なんのために牧師はいるのでしょうか?
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。こうして、この十二人をお立てになった。そしてシモンにペテロという名をつけ、またゼベダイの子ヤコブと、ヤコブの兄弟ヨハネ、彼らにはボアネルゲ、すなわち、雷の子という名をつけられた。つぎにアンデレ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、それからイスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。」
(「マルコによる福音書」3章13〜19節前半、口語訳)
新約聖書はもともとギリシア語で書かれましたが、「使徒」は聖書ギリシア語で「アポストロス」といい、「遣わされた者」あるいは「使者」という意味があります。
教会用語での「使徒」は、上掲の箇所に登場するイエス様によって選ばれた十二使徒、イスカリオテのユダに代わって使徒となったマッテヤ(「使徒言行録」1章26節)、そして自分自身についてこの名称を用いていたパウロのことを基本的に指しています(「ローマの信徒への手紙」1章1節)。
「使徒」という職は唯一無二の役職でした。
使徒たちはキリストによって個人的に召されました。聖書は誤りを全く含まない神様ご自身による啓示です。この聖書の一部を神様は使徒たちを通して人類に与えてくださったのです。
例えば「テサロニケの信徒への第一の手紙」に登場するテモテのように(「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章6〜7節)、「使徒」という言葉を上述の基本的な意味よりも広い意味で解釈して、キリストの他の使者たちも「使徒」と呼ばれることがあります。
このことは「キリスト教会の牧師職は使徒的なものである」という重要事項を私たちに思い起こさせます。
この小文で私たちは上掲の聖書の箇所から浮かび上がる次の3つのテーマを通して「使徒の伝統において私たちの時代の牧会者(牧師)はどのような位置を占める存在なのか」について考えてみることにしましょう。
1)キリストが召される
2)キリストが備えられる
3)キリストが遣わされる
1)キリストが召される
最初のテーマは「キリストが呼びかけて召してくださる」というものです。 上掲の福音書の箇所は次の言葉で始まっています。
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。」
(「マルコによる福音書」3章13節、口語訳)
イエス様は御自分で選んだ者たちに御許に来るように命じられたのです。 使徒たちが自ら牧者としての務めを選択したのではなく、イエス様が彼らを選び、召されたということです。
彼らの受けた使徒職は神様からの賜物であって、教会での指導的立場を獲得するために彼ら自身が選んだ職ではなかったのです。
聖パウロは「エフェソの信徒への手紙」4章で次のように教えています。
「しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。(中略)そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。」
(「エフェソの信徒への手紙」4章7、11節、口語訳)
このようにキリストが使徒と預言者、福音の宣教者、牧者、教師たちを教会にお与えになったのです。
キリストは今日でも教会に牧者を与えておられます。
まず、聖なるバプテスマ(洗礼)において、キリストはすべてのキリスト信仰者を選び、普遍的な祭司職(万人祭司)に召されます。
このようにしてキリストは私たちをキリストについて証する霊的な祭司としてくださるのです。
これについては聖ペテロがその最初の手紙の2章で、次のように語っています。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」
(「ペテロの第一の手紙」2章9節、口語訳)
キリスト信仰者はキリストによって選ばれた親族であり、王家の祭司であり、聖なる部族であって、神様の御民なのです。
すべてのキリスト教徒はこの万人祭司の職を共有しています。
すべてのキリスト教徒が、もちろん(キリスト信仰者である)あなたも含めて、キリストについて証をするために召されているのです。
あなたにも教会での働きの場が用意されているのです!
