モーセの律法とキリスト信仰者

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

 キリスト信仰者の聖典は旧約聖書と新約聖書というふたつの部分から構成されています。「旧約聖書はキリスト信仰者には関係がない書物だ」という教えを、最初のキリスト信仰者たちもその後のキリスト教会の主流も頑として斥けてきました。旧約聖書に記されているアブラハム、イサク、ヤコブの人生での出来事は「神の民」の歴史の重要な一部であり、 神の民の礼拝ではその初期の頃から旧約聖書の詩篇が用いられてきました。

それでは、モーセの律法と様々な規定の場合はどうでしょうか。「異邦人(つまり非ユダヤ人)キリスト信仰者もまたモーセの律法に従わなければならない」という教えを、パウロは断固として拒絶し、「モーセの律法はユダヤ人に対してのみ与えられたものである」、と教えました。それから数十年を経た頃には、このパウロの教えは教会の圧倒的な支持を受けるようになり、もはやそれに目立って反対する者もいなくなりました。とはいえ、律法をめぐる議論はかなり複雑な問題を抱えているので、きちんと取り上げて問題の所在を調べる必要があります。それでこれから、「律法」という言葉でそもそも私たちはどのようなことを意味しているか、という問題を考えてみましょう。

 まず注目すべきなのは、「律法」は聖書でもその他のところでも非常に様々な事柄を意味する言葉だということです。すでにギリシア語で「律法」に対応する言葉には「法律、秩序、習慣」といった意味があります。また、ユダヤ人たちは「書かれた律法」と「書かれていない律法」とを現代の私たちほど明確には区別していませんでした。このことからもわかるように、ユダヤ人の言葉(ヘブライ語、アラム語)で書かれた旧約聖書とギリシア語で書かれた新約聖書とを合わせてただ一つの聖典とするキリスト教徒は、「律法」という同じ言葉の中に実に多様な調べを奏でる豊かな伝統を受け継いだ、ということになります。一方でこの事実は、「律法」という言葉の意味と用法に関して少なからぬ混乱を招いてもきました。以下に、律法の理解の仕方について幾つかの例を挙げます。

1)律法とは、旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)総体を指しています。たとえば、「ローマの信徒への手紙」4章で取り上げられているアブラハム(創世記に登場する人物)にまつわる部分は律法の一部とみなされます。その直前の箇所にはこう書いてあります。

「すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。」
(ローマの信徒への手紙3章31節、口語訳)

 ユダヤ教の伝統的区分によれば、旧約聖書は「律法、預言者、諸書」の三つに、あるいは、「律法と預言者」の二つに分けられます。この場合、律法には上記の五書が含まれることになります。

2)律法は、モーセが与えた律法総体を指します。

「わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。」
(ガラテアの信徒への手紙3章17節、口語訳)

 あるいは、モーセの律法の一箇所(割礼の規定)を指しています。

「見よ、このパウロがあなたがたに言う。もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。割礼を受けようとするすべての人たちに、もう一度言っておく。そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。」
(ガラテアの信徒への手紙5章2〜3節、口語訳)

3)律法は、慣習的なユダヤ人の生活様式を指しています。このような律法理解に基づいて「ユダヤ戦記」を著した紀元一世紀の歴史家ヨセフスは、「律法は子どもたちに読み書きを教えることを要求している」、という言い方をしました。実際のモーセの律法にはこのような戒めはありません。しかし、読み書きを子どもに教えるのは当時のユダヤ人の一般的な生活様式だったということです。

4)律法は、厳しい裁きを下す暴君です。罪深い存在である人間はこの律法の圧政下から解放されなければなりません。これについては、ローマの信徒への手紙7章に詳述されています。

5)律法は、神様が要求なさっている御旨を意味しています。とりわけルター派の信条においては、律法は福音という言葉の対義語です。律法は神様が要求なさる事柄を意味しており、人間には一切何も与えようとはしません。それに対して、福音は神様がキリストのゆえに賜る事柄を指しており、人間からは一切何も要求しません。この二項対立はルター派の信条の核心的な教義のうちの一つです。

