人には、自分で自分の命を消すことが許されているのでしょうか?
自殺は、世界のさまざまな文化の中で、時代によって、いろいろなやり方で取り扱われてきました。自殺が「勇気に満ちた素晴らしい行い」とみなされたケースも多くあります。とりわけ紀元1世紀のローマでは、自らの手で命を絶つことは、「人間が自分の命について、自ら勇気ある選択を行い、それを変わりやすい運命の手に放棄したりはしなかった」ことを示すものとみなされました。
旧約聖書は自殺について4つのケースを挙げています。
1)士師記9章54節(アビメレク)
2)サムエル記上31章4~5節(サウル)
3)サムエル記下17章23節(アヒトペル)
4)列王記上16章18節(ジムリ)
多くの場合、人々の行動について評価を下さずに語るのは、旧約聖書に典型的な特徴です。にもかかわらず、読者は、たとえばサウルやアヒトペルのケースに関しては、彼らの自殺が「間違った道の間違った結末」であったことを理解します。新約聖書にあらわれる自殺の唯一のケースは、イスカリオテのユダの最期です。ペテロとユダという、罪に落ち込んだふたりの人間の後悔を比べてみるとそこに決定的な違いがあることに、クリスチャンたちは昔から注目してきました。すなわち、ペテロは悔いてキリストのみもとへと戻ったのに対し、ユダは自殺への道を選んだのです。
血に塗れた過酷な迫害は、初期の教会史に深い刻印を押しました。その時期には、あがない主イエス様を否定するぐらいなら自らすすんで死を選んだクリスチャンたちがいました。ある意味で彼らは迫害における英雄たちでした。
「殉教を慕う心は自殺を求める心に近いのではないか」とみなす研究者たちもいます。しかし実際は、クリスチャンに対して「自分からすすんで拷問を受けて、死になさい」などという教会の教えや助言はありませんでした。教会は何世紀にもわたって愛をもって殉教者たちを覚えてきましたが、一方では自殺を否定してきたのです。
神様の命令であるモーセの十戒の中の第五戒は、「あなたは殺してはならない」です。この主の命令に基づいて教会教父ラクタンティウスは、「人間は非常に聖なる存在であり、神様は人の命をそれを殺した者の手から要求なさる」と言っています。神様御自身が人間の中に命の炎を吹き入れてくださったのです。偉大な創造主の「時」がくると、主御自身がその命の炎を吹き消されるのです。このように行う権威は人間には与えられてはいません。他の人に対してもまた自分自身に対しても。私たちは命を神様の御手からいただきます。たとえそれが痛みと苦しみに満ちた困難な人生であったとしてもです。
私たちは「命を守る」ために働くべきです。それゆえ、隣り人の生きる意欲を聞いて助けて守るのがクリスチャンの義務です。この点について私たちはもっと他の人たちに対しキリストが与えてくださる愛をもつべきだし、もっと彼らを助ける意欲が今まで以上に必要なところです。
自殺してしまった人たちを裁くのは私たちの仕事ではありません。私たちは彼らを神様の御手にゆだね、彼らがすべての罪から憐れまれるように祈ります。
「偶然に生れた人はただの一人もいない。今存在しているのは偶然ではない。神様に忘れられている人もいない。人ひとりひとりの命は神様にとって貴くかけがいのないものだ」という真実を、今生きている私たちは決して忘れてはなりません。
(聖書の引用は口語訳からのものです)