ヘブライの信徒への手紙6章 神様の約束は確実である
キリスト教信仰の初歩
「ヘブライの信徒への手紙」6章1〜3節
「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。神の許しを得て、そうすることにしよう。」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章1〜3節、口語訳)
上掲の箇所で列挙されていることがらはわざわざ述べるに値しないような瑣末なことではありません。それどころか他の全ての基礎となる教えであり、キリスト信仰者ひとりひとりが当然知っていなければならないものです。基礎がしっかりできていないうちには信仰の奥義の学びに進むことはできません(「マタイによる福音書」7章24〜27節も参考になります)。
「ヘブライの信徒への手紙」は信仰について六つの初歩事項を列挙しています。
1)死んだ行いの悔改め(1節)
「死んだ行い」とは異教の宗教行事を指しています。これらの行事は人々を滅び、死へと転落させる死の行いであり、決して天国に導くものではないからです。
2)(唯一なる)神への信仰(1節)
このような初歩事項をわざわざ述べているのは、手紙の受け取り手たちが以前は異邦人であったためでしょう。ユダヤ人キリスト信仰者たちにとっては唯一神への信仰は自明なものだったからです。例えば次の「申命記」の箇所にもそれが明記されています。
「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」
(「申命記」6章4〜5節、口語訳)
3)洗礼や洗い清めることについての教え(2節)
ギリシア語原文の新約聖書のテキストは「洗礼」を複数形で述べています。これはキリスト教の洗礼(単数形)をその他の諸宗教の洗い清めの儀式から区別するためであると思われます。例えば「ヨハネによる福音書」3章25節は「ところが、ヨハネの弟子たちとひとりのユダヤ人との間に、きよめのことで争論が起った。」と述べています。また「マタイによる福音書」15章でイエス様は「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない。」と教えておられます。
4)按手(2節)
「使徒言行録」は按手を按手される者が聖霊様を受けて(「使徒言行録」8章14〜17節)教会職に任命されること(「使徒言行録」13章1〜3節)に関連づけています。
5)死人の復活(2節)
「死者たちが復活する」という信仰は様々な異端のグループでは早い時期から否定されてきた信条です。すでにパウロがこれらの異端との戦いに巻き込まれていたことからもそれがわかります(「コリントの信徒への第一の手紙」15章)。
6)永遠のさばき(2節)
永遠のさばきに対しては教会の歴史を通じて今まで様々な反論が試みられてきました。例えば「愛なる神様が誰かを永遠に滅んでしまうように裁くことはありえないはずだ」といった反論です。しかしこの問題の核心は「私たち人間が何を正しく義であるとみなすか」ということではなく「神様が何を私たちに啓示なさったのか」ということにかかわっています(「マタイによる福音書」25章31〜46節も参照してください)。
今まで述べてきたキリスト教の初歩の教えが真理として承認されないか信じられていないところにはキリスト教信仰そのものが存在していないことを「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は鋭く看破しました。これら基本の教えを否定しようと試みる者は決してキリスト信仰者として成長することができません。しかし手紙の受け取り手たちはこれら基本の教えを信じて受け入れていると「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は確信しています。ですから手紙の受け取り手たちがキリスト教信仰についてさらに学び知っていくことは可能なのです。もっとも結局はこの学びもひとえに神様の恵みに依存しているものです(3節)。例えば「ヤコブの手紙」には次のように書かれています。
「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」
(「ヤコブの手紙」4章15節、口語訳)
信仰を捨てないようにしなさい
「ヘブライの信徒への手紙」6章4〜12節