6)律法は、キリスト信仰者に対して与えられている生活の指針です。

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。」
(ヤコブの手紙1章25節、口語訳)

 これまで見てきたことからわかるように、「律法」という同じ言葉は実に様々な意味で使用されることがあります。この言葉をめぐる議論が錯綜するのも無理がありません。ですから、この問題を考えるときにはもうしばらくの間いささかの忍耐が必要になります。

イエス様の時代のユダヤ人と律法

 イエス様がこの世で生活しておられた時代のユダヤ人にとって、律法は大いに喜ばしく誇らしいことでした。律法に従うことがユダヤ人をほかのすべての民族(異邦人)から区別することだったのです。ユダヤ人にとって律法は重荷ではなく大いなる喜びであり賜物でした。この態度はたとえば詩篇119篇に見られます。

「あなたのおきてがわが喜びとならなかったならば、
わたしはついに悩みのうちに滅びたでしょう。」
(詩篇119篇92節、口語訳)

 ユダヤ人の教師たちは、律法からさらに何百もの命令と禁止を抽出しました。そして、それらの規則にそれぞれ伝統的な説明が施されました。次の聖書の箇所でイエス様が「人間の言伝え」という用語で指しておられるのは、戒めについてのユダヤ教の伝統的な説明のことです。

「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」
(マルコによる福音書7章8節、口語訳)

 ここで一つの例を取り上げましょう。モーセの律法はイスラエルの人間を鞭打つときには40回以上の鞭打ちを加えて侮辱してはならない、と教えています。

「彼をむち打つには四十を越えてはならない。もしそれを越えて、それよりも多くむちを打つときは、あなたの兄弟はあなたの目の前で、はずかしめられることになるであろう。」
(申命記25章3節、口語訳)

 この律法を遵守するために、鞭打ちの数の上限を39回に設定することで、数え間違いから起こりうる律法違反の危険を回避する処置が取られました。これがユダヤ教の伝統的な説明のやりかたでした。パウロもこの39回という数字を記しています。

「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある。」
(コリントの信徒への第二の手紙11章24〜25節、口語訳)

 鞭打ちの上限回数が39と律法の規定よりも1回分少なかったのは、罰を受ける者を憐れんでの処置ではなくて、神様の神聖な律法を破らないように万全の注意を払うためでした。誤って違反しないためにも、律法はその周りにめぐらした「垣根によって守られなければならない」ものなのでした。これとまったく同じ動機から、イエス様の描くファリサイ派の人は次のように自分の行いを誇っています。

「わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています。」
(ルカによる福音書18章12節、口語訳)

 この人は自分でもうけた物だけではなくて自分のために買った物についても十分の一税を支払っていたことになります。こうして律法の規定することを過剰に厳しく解釈して十分の一税よりも多くの捧げ物をすることは税をまったく払わないことよりも良いことだ、とみなされたのです。

 この例のように、個々の律法には詳細な説明が付与されました。何百もの命令にさらに何千もの教えが加えられた結果、それらを遵守できるのは律法に通暁した真の専門家だけという事態になりました。当時のこうした風潮を考えると、律法の専門家が律法と自らの該博な律法の知識とを誇って深い自己満足感に浸ったのは合点がいきます。ユダヤ人にとって、律法は民族としてのアイデンティティーの基となるものでした。律法は、社会的な法律の他にも道徳法や礼拝の規則などを含んでいました。

 

