キリスト信仰者と旧約聖書
聖書の引用は口語訳によっています。またこの日本語版では読者の理解を助けるために聖書の箇所の追加や表現の変更などの編集が施されています。
はじめに
旧約聖書を習得することは容易な作業ではありません。旧約聖書にはたとえば聖書の冒頭の天地創造のくだりなど現代人の目には奇異に映るかもしれない叙述が含まれています。人が旧約聖書を読む時には、ともするとそうした箇所は片隅に追いやられ無視されることが多いのではないでしょうか。旧約聖書とキリスト信仰者のかかわりを考察するこの小文では新約聖書が旧約聖書をどのように解釈しているかを調べてみることにします。あまりくわしくこのテーマを扱うことはできませんが、新約聖書に収められている使徒たちの書き記した諸文書が初期のキリスト教会に対して示した「教会の歩むべき道」についての理解を多少なりとも深めることにはなると思います。また、私たちはキリスト信仰者として旧約聖書を読むことで多くの貴重な発見をすることに気づかされることでしょう。
神様の聖なる御計画について 〜 「エフェソの信徒への手紙」
新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」は私たちの心を深く揺り動かす特徴を持っています。それはこの手紙がイエス様の成し遂げられた救いの御業を神様の遠大な御計画の核心とみなしているという点です。天地創造以前の段階で神様はすでに「あること」を行うことを決定なさっていました。そして、その実現に向けて神様はひたすら長い年月をかけて周到に準備をなさったのです。神様の時を超えた奥義がイエス様の十字架の死と復活を通して明らかにされ、すべての人々に宣べ伝えられるべきものとして聖書に啓示されました。パウロはこの奥義を宣教する者として選ばれたのです。まさにそれゆえに彼は主からの特別な任務を受けた幸福者でした。パウロの書き記した「エフェソの信徒への手紙」は、キリストがこの世に生誕なさる以前の時代に神様の民イスラエルの間で起きたさまざまな出来事を書き記した旧約聖書をたいへん重要視しています。もっとも、このことに気が付かない読者もいるかもしれません。現代では旧約聖書に対して冷淡な突き放した態度をとる人が多いようです。残念ながら、これはキリスト信仰者にもあてはまるでしょう。旧約聖書に書かれている具体的な内容までは知らない人が大半でしょうし、旧約聖書は、たとえそれが家にあったとしても、ろくに繙かれることもないまま本棚で埃をかぶっているか、あるいは、あからさまに拒絶される場合が少なからずあると思われます。しかし、旧約聖書に対するこのような態度は「エフェソの信徒への手紙」の根底にあるメッセージとは決して相入れないものなのです。しかし、はたして私たちはそのことがわかっているのでしょうか。私たちキリスト信仰者の生活において旧約聖書がどのような位置を占めるものであるか、今こそ再考するべきでしょう。
預言者たちもたずね求め、つぶさに調べたこと 〜 「ペテロの第一の手紙」
「ペテロの第一の手紙」は小アジア地方に散在していたキリスト信仰者たちに向けて書かれました。おそらく彼らのうちの大多数は、以前は異教徒であったけれども最近になってキリスト信仰に入った人々であったと考えられます。こうした背景からすると、小アジアのキリスト信仰者たちは旧約聖書についてよくは知らなかったのではないかと思われます。それにもかかわらず、この手紙は彼らに対してほかでもなく旧約聖書の教えのもつ重要性を強調しているのです。
旧約聖書の預言者たちは視線をしっかりと未来に向けて、来たるべきメシア(すなわちキリスト)について予言しています。
「彼らは、自分たちのうちにいますキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光とを、あらかじめあかしした時、それは、いつの時、どんな場合をさしたのかを、調べたのである。」
(「ペテロの第一の手紙」1章11節、口語訳)