西方教会は長い間「ヘブライの信徒への手紙」に対して否定的な態度をとってきました。これから扱う箇所を含めた数箇所が「キリスト教信仰を捨てた者たちにはもはやキリスト教会に戻れる可能性がない」と教えているように見えるからです。西暦100年代のローマ帝国によるキリスト教迫害の時期にはキリスト信仰者の中にも信仰を棄ててしまう人々が出てきました。彼らの中の一部は後になって教会に再び戻ることを望みました。それゆえ彼らが教会に戻れるようにするべきかどうか教会として判断する必要が生じました。その結果として彼らには教会に戻る許可が与えられることになりました。
「いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章4節、口語訳)
殉教者ユスティノスはこの箇所が洗礼について述べていると解釈しました。そして迫害の時に棄教したものの後になって教会に戻ることを望んだ人々に教会は改めて洗礼を授けるべきではなくかつて一度授けられた洗礼で十分であると教えました。
最終的に西方教会は「ヘブライの信徒への手紙」を新約聖書の正典の一つとして承認しました。しかしマルティン・ルターはこの手紙に対してある種の違和感をもっていたようです。「ここまで我々は新約聖書の正しく確実で主要な文書について述べてきたが、まだ述べていない残りの四つの文書に対しては遠い昔の時代には前者とは異なる評価が与えられていた。(中略)それとは別にこの手紙には難しい箇所がある。6章4節と10章26節は罪人たちが洗礼を受けた後に犯した罪に対して悔い改める可能性を禁じ拒否している。12章17節はエサウが悔い改めようとしたがその機会を見つけることができなかったと言っている。これはすべての福音書と聖パウロの手紙とに反する考え方である。たとえもっともらしい説明を与えようとも、手紙に書かれてある言葉は明瞭そのものであり、そのような説明が十分説得力をもつものとなるかどうか私には定かではない。私の見るところではこの手紙は多くの部分から構成されており、同じテーマを正しい順序で扱ってはいない。」
ルターは「ヘブライの信徒への手紙」の教えが他の新約聖書の教えと調和していないのではないかと批判しています。にもかかわらず、これらの教えの間には連続性があることを私たちは次のように解釈することで示せるのではないかと考えます。
1)「ヘブライの信徒への手紙」のこの箇所は「棄教者たちの教会への回帰が許可されていないこと」ではなく「棄教者たちは教会に戻ることができないこと」を教えている点に注目するべきです。これは「聖霊を侮る罪はゆるされない」というイエス様の次の箇所の教えと同じ問題だということです。
「だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。」
(「マタイによる福音書」12章31〜32節、口語訳)
罪の赦しは私たち罪人たちに今も変わることなく提供されています。それなのに、不信仰で凝り固まった棄教者たちはもはや罪の赦しに興味を持たないし、それを受け取ろうともしません。救われたいという気持ちもすっかり失っています。棄教は人間をもはや悔い改めることができなくなるほどまでサタンの支配下に非常に強く縛り付けてしまう場合があるのです。
2)この箇所は警告として解釈することができます。「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は手紙の読者たちの信仰が実際には手紙に書いてあるほどまで悪化しているとは考えていなかったことが次の箇所から読み取れます。
「しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章9〜12節、口語訳)
そうは言ってもこの手紙の元々の受け取り手たちが信仰に関してとりたてて優れていたのではないこともはっきりしています。「ヘブライの信徒への手紙」がここで扱っているのはキリスト信仰者が罪に陥る場合についてであって、完全に信仰を捨てて棄教する場合についてではありません。
3)神様だけが不可能を可能にすることができます(「マルコによる福音書」10章23〜27節)。しかし人が自分だけで神様を見出すことは決してできません。
4)「そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章6節、口語訳)
この節にある「十字架につけて」と「さらしものにする」という表現は新約聖書ギリシア語原文では現在分詞になっています。新約聖書ギリシア語での現在形は継続的な行為を表します。それを踏まえると「人はキリストを侮り不信仰に留まり続けるかぎり悔い改めることは決してできない」という意味になります。
5)この箇所で問題になっているのは神様を捨て去る高慢な態度です。人間は神様を相手に軽率に振る舞うべきではありません。信仰に関わることがらは真摯に受け入れるべきです。