異邦人(非ユダヤ人)キリスト信仰者と律法

 イエス・キリストは十字架で死んで三日目に復活し、のちには天に上られました。その後間もなく弟子たちに聖霊がくだり、キリスト教会が誕生しました。しかし 、ユダヤ人キリスト教徒はイエス様をメシア(救世主)と信じるようになった後でも依然としてモーセの律法に従い続けました。彼らの多くは、「異邦人も律法に従うべきである」、と考えました。「異邦人にもユダヤ教を通してキリストへの道が開かれたからだ」、というのがその理由でした。異邦人もモーセの律法の諸規定を遵守すること、まずは(男子の場合)割礼を受けることから始めて、その後ようやくキリスト教徒になれる、という考え方です。

 しかし、パウロとバルナバはそれとはまったく異なる教え方をしました。彼らは最初の宣教旅行(使徒言行録13〜14章)において異邦人たちに福音を伝えた際に、モーセの律法に従うことを異邦人から要求しませんでした。人が救われるためには、キリストにおいて成就された神様の御業で十分であり、その救いは洗礼を通して提供されるものであり、人は信仰を通して救いを自分のものとして受け取ることができるからです。ほどなくして、このことをめぐる激しい論争が起こりました。ルカは次のように記しています。

「さて、ある人たちがユダヤから下ってきて、兄弟たちに「あなたがたも、モーセの慣例にしたがって割礼を受けなければ、救われない」と、説いていた。そこで、パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じたので、パウロ、バルナバそのほか数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちと、この問題について協議することになった。」
(使徒言行録15章1〜2節、口語訳)

 この時の出来事に関するパウロの見解は彼のガラテアの信徒への手紙の言葉から読み取ることができます。

「いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。そこで、律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。なぜなら、「信仰による義人は生きる」からである。」
(ガラテアの信徒への手紙3章10〜11節、口語訳)

「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。」
(ガラテアの信徒への手紙5章4節、口語訳)

 このエルサレムにおける使徒たちの会議では、異邦人伝道をめぐってパウロの見解が承認されました。ルカの証言によれば、ペテロと主の弟ヤコブとがこの見解を支持しました。異邦人を律法に束縛しようとする一部のユダヤ人キリスト教徒に対して、ペテロは次のように言っています。

「しかるに、諸君はなぜ、今われわれの先祖もわれわれ自身も、負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて、神を試みるのか。」
(使徒言行録15章10節、口語訳)

 主の弟ヤコブは次のように言っています。

「そこで、わたしの意見では、異邦人の中から神に帰依している人たちに、わずらいをかけてはいけない。」 (使徒言行録15章19節、口語訳)

 エルサレムの使徒会議では、異邦人キリスト教徒がユダヤ人キリスト教徒と教会生活を共に送れるようにするために、異邦人キリスト教徒に対して幾つかの遵守項目が決定されました。

「ただ、偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺したものと、血とを、避けるようにと、彼らに書き送ることにしたい。古い時代から、どの町にもモーセの律法を宣べ伝える者がいて、安息日ごとにそれを諸会堂で朗読するならわしであるから。」
(使徒言行録15章20〜21節、口語訳)

 上記の決定事項のうち、たとえば血を栄養分として摂取することを禁じる戒めは、ユダヤ人たちの間で生活するかぎりは例外なく誰もが守らなければならない事柄でした。

 これらの決定事項はキリスト教信仰の根幹を揺るがすものではありません。異邦人キリス教徒はモーセの律法に従う必要はないのです。ユダヤ人は律法に従いますが、それによって救われるわけではありません。パウロ、ペテロ、ヤコブら大使徒たちの一致した見解を無視して異邦人をモーセの律法に縛りつけようとする人々は、当時のエルサレム教会ではごく少数派にとどまりました。しかし今もなお彼らと同じように、イエス様の十字架の死と復活の奇跡の御業に基づく救いを斥けて、自分自身の(律法の)良い行いによって神様に受け入れてもらおうとしている人々がいます。しかし、最後の裁きで彼らの受ける裁決は厳しいものとなるでしょう。罪の赦しはイエス様を信じる者に対してのみ与えられるものだからです。

律法はもはや無効になったのか?  

