もしも目の前に荒野があらわれたなら
信仰生活に疲れて、いろんな理由から教会に通う力もない、と感じることは誰でもあるでしょう。 そのような時にどうすればよいのか、少し考えてみたいと思います。
イエス様を信じるようになるとき、多くの人はたくさんのことを経験します。ところが、時とともにそれら経験したものがすべて消えてしまうということがあります。そのようなときに何をすればよいのでしょうか。信仰は一瞬だけの泡のようなものにすぎないのでしょうか。真理とは何の関係もない、人の心の中の生々しいあらしにすぎないのでしょうか。
いつの時代もほとんどのクリスチャンが、こうした問題にぶつかってきました。この問題に対してよい薬を見つけた人もいれば、やましい良心をもちつづけている人もいます。「自分で信じる」という能力が消えると同時に、信仰を失ってしまう人が何人もいます。
自分自身の状態を正直に見つめて、「私は信仰者にはなれない。私は自分の信仰を失ったのだもの。」などという人も多いです。この人の言っている初めの半分は正しいです。しかし、終わりの半分についてはべつにそうなると決まっているわけではありません。それどころか、まさに今こそ本当の神様の恵みを見つけることが可能になるのです。
人が自分の中に「信じるための起爆剤」をもっている間は、その人の信仰はある種の「外面」をもっています。しかし、そうした起爆剤が底を尽きると、「自分の力」なるものは取り去られてしまいます。自分の力が完全に消えうせてしまったときになってはじめて、人は、神様の愛を受けるにはまったくふさわしくないはずである自分のような者を愛してくださっている神様へ、自分の心をあずけることができるようになります。聖書の神様に対して、心が開かれるのです。御自分を罪深い世の命として差し出してくださった神様に、自分を明け渡します。神様の恵みとはどういう意味か、わずかながらも次第にわかってくる時になったのです。
ルター派の信仰の最も貴い宝石のひとつに、日々復唱すべき信仰告白の第3条(聖霊について)の次のような説明があります。
「第3条 聖化について
聖霊様を、私は信じます。また、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠の命を信じます。アーメン。
この意味は何でしょうか。答え。
「私は自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、そのみもとに来ることもできない」ことを、私は信じます。けれども、聖霊様は、福音を通して私を召し、その賜物をもって私を照らし、真の信仰のうちに聖め、保ってくださいました。(以下略)」
これはへりくだった信仰告白であり、また祈りでもあります。私がキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んでくださいました。もしも神様が今私から御霊を取り去るなら、私は一日たりとも信仰に留まることはできません。
人は、自分の力で行うことができ、知ることができる間は、聖礼典(洗礼と聖餐のサクラメント)とは何のかかわりもなく生きています。ところが、自分の力がすべて消えうせてしまうと、神様の力が大切になってきます。神様は洗礼において、私たちの上にキリストを着せてくださったのです。それはちょうど暖かくて清潔なコートを着せてくださるのと同じです(ガラテアの信徒への手紙3章27節)。[1] 聖餐式に参加するときに、あなたは自分の唇でキリストに、そのからだと血に触れることになります(コリントの信徒への第1の手紙11章)。 そのときに神様は私たちから遠く離れておられるのではありません。すぐ近くにおられて、私たちを憐れみ、罪を赦し、世話してくださっているのです。また、私たちにクリスチャンとして生きる新しい力を与えてくださっているのです。
イエス様を信じるようになることは、多くの人にとって素晴らしい経験です。とりわけ、「自分は信仰者などには到底なれない」とはっきりわかったときにはじめて、キリストの恵みが見出されるのです。そのときに、自分の積み上げてきた仕事は溶け去ってしまいます。しかし一方では、神様のみわざ、聖書、洗礼、聖餐とざんげ[2]とは、揺らぐことのない「岩」であることがあきらかになります。 こういうわけで、「荒野」はべつに悪いことばかりではありません。荒野は私たちに、自分の力をわきに斥けて、神様の力を見つめるように教えてくれます。ルターは、「神様は天国まで届くほどの、燃え上がる愛のオーブンである」と言っていますが、それはこのことを意味しているのだと思います。
「しかしシオンは、「主は私を捨て、主は私を忘れられた」と言いました。「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあるでしょうか。たとえ彼らが忘れるようなことがあっても、私は、あなたを忘れることはありません。ごらんなさい、私は、手のひらにあなたを彫り刻みました。あなたの石がきは常に私の前にあります。」(イザヤ書49章14~16節)
[1] 「キリストの中へとバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのです。」 この「着た」というのはギリシア語では中動態です。すなわち、人間が自分の力で積極的(能動的)にキリストを着たのではありません。といって、人間は一方的に(受動的に)キリストを着せられているわけでもありません(訳者註)。
[2] 「ざんげ」とは、神様に自分の罪を告白し、神様から罪の赦しの宣言をいただくことです。牧師が、ざんげする者の罪の告白を聞き、それから神様の御前で神様にかわり罪の赦しを宣言します。ざんげをした者は、その赦しの宣言が、神様御自身からのものであることを、疑わずにかたく信じなければなりません。
(聖書の引用は口語訳からのものです)