもとして生きて天国に入るために必要なすべてのものをすでにもっているのです。
「聖霊をいただいているキリスト教信徒は彼らがキリスト教信徒である証として何かしら恵みの賜物をもっているものだ」、という教えがあります。そして、「その賜物とは異言で話すことだ」、と主張する人が大勢います。「聖霊をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるような高みにがんばって到達しなければならない」、という教えも聞かれます。しかし、このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての神様の子どもには聖霊様が共にいてくださいます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は、その人がイエス様を信じているということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされる」というのは、私たちの中に住まわれる神様の御霊が私たちの中で他の何よりも大きな場所を支配するようになる、ということです。私たちの中でもこのようになるように願い求めましょう。
「神様のもの」として生きることは力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。しかし、このような人生を送っている人たちはとりわけ他の人たちより劣っている神様の子どもだ、ということではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそが神様にとって特別に愛おしい子どもたちなのです。
恵みの賜物を求める
聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。ここで聖書は単純な真理を語っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれを受けるが、求めない者は得ない、ということです。恵みの賜物を求めることは強制ではないし、神様や他の人たちから強制されるものでもありません。それはへりくだった熱心な祈りなのです。はたして私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは、信仰者の集まりで教会の必要としている賜物を神様が私たちに与えてくださるように、声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?そうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって自然なことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれることでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵ある祈り方だと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。
恵みの賜物を用いる
聖書は人が恵みの賜物を用いないまま隠しておくことを禁じています。ですから、自分の賜物を用いてください。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていても、あるいは他の人たちがそれを評価していなくても、です。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。神様の教会がそれを必要としているのです。
私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り、そこに避けどころを求めることをしっかり学んでください。決して自分自身には頼ったりしないように。神様があなたの中で働かれていることを意識してそれを誇示するようにはならないように。自分の受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。しかし、これはなかなか難しいことです。だからこそ、ゴルゴタの十字架こそが決して揺るぐことのない唯一の基であることを学ぶ必要があるのです。自分の中には何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は変わらずに立ち続けています。そして、私たちが救われるために、また私たちが神様の子どもとして生きていくために必要なすべてのものがそこには含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には、底が抜けてしまいます。それも、あっけないほどあっという間に。
もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになり、十字架以外の何か別のものが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなってしまう場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架をよりいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。
パウロは「コリントの信徒への第一の手紙」の中で、恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらの中に、またそれらを通して、愛が、すなわちイエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ、と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを足蹴にしたり忘れ去ったり、私益を求めたりするようになります。しかしパウロによれば、それは誰かが時々思い出したように太鼓を打ち鳴らすのと同じことです。多くの人は太鼓の音をたしかに耳にしますが、何の役にも立ちはしません。うるさくて耳が痛くなるだけです。
あなたに与えられている賜物は、あなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼りそこに避けどころを求めるように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主の御許に導くものでしょうか?あなたはその賜物によって愛を示していますか?その賜物を他の人たちの状況をよりよくするために用いていますか?もしもその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改める必要があります。その賜物を隠しておいてはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛するため、そしてその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を、神様に願い求めるようにしてください。取るに足りないと思われるようなささやかな賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高度に価値があるものです。それとは逆に、ひと際目立つ立派な賜物が何か他の目的のために浪費されてしまうこともあります。そのような場合、その賜物には何の価値もありません。
謙遜な態度で用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。しかし、傲慢や自分自身を他の人たちの上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。
恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして、「もしもイエス・キリストへの信仰というものがこのようなものなのだとするなら、私は信仰などと関わり合いたくない」、と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、恵みの賜物はそれを熟慮した上で用いるように、彼は命じているのです。イエス様の御許から誰も追い払うべきではありません。そのためにも、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。人が賜物に慣れるようにしそれを怖がらなくてもすむように、はじめから賜物についてきちんと話し教えるべきです。そして、教えた後であれば、それらを用いてもよいのです。
神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことができません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者であるとか信頼できる聖書の教師であると私たちがみなしている人でさえ、そのような預言をする場合さえ起こりえます。私たちの中に染み付いている罪はこのような形でも現出してしまいます。そうした偽りの預言を引き合いに出して聖書に反したことを行う者は、人間である自分を神様の地位にまで引き上げています。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。
聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。ですから、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は、人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか、ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、ということを見分ける際のよい基準になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあります。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。