読者は先に取り上げた「エフェソの信徒への手紙」におけるのとまったく同じ視点がこの手紙にもあることに気づくことでしょう。すなわち、キリストの救いの御業は他から隔絶した出来事ではなく、すべてが旧約聖書の形成した基盤の上に建てられているということです。教会の歴史において旧約聖書が片隅に追いやられてしまった時期は今までに何度もありました。例えば初期の教会に現れて旧約聖書を貶めたマルキオンの異端の教えは、教会の純正な教えを守るために指導的な役割を果たした教父たちによって最も厳しく峻拒されました。ここ百年間の過去における例としては、ナチスの権力下にあった教会政治家たちを挙げることができます。彼らにとって旧約聖書は「ユダヤ人たちの作り話」に過ぎないものでした。しかし、彼らと同類の偽教師たちは現代にも出現してきています。ですから「ペテロの第一の手紙」の読者は旧約聖書を意図的に無視する姿勢がいかなる事態を招くことになるのかについてわきまえておくべきでしょう。旧約聖書を軽視すると、それとともにキリストも消え失せてしまうし、キリストがもたらした贖いもなくなってしまうのです。
エマオへの旅路の同伴者 〜 「ルカによる福音書」
「ルカによる福音書」の最終章にはエマオの村に向かって旅をする二人の弟子が登場します。彼らはエルサレムで起きた出来事を深く悲しみ、途方に暮れていました。道すがら彼らは見慣れない旅人に遭遇します。彼らはその旅人にナザレ人イエスが十字架刑に処されて殺されたこと、それとともに全てが台無しになってしまったことを語りました。その一方で、彼らはイエス様が死者の中から復活なさったのを目撃したと証言する人々が出てきたことに戸惑っていました。実は、彼らの道連れになった旅人はほかならぬ復活された主イエス様でした。イエス様は御自身のことを彼らには気づかれないようにしながら彼らと共に歩まれ、二人の弟子に旧約聖書の冒頭のモーセ五書から旧約聖書の終わりまでを通してお教えになりました。そして、旧約聖書全体がメシア(すなわちキリスト)は苦しみを受けて死んだ後に栄光に入らなければならないと証していることを宣教なさいました(「ルカによる福音書」24章)。道中この教えを聴き学んだ彼らは遅くとも宿屋でキリストが彼らにパンを割かれた時には眼前の旅人がキリストにほかならないことをはっきり認識しました。すなわち、弟子たちはイエス様のことを御言葉と聖餐の聖礼典(サクラメント)によって見分けることができたのです。イエス様が彼らに旧約聖書のどの箇所について説明なさったのかは想像するしかありません。すでに旧約聖書の最初の書「創世記」にはいつか来るべきメシア(すなわちキリスト)についての予言が書き記されています。「創世記」の冒頭で人類の始祖であるアダムとエバは罪に堕落してしまいます。しかしそのすぐ後に、神様は来るべきキリスト(「女のすえ」)が十字架の死によって悪魔(へびの末裔)に勝利なさるという次の約束を予言としてお与えになりました。
「主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。」
(「創世記」3章14〜15節、口語訳)
この箇所の他では例えば「詩篇」22篇や「イザヤ書」53章もキリストの受難について予言しています。エマオへ向かった旅人たちに起きたのと同じように、キリスト教会は御言葉と聖礼典(すなわち洗礼と聖餐)を通して霊的に目が開かれたときにはじめてキリストを旧約聖書の中から見出すことができるようになったのです。
心にかかっているおおい 〜 「コリントの信徒への第二の手紙」
「今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。」
(「コリントの信徒への第二の手紙」3章15節、口語訳)
初期の教会のキリスト信仰者たちは、旧約聖書の読者のうちの全員が旧約聖書からキリストを見出すことができたとはかぎらないことをよく知っていました。パウロは旧約聖書の教えを引き合いに出してこのことを示しました。「出エジプト記」34章は、イスラエルの民を荒野で指導したモーセが神様から直接に御言葉を受けたと記述しています。モーセはそれらの御言葉をイスラエルの民に取り次いで語った時には顔におおいをかけました。パウロは「コリントの信徒への第二の手紙」3章において、キリストを拒絶したイスラエルの民は心におおいがかかったままで旧約聖書を読んでおり、そのせいで、旧約聖書がほかならぬキリストについて証しているという大切な真理を見失っている、と言っています。キリストにあってのみこのおおいは人から取り除かれるものだからです。この例からもわかるように、旧約聖書はそこからキリストを見つけないまま読まれてしまうことがありうるのです。