洗礼を受けた人々の中から、キリストは教会を通してある特定の男性たちを選出し、特別な祭司の職としての「牧師職」に召されます。
この職は神様ご自身が制定されたものです。というのも、私たちの主が諸教会に牧会者を任命するように使徒パウロを通して命じられたからです。
「テトスへの手紙」1章にはパウロがテトスに与えた任務について次のように書かれています。
「あなたをクレテにおいてきたのは、わたしがあなたに命じておいたように、そこにし残してあることを整理してもらい、また、町々に長老を立ててもらうためにほかならない。」
(「テトスへの手紙」1章5節、口語訳)
牧師職は教会にとって必要不可欠なものであり、教会の七つの目印の一つであることを、宗教改革者マルティン・ルターは例えば以下に引用する文章で述べています。これは私たちが覚えておくべき重要事項です。
「教会の第五の外見的な目印は、教会が聖職者(牧師)を任命し、あるいは牧師職を施行するために召すことや、教会にある牧師職が欠員にならないようにすることです。なぜなら、教会には公私共に職務を果たす教区長と牧師すなわち説教者が絶対に存在しなければならず、(中略)聖パウロが「エフェソの信徒への手紙」4章11節で言っているように、彼らは教会のために、また教会の名において、何よりもまずキリストの戒めに基づいて聖務を行うからです。(中略)そして、そのような牧師職が存在するところには(中略)聖なるキリスト信仰者の民が確かに存在していなければならないということを知っておいてください。というのは、教会はそのような教区長、教会長、説教者、牧師なしには存在しえないし、逆に、教会なしには彼らもまた存在することができず、牧師職を務める者たちと教会とは両方とも一緒に存在しなければならないからです。」
(マルティン・ルター「教会の公会議と教会について」より)。
教会から与えられる召命と教区長から与えられる牧師任命式によって、神様は牧師たちを使徒としての役割を歴史的に継承する職務(牧師職)に就任させ、使徒の務めにあずからせます。
使徒たちと同じようにして、彼らもまた召された牧師として任命されるときに牧師職という恵みの賜物を受けることになります。
キリストご自身が彼らを召されたのです。
2)キリストが備えられる
第二のテーマは「キリストが備えてくださる」です。
冒頭の福音書には、イエス様がこの12人をご自分と共にいるように召されたことが述べられています。
キリストは使徒たちを、人間ではなく神様ご自身が御言葉を教えてくださる「神学部」へと召されました。
この12人は主の足もとに座り、主の講話に耳を傾けることを許されたのです。
イエス様は彼らに天の御国の秘密を明らかにされました。
自分らに与えられた使命を彼らが実現していくために、イエス様は御言葉を教えることによって彼らを備えてくださったのです。
このように、私たちの主は今日も活動なさっておられます。 教会の教区長(口語訳では「監督」、ギリシア語原文では「エピスコペース」)は、例えば教えることに長けていなければならない、とパウロはテモテに対して次のように手紙で書いています。
「「もし人が監督の職を望むなら、それは良い仕事を願うことである」とは正しい言葉である。さて、監督は、非難のない人で、ひとりの妻の夫であり、自らを制し、慎み深く、礼儀正しく、旅人をもてなし、よく教えることができ、酒を好まず、乱暴でなく、寛容であって、人と争わず、金に淡泊で、自分の家をよく治め、謹厳であって、子供たちを従順な者に育てている人でなければならない。自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。彼はまた、信者になって間もないものであってはならない。そうであると、高慢になって、悪魔と同じ審判を受けるかも知れない。さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節、口語訳)
パウロは「テトスへの手紙」1章でも、牧師が健全な教理にかなった信頼すべき言葉を守ることの大切さを次のように強調しています。
「教にかなった信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは、彼が健全な教によって人をさとし、また、反対者の誤りを指摘することができるためである。」
(「テトスへの手紙」1章9節、口語訳)
このことを実行するために、牧師はその職務について十分な教育と訓練を受けなければなりません。
この教育と訓練を神様は御言葉を通して与えてくださいます。
牧師職に就くための準備をしている者は、信頼できる教師たちの指導の下で、神様の御言葉と、それを正しく解き明かしている福音ルーテル教会の一致信条書とを熱心に学ばなければなりません。
このようにして、牧師職に就く可能性のある候補者たちは主の足もとに座り、主の御言葉に耳を傾けることになります。
これが、私たちの大祭司なるイエス様が現代の牧会者たちを聖なる務めのために備えてくださるやりかたなのです。
牧師たちばかりではなく、復活なさったキリストの証人となるよう召された他のすべての人々も御言葉の教えを受ける必要があります。
すべてのキリスト信仰者は、信仰者として成長し証し人としての役割を果たすために、神様の御言葉を学んでいかなければなりません。あなたもその一人です。
ですから、御言葉を読んだり聴いたりする機会をよく設けてください。
御言葉を通して、主があなたに語られています。
御言葉を通して、主があなたを備えてくださるのです。
3)キリストが遣わされる
これが三番目のテーマになります。
イエス様が12人の弟子たちを使徒として召された冒頭の聖句を復習しましょう。
「さてイエスは山に登り、みこころにかなった者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとにきた。そこで十二人をお立てになった。彼らを自分のそばに置くためであり、さらに宣教につかわし、また悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」
(「マルコによる福音書」3章13〜14節、口語訳)
神様から召されて備えを受けた使徒たちは、教えるため、また悪霊どもを追い出すために遣わされました。
それを実現するための「恵みの手段」として、神様の御言葉、聖なる洗礼、主の聖餐が与えられました。
「人々に洗礼を授け、御言葉を教えるために使徒たちを全世界に遣わすように」という主の命令と、「主の聖餐を設定してキリストの体と血を聖餐のパンと葡萄酒を通して聖餐に与る者皆に与えるようにせよ」という主の命令とが聖書には明記されています。
「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行って、イエスが彼らに行くように命じられた山に登った。そして、イエスに会って拝した。しかし、疑う者もいた。 イエスは彼らに近づいてきて言われた、
「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。」
(「マタイによる福音書」28章16〜20節、口語訳)「わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。」
(「コリントの信徒への第一の手紙」11章23〜26節、口語訳)
使徒たちは御言葉を教え、洗礼を授け、キリストの体と血の奥義(聖礼典)を執り行うために礼拝に集うよう人々を教え導かなければなりませんでした。
彼らは神様の啓示を宣べ伝え、キリストが臨在して罪人たちの心に入ってこられるようにする「恵みの手段」を施行することによって、自らの務めを遂行しました。
キリストの使者として、キリストに代わって、すべての人々に恵みの福音を伝えることこそが使徒職の使命だからです。
パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」5章で自らの使徒職について次のように書いています。
「 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」5章17〜20節、口語訳)
使徒たちは神様の恵みを御言葉と聖礼典(サクラメント)によって人々に分け与えました。
彼らは、世界がキリストにあってすでに神様と和解させていただいていること、すべての人の罪はキリストにあってすでに赦しを受けているがゆえに、神様は罪を犯した人々をもはや罪に問わないこと、天の御国がキリストにあって開かれていることを説教で告げ知らせたのです!