 キリスト教の正統な立場によれば、律法は異邦人キリスト教徒に与えられているものではなく、彼らは(非ユダヤ人である私たちもまた)それに従う必要はない、ということになります。

 ここでいう「律法」とはモーセの律法そのものをさしていることに注意しましょう。他の多くの意味での「律法」は今も効力を失ってはいません。神様が人間に要求なさっている神聖なる御旨は今も変わることなく存在していますし、キリスト信仰者にはこの御旨に従う義務があります。これは別のテーマになるので、後ほどふたたび取り上げることにします。

 新約聖書は、異邦人キリスト教徒がモーセの律法に束縛されていないことを明確に教えています。これが、モーセの律法とキリスト信仰者の関係を考える際の出発点です。その一方で新約聖書は、神様が旧約聖書でイスラエルの民に与えられた戒めの数々をしばしば引用しています。たとえば、イエス様は次のように言われます。

「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」
「『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」
(マタイによる福音書5章21、27節、口語訳)

 このことからもわかるように、律法全部が無効になったわけではありません。それゆえ、律法を今も有効な部分とすでに無効になっている部分とに区別する必要がでてきます。その出発点となるのが、律法は非ユダヤ人キリスト教徒である私たちには関係がない、とするパウロの教えです。ですから、「律法のうちのある部分については異邦人キリスト教徒も守らなければならない」、と言うならば、そう要求する人は自分の主張の根拠を示さなければなりません。たとえば、貝を食べるのを禁じる旧約聖書の戒めを持ち出して、「皆がこの命令を守らなければならない」、などと言い張ることはできません。なぜこの戒めが全員を束縛するものなのか、その根拠を述べなければなりません。また、キリスト信仰者のうちに住まわれる聖霊様は、こういった主張の成否を吟味して、その律法の教師が聞き手たちの良心を好き勝手に操ろうとする悪い霊の手下であるかどうか、証ししてくださいます。

 律法は次のように区分できます。

1)ヘブライの信徒への手紙によれば、キリストはご自分を唯一の犠牲の捧げ物とすることによって、「きたるべき良いことの影」にすぎない他の一切の犠牲を不要なものとしてくださいました。こうして犠牲の儀式に関わる律法はすべて無効になりました。これはユダヤ人も含めたすべてのキリスト教徒にあてはまります。私(エルッキ)も、息子が生まれた後に「家ばとのひな二羽」(ルカによる福音書2章24節)を犠牲として捧げるために神殿に赴いたりはしませんでした。

2)イエス様の教えによれば、食べ物はすべて清いものです(マルコによる福音書7章15節)。パウロも同じように教えています(ローマの信徒への手紙14章14節)。それゆえ、モーセの律法が食べることを禁じているにもかかわらず(レビ記11章7〜12節)、私たちは豚肉や貝類を食べてもよいのです。キリスト信仰者が、会食で隣席する他の人たちの食事に対する倫理的あるいは宗教的な態度を尊重して自分もそれにある程度合わせることは美徳とも言えます。しかしその場合にも、食べ物自体は汚れておらず清い物であること、また、ある特定の食べ物を意図的に食べ残したとしても何の益もないことを、忘れるべきではありません。

3)モーセの律法によれば、人は性交や生理や死者に触れることなどによって宗教的に汚れます(レビ記15章など)。しかし、これらの規定は罪とは何の関係もありません。それどころか、私たちにとっては逆になるケースさえあります。たとえば、かりに私が死んだ自分の父親を埋葬しなかったとしたら、それは正しくありません。モーセの律法によれば、死者に触れた者は自らを洗って、次の夕方まで汚れた者として他の人々と接触を持たないようにしなければならないところです。しかし、これらの規定は、異邦人キリスト教徒を拘束するものではないのです。

4)モーセの律法はイスラエルの民の社会生活に関わる法律でもありました。しかし、異邦人キリスト教徒である私たちにとってはそうではありません。乱闘騒ぎを起こせば自分が住んでいる国の法律によって処罰されます。またモーセの律法には、やもめの婚姻に関わる次のような規定がありますが、今やこの律法に従う人はごくまれだと思われます。

