ヘブライの信徒への手紙4章 恵みの御座
終わりの時まで耐え忍びなさい
「ヘブライの信徒への手紙」4章1〜13節
「それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章1〜2節、口語訳)
神様は今もなお人々を御国へと招いておられます。招きの声はこの世の終わりまで響き続けます。問題なのは御国への招待が欠けていることではなく招きを無視する人々がいることです。
上掲の箇所の「万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように」はイスラエルの民の荒野での彷徨を思い起こさせる表現です。それはまた御民の一部が目的地にたどり着けないまま旅を終える危険があることを意味しています。これはキリスト教会を「この世」という荒野を歩む御民になぞらえる「ヘブライの信徒への手紙」らしい考え方であると言えます。荒野の彷徨の時期にイスラエルの民の母集団から離脱したイスラエル人たちは荒野で孤独に死ぬほかありませんでした。
「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章11節、口語訳)
「ヘブライの信徒への手紙」はキリスト信仰者たちが一同に会する教会の集会(とりわけ礼拝)に故意に参加しない一部の会員たちがいたことを述べています(10章25節)。礼拝を意図的に軽んじる彼らもかつて荒野でイスラエルの民から離脱した人々と同じような結末を迎えることになってしまうでしょう。
「キリスト信仰者の人生には二つの転換点がある」という解釈をこの箇所から引き出す人々もいます。第一の転換点は信仰の道に入ることであり、エジプトから脱出した出来事がそれを表しています。それに続く第二の転換点は「第二の祝福」であり約束の地に入ることがそれを表しています。しかしこの箇所を文脈に沿って正確に読むならばそのような解釈が正しくないことがわかります。
「ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、「わたしが怒って、彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、誓ったように」と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、またここで、「彼らをわたしの安息に、はいらせることはしない」と言われている。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章3〜5節、口語訳)
上掲の箇所の背景にある旧約聖書の出来事からわかるように、ヨシュアとカレブを除くイスラエルの民は皆、荒野の旅路で死に絶えました。同じ人間が先ほどあげた「二つの転換点」を両方ともに経験することはなかったのです。エジプトから脱出した人々の子孫たちの時代になってからようやく御民は約束の地に入ることができました。
また「ヨシュア記」が語っているように、御民が約束の地に入ることは新しい平和と幸福の時代の到来ではなくむしろ新たな戦いの時代への突入を意味していたということもここで思い出すべきでしょう。
私たちは聖書のたとえや予型を読む時に過剰な解釈をするべきではありません(「予型」とは旧約聖書の特定の人物が後の新約聖書の人物とある種の類似性をもつことです)。たとえや予型が伝えようとしている大切な要点はひとつだけであるという場合がよくあるからです。「ヘブライの信徒への手紙」のこの箇所でのポイントは次のようにまとめられるでしょう。御民にとって真の安息は将来になってから天の御国においてようやく実現されるものです。この世での歩みは戦いです。この戦いにおいてキリスト信仰者は神様の御意思に忠実であることを要求されます。しかし天の御国にはもはや罪が存在しないため戦いも起こりません。
「神は、あらためて、ある日を「きょう」として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、
「きょう、み声を聞いたなら、
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
とダビデをとおして言われたのである。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章7節、口語訳)
上掲の節はダヴィデに言及しています。これは旧約聖書からの引用の際に執筆者が使用したと推定されるギリシア語旧約聖書「セプトゥアギンタ」(「七十人訳」と呼ばれます)では(ヘブライ語旧約聖書とは異なり)「詩篇」95篇が「ダヴィデの詩篇」と呼ばれていることと関係があります。なお上掲の節で引用されている「詩篇」はヘブライ語旧約聖書では95篇7〜8節からのものですが、ギリシア語旧約聖書では(95篇ではなく)94篇7〜8節からのものになっています。
「もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られたはずはない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章8節、口語訳)
ヘブライ語の「ヨシュア」はギリシア語の「イエス」と同じ名前に相当しています。「イエス」はヘブライ語で「イェホシュア」すなわち「ヨシュア」の略称だからです。
「したがって、わたしたちは、この安息にはいるように努力しようではないか。そうでないと、同じような不従順の悪例にならって、落ちて行く者が出るかもしれない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章11節、口語訳)
この節は「人は自分の行いによって救いを報酬として獲得しなければならない」という意味に理解するべきではありません。大切なのは人が神様や教会に対して自分のほうから背を向けないようにすることです。「ヘブライの信徒への手紙」が伝えようとしているメッセージの中心には、全人類のすべての罪の受けるべき罰をことごとく御自分の十字架の死によって帳消しにしたキリストの御業があります。この御業によってキリストは私たちのいかなる偉業や善行もこと私たちを救うことに関してはまったく役に立たないものであることを示されたのです(9章11〜25節も参照してください)。聖書の箇所を周囲の文脈から切り離してはなりません。多くの異端の教えはまさに特定の聖句を文脈から引き抜いて誤用したことに端を発しています。
「というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章12節、口語訳)
聖書はたんに過去の出来事を記した歴史書なのではなく、まさに今日のための書物であり、さらには未来について語っている書物でもあります。このことを上掲の節は私たちに思い起こさせようとしているのです。神様は過去の歴史においてのみ活動されたのではなく、今日でも活動を続けておられるからです。
「そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章13節、口語訳)
前節とこの節は人が神様をあざむくことは決してできないことを教えています。「すべての人をだますことは少しの間なら可能である。ある人たちのことはずっとだまし続けることもできる。しかしすべての人をずっとだまし続けることは不可能である」などと言われたりもします。これには「神様のことは一瞬たりともだますことができない」という言葉を付け加えることもできるでしょう。
神様は私たちのことを骨の髄まで知り尽くされているにもかかわらず、私たちを愛してくださっています。どうしてでしょうか。これは私たちが神様の愛を得るのに値するようなよいことを行ったからではなく、ひとえに神様の恵みのおかげです。次の「エフェソの信徒への手紙」の箇所もそれについて述べています。
「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」
(「エフェソの信徒への手紙」2章8〜9節、口語訳)
私たちの目標とは神様の設定なさった目標なのであり、私たちが自分勝手に目標を選ぶことはできません。このことを覚えておくことは大切です。私たちは自分が天の御国に入らないという選択をすることはできます。しかしその一方で、私たちはどのような天の御国に行くのかを自分で選ぶことはできないのです。
恵みの御座
「ヘブライの信徒への手紙」4章14〜16節
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章14〜16節、口語訳)
この箇所は前章までの総括なのか、それともキリストの祭司としてのあり方を扱う箇所のはじまりである5章の冒頭につながるものなのかについては研究者の間で意見が分かれています。
今まで述べられてきたことをひとつにまとめたものがこれから述べることの下準備となるという叙述の仕方はユダヤ人の思索にはよくみられるものです。鎖をたとえにとればわかりやすいでしょう。鎖を構成している個々の輪はその両隣のふたつの輪に結びつけられています。
イスラエルの民の荒野での彷徨の描写とこの手紙の受け取り手たち自身の抱える罪の呵責とが重なり合うことによって手紙の読者を絶望させはしまいかと「ヘブライの信徒への手紙」の執筆者は考えたのかもしれません。そのため、たとえ時には罪に落ち込んでしまうとしてもキリスト信仰者としての信仰の歩みを続けていくようにと手紙の読者たちを鼓舞する必要が生じたのでしょう。
「一つの玉座がいつくしみによって堅く立てられ、
ダビデの幕屋にあって、
さばきをなし、公平を求め、
正義を行うに、すみやかなる者が
真実をもってその上に座する」。」 (「イザヤ書」16章5節、口語訳)
この「イザヤ書」の箇所はメシアの時代に公正な裁き主が到来することを予言しています。ところが神様はそれ以上のお方を私たち人類に賜りました。裁き主なるキリストはただ公正なだけではなく憐れみ深いお方でもあるのです。
御自身も試練に遭われたイエス様は私たちのことを深く理解してくださいます。イエス様の受けた試練の数々は私たちの受けている試練よりもはるかに厳しいものでした。イエス様は私たちよりも大きな権力をもち、サタンの攻撃にもよりよく対抗できるからです(「マタイによる福音書」4章1〜11節)。しかしイエス様は天の御父の御意思に反抗なさらず十字架の死に至るまで忠実を貫かれました(「フィリピの信徒への手紙」2章8節)。
復活されたイエス様は天に上られましたが、それでも私たちのことを忘れてはおられません。
「さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章14節、口語訳)
上節の「わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか」という言葉の意味をあまり狭く理解しないように留意しましょう。この言葉はキリスト教のある特定の(信仰)告白の信条が真であることを宣言しているだけではなく「自分はキリストに従う者である」と個人的に告白しているものでもあるからです。信条を告白するということはその信条に従って生きていく決意の表明であり、そのためには犠牲を払うことも辞さないという覚悟でもあります(13章12〜13節も参考になります)。
「だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」
(「ヘブライの信徒への手紙」4章16節、口語訳)
「はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか」の「はばかることなく」という言葉は傲慢さではなく神様の約束に正しい態度で信頼することを意味しています。私たちは自分の善行の報酬としてではなくひとえにキリストの贖いの御業のゆえに天の御国に入ることができるのです。このことは次に引用する「ルカによる福音書」の箇所でのパリサイ人と取税人の対比にもよく描かれています。
「自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。」
(「ルカによる福音書」18章9〜14節、口語訳)
「恵みにあずかって時機を得た助け」(「ヘブライの信徒への手紙」4章16節)と書いてあるように、イエス様は信仰に関わる霊的なことだけではなくすべてにおいて私たちを助けてくださいます。イエス様は次のように教えておられます。
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」
(「マタイによる福音書」6章25〜34節、口語訳)
「神様が面倒を見てくださる」ということは「神様が私たち自身のすべての望みを叶えてくださる」という意味ではなく「私たちの人生において神様の御意思が実現されていく」という意味であることを私たちはきちんと心に留めておくべきです。