しかし、パウロや他のキリスト信仰者たちによれば、そのような旧約聖書の読み方は正しいものではありません。私たちキリスト信仰者にとっての大きな課題は、聖書の前半部をなす旧約聖書をキリストに基づいて読む術を習得することです。現代ではこのような聖書の読み方はキリスト信仰者たちの間でさえも曖昧になってきています。なぜなら、その大切さを教える教会や聖書の教師が少なくなってきているからです。どのようにすれば旧約聖書を正しく読むことができ、またどのようにすれば間違った読み方をしてしまうのか、私たちは慎重に学びを深めていくべきです。この両者の本質的なちがいについて学ぶべきことはいくらでもあります。この小文ではこのことについてもいくつかの大雑把なスケッチを描くことになるでしょう。
予言と成就
初期の教会のキリスト信仰者たちは旧約聖書をどのように読んできたのでしょうか。今まで取り上げてきた箇所は教会における最初の読み方を例示しています。それに対して、現代の聖書研究者の多くは旧約聖書をそれとは異なるやり方で読みます。そうすることによって例えば「イザヤ書」や「詩篇」が書かれた当時の最初の読者たちがどのようにそれらの文書を理解したのかを明らかにしようと努めるのです。研究者はテキストのもつ歴史的な意味内容に関心を寄せます。たしかにこのような研究も大切です。しかしその一方で、聖典はとりわけ古典古代においてもうひとつのさらに重要な意味内容を持っていたことも忘れるべきではありません。すなわち、いつの時代かにはかかわりなく、テキストが読者たち自身にとって彼らの生きた時代にどのようなメッセージを持ちうるのかという意味内容です。そして、このことを考察するときには、先ほど述べた歴史的な意味内容は副次的なものになります。まさしくこの視点から旧約聖書全体の宝物が私たちに対して新たに実り豊かなものとして開示されるのです。イエス様が十字架刑によって死なれた過越の祭りの時にエルサレムを訪れたユダヤ人たちは巡礼の際にさまざまな詩篇を朗唱していました。彼らはそれらの詩篇のもつ歴史的な意味内容の詳細には興味を示しませんでした。それらの詩篇は神様が彼らイスラエルの民を敵どもの手から解放してくださったことを語っており、彼らの信仰生活の一部としてすっかり溶け込んでいたのです。それらの詩篇が歴史的な文書として読まれるときには、そこにはローマ人についての言及などは何も見られません。にもかかわらず、ユダヤ人もローマ人もいったいどのような意味内容がそれらの詩篇で歌われているかについては知っていました。まさにそれゆえに、ローマ帝国のユダヤ属州総督ピラトはエルサレムにやって来て、わざわざ人通りの多い道路の傍にイエス様を含めた三人のユダヤ人の囚人を十字架刑に処することに決めたのです。詩篇を朗唱すること自体はかまわないが、ローマがユダヤの支配者であるという今の現実を忘れてはならぬぞ、という警告の意味がそこには込められていました。ある意味で「詩篇」は危険な書物です。なぜなら「詩篇」はたんなる歴史的な文書ではないからです。旧約聖書の預言者の諸々の文書も「詩篇」とまったく同様に、時代を超えた意味内容を持つ書物群として理解されてきました。ですから、現代の私たちもまた「律法」(すなわち「モーセ五書」)、「預言者」(「イザヤ書」など)、「諸書」(「詩篇」など)に区分される旧約聖書をたんなる大昔の遺物として片隅に退けることがあってはなりません。神様はかつても今もこれからも永遠に活動を続けておられるお方であり、御自分の民に対して特別な計画を持っておられます。旧約聖書をキリストに基づいて理解しようとするときに、旧約聖書の書物群はそのすべてが神様の救いの御意志について証していることがわかります。すなわち、ゴルゴタの丘の十字架においてすべての罪人に対して天の御国への道が開かれたということです。
素描と完成品