「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちのひとりが死んで子のない時は、その死んだ者の妻は出て、他人にとついではならない。その夫の兄弟が彼女の所にはいり、めとって妻とし、夫の兄弟としての道を彼女につくさなければならない。そしてその女が初めに産む男の子に、死んだ兄弟の名を継がせ、その名をイスラエルのうちに絶やさないようにしなければならない。」
(申命記25章5〜6節、口語訳)

 律法のうち上述のような諸部分について言えば、キリスト教徒にとっては、もはや明確に無効となっていることがわかったと思います。それではこれから、異邦人キリスト教徒にとっても無効になっていない律法の諸部分について挙げていきましょう。

1)十戒をその核とする道徳的な律法は、今でもなお有効です。私は誰も殺してはいけないし、姦淫を行ってもいけないし、誰についても陰口を言ってはいけません。最初の頃のキリスト教徒たちがこれらの道徳的な律法をはっきり遵守する姿勢をもっていたことは、新約聖書の中にある美徳と悪徳の一覧表からわかります。その例として、コリントの信徒への第一の手紙6章9〜11節、ガラテアの信徒への手紙5章16〜26節があります。

「それとも、正しくない者が神の国をつぐことはないのを、知らないのか。まちがってはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者は、いずれも神の国をつぐことはないのである。あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。」 (コリントの信徒への第一の手紙6章9〜11節、口語訳)

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」
(ガラテアの信徒への手紙5章16〜26節、口語訳)

2)「人が実行することを神様が要求なさっている御旨の表れ」という意味での「律法」には、霊的な用い方があります。このことについて、パウロは次のように述べています。

「さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法のもとにある者たちに対して語られている。それは、すべての口がふさがれ、全世界が神のさばきに服するためである。なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。」
(ローマの信徒への手紙3章19〜20節、口語訳)

 それぞれの問題に個別に対処する時に、キリスト信仰者は(聖書に基づく)自らの良心の声に耳を傾けなければなりません。

 たとえば、使徒言行録15章に記されているエルサレムでの使徒会議は、異邦人キリスト信仰者に対しても、血のついたものを食べるのを禁じました。ですから、「この決定は現代に生きる自分にも適用されるべきだ」、と考える人にはその理解に沿って行動する自由があります。

 多くの教会は教会員が自分の収入の十分の一を献金することを要求しています。しかし、旧約聖書とはことなり、この要求は新約聖書にはほとんどみられません。ただし、イエス様は次のように教えておられます。

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。」
(マタイによる福音書23章23節、口語訳)

 十分の一献金の意義は、人が貪欲にならないように守り、自分の持ち物を気前よく教会の働きのために捧げるよう奨励するところにあるとも言えます。ですから、誰に対しても十分の一献金を強要するべきではありません。各人が自発的に決めていくべき事柄だからです。

 旧約聖書は入墨をすることを禁じています。

「身に入墨をしてはならない。わたしは主である。」
(レビ記19章28節より、口語訳)

 しかし、新約聖書にはこのように直接的な掟はありません。そのかわり、新約聖書は何度も繰り返して、「キリスト信仰者は外面的な容姿を着飾るのに気を取られすぎてはいけない」、と警告しています。そして入墨は、人の外面を消せない装飾によって変えてしまうものです。

 モーセの律法は男に対して次のような髪型をするように要求しています。しかし、かりにこのスタイルが似合う場合であっても、それに従う人はごくまれでしょう。

「あなたがたのびんの毛を切ってはならない。ひげの両端をそこなってはならない。」
(レビ記19章27節、口語訳) 

