なぜ子どもに洗礼を授けるのでしょうか?

フィンランド語原版執筆者: 
エルッキ・コスケンニエミ(フィンランドルーテル福音協会、神学博士)
日本語版翻訳および編集責任者: 
高木賢(フィンランドルーテル福音協会、神学修士)

生まれてまもない幼子に洗礼を授けるのは、正しい行いなのでしょうか?それとも人は、大人になり信仰を自覚的にもつようになってから洗礼を受けるべきなのでしょうか?これは決して古びることがない、常に大切な問題です。

聖書はすべての人を神様の子どもにするように命じています。聖書は子どもたちだけを特別なグループに分け隔てて、洗礼の外側に締め出すようなことはしません。それとは反対に、聖書の記述には幼児洗礼が自明の前提とされていることに、私たちは何度も気付かされます。さらに言えば、洗礼とはそもそも神様からの「贈物」なのです。そして、贈物は子どもたちにもあげるものです。しかしその一方では、洗礼がそれを受ける人に神様の御心に従う義務を課すものであることが忘れられ、ないがしろにされていることが多いのもたしかです。

そもそもなぜ人に洗礼を授けるのでしょうか?

この小文の見出しにある問題への答えを探すことにしましょう。それは、この問題よりもさらに大きなもうひとつの問題を提示することによって、この問題は部分的には解決されます。「なぜ子どもに洗礼を授けるのか」ということではなく、「そもそもなぜ人に洗礼を授けるのか」という問題が最も重要なものです。

しばしば読まれはするものの理解されることが稀な「ローマの信徒への手紙」1章は、人間の世界全般にわたって以下に述べるような惨憺たるイメージを提示します。神様はたしかに人を、御自分と交わりをもち「御自分のもの」として活きる存在として創造なさいました。しかし、人は唯一の真の神様に背を向け、諸々の偶像を崇拝するようになりました。それゆえ、人が神様を捨てたのと同様にして、神様は、人が自ら選んだ道に沿って罪の生活を送るままに放っておかれました。この結果、世界は今のような有様になりました。この世は「罪と死の谷」です。この世界では、人間はすべて例外なく神様から隔てられており、決して神様を見出すことができません。神様は「隠された神」です。いつか最後の裁きの日が来た時に、神様の義なる怒りは全世界の上に降りかかります。この状況を変更したり、自らからすすんで理解できるような人は誰もいません。

パウロは「ローマの信徒への手紙」3章の半ばあたりから、神様がどのようにしてこの行き詰った状況を打開してくださるか、説明し始めます。神様は御自分の御子イエス・キリストを十字架で死に渡されました。それは、罪の中に落ち込んだ全人類に罪の赦しを賜るためでした。このように神様は、迷妄に陥っている全人類へと向きを変えて、御自分の愛が全人類の只中で光り輝くようになさいました。ちょうどここにかかわってくるのが、復活して神様の御業を成し遂げられた後、福音を世に伝えるべく弟子たちを派遣なさる際のイエス様の御言葉です(「マタイによる福音書」28章18~20節、「マルコによる福音書」16章16節)。それによれば、すべての民は洗礼において神様の救いの御業へ結び付けられます。そして、主が命じられた一切のことに従うように教えられた「御自分に属する者たち」はイエス様の弟子とされるのです。パウロは「ローマの信徒への手紙」6章で、どのようにして人が洗礼という墓に降ろされ、それから新しい命へと引き上げられるのか、力強いイメージを用いて表現しています。

私たちは人々に洗礼を授けます。なぜなら、人が神様の恵みにあずかりイエス様の弟子になるための手段として、神様御自身が洗礼を設定なさったからです。イエス様の弟子であることは、永遠の滅びをすでに宣告されているこの世の巻き添えとならずに永遠に生きるための唯一のあり方だからです。それゆえに、私たちは人々に洗礼を授けるのです。

それでは、なぜ子どもに洗礼を授けるのでしょうか?

人は皆、自らの罪深さのゆえに神様の恵みを必要としているため、私たちは人に洗礼を授けるのです。しかし、なぜ子どもにも洗礼を授けるのでしょうか?子どもは罪人ではないだろうし、神様の恵みを信仰によって自分のものとすることもできないでしょう?それとも、子どもも罪深い存在であり、信仰によって神様の恵みを自分のものとすることができるのでしょうか?

旧約聖書の「詩篇」51篇7節は、人がすでに生まれたときから罪人であることをはっきり告げています、「御覧なさい、私は不義の中に生まれたのです。私の母は罪のうちに私を身ごもったのです」。この箇所の意味は明瞭です。同じテーマについて「ローマの信徒への手紙」5章も、「はじめの人(アダム)以来、罪は世を支配してきた」、と記しています(12節以降)。人は皆、罪深い存在であるのと同じく、死ぬ存在でもあります。小さな幼子も死ぬことがあります。これは、罪と死の滅びの力は幼子にも及んでいることを厳然と示しています。

「小さい子どもは理解力がないから、信じることができない」、といった主張がしばしば聞かれます。本当にそうなのでしょうか?それなら、なぜ洗礼者ヨハネはイエス様の母親となるマリアの挨拶を耳にした時に母親エリサベツの胎内で喜び踊ったのでしょうか(「ルカによる福音書」1章41節)?これは、神様が聖霊様によって小さな幼子をも満たすことができるまぎれもない証拠ではないでしょうか?賜物を受け取るのにどのような特別な能力が必要だというのでしょうか?私たちの子どもがまだ赤ちゃんだったとき、子どもはプレゼントをもらったものです。しかも、彼らはまだちゃんとプレゼントについて感謝できなかったのです。大人の私たちにとって、小さな子どもはむしろ模範的な信仰者なのであり、決して未熟な信仰者などではありません。