神様、あなたは誰ですか。
1) 「まことに、あなたはご自分を隠しておられる神である。」(イザヤ書45章15節)
「神よ、わたしは疲れた。神よ、わたしは疲れ果てた。
わたしは確かに人よりも愚かであり、わたしには人の悟りがない。
わたしはまだ知恵をならうことができず、また、聖なる者を悟ることもできない。
天にのぼったり、下ったりしたのはだれか、風をこぶしの中に集めたのはだれか、
水を着物に包んだのはだれか、地のすべての限界を定めた者はだれか、
その名は何か、その子の名は何か、あなたは確かにそれを知っている。
神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。
その言葉に付け加えてはならない、
彼があなたを責め、あなたを偽り者とされないためだ。」
(箴言30章1〜6節、1節は新共同訳、2節〜6節は口語訳による)
多くの人にとって「神」という存在は謎めいています。神についてあれこれ考えを巡らしてみても、どうにも捉えどころがないように感じられるのです。神を見ることも絵に描くこともできません。神と会話することも神から意見を問うこともできません。神は遠く離れた、靄のかかった存在です。そもそも神など存在するのか、という疑問さえ湧いてきます。人間が神を捉えようといくら躍起になったところで、うまくいきません。
これはキリスト教信仰の大切な一面であり、ルター派は次のようにそれをあらわしています。 神様は「隠された神」です。神様が人間と出会いたいと望まれているところ以外の場所では、決して神様とは出会えないようになっています。神様は罪深い人間の世界からは隠されています。神様は自らを隠し、人間に対して背中を向け、見つからないように隠れることを望まれたからです。
キリスト教会のある神学者は次のように言っています。 「スズメがそう望まなければ、あなたはスズメさえ捕まえることはできないでしょう。もしも神様があなたに会いたいともあなたに見つけられたいとも思っておられないなら、あなたが神様を捉えることなどどうしてできましょうか。」
旧約聖書の登場人物ヨブは幾多の大変な苦しみを経験しました。彼は神様について次のように言っています。
「見よ、彼がわたしのかたわらを通られても、わたしは彼を見ない。
彼は進み行かれるが、わたしは彼を認めない。
見よ、彼が奪い去られるのに、だれが彼をはばむことができるか。
だれが彼にむかって『あなたは何をするのか』と言うことができるか。
神はその怒りをやめられない。ラハブを助ける者どもは彼のもとにかがんだ。
どうしてわたしは彼に答え、言葉を選んで、彼と議論することができよう。
たといわたしは正しくても答えることができない。
わたしを責められる者にあわれみを請わなければならない。
たといわたしが呼ばわり、彼がわたしに答えられても、
わたしの声に耳を傾けられたとは信じない。
彼は大風をもってわたしを撃ち砕き、ゆえなく、わたしに多くの傷を負わせ、
わたしに息をつかせず、苦い物をもってわたしを満たされる。
力の争いであるならば、彼を見よ、
さばきの事であるならば、だれが彼を呼び出すことができよう。
たといわたしは正しくても、わたしの口はわたしを罪ある者とする。
たといわたしは罪がなくても、彼はわたしを曲った者とする。
わたしは罪がない、しかしわたしは自分を知らない。わたしは自分の命をいとう。
皆同一である。それゆえ、わたしは言う、
『彼は罪のない者と、悪しき者とを共に滅ぼされるのだ』と。
災がにわかに人を殺すような事があると、彼は罪のない者の苦難をあざ笑われる。
世は悪人の手に渡されてある。彼はその裁判人の顔をおおわれる。
もし彼でなければ、これはだれのしわざか。」
(ヨブ記9章11〜20節、口語訳)
隠された神様は、誰一人近づくことも理解することもできない存在です。たとえそれを試みたとしても、人は結局いつも失望し、道を見失い、ついには自分で見つけたつもりになった自分の神(それは実は自分で勝手にこしらえあげた神なのですが)に怒りをぶつける結果になります。
しかし、神様には出会うことは可能なのです。この方は、 私たちの祈りを聴いてくださる恵み深い活ける真の神様です。この方は活ける人格的な存在であり、聞こえがよい原理原則を束ねただけ抽象的なイメージなどではありません。具体的にこの方を見出すことができるし、逆に、この方もまた人を見つけることができます。しかし、この場合に大切なのは、小さき存在である人間が大いなる神様が言われていることを正確に聴かなければならない、ということです。神様が自らを隠したいと望まれている場所からではなく、人に見つけられることを期待しておられる場所からこそ、神様を探さなければなりません。聖書だけが、人間の想像の産物などではない、活ける真の神様をあなたの前に提示します。聖書なしでは、誰一人決して解決できない大いなる謎に生涯にわたって振り回されることになってしまいます。