 キリスト信仰者は聖書に照らして自らの良心を吟味し、何が正しくて何が間違っていることか、考えてみてください。

教会の歴史

 キリスト教会ではすでにその始まりの頃から、ユダヤ人キリスト教徒にくらべて異邦人キリスト教徒の占める割合が一方的に増えていきました。ほどなくして、パウロの教えた律法に関する見解が教会の圧倒的多数の支持を得るに至りました。それに応じるかのように、後代のキリスト教徒たちは、ガラテアの信徒への手紙(2章)と使徒言行録(15章)とが描いている「律法をめぐる論争」の焦点が何であったのかを理解できなくなってしまったとも言えます。「異邦人キリスト教徒とユダヤ人キリスト教徒」という対立的な構図が消えたため、争点がぼやけてしまったのです。旧約聖書の戒めはたしかに神聖な御言葉の一部であるが、私たち異邦人キリスト教徒には関係がない、ということはなかなか理解しがたいものでした。教会の初期の神学的著作である使徒教父文書の一つ、バルナバの手紙(紀元2世紀頃に成立)では、キリスト教徒をモーセの律法から引き離すことを目的として、戒めに対して文字通りの解釈を施すのではなく、過度に霊的な説明を加えました。紀元3世紀には、ほとんど恣意的とも言えるやりかたで律法の戒めの中から一部の箇所を選び出し、キリスト教徒も守るべきものとして提示した人々がいました(たとえば、アレクサンドレイアのクレメンス)。時代がくだると状況はさらに混乱の度を増していきました。紀元4世紀には、ある異邦人キリスト教徒たちが、「キリスト教徒もモーセの律法の清めにかかわる諸規定に従うべきである」、と要求し始めました。しかし、教会はこの要求を斥けました。アルキノウスのDidaskalikosという書物(紀元二世紀の中頃の成立)はそのあたりの事情を伝えています。ただし、モーセの律法の規定にキリスト教徒を強制的に従わせようとする試みに反対する論拠としてガラテアの信徒への手紙を持ち出すことは、この時代の人々にはもはや思い至らなかったようです。

ルターと律法

 宗教改革者マルティン ルターは、キリスト教会が説教を通して律法の意味を教えることをやめさせようとする試みを厳しく斥けました。ルターにとって「律法」とは、多くの場合、清めにかかわる諸規定を含むモーセの律法ではなくて、「人が実行することを神様が要求なさっている御旨の表れ」を指しています。この点をふまえておくのはとても重要です。ガラテアの信徒への手紙で展開された論争はすでに過去のものとなり、約1500年もの間、現実的な問題ではなくなっていました。それにかわって大きな問題とみなされたのは、「人が実行することを神様が要求なさっている御旨の表れ」のほうでした。ルターによれば、律法に表されている神様の御旨が失われると、それとともに福音も失われてしまうことになるからです。

 後に、ルター派の神学者たちは、律法に三種類の用法を定義しました。

「律法は、次の三とおりの理由で、人間に与えられている。
第一に、律法によって、粗暴な者、不従順な者に対して外的な規律が保たれること、
第二に、律法によって、人が罪の認識に導かれること、
第三に、生まれかわったのち、なお、肉が固着しているので、そのためある規範をもち、それに従って、人が、その全生活を実践し、整えること。」
(ルーテル教会信条集、和協信条・梗概・第6条 律法の第三用法について 聖文舎発行による日本語版(1982年)717頁)

 ルター自身はこれらの律法の三つの用法を列挙してはいません。しかし、福音の説教と結びつけて律法を二番目のやりかたで使用し続けることは、事実上、律法を三番目のやりかたで使用していることにもなります。キリスト信仰者は神様の御声に聴き従う義務があります。その意味で、ルター派のこの信条は、たとえば洗礼について教えるローマの信徒への手紙の6章以下に書いてあることがら、すなわち、律法から解放されたキリスト信仰者が聖書に基づく良心に従って生きていく状態、を表しているとも言えます。

 最後にもう一度繰り返しますが、モーセの律法の諸規定には、異邦人キリスト教徒は縛られてはいません。