初期の教会のキリスト信仰者たちによる旧約聖書の読み方にはある際立った特徴があります。この読み方は「予型的な聖書解釈」(英語ではTypology あるいはThe Typological Interpretation of Scripture)とも呼ばれます。ギリシア語の「テュポス」(英語ではType)という言葉は「予型」と訳せるものです。すなわち予型的な聖書解釈(Typology)とは予型についての教義のことです。これはとくに難解な教義ではありません。たとえば、服を仕立てる際には型紙が用いられます。また、家を建てる時には図面が使用されます。それと同様に、予型的な聖書解釈において旧約聖書は素描を含むものとして、また新約聖書は完成した芸術作品を含むものとして理解されるのです。聖書には予型的な聖書解釈の具体例が数多く存在します。旧約聖書の「モーセ五書」に含まれる「民数記」は21章において、イスラエルの民が神様に反抗した罰として毒蛇に苛まれた事件を記しています。毒蛇に咬まれたイスラエルの民はひどく苦しめられながら次々と死んでいきました。とうとう彼らは神様に助けを求めて叫び声をあげました。その時に神様はモーセに青銅の蛇を作って人々がそれを見上げられるように高く掲げることを命じました。すると、青銅の蛇を見上げた者は蛇の毒から癒されたのです。「ヨハネによる福音書」3章はこの出来事に重要な解釈を加えています。すなわち、罪とは、最初の人間アダムとエバ以来ずっと罪に堕落してきた全人類を例外なく殺してしまう毒のことであるというのです。モーセが青銅の蛇を高く掲げることで蛇に咬まれた人々がそれを見上げることができるようにしたのと同じように、神様はキリストを十字架にあげられました。すると、このキリストを見上げた者は誰であれその罪を赦されて、永遠の命をいただけるようになったのです。この例からもわかるように、旧約聖書の描写はいわば素描であり、新約聖書の記述は芸術作品に比することができます。旧約聖書で「創世記」からはじまる「モーセ五書」という一連の書物群(「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)は、神様の民であるイスラエルの民がエジプトでファラオに隷属していた悲惨な時期や皆殺しにされかけた民族存亡の危機について詳述しています。神様はモーセをエジプトに遣わして御自分の民に紅海を渡らせてエジプトから解放してくださいました。その後、イスラエルの民は荒野での旅を続けた何十年もの間、主からいただいた「マナ」という食べ物によって生きながらえることができました。彼らのうちの多くの者は自分自身の罪のゆえに旅の途中で死んでいきました。使徒パウロ(「コリントの信徒への第一の手紙」10章)および他の多くのキリスト信仰者の教師たちもまた、これらの出来事について重要な解釈を施して教会の信仰のために活用してきました。すなわち、かつて私たち人間は皆、罪と死に囚われた身でした。しかし、救い主キリストが私たちの世界に来られて、聖なる洗礼を通して私たちを霊的の意味で自由の身としてくださったのです。目下、私たちは天の御国の我が家へと向けて旅を続けており、私たちもまた「マナ」を主の聖餐を通していただくことができます。しかし、パウロが警告しているように、依然として私たちには旅の途中で正しい道を見失ってしまう危険がつきまとっています。ここでもまた旧約聖書は素描を、また新約聖書は完成品を含んでいることになります。
旧約聖書のすべてが私たちにかかわるものではないこと
聖書やキリスト教について批判的な記事や意見の中には一般のキリスト信仰者を当惑させるような内容を含んでいる場合も時々見受けられます。そのような記事や意見の主張する例を以下にいくつかあげてみることにします。例えば、もしも聖書全体を神様の御言葉として受け入れるのならば、現代の私たちもまた牛を祭壇で全焼の捧げ物とするべきであるということになるのでしょうか。というのは「レビ記」1章3〜9節で主なる神様がそのように命じておられるからです。また、私たちには我が娘を奴隷として売り払うことが許されているのでしょうか。「出エジプト記」21章7節にはそれに関連する指示があるからです。また、近隣諸国から奴隷を購入することも許容されるべきなのでしょうか。「レビ記」25章44節に「あなたがもつ奴隷は男女ともにあなたの周囲の異邦人のうちから買わなければならない。すなわち、彼らのうちから男女の奴隷を買うべきである。」(口語訳)と書いてあるからです。また、貝などある種の生き物を食べることは避けるべきなのでしょうか。「レビ記」11章には食べてよいものと食べてはいけないものについての詳細な食物規定が記されているからです。また「六日の間は仕事をしなさい。七日目はあなたがたの聖日で、主の全き休みの安息日であるから、この日に仕事をする者はだれでも殺されなければならない。」