「神の言葉はみな真実である、神は彼に寄り頼む者の盾である。」
(箴言30章5節、口語訳)
2)二つの真実
真実の世界は二つ存在します。一つは、私たちが目で見、手で感じ、耳で聞く世界です。もう一つは、神様の御言葉が描き出す真実の世界です。聖書によれば、幾人かの人たちはこの後者の世界と神様ご自身とを見る機会を与えられました。神聖なる偉大な存在を目の当たりにした彼らの言葉には、 戸惑いと畏敬の念と小さき人間が抱く畏怖とが混じり合い反響しています。
「わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。
その御座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。
彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。」
(ダニエル書7章9〜10節、口語訳)
このように、この神聖で偉大なるお方を、幾人かの人々は面と向かって見たことがあるのです。例えば預言者イザヤはその一人でした。彼は大いなる御国の礼拝の只中に突然連れ去られ、恐怖のあまり叫び声をあげました。彼は、罪深い者である自分がこのような聖徒の群れに加えられることも神聖なるお方の御前に立つこともできないことを、はっきりと自覚したからです。(イザヤ書6章1〜6節)。 このイザヤのケースよりもずっと控えめな形ではあれ、神様との出会いを体験し、日常の世界とは異なるもうひとつの真実の世界の存在と神様の神聖さについて何かしら感じ取った人は大勢います。それだけの経験でも彼らには十分でした。神様は神聖なるお方であり、彼ら自身は罪深い存在である、という大切なポイントを彼らは理解したからです。神様の御前では、人間は各々自らの罪のゆえに永遠の暗闇の世界に閉じ込められるという裁きを受けるのが本来なら当然である存在にほかならないからです。
3)「イスラエルの神、救主よ、」 (イザヤ書45章15節の前半)
神様は、罪深い存在である人間の罪深いこの世界での悲惨な生活を遥か栄光の世界から傍観してはおられませんでした。神様は、私たちが全員揃って永遠の滅びの世界に落ちていくのをじっと待つようなこともなさいませんでした。神様は私たちのことを、心に留めて近づいて愛を示してくださいました。神様は具体的な行動に移り、ご自分の御子を私たちのいる場所に派遣してくださいました。聖書は次のように言っています。
「すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない。 神はこう言われる、
「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、救の日にあなたを助けた」。
見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。
(コリントの信徒への第二の手紙5章19節〜6章2節、口語訳)
キリスト教の核心部には、互いに結びつけるのがやや難しい二つの側面があります。それらのうちの一方は非常に幅広く、もう一方はとても狭い、という特徴をもっています。第一の側面は、「神様はイエス様のゆえに人を皆分け隔てせずに受け入れてくださる 、というものです。第二の側面は、「イエス様とそのあがないの御業を無視する人は神様の救いの恵みをまったくいただけなくなる」、というものです。
「イエスは彼に言われた、
「わたしは道であり、真理であり、命である。
だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
(ヨハネによる福音書14章6節、口語訳)
第一の側面を理解するのが難しいのは、それがあまりにも簡単すぎるように思えるからです。しかし、神様の恵みは価なしにただで与えられるものです。そうでなければ、「恵み ではなくなるからです。神様はキリストにあって、ご自分に敵対する罪深い世と仲直りしてくださったのです。