「ヘブライの信徒への手紙」の警告は当時の信仰者たちにとって必要なものであったことは教会の歴史からわかります。他でもなく棄教者たちこそがキリスト教会に対する最も激しい敵対者に豹変することが実際に度々起こったのです。信仰に反対する「免疫」を受けてしまった彼らは悔い改めるためにへりくだることが非常に難しくなってしまったのです。
この問題について公正な評価を下すためにここで次のことを付け加えておきたいと思います。新約聖書の中心にある教えによれば、主イエス様のことを他の人々の前で「自分はあの人を知らない」と言ったペテロが後になってキリスト信仰者たちの群れに戻ることができたのと同じように棄教者たちもまたキリスト教会に戻ることが許されているということです(「ヨハネによる福音書」21章15〜19節も参照してください)。
とりわけこの箇所に依拠しつつローマ・カトリック教会は死に値する決して赦されない大罪と赦されることがありうる罪との二つに罪を分類する教義を発展させました。死に値する七つの大罪は次の通りです(カッコ内はラテン語名)。
1)傲慢(superbia)
2)強欲(avaritia)
3)色欲(luxuria)
4)嫉妬(invidia)
5)暴食(gula)
6)憤怒(ira)
7)怠惰(acedia)
私たち現代のキリスト信仰者のやっていることは一覧表にある何らかの大罪に該当しているのではないでしょうか。そしてカトリックの教えによればそれらの大罪のために私たちは皆、永遠の滅びの裁きを受けることになってしまうのではないでしょうか。
棄教はいったいどの時点で取り返しがつかなくなるほど深刻なものになってしまうのか本人は自覚できません。それゆえ人は罪を故意に行うべきではないのです。サタンに縛られすぎると神様との結びつきが完全に切れてしまってもはや元に戻らなくなる場合があるからです。パウロはローマの信徒たちに次のように書いています。
「あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。」 (「ローマの信徒への手紙」6章16節、口語訳)
神様は偽りを言われない
「ヘブライの信徒への手紙」6章13〜20節
人間が誓うのは自分の言葉が真実であることを信用してもらうためです(「マタイによる福音書」23章16〜22節)。神様は偽りを言うことができません。それゆえ神様はいかなる誓いもする必要がありません。神様の約束はまさしくそれが神様の約束なさったことであるがゆえに絶対に信頼できるものとして受け入れなければならないものです。神様のなさった約束は他の保証を必要としません。それらがたしかに神様によって与えられた約束であることがわかっているだけで十分です。
「そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章17節、口語訳)
とはいえ人間たちに御自分の約束が揺るぎないものであることを示すために神様は誓うことも辞されませんでした(「創世記」22章15〜18節も参照してください)。
「ヘブライの信徒への手紙」6章13〜20節は忍耐をふたたび強調しています。アブラハムは神様の約束が実現することを25年間待たなければなりませんでした(「創世記」12章3〜4節、21章5節)。私たちも神様に信頼しなければなりません。神様はいつかかならず約束を実現してくださるからです。
手紙の執筆者はこの箇所の最後で読者をふたたび祭司なるキリストへと巧みに導いていきます。
ユダヤ教の大祭司は神殿の至聖所に一年間で一度だけ「贖罪の日」に一人きりで入ることが許されていました(「レビ記」16章2節)。至聖所に入られた時にイエス様は垂れ幕を通して至聖所に入る道がすべての人に対して常に開いているようにしてくださいました。それを象徴する出来事として、イエス様がゴルゴタの十字架で死なれた時に神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたのです(「マタイによる福音書」27章51節)。
信仰は「私たちがどのような者か」ではなく「イエス様が何をしてくださったのか」ということに基づいています。
「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」6章19節)
上節にでてくる「錨」はキリスト教信仰における希望をあらわす比喩となっています。私たちの信仰は私たち自身のなしえた功績などにではなくキリストの十字架の死による贖いの御業に錨を下ろしているものです。