(「出エジプト記」35章2節、口語訳)とある通りに、安息日に仕事をする人々を殺すべきなのでしょうか。もちろんこのような事項を列挙する記事や意見の真のねらいは、聖書的な信仰そのものをこの世の人々の嘲笑の的にすることにあります。しかし見方を変えれば、このような底意地の悪い記事や意見は私たちキリスト信仰者がいずれは習得しなければならないある重要事項をきちんと学び直す絶好の機会を提供しているとも言えましょう。その重要事項とは、新約聖書が明らかにしたように、旧約聖書の多くの部分はキリスト信仰者のための箇所ではなくユダヤ人のみを対象にしたものであるということです。かつてそれらの箇所にはある限定された役割がありました。しかし、それらはすでに役割を終えています。例えば、旧約において祭壇に捧げる犠牲を規定した律法は実は来るべきメシア(すなわちキリスト)を指し示していました。これは、キリストが十字架で私たち全人類の身代わりとして死んでくださった犠牲の「予型」となっています。しかし、新約においてはキリストの犠牲の血によってすべての罪はすでに帳消しにされているので、旧約の犠牲の祭儀もそれを執り行う祭司ももはや必要ではなくなりました。これは新約聖書の「ヘブライの信徒への手紙」が伝えている重要なメッセージです。
「こうして、すべての祭司は立って日ごとに儀式を行い、たびたび同じようないけにえをささげるが、それらは決して罪を除き去ることはできない。しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる。彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである。聖霊もまた、わたしたちにあかしをして、「わたしが、それらの日の後、彼らに対して立てようとする契約はこれであると、主が言われる。わたしの律法を彼らの心に与え、彼らの思いのうちに書きつけよう」と言い、さらに、「もはや、彼らの罪と彼らの不法とを、思い出すことはしない」と述べている。これらのことに対するゆるしがある以上、罪のためのささげ物は、もはやあり得ない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」10章11〜18節、口語訳)
イエス様は「すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。」(「マルコによる福音書」7章15節、口語訳)という教えによってすべての食べ物が清いことを宣言なさいました。それゆえに、旧約聖書に書かれている食べ物に関わる詳細な規定の大部分は現代の私たちにはもはや関係がないものになりました。また「ローマの信徒への手紙」4章が明確にしたように、モーセの律法はユダヤ民族に属さない「異邦人キリスト信仰者」に与えられたものではありません。このように旧約聖書の多くの律法規定は私たち異邦人キリスト信仰者に対してもはや束縛力を持っていません。しかも、この旧約聖書解釈は現代の聖書の教師たちが案出した新説などではなくイエス様と使徒たちの教えに基づいているのです。この点はとりわけ強調に値します。イエス様やイエス様から直接教えを受けた使徒たちには旧約聖書の正しい読み方を決定する権利があります。しかし、現代の私たちにはそのような権利はありません。この小文で取り上げてきたことがらは、私たちが旧約聖書を新たな目で、すなわちキリストに基づいて読むときに用いられる解釈の実践例となっています。
残された大きな課題
旧約聖書をいくつかの高尚な原理をふりまわすことによって手っ取り早く習得できるような人間は誰もいません。旧約聖書を学ぶためにはそれを地道に読んでいくしかほかに方法がありません。老人も若者も皆が等しく実行していくべき大切な課題です。瞬時に全てを理解しようとするのはとても無理です。旧約聖書を読むためにはさまざまな下準備が必要になります。この小文が掲載されているBible Toolboxというウェブ・サイトは、旧約聖書や新約聖書を実際に読んで学びたいという人たちのための補助となる教材を提供しています。旧約聖書も含めて聖書はその全体が神様から贈られた素晴らしい宝物で満ちており、私たちは全生涯を通じてそれを日々繰り返し学んでいくことができるのです。