使徒たちは父と子と聖霊の御名によって罪人たちに洗礼を授けることにより、受洗者たちが罪の赦しに与り、聖霊様の賜物を受け、悪の力から解放されるようにしました。
また使徒たちは聖餐式を施行しました。主の聖餐において、キリストは洗礼によって新しく誕生させたご自分の子どもたちに、不死の薬としてご自身の体と血を与えてくださいます。
さらに使徒たちは神様の御言葉の力によって悪霊どもを追い出しました。
このように、使徒たちはキリストから権能を授けられた代理人として、キリストに代わって行動したのです。
4)牧師職を通してキリストが働かれる
使徒職を委ねられている牧師たちは今日も活動を続けています。
キリストがご自分に代わって宣教の職務を遂行する牧師たちを遣わされるのです。
マルティン・ルターの同僚であったフィリップ・メランヒトンが1531年に書いたルター派教会の基本信条の一つである「アウクスブルク信仰告白弁証」には「牧師」に関して次のような記述があります。
「なぜなら彼らは教会の召しのゆえにキリストの人格を代表しているのであって、自分の人格を代表しているわけではないからである。キリストが「あなたがたに聞く者は、私に聞くのである」(ルカ10・16)と言っておられるとおりである。彼らがキリストのことばや聖礼典を与えるときには、キリストの代わりにしているのである。」
(「アウクスブルク信仰告白弁証<第七条と第八条>教会について、28」より引用。訳文は「ルーテル教会信条集<一致信条書>」に従っています)
使徒職に任命された者は、その職において自分自身を代表するのではなく、キリストを代表しているのです。
キリストは彼らを通して聖礼典を教え、分け与えてくださいます。
彼らはキリストの口と手として働くのです。
あなたは、恵みの手段において自分が賜る罪の赦しと永遠のいのちとを信仰を通して受けることができます。
イエス様は十字架上の血の犠牲によって、あなたの罪をも神様に対して帳消しにしてくださいました。
あなたのことも、ご自分の僕(しもべ)を通して悪の力から救い出し、聖なるバプテスマ(洗礼)の聖礼典によって新しく誕生させてくださるのです。
主は、あなたが主に信頼し、信仰の中で成長していけるように、あなたにも御言葉を宣べ伝えてくださいます。
主は、ざんげ(告解)の聖礼典において、罪を悔いイエス様を救い主として信じるあなたにもすべての罪を赦してくださいます。
主は、主日礼拝のたびに、ご自分の体と血であなたのことも養ってくださいます。
「主のもの」として生きなさい。
主が「あなたの主」であるように生きなさい。
不信仰によって主を拒んではなりません。
キリストの教会の外にとどまっていてはなりません。
そのような生きかたは永遠の滅びへと誘導するものです。
誰ひとり自分の功績(よい行い)によっては天の御国に入れないからです。
イエス様のおかげで天の御国に行けるのです。
イエス様の血は、人と神様との間に和解をもたらし、すべての人がこの和解を信仰によって受け入れることができるようにしてくれます。
たとえあなたがどのような罪に陥っていても、どれほど弱くても、どんな問題を抱えていても、イエス・キリストの血はすべての罪からあなたをきよめてくれます。
おひとりイエス様のみを信仰し、イエス様の御許に逃れなさい。
イエス様は決してあなたを見捨てません。
イエス・キリストを信じる者として、あなたは天の御国への旅を続けてイエス様を証する使命を実現していくことができるのです。
それは素晴らしい特権です。
あなたは、イエス様のゆえに自分を愛してくださり自分のすべての罪を赦してくださる神様がおられることを隣り人たちに伝えていくことができます。
あなたは、私たち弱い罪人を理解して助けてくださる神様がおられることを伝えることができます。
神様に信頼する人を本当に全員、天の御国へ連れて行ってくださる神様がおられることを伝えることができるのです。
原文は2024年の夏にフィンランドのオウライネンで開催された全国福音大会での説教を著者自身が編集したものです。
なお訳文中に出てくる聖書訳は基本的に口語訳によっています。
また日本語版では、読者の中にキリスト信仰者もそうでない人もいることを考慮し、翻訳・編集者の判断により、聖句の付加、表現の変更、説明の補充などの多少の編集を施しています。