第二の側面はあまりにも厳しすぎるように感じられます。神様の恵みはキリストを通してのみ与えられるものだということは、ほかのどのような道でもだめなのか、という疑問が湧いてくるでしょう。しかし、まさしくその通りなのです。キリストは神様の御許に至る道、しかも唯一の道なのです。私たちを愛しておられる神様の御顔を見る方法はたったひとつだけであり、それはイエス様を通してのみ実現するのです。キリストを拒む人には、憐れみ深い神様がいなくなります。天の御国へ行く際に、ちゃんと扉から中に入らない人は、石の壁を通り抜けることもできません。上述の二つの側面はどちらも真実です。価なしに与えられる完全な恵みは、キリストにおいて、しかもキリストにおいてのみ、存在するものなのです。
私は夏休みにはフィンランド近海の小島で多くの時間を過ごします。時には誰かの携帯電話が海の中に落ちてしまうこともあります。そうなったら、もう仕方がないです。携帯は手元には戻りません。ボートのエンジンが外れて海に沈んでしまうこともあります。そうしたら、もう海釣りには行けなくなります。過ぎたことは過ぎたことです。こういった事故は残念な出来事です。しかし、聖書が神様について教えてくれることは私たち人間にとても大きな慰めを与えてくれます。
「だれかあなたのように不義をゆるし、その嗣業の残れる者のために咎を見過ごされる神があろうか。神はいつくしみを喜ばれるので、その怒りをながく保たず、
再びわれわれをあわれみ、われわれの不義を足で踏みつけられる。
あなたはわれわれのもろもろの罪を海の深みに投げ入れ(られます。)」
(ミカ書7章18〜19節、口語訳)
神様が私たちのすべての罪をキリストのゆえに深い海の底に沈めてくださるときには、それらの罪を釣り上げることは悪魔にさえもできません。誰一人、どのような天使にさえもできないのです。
4)信頼について
キリスト教の扱う内容は多面的な広がりをもっています。それらのうちの一つは「信頼」、善い神様への信頼に関わっています。
あなたは誰を信頼していますか。しばらく考えてみてください。本当に心から信頼している人の名前を幾つか挙げてみてください。彼らは誰で、あなたはどうして彼らを信頼しているのですか。道端で向こうから見知らぬ人が来て、あなたの銀行カードを求めその暗証番号を尋ねたとしましょう。その人にあなたはカードを与えないだろうし、暗証番号を教えたりもしないでしょう。しかし、そうしてもよいと思えるほど信頼できる人があなたには誰かいますか。私は息子にカードを渡して車のガソリンを入れに行ってもらうように頼むことができます。彼がそのカードを悪用することがないと知っているからです。多分あなたにもそのように信頼の置ける人が誰かいるかもしれません。ともあれ、このような信頼がどのようにして生まれたのか、考えてみてください。それは、ゆっくりと何年もかけて、時には困難を乗り越えて、育まれてきたものではないでしょうか。そうして、「この人間は私を今まで一度も欺かなかったし、これからも決して欺くことがないだろう」、という信頼が培われてきたのです。
これとまったく同じようにして神様への信頼も生まれます。礼拝への参加し聖餐を受けること、賛美歌を歌うこと、危機に遭遇すること、といった体験を少しずつ積み重ねていくことを通して、それは培われていきます。神様が私をどこにまたどうして連れて行こうとなさっているか、その時の私は知りませんでした。しかし、実際にちゃんとした理由があってある特定の場所に神様は私を連れて行かれたのだということを、今の私は知っています。神様は私を捨てたり、忘れたり、放っておいたりなさいませんでした。罪深い者である私を、神様は何年間も何十年間も耐え忍んでくださったし、天の御国の故郷まで連れて行くと約束してくださいました。これほど善い神様に信頼を寄せる練習を、私は今も続けていますし、実際にも神様への信頼の中で生活しています。天の父なる神様がご自分の子どもであるキリスト信仰者を捨てることがありえましょうか。
5)つまり、神様とは?
神様は大いなる謎であり、人間の理解を超えた神聖で隠されたお方です。罪も暗闇もこの方には似つかわしくありません。にもかかわらず、神様はイエス様を通して罪深い人々の方に向き直ってくださり、父親として人間を心から燃えるように愛してくださっているのです。答えのない多くの質問や、あらゆる弱さや、罪深さの最中にあって、使徒ペテロが伝える次の神様の御言葉は希望の光を与えてくれます。
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。
現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。
(ペテロの第一の手紙